集合予定の9時30分よりも15分ぐらい早く最寄り駅に着いた。
小学生くらいの子どもを連れた親子や、若い男女のカップルが俺と同じように、ジリジリとした日差しを受けながら水族館へ向かって歩いている。
雄大は集合時間ちょうどに到着するだろうから、先にチケットを買いに行こうとチケット売り場へ向かう。
(え?雄大?)
水族館の前で待ち合わせをしていたはずの雄大が、先にチケット販売の列に並んでいた。
雄大は、列に並んでいる人よりも頭一つ分背が高いから、遠くからでもすぐに見つけられた。
早起きが苦手な雄大が時間より前に到着しているだけでも驚きなのに、先にチケットを買いに並んでいるなんてもっと驚きだった。
そんな雄大を見て慌てて電話をかけると、2人分のチケットを買っておくから日陰で涼んでおいてと言ってくれた。
いつもと違う行動を取る雄大にハラハラ、ドキドキする気持ちを抑えながら、近くのコンビニで飲み物と小腹が空いたときに食べる用に雄大の好きなグミを買って、雄大が来るのを待った。
「おはよ。はい、これ朝陽の分」
「ありがと。雄大、今日早起きできたの?ていうか、結構前に着いてた……?」
申し訳なさと驚きが混ざった質問になった。
「ちょっと早く着けた」
「え、すごい……チケットまで先に買ってくれてると思わなかった。ありがと」
驚きはあったけど、朝起きるのが苦手な雄大のちょっとした気遣いが嬉しかった。
「あ、俺も雄大が好きなグミ見つけたから買ったからお礼にどうぞ!」
「いや、いいよお礼なんて。朝陽、集合時間より前に到着してんじゃん」
「そうだけど、なんか雄大が早起きして、こうやって気をつかうほどだったのに、普段通りすぎたなって思って……」
「僕は早起きしたっていうより、しっかりキュン探ししようと思って寝たら、4時前に目が覚めて、頭が冴えて眠れなくなったから奇跡的に早く来れた」
偶然の早起きに笑ってしまう。
「ははっ。4時前は極端に早すぎ!それにキュン探しってなんだよ」
「良くない?キュン探し」
雄大が、俺の顔を覗き込んで「キュン探し」なんていうから、やる気だなぁと思って笑ってしまった。
入り口を通ると、ひんやりと冷房の風が肌に触れ、さっきまで上がっていた体温が下がってくる。
それに、ほんのりと暗い館内は非日常的でワクワクを加速させる。
「はぁー、すずしい。あ、魚いる、魚」
入り口を入るとすぐ目の前にあった小さな水槽の中で、小さな魚たちが照明で照らされてキラキラと光っている。
「見てみて。ここ魚めっちゃ綺麗!」
小さな水槽で泳ぐ魅力的な魚たちに吸い寄せられ、水槽の前に立つ。
「あ、待って。朝陽」
出遅れた雄大は数人の小学生の列に遮られていた。
やっと水槽の前に来た雄大が水槽を覗く。
「ほんとだ、めっちゃ綺麗」
「あれ見て、雄大。あそこにいるやつ、すっごい青いよ」
「どれ?あの小さい岩の奥にいるやつ?」
雄大の位置からは見えづらいのか、俺の方へ寄ってくる。
「ほんとだ。青色が反射して綺麗」
「だろ……」
ゴンっ!
「いったぁ!」
「いたっ……」
お互い同時に振り向いたからか、頭がぶつかってしまった。
俺よりも10cm以上背が高い雄大は、俺の頭が頬にぶつかったらしく、頬を痛そうにおさえていた。
「ごめん、雄大。大丈夫?」
「なぜか勢いで舌噛んだ」
雄大がべぇ、と舌を出しながら「うえぇ」と言って間抜けな顔をしている。
「ぷっ。ごめん。……ふふ」
「朝陽の頭、石頭でしょ……僕の方がくらってるじゃん」
俺の頭がぶつかった頬は、ほのかに赤くなっていた。
「それは……ごめん。でも、俺たちどれだけ近づいていたんだよ。っはは。だめだ、笑いが……」
非日常的な空間だからか、大声で笑えないからか、ちょっとした出来事が可笑しくてたまらない。
「もう、次行こう。次」
頬をさすりながら、雄大が次の展示スペースを指さしていた。
最初の水槽を過ぎると、森の水辺のような場所が出てきた。
太陽の光が木々の間から柔らかく降り注いでいるような明るい展示エリアだ。
「あ、雄大、見て。カワウソがいる!」
カワウソは元気よく動きまわり、周囲の客を和ませている。
「ほんとだ。泳いでる姿かわいい」
そう言う雄大の頬は、明るい場所で見ると思ったより赤くなっていたから、自分の頭突きの強さを改めて反省した。
「カワウソって夜行性なんだって。へぇ……早起きは得意なのかな」
雄大はカワウソの紹介をしているプレートを読んで、自分と重ねているらしい。
「カワウソに早起きの概念はないだろ」
「え!見て、朝陽!カワウソの鼻って、水が入らないように鼻の穴を閉じれるらしいよ。すごくない?」
「おい、聞けよ。俺の話を!」
「ん?なんて?」
「なんでもねえ」
話を聞いているようで聞いていない雄大は、小さな子どもみたいにカワウソの説明が書かれたプレートを読んでいる。
雄大が黙々と読んでいるカワウソの説明プレートを後ろから覗き込んでみた。
そのプレートには、水の抵抗を受けにくいように小さい耳や、流線形になっている胴体など水辺で暮らすために進化したカワウソの情報がたくさん書かれていた。
「他にもすごいところいっぱいあるんだな。かわいいのに機能的って無敵じゃん」
「わかる。僕もカワウソみたいな機能的な感じになりたい」
「なんでだよ」
かわいい部分じゃなくて、カワウソのどの機能的な部分が欲しいのかと思った。
「僕、よくシャワーしてる時に鼻に水入るもん」
「欲しい機能そこかよ。工夫しろよ」
まだ鼻の穴を閉じることができる部分に惹かれていたのかと、思わずつっこみを入れてしまう。
「立ってシャワーするの難しい」
雄大は、いかに背の高い人間にとって、普通のシャワーフックの位置が低いかを熱弁している。
(本当のデートだったら雰囲気ぶち壊しだろ、こいつ)
「じゃ、雄大の来世はカワウソになるな」
「いや、カワウソが住んでる川の大きめの石とかになって、流されてたい」
「もう何でだよ、ややこしすぎんだろ、お前。っふふ」
雄大といると、特別な空間で、こんなにロマンチックさの欠片もない会話をしていても自然と笑ってしまう。
ドキドキというより、心の奥底から愛おしい気持ちが湧いてくる。
(あー、こういうのって、俺みたいなのにとっては幸せだよな)
そんな気持ちを抱えながら、次の展示エリアに向かって、ゆっくり歩いていく。
人の流れに沿って次のエリアへ歩くと、どんどん暗くなってきた。
「なぁ、雄大。俺、特にこれといったことしてないけど大丈夫?」
水族館に来てから、俺ばかりが楽しんでいるかもしれないと気になった。
「うん。大丈夫。今、僕が感じてるままを感情に記憶させておきたい」
「へ、へえ……」
雄大が「キュン探し」なんて言ってたから、ロールプレイングのようなことをしたりするかもしれないと、少し期待をしていた自分が恥ずかしくなった。
それに、雄大はメモを取るとか、写真を撮るとかもしないから、胸がキュンとする瞬間を探しているようには見えない。
「まあ、メモとかしたくなったら遠慮せずにしろよ?時間はいっぱいあるしさ」
「うん、ありがと。なんか今日、朝陽と回ってると良い感じに頭が冴えてるんだよね」
「え?」
それは、雄大が俺とデートをしてる感覚になってくれてたりするのかな、と心のどこかで勝手な期待をしてしまう。
「多分、今日帰ってから結構書けると思う」
「おう……それなら良かった。……お、俺も。いつもと違う感じで今日楽しいし、良かった」
少し調子に乗って、らしくないことを言ってしまったと、言葉を口に出してから後悔が押し寄せてくる。
「わかる。僕も楽しい。あ、楽しいから頭冴えてるのかな……。はぁ。カワウソ、機能的だったな……」
雄大の少しも勘づいてないような口ぶりに、さっきの後悔はすぐにかき消された。
「おいっ、カワウソに引っ張られすぎだろ」
きっと、こいつの水族館の話の中にカワウソの話は出てくるだろうなと思った。
【ここから更新!】
先に進むと、熱帯雨林エリアが見えてきた。
アマゾン川お再現しているという子の水槽の中には、普段絶対に見ないような不思議な形をした魚たちが泳いでいる。
「雄大。ピラルクだって。でっか……」
太平洋のどこかに暮らしているという魚たちは、地域によって全然違う姿をしているが、特に熱帯雨林で暮らす魚は、綺麗であり、背筋をぞわぞわさせる見た目をしているなぁと思った。
「なんか、ロマン感じるよね。1億年前から変わらないって」
ピラルクの説明を読みながら雄大は目を輝かせている。
「1億年前の地球かぁ……今とは全然違うのに、魚たちは変わらないんだよね。どんな感じなんだろ、魚的には」
「え。いやいや、俺、ここに落ちたらって想像ばっか浮かんできて、めっちゃ怖いんだけど」
「そう?なんで?」
同じ水槽を覗いているはずなのに、感想がまるっきり違う。
俺と違って、雄大は魚の視点になって、地球の移り変わる様子を想像しているらしい。
「だって、なんかでかいし怖い……助からなさそう」
「んー、でも、もし朝陽が落ちたら、魚の方が絶対怖がると思う。あ!1億年前からいたならさ、人間の進化ってどう見えてたんだろうね」
「まず助けろよ。思考が魚サイドすぎる」
「そりゃ本当に落ちたら、係員さんを急いで呼ぶ」
「お前が助けてくれるんじゃないのかよ」
小説の女の子の行動と、雄大の言動が重なる。
あくまでも合理的な判断をする雄大が投影されているようだ。
「魚的にも、僕より水族館の人の方が安心だと思う。朝陽は、まあ、あれだけど」
自由気ままに想像力を発揮できるところは、雄大の長所だと思う。
でも、恋愛感情が絡むなら、もっとちがった答えになったりするもんじゃないのかなとも思う。
「もっと、なんか、こう……情緒的なことを言え。ばか。もし、これが恋人同士だった……ら」
「うん?」
「いや……なんでもない」
「……情緒かぁ。ちょうちょって聞こえた」
危うく「恋人同士だったら、もっとイチャついた感じになるだろ」と言いそうになった。
意味不明な聞き間違いをしてくれて、良かったかもしれない。
ただ、感性は人ぞれぞれだろうけど、まさか魚視点でずっとこのエリアを回るつもりなのかと思った。
「あ、次の場所、太平洋って書いてる」
しばらく色んな魚を見て歩いていたら、雄大が大きな水槽を指差していた。
「ジンベエザメだぁ!」
ジンベエザメを見るのは小学生以来だったから、俺も見た瞬間に大きな声が出た。
「あ、ほら、朝陽見て。エイもいる!」
雄大が指差した方を見ると、イトマキエイがゆったりと大きなヒレを動かして泳いでいる。
(すっご……ジンベエザメと一緒にマンボウとかシュモクザメも泳いでる)
よく見ると、タイやアジ、他にも小さな魚も大きな魚も同じ水槽で泳いでいて、太平洋をそのままここに持ってきたかのような光景に息をのんだ。
子どもたちが大きな水槽の前に張り付いて、自分よりも何倍も大きいジンベエザメの動きを目で追っている。
ゆらり、ゆらりと近くを通るたびに、「おぉー」と声をあげる子どもたち姿に、お父さんやお母さんたちはクスクスと笑っていた。
「あ!ジンベエザメと雄大と一緒に写真撮りたい!」
急激にテンションが上がりすぎて、雄大に無茶なお願いをしてしまった。
「え?一緒に?」
「そう!雄大、スマホ出して」
子どもたちがいる水槽の正面より、端の方に移動して、できるだけ水槽に近づく。
雄大はスマホを持った手を伸ばして、俺たちの近くにジンベエザメが通るのを待つ。
「来た来た、今!早く」
大きなジンベエザメが雄大側からゆったりと泳いできた。
かなり近くを泳いできているから、ものすごいシャッターチャンスだ。
「え、どこ」
「雄大のすぐ後ろまで来てる、早く!」
雄大はジンベエザメの位置を把握しきれていなさそうだったけど、せっかくのチャンスを逃さないよう、撮るのを急かした。
パシャ。
「撮れた?」
雄大は急いでシャッターボタンを押したからか、俺だけ笑顔で、雄大は真顔のままだった。
「雄大の顔……っふふ」
いつも端正な顔をしているのに、写真の雄大はおかしな表情をしていた。
「うわー、僕の顔やばくない?」
「やばくない。あははっ。いい表情」
「朝陽が焦らすからじゃん。撮り直したい……」
もう1枚撮ろうと思っても、この写真ほど近くにジンベエザメが来てくれるなんて、そうそう無いだろう。
「ま、これも思い出ってことで。後で頂戴な」
「やだー」とウダウダ言って進もうとしない雄大の背中を押しながら先へ向かう。
進んでいくと、水族館の中にあるカフェエリアが出てきた。
そこには、海をモチーフにした爽やかな青色のソーダや、アイスクリームが売られている。
一旦、休憩しよう、と歩き疲れたらしい雄大が休憩の提案をしてきた。
「朝陽、何にする?」
「俺は、んー、寒くなりそうだからこのホットラテにする」
「ふーん。じゃ、僕はでかいサイズのフロートにしよっと」
「絶対、それ後で寒くなんぞ」
「大丈夫。なんない。寒くなる前に飲み干せる自信ある」
あまりに自身満々そうだったから、それ以上言うのをやめた。
注文してすぐに受け取った俺のホットラテは、ふわふわときめ細かいフォームミルクの上に、ココアパウダーでウミガメが描かれていて、水族館の中にいるぞって感じがした。
雄大が頼んだビッグソーダフロートも、綺麗な青色のソーダの上に、ソーダ味とミルク味がミックスされたソフトクリームが浮かんでいて、透き通った海のようだった。
「あ、あそこの席、空くかも」
席を運よく水槽が見れる席が空いて、俺は急いで座りにいった。
「ありがと、朝陽。めっちゃ水槽近い。すごい」
焦る様子もなく、のんびり後ろからついてきた雄大が、お礼を言いながら水槽を正面から見える席を譲ってくれた。
ソファー席に座る雄大の背中側には、さっき見た太平洋の魚たちがゆったりと泳いでいる。
「俺の日頃の行いのおかげだな、これは」
「えー」
雄大が違うと言いたそうに、首をブンブンと横に振る。
「いや、どれだけお前の面倒見てると思ってんだよ」
「朝起こしてもらったり、たまにご飯作ってもらったり、部屋の片付けをたまに手伝ってくれてるぐらい」
「ぐらいって。口に出すと雄大の生活力の無さを改めて感じる」
「たしかに。もうこんな僕よりも、ここの魚たちの方がよっぽど、みんなを楽しませて生きてるから偉いと思う」
雄大が「はぁ」とため息をつきながら、水槽の方へ体ごと向いて、ソーダフロートに乗ったアイスクリームを食べている。
「いや、小説書いてる雄大も結構すごいと思うけど」
「今書けてるの、朝陽のおかげじゃん。僕だけじゃ何ともなんないんだよ、これがさぁー」
身体を机に方へ向け直した雄大が、すっと遠くの方に視線を向けたから、俺も振り返ってみた。
「あ、あれ、一ノ瀬蒼の新刊じゃん。わざわざ水族館に来てまで読むってすごいな」
彼女がトイレにでも行っているのだろうか。
俺の斜め後ろあたりの席に座る男の人は、女物の荷物をソファーに置いたまま、あと少しで読み終わりそうな一ノ瀬蒼の単行本を読んでいる。
「ふふっ。すごいよね、こんな魅力的なところに来てまでも読みたいって思わせる作品書けるの」
「たしかになー。あの単行本、俺も読んだけどさ、最後になればなるほど気になるんだよな。だから1ページでも読み進めたいってなるから、あの男の人の気持ちもわかる」
あはは、と笑いながら、斜め後ろの男の人に共感した。
「……やっぱ……に……すごいな」
「ん?なんて?」
「え?なんか言ってた?」
無意識なのか、雄大がボソボソっと言った言葉は上手く聞き取れなかったけど、「やっぱ兄ちゃんすごいな」って言ったように聞こえた。
兄ちゃんって言ったかどうかも怪しかったし、本人も何か言ったつもりじゃなかったようだったから、聞こえなかったことにした。
「ね、あさひぃ」
「なに。寒いとか言い出すんじゃないだろうな」
「……さむい」
さっきまでソーダフロートを食べていた雄大が、冷えた手を俺の手に重ねてきた。
「うわ、つめた!だから言ったじゃん、寒くなるって」
手が冷たいだけじゃなく、血の気が引いた色になっていて、本気で寒がっているようだ。
「いけると思ったんだよ。自分の体温過信してた」
「はぁ……まだコーヒーあったかいけど、ちょっと飲む?」
「飲む」
「即答かよ」
「ありがとう、ママ」
「お前の母親じゃねーよ。せめて父親にしろ」
飲みきってなかったコーヒーを雄大に手渡して、雄大のフロートと交換する。
俺のコーヒーを有難そうに飲み始めた雄大は「うまい」と言って、幸せそうにしている。
繊細なようで、図太い雄大はつくづく甘え上手だよなぁと思った。
休憩した後も、イルカやペンギン、アシカ……と可愛い海の生物を見て回った。
「あ、朝陽。見て、クラゲがいる」
夜中のような暗い空間に、ライトアップされたいろんな種類のクラゲがふわふわと浮いてる。
「うわぁ、綺麗ー。こんなのデートだったら盛り上がるんだろうなぁ」
太平洋エリアでの迫力のある魚たちや、可愛らしい海の生物を見た後に、こんな神秘的なエリアに入ると無性に雄大にくっ付きたくなった。
「手、繋いでみる?」
「え?」
雄大からの提案に思考が止まる。
「こんな感じの暗い場所に入ったら、こっそり手を繋ぎたくなったりしないかなーって。高校生の2人なら」
「あ、あぁ。小説のな、男子高校生たちか……」
びっくりした。
俺自身に言ってきたのかと思って、心臓が飛び出そうになった。
「でも、さすがに嫌?」
雄大が、俺をジッと見つめて尋ねてくる。
俺にとっては一大事だが、雄大にとって小説を書くための取材だってことぐらいわかってる。
(あぁ。だめだ、変な反応をするな。自然に、あくまでも友達のノリで……)
深く息を吸って、吐いて、邪な気持ちが滲み出ないように気をつけて返事をする。
「いい、いやじゃ……ない」
最悪だ。
声が裏返った。
「よしよし。やったー」
雄大は、本当に喜んでいるのかどうか分かりづらい「やったー」という声の後、俺の手をそっと握った。
(うっ。やばい。思ってたより、俺がやばい。心臓がやばい)
一瞬の間に、あれこれ考えていたからか、自分の手の温度が気になる。
さっきまで冷えていたはずの雄大の大きな手に包まれると、自分の手の体温だけがどんどん上がっていく。
「朝陽、意外と指細いんだね」
雄大が繋いだ手を見ながら、スルスルと俺の指の間に自分の指を絡めてくる。
恋人のように繋いだ手を強く握ったり、弱くしたり、雄大の5本の指は俺の指の間を不規則に動く。
俺の手の平も指も、じっくり触診されているみたいだ。
「ほっ、ほそいっ、かな」
もう少し強く握り返すべきか、それとも力を抜くべきか、俺も雄大の指の感触を伝えるべきか、頭の中がぐるぐるしているうちにまた変な返事になった。
「僕の手の方がでかいね」
雄大は相変わらず、俺の手で遊んでいる。
「おう……そうだな。包み込まれてる気がする」
心臓のバクバクという音が自分で聞こえてきて、この音が手を伝って、雄大にまで伝わるのじゃないだろうか。
冷静になるために、これは俺じゃなくて両思い中の男子高校生なんだと、心の中で唱える。
元々、雄大はスキンシップが多い方だけど、恋人繋ぎで手を繋ぐなんてことは今までしたことない。
何度も心の中で「俺は男子高校生の役だ」と繰り返しても、手から伝わる雄大の体温で思考がどんどんパニックになる。
「……包み込まれてる感じってどんな感じ?」
(え?なに!)
変な表情や態度にならないように、一生懸命耐えているのに、雄大から更なる追い討ちがきた。
「っ、男子高校生ならっていうことか?」
「ううん、朝陽の感覚的に」
(俺は……俺は、好きな人と手を繋いだことなんか無いから幸せでもあるけど、パニックでもある)
そのまま言ってしまいたかった。
「雄大の手は……しっかり男の手で……えっと、なんていうか」
「うん」
「柔らかくないけど、あったかくて、気持ちよくて……なんか変なドキドキもするけど安心する」
手の平と顔だけがすごく熱い。
「やば。ごめん、雄大。手汗かいてきた」
さっきから自分が何をしていて、何を言ってるのかわからなくなってきた。
「ん?全然、気にならないけど。これ、片思いと両思いだったら、手を繋いでる感覚って変わる?」
雄大の純粋な質問に、どんどん追い詰められてくる。
「変わる、だろ。そりゃ」
「朝陽的にはどう変わる?」
「……かっ片思いなら!ひたすらドキドキして、相手の様子も気になって、どれくらいの力加減がいいのか、握り方を変えてもいいのかって全部気になってきて、手以外に集中できない……と思う」
想像とか予想じゃない、今の俺の気持ちを言った。
「あ、でも、幸せだと思う!好きな人と手を繋げてんだから!」
俺の好きだという気持ちは伝わってほしくないけど、幸せだという気持ちは伝わってほしくて、つい悪あがきをしてしまった。
「それで、両思いなら……というか、付き合ってたら……お互い心地よい強さも、繋ぎ方も分かってて、安心するから触れていることが当たり前みたいな感じなのかも……。俺にはわからないけど。そんな感じ……だと思う」
自分で言って、ダメージを食らった。
「……朝陽ってさ、誰か好きな人いる……?」
俺の言葉を聞いた雄大が、妙な間をあけてから尋ねてきた。
雄大の質問を聞いて、さっきまでのふわふわと浮ついた心が一気に現実に戻ってきた。
一瞬、俺の気持ちがバレたのかと、心臓が大きく拍動した。
「っ、い、いねーよ!」
「ほんと?」
「ほんとほんと。雄大に嘘ついてどうすんだよ!あー、もうなんか恥ずかしくなってきた!ほら、行くぞ」
ぐいぐいっと、握ったままの雄大の手を引っ張って、先に進んだ。
(はぁ。あぶな……)
ここがクラゲを照らす光しかない空間で良かった。
きっと、明るく照らされた場所であれば、雄大への好意がバレてしまっていたかもしれない。
クラゲの展示エリアを過ぎると、水族館の出口と書かれた矢印が見えてきた。
出口が見えてきても雄大は手を離す様子がなかったから、俺から離した。
そうじゃないと、いつまでも照れてしまらない顔のままになりそうだったからだ。
「出口だな」
(ここを出たら、現実かー)
そんなことを考えながら、明るい蛍光灯に照らされた日常の世界に向かって歩く。
「朝陽、お土産買うよね?」
幻想的な空間から出てすぐに雄大が尋ねてきた。
「へ?」
雄大はお土産を買うのは当たり前とでも言いたそうな顔をしている。
土産物コーナーは、もこもこしたペンギンやあざらしのぬいぐるみから、ウミヘビのぬいぐるみ、かわいい絵柄がプリントされたクッキーに、カップル用のキーホルダーまで、家族から恋人、友人とあらゆる人に向けた商品が並んでいる。
「とりあえず見ようかな」
土産といっても、誰に渡す予定もないから、本当に見るだけになりそうだ。
「なににしようかなー」
(こういうのも、雄大にとっては取材になるもんな……)
雄大はいろんな土産物を人の頭越しに見て回っている。
お土産を見て回っている姿を見ると、もう水族館も終わりか、と思って、急にさっきまでの柔らかい暗さが恋しくなってくる。
「朝陽、これ買ったら?」
雄大が大きなあざらしの抱き枕を持ってきた。
「どっから持ってきたんだよ、それ。ははっ。要らねえ。それは、お前の方が必要だろ、寝相悪いんだから」
いいと思ったけどなー、と言って元の場所に戻しに行った雄大が、リアルなウミヘビのぬいぐるみを持ってきた。
「じゃあこれはー?」
「要らない。リアルすぎて、夜ベッドにいたら悲鳴あげるわ」
「えー良いでしょ。おもしろくて」
「良くない。お前、さっきからわざと変なのばっか選んでるだろ」
よく次から次へと、持って帰りづらい物ばかり選んでくるなと思う。
「んー、じゃあ、これは?」
「どうせまた変な……」
雄大が手に持っていたのは、手のひらの中に収まるくらいの小さくて、ふわふわしたジンベエザメのキーホルダーだった。
「どう?これ」
コロンとしたシルエットをしたジンベエザメのキーホルダーは、ふわふわした毛で覆われている。
「それはかわいいけど」
「けど?」
雄大がわざとらしく、俺の顔を覗き込んでくる。
「じゃあ、さっきのウミヘビと、これだったらどっちがいい?」
「それは断然こっちだろ」
ジンベエザメのキーホルダーを指さして即答する。
「じゃ、これせっかくの記念に買おーっと」
雄大がジンベエザメのキーホルダーを2匹連れて、レジへ向かう。
「おい、2こ持ってんぞ」
「これは朝陽のぶんー」
「え?それなら自分で買うよ」
「いいのいいの!僕が買いたくなったんだから」
雄大はスタスタとレジに並ぶ人たちの列に混ざり、スマホのQR決済の画面を出している。
(あーもう……好きだ)
雄大の遠ざかっていく背中が恋しい。
このまま両思いなんだと勘違いしていたい。
(……はぁ。だめだぞ、俺……)
これが女友達だったら、勘違いしても良いのだろうかと重たくてモヤモヤした何かが一瞬、心の中を通った。
土産物コーナーを出て、最寄り駅まで歩く。
まだ15時ぐらいだから、俺たちと同じ方向へ向かう人は少ない。
近くのカフェやレストラン、ショッピングエリアにでも行ってるのだろう。
「はい、これ。朝陽のジンベエ」
雄大が歩きながら、俺の手のひらの上にさっきのジンベエザメのキーホルダーを乗せる。
「えと、ありがとう」
手のひらの中で、ふわふわと転がるジンベエザメは愛くるしくて、少し切ない。
「僕、こういうの男兄弟だったからか、あんまりこういうの買ったことないんだよね」
雄大はキーチェーンに指をかけて、つんつんとジンベエザメをつついている。
「だから、良いでしょ。帰ってからも楽しい」
雄大の口から出た『帰ってからも楽しい』という言葉を聞いて、さっきまで「もう終わりか」と寂しい気持ちになっていた俺とは感じ方が違って新鮮だった。
「毎日、もふもふ撫でて話しかけてあげてね。そんで僕の家に来るときは、ジンベエ連れてきて、僕のと遊ばせてあげてね」
「ははっ。わかったわかった、ちゃんと俺のジンベエもてなせよ」
しょうもない会話だけど、2人の今日の思い出がこれからも続く気がして嬉しくなった。
小学生くらいの子どもを連れた親子や、若い男女のカップルが俺と同じように、ジリジリとした日差しを受けながら水族館へ向かって歩いている。
雄大は集合時間ちょうどに到着するだろうから、先にチケットを買いに行こうとチケット売り場へ向かう。
(え?雄大?)
水族館の前で待ち合わせをしていたはずの雄大が、先にチケット販売の列に並んでいた。
雄大は、列に並んでいる人よりも頭一つ分背が高いから、遠くからでもすぐに見つけられた。
早起きが苦手な雄大が時間より前に到着しているだけでも驚きなのに、先にチケットを買いに並んでいるなんてもっと驚きだった。
そんな雄大を見て慌てて電話をかけると、2人分のチケットを買っておくから日陰で涼んでおいてと言ってくれた。
いつもと違う行動を取る雄大にハラハラ、ドキドキする気持ちを抑えながら、近くのコンビニで飲み物と小腹が空いたときに食べる用に雄大の好きなグミを買って、雄大が来るのを待った。
「おはよ。はい、これ朝陽の分」
「ありがと。雄大、今日早起きできたの?ていうか、結構前に着いてた……?」
申し訳なさと驚きが混ざった質問になった。
「ちょっと早く着けた」
「え、すごい……チケットまで先に買ってくれてると思わなかった。ありがと」
驚きはあったけど、朝起きるのが苦手な雄大のちょっとした気遣いが嬉しかった。
「あ、俺も雄大が好きなグミ見つけたから買ったからお礼にどうぞ!」
「いや、いいよお礼なんて。朝陽、集合時間より前に到着してんじゃん」
「そうだけど、なんか雄大が早起きして、こうやって気をつかうほどだったのに、普段通りすぎたなって思って……」
「僕は早起きしたっていうより、しっかりキュン探ししようと思って寝たら、4時前に目が覚めて、頭が冴えて眠れなくなったから奇跡的に早く来れた」
偶然の早起きに笑ってしまう。
「ははっ。4時前は極端に早すぎ!それにキュン探しってなんだよ」
「良くない?キュン探し」
雄大が、俺の顔を覗き込んで「キュン探し」なんていうから、やる気だなぁと思って笑ってしまった。
入り口を通ると、ひんやりと冷房の風が肌に触れ、さっきまで上がっていた体温が下がってくる。
それに、ほんのりと暗い館内は非日常的でワクワクを加速させる。
「はぁー、すずしい。あ、魚いる、魚」
入り口を入るとすぐ目の前にあった小さな水槽の中で、小さな魚たちが照明で照らされてキラキラと光っている。
「見てみて。ここ魚めっちゃ綺麗!」
小さな水槽で泳ぐ魅力的な魚たちに吸い寄せられ、水槽の前に立つ。
「あ、待って。朝陽」
出遅れた雄大は数人の小学生の列に遮られていた。
やっと水槽の前に来た雄大が水槽を覗く。
「ほんとだ、めっちゃ綺麗」
「あれ見て、雄大。あそこにいるやつ、すっごい青いよ」
「どれ?あの小さい岩の奥にいるやつ?」
雄大の位置からは見えづらいのか、俺の方へ寄ってくる。
「ほんとだ。青色が反射して綺麗」
「だろ……」
ゴンっ!
「いったぁ!」
「いたっ……」
お互い同時に振り向いたからか、頭がぶつかってしまった。
俺よりも10cm以上背が高い雄大は、俺の頭が頬にぶつかったらしく、頬を痛そうにおさえていた。
「ごめん、雄大。大丈夫?」
「なぜか勢いで舌噛んだ」
雄大がべぇ、と舌を出しながら「うえぇ」と言って間抜けな顔をしている。
「ぷっ。ごめん。……ふふ」
「朝陽の頭、石頭でしょ……僕の方がくらってるじゃん」
俺の頭がぶつかった頬は、ほのかに赤くなっていた。
「それは……ごめん。でも、俺たちどれだけ近づいていたんだよ。っはは。だめだ、笑いが……」
非日常的な空間だからか、大声で笑えないからか、ちょっとした出来事が可笑しくてたまらない。
「もう、次行こう。次」
頬をさすりながら、雄大が次の展示スペースを指さしていた。
最初の水槽を過ぎると、森の水辺のような場所が出てきた。
太陽の光が木々の間から柔らかく降り注いでいるような明るい展示エリアだ。
「あ、雄大、見て。カワウソがいる!」
カワウソは元気よく動きまわり、周囲の客を和ませている。
「ほんとだ。泳いでる姿かわいい」
そう言う雄大の頬は、明るい場所で見ると思ったより赤くなっていたから、自分の頭突きの強さを改めて反省した。
「カワウソって夜行性なんだって。へぇ……早起きは得意なのかな」
雄大はカワウソの紹介をしているプレートを読んで、自分と重ねているらしい。
「カワウソに早起きの概念はないだろ」
「え!見て、朝陽!カワウソの鼻って、水が入らないように鼻の穴を閉じれるらしいよ。すごくない?」
「おい、聞けよ。俺の話を!」
「ん?なんて?」
「なんでもねえ」
話を聞いているようで聞いていない雄大は、小さな子どもみたいにカワウソの説明が書かれたプレートを読んでいる。
雄大が黙々と読んでいるカワウソの説明プレートを後ろから覗き込んでみた。
そのプレートには、水の抵抗を受けにくいように小さい耳や、流線形になっている胴体など水辺で暮らすために進化したカワウソの情報がたくさん書かれていた。
「他にもすごいところいっぱいあるんだな。かわいいのに機能的って無敵じゃん」
「わかる。僕もカワウソみたいな機能的な感じになりたい」
「なんでだよ」
かわいい部分じゃなくて、カワウソのどの機能的な部分が欲しいのかと思った。
「僕、よくシャワーしてる時に鼻に水入るもん」
「欲しい機能そこかよ。工夫しろよ」
まだ鼻の穴を閉じることができる部分に惹かれていたのかと、思わずつっこみを入れてしまう。
「立ってシャワーするの難しい」
雄大は、いかに背の高い人間にとって、普通のシャワーフックの位置が低いかを熱弁している。
(本当のデートだったら雰囲気ぶち壊しだろ、こいつ)
「じゃ、雄大の来世はカワウソになるな」
「いや、カワウソが住んでる川の大きめの石とかになって、流されてたい」
「もう何でだよ、ややこしすぎんだろ、お前。っふふ」
雄大といると、特別な空間で、こんなにロマンチックさの欠片もない会話をしていても自然と笑ってしまう。
ドキドキというより、心の奥底から愛おしい気持ちが湧いてくる。
(あー、こういうのって、俺みたいなのにとっては幸せだよな)
そんな気持ちを抱えながら、次の展示エリアに向かって、ゆっくり歩いていく。
人の流れに沿って次のエリアへ歩くと、どんどん暗くなってきた。
「なぁ、雄大。俺、特にこれといったことしてないけど大丈夫?」
水族館に来てから、俺ばかりが楽しんでいるかもしれないと気になった。
「うん。大丈夫。今、僕が感じてるままを感情に記憶させておきたい」
「へ、へえ……」
雄大が「キュン探し」なんて言ってたから、ロールプレイングのようなことをしたりするかもしれないと、少し期待をしていた自分が恥ずかしくなった。
それに、雄大はメモを取るとか、写真を撮るとかもしないから、胸がキュンとする瞬間を探しているようには見えない。
「まあ、メモとかしたくなったら遠慮せずにしろよ?時間はいっぱいあるしさ」
「うん、ありがと。なんか今日、朝陽と回ってると良い感じに頭が冴えてるんだよね」
「え?」
それは、雄大が俺とデートをしてる感覚になってくれてたりするのかな、と心のどこかで勝手な期待をしてしまう。
「多分、今日帰ってから結構書けると思う」
「おう……それなら良かった。……お、俺も。いつもと違う感じで今日楽しいし、良かった」
少し調子に乗って、らしくないことを言ってしまったと、言葉を口に出してから後悔が押し寄せてくる。
「わかる。僕も楽しい。あ、楽しいから頭冴えてるのかな……。はぁ。カワウソ、機能的だったな……」
雄大の少しも勘づいてないような口ぶりに、さっきの後悔はすぐにかき消された。
「おいっ、カワウソに引っ張られすぎだろ」
きっと、こいつの水族館の話の中にカワウソの話は出てくるだろうなと思った。
【ここから更新!】
先に進むと、熱帯雨林エリアが見えてきた。
アマゾン川お再現しているという子の水槽の中には、普段絶対に見ないような不思議な形をした魚たちが泳いでいる。
「雄大。ピラルクだって。でっか……」
太平洋のどこかに暮らしているという魚たちは、地域によって全然違う姿をしているが、特に熱帯雨林で暮らす魚は、綺麗であり、背筋をぞわぞわさせる見た目をしているなぁと思った。
「なんか、ロマン感じるよね。1億年前から変わらないって」
ピラルクの説明を読みながら雄大は目を輝かせている。
「1億年前の地球かぁ……今とは全然違うのに、魚たちは変わらないんだよね。どんな感じなんだろ、魚的には」
「え。いやいや、俺、ここに落ちたらって想像ばっか浮かんできて、めっちゃ怖いんだけど」
「そう?なんで?」
同じ水槽を覗いているはずなのに、感想がまるっきり違う。
俺と違って、雄大は魚の視点になって、地球の移り変わる様子を想像しているらしい。
「だって、なんかでかいし怖い……助からなさそう」
「んー、でも、もし朝陽が落ちたら、魚の方が絶対怖がると思う。あ!1億年前からいたならさ、人間の進化ってどう見えてたんだろうね」
「まず助けろよ。思考が魚サイドすぎる」
「そりゃ本当に落ちたら、係員さんを急いで呼ぶ」
「お前が助けてくれるんじゃないのかよ」
小説の女の子の行動と、雄大の言動が重なる。
あくまでも合理的な判断をする雄大が投影されているようだ。
「魚的にも、僕より水族館の人の方が安心だと思う。朝陽は、まあ、あれだけど」
自由気ままに想像力を発揮できるところは、雄大の長所だと思う。
でも、恋愛感情が絡むなら、もっとちがった答えになったりするもんじゃないのかなとも思う。
「もっと、なんか、こう……情緒的なことを言え。ばか。もし、これが恋人同士だった……ら」
「うん?」
「いや……なんでもない」
「……情緒かぁ。ちょうちょって聞こえた」
危うく「恋人同士だったら、もっとイチャついた感じになるだろ」と言いそうになった。
意味不明な聞き間違いをしてくれて、良かったかもしれない。
ただ、感性は人ぞれぞれだろうけど、まさか魚視点でずっとこのエリアを回るつもりなのかと思った。
「あ、次の場所、太平洋って書いてる」
しばらく色んな魚を見て歩いていたら、雄大が大きな水槽を指差していた。
「ジンベエザメだぁ!」
ジンベエザメを見るのは小学生以来だったから、俺も見た瞬間に大きな声が出た。
「あ、ほら、朝陽見て。エイもいる!」
雄大が指差した方を見ると、イトマキエイがゆったりと大きなヒレを動かして泳いでいる。
(すっご……ジンベエザメと一緒にマンボウとかシュモクザメも泳いでる)
よく見ると、タイやアジ、他にも小さな魚も大きな魚も同じ水槽で泳いでいて、太平洋をそのままここに持ってきたかのような光景に息をのんだ。
子どもたちが大きな水槽の前に張り付いて、自分よりも何倍も大きいジンベエザメの動きを目で追っている。
ゆらり、ゆらりと近くを通るたびに、「おぉー」と声をあげる子どもたち姿に、お父さんやお母さんたちはクスクスと笑っていた。
「あ!ジンベエザメと雄大と一緒に写真撮りたい!」
急激にテンションが上がりすぎて、雄大に無茶なお願いをしてしまった。
「え?一緒に?」
「そう!雄大、スマホ出して」
子どもたちがいる水槽の正面より、端の方に移動して、できるだけ水槽に近づく。
雄大はスマホを持った手を伸ばして、俺たちの近くにジンベエザメが通るのを待つ。
「来た来た、今!早く」
大きなジンベエザメが雄大側からゆったりと泳いできた。
かなり近くを泳いできているから、ものすごいシャッターチャンスだ。
「え、どこ」
「雄大のすぐ後ろまで来てる、早く!」
雄大はジンベエザメの位置を把握しきれていなさそうだったけど、せっかくのチャンスを逃さないよう、撮るのを急かした。
パシャ。
「撮れた?」
雄大は急いでシャッターボタンを押したからか、俺だけ笑顔で、雄大は真顔のままだった。
「雄大の顔……っふふ」
いつも端正な顔をしているのに、写真の雄大はおかしな表情をしていた。
「うわー、僕の顔やばくない?」
「やばくない。あははっ。いい表情」
「朝陽が焦らすからじゃん。撮り直したい……」
もう1枚撮ろうと思っても、この写真ほど近くにジンベエザメが来てくれるなんて、そうそう無いだろう。
「ま、これも思い出ってことで。後で頂戴な」
「やだー」とウダウダ言って進もうとしない雄大の背中を押しながら先へ向かう。
進んでいくと、水族館の中にあるカフェエリアが出てきた。
そこには、海をモチーフにした爽やかな青色のソーダや、アイスクリームが売られている。
一旦、休憩しよう、と歩き疲れたらしい雄大が休憩の提案をしてきた。
「朝陽、何にする?」
「俺は、んー、寒くなりそうだからこのホットラテにする」
「ふーん。じゃ、僕はでかいサイズのフロートにしよっと」
「絶対、それ後で寒くなんぞ」
「大丈夫。なんない。寒くなる前に飲み干せる自信ある」
あまりに自身満々そうだったから、それ以上言うのをやめた。
注文してすぐに受け取った俺のホットラテは、ふわふわときめ細かいフォームミルクの上に、ココアパウダーでウミガメが描かれていて、水族館の中にいるぞって感じがした。
雄大が頼んだビッグソーダフロートも、綺麗な青色のソーダの上に、ソーダ味とミルク味がミックスされたソフトクリームが浮かんでいて、透き通った海のようだった。
「あ、あそこの席、空くかも」
席を運よく水槽が見れる席が空いて、俺は急いで座りにいった。
「ありがと、朝陽。めっちゃ水槽近い。すごい」
焦る様子もなく、のんびり後ろからついてきた雄大が、お礼を言いながら水槽を正面から見える席を譲ってくれた。
ソファー席に座る雄大の背中側には、さっき見た太平洋の魚たちがゆったりと泳いでいる。
「俺の日頃の行いのおかげだな、これは」
「えー」
雄大が違うと言いたそうに、首をブンブンと横に振る。
「いや、どれだけお前の面倒見てると思ってんだよ」
「朝起こしてもらったり、たまにご飯作ってもらったり、部屋の片付けをたまに手伝ってくれてるぐらい」
「ぐらいって。口に出すと雄大の生活力の無さを改めて感じる」
「たしかに。もうこんな僕よりも、ここの魚たちの方がよっぽど、みんなを楽しませて生きてるから偉いと思う」
雄大が「はぁ」とため息をつきながら、水槽の方へ体ごと向いて、ソーダフロートに乗ったアイスクリームを食べている。
「いや、小説書いてる雄大も結構すごいと思うけど」
「今書けてるの、朝陽のおかげじゃん。僕だけじゃ何ともなんないんだよ、これがさぁー」
身体を机に方へ向け直した雄大が、すっと遠くの方に視線を向けたから、俺も振り返ってみた。
「あ、あれ、一ノ瀬蒼の新刊じゃん。わざわざ水族館に来てまで読むってすごいな」
彼女がトイレにでも行っているのだろうか。
俺の斜め後ろあたりの席に座る男の人は、女物の荷物をソファーに置いたまま、あと少しで読み終わりそうな一ノ瀬蒼の単行本を読んでいる。
「ふふっ。すごいよね、こんな魅力的なところに来てまでも読みたいって思わせる作品書けるの」
「たしかになー。あの単行本、俺も読んだけどさ、最後になればなるほど気になるんだよな。だから1ページでも読み進めたいってなるから、あの男の人の気持ちもわかる」
あはは、と笑いながら、斜め後ろの男の人に共感した。
「……やっぱ……に……すごいな」
「ん?なんて?」
「え?なんか言ってた?」
無意識なのか、雄大がボソボソっと言った言葉は上手く聞き取れなかったけど、「やっぱ兄ちゃんすごいな」って言ったように聞こえた。
兄ちゃんって言ったかどうかも怪しかったし、本人も何か言ったつもりじゃなかったようだったから、聞こえなかったことにした。
「ね、あさひぃ」
「なに。寒いとか言い出すんじゃないだろうな」
「……さむい」
さっきまでソーダフロートを食べていた雄大が、冷えた手を俺の手に重ねてきた。
「うわ、つめた!だから言ったじゃん、寒くなるって」
手が冷たいだけじゃなく、血の気が引いた色になっていて、本気で寒がっているようだ。
「いけると思ったんだよ。自分の体温過信してた」
「はぁ……まだコーヒーあったかいけど、ちょっと飲む?」
「飲む」
「即答かよ」
「ありがとう、ママ」
「お前の母親じゃねーよ。せめて父親にしろ」
飲みきってなかったコーヒーを雄大に手渡して、雄大のフロートと交換する。
俺のコーヒーを有難そうに飲み始めた雄大は「うまい」と言って、幸せそうにしている。
繊細なようで、図太い雄大はつくづく甘え上手だよなぁと思った。
休憩した後も、イルカやペンギン、アシカ……と可愛い海の生物を見て回った。
「あ、朝陽。見て、クラゲがいる」
夜中のような暗い空間に、ライトアップされたいろんな種類のクラゲがふわふわと浮いてる。
「うわぁ、綺麗ー。こんなのデートだったら盛り上がるんだろうなぁ」
太平洋エリアでの迫力のある魚たちや、可愛らしい海の生物を見た後に、こんな神秘的なエリアに入ると無性に雄大にくっ付きたくなった。
「手、繋いでみる?」
「え?」
雄大からの提案に思考が止まる。
「こんな感じの暗い場所に入ったら、こっそり手を繋ぎたくなったりしないかなーって。高校生の2人なら」
「あ、あぁ。小説のな、男子高校生たちか……」
びっくりした。
俺自身に言ってきたのかと思って、心臓が飛び出そうになった。
「でも、さすがに嫌?」
雄大が、俺をジッと見つめて尋ねてくる。
俺にとっては一大事だが、雄大にとって小説を書くための取材だってことぐらいわかってる。
(あぁ。だめだ、変な反応をするな。自然に、あくまでも友達のノリで……)
深く息を吸って、吐いて、邪な気持ちが滲み出ないように気をつけて返事をする。
「いい、いやじゃ……ない」
最悪だ。
声が裏返った。
「よしよし。やったー」
雄大は、本当に喜んでいるのかどうか分かりづらい「やったー」という声の後、俺の手をそっと握った。
(うっ。やばい。思ってたより、俺がやばい。心臓がやばい)
一瞬の間に、あれこれ考えていたからか、自分の手の温度が気になる。
さっきまで冷えていたはずの雄大の大きな手に包まれると、自分の手の体温だけがどんどん上がっていく。
「朝陽、意外と指細いんだね」
雄大が繋いだ手を見ながら、スルスルと俺の指の間に自分の指を絡めてくる。
恋人のように繋いだ手を強く握ったり、弱くしたり、雄大の5本の指は俺の指の間を不規則に動く。
俺の手の平も指も、じっくり触診されているみたいだ。
「ほっ、ほそいっ、かな」
もう少し強く握り返すべきか、それとも力を抜くべきか、俺も雄大の指の感触を伝えるべきか、頭の中がぐるぐるしているうちにまた変な返事になった。
「僕の手の方がでかいね」
雄大は相変わらず、俺の手で遊んでいる。
「おう……そうだな。包み込まれてる気がする」
心臓のバクバクという音が自分で聞こえてきて、この音が手を伝って、雄大にまで伝わるのじゃないだろうか。
冷静になるために、これは俺じゃなくて両思い中の男子高校生なんだと、心の中で唱える。
元々、雄大はスキンシップが多い方だけど、恋人繋ぎで手を繋ぐなんてことは今までしたことない。
何度も心の中で「俺は男子高校生の役だ」と繰り返しても、手から伝わる雄大の体温で思考がどんどんパニックになる。
「……包み込まれてる感じってどんな感じ?」
(え?なに!)
変な表情や態度にならないように、一生懸命耐えているのに、雄大から更なる追い討ちがきた。
「っ、男子高校生ならっていうことか?」
「ううん、朝陽の感覚的に」
(俺は……俺は、好きな人と手を繋いだことなんか無いから幸せでもあるけど、パニックでもある)
そのまま言ってしまいたかった。
「雄大の手は……しっかり男の手で……えっと、なんていうか」
「うん」
「柔らかくないけど、あったかくて、気持ちよくて……なんか変なドキドキもするけど安心する」
手の平と顔だけがすごく熱い。
「やば。ごめん、雄大。手汗かいてきた」
さっきから自分が何をしていて、何を言ってるのかわからなくなってきた。
「ん?全然、気にならないけど。これ、片思いと両思いだったら、手を繋いでる感覚って変わる?」
雄大の純粋な質問に、どんどん追い詰められてくる。
「変わる、だろ。そりゃ」
「朝陽的にはどう変わる?」
「……かっ片思いなら!ひたすらドキドキして、相手の様子も気になって、どれくらいの力加減がいいのか、握り方を変えてもいいのかって全部気になってきて、手以外に集中できない……と思う」
想像とか予想じゃない、今の俺の気持ちを言った。
「あ、でも、幸せだと思う!好きな人と手を繋げてんだから!」
俺の好きだという気持ちは伝わってほしくないけど、幸せだという気持ちは伝わってほしくて、つい悪あがきをしてしまった。
「それで、両思いなら……というか、付き合ってたら……お互い心地よい強さも、繋ぎ方も分かってて、安心するから触れていることが当たり前みたいな感じなのかも……。俺にはわからないけど。そんな感じ……だと思う」
自分で言って、ダメージを食らった。
「……朝陽ってさ、誰か好きな人いる……?」
俺の言葉を聞いた雄大が、妙な間をあけてから尋ねてきた。
雄大の質問を聞いて、さっきまでのふわふわと浮ついた心が一気に現実に戻ってきた。
一瞬、俺の気持ちがバレたのかと、心臓が大きく拍動した。
「っ、い、いねーよ!」
「ほんと?」
「ほんとほんと。雄大に嘘ついてどうすんだよ!あー、もうなんか恥ずかしくなってきた!ほら、行くぞ」
ぐいぐいっと、握ったままの雄大の手を引っ張って、先に進んだ。
(はぁ。あぶな……)
ここがクラゲを照らす光しかない空間で良かった。
きっと、明るく照らされた場所であれば、雄大への好意がバレてしまっていたかもしれない。
クラゲの展示エリアを過ぎると、水族館の出口と書かれた矢印が見えてきた。
出口が見えてきても雄大は手を離す様子がなかったから、俺から離した。
そうじゃないと、いつまでも照れてしまらない顔のままになりそうだったからだ。
「出口だな」
(ここを出たら、現実かー)
そんなことを考えながら、明るい蛍光灯に照らされた日常の世界に向かって歩く。
「朝陽、お土産買うよね?」
幻想的な空間から出てすぐに雄大が尋ねてきた。
「へ?」
雄大はお土産を買うのは当たり前とでも言いたそうな顔をしている。
土産物コーナーは、もこもこしたペンギンやあざらしのぬいぐるみから、ウミヘビのぬいぐるみ、かわいい絵柄がプリントされたクッキーに、カップル用のキーホルダーまで、家族から恋人、友人とあらゆる人に向けた商品が並んでいる。
「とりあえず見ようかな」
土産といっても、誰に渡す予定もないから、本当に見るだけになりそうだ。
「なににしようかなー」
(こういうのも、雄大にとっては取材になるもんな……)
雄大はいろんな土産物を人の頭越しに見て回っている。
お土産を見て回っている姿を見ると、もう水族館も終わりか、と思って、急にさっきまでの柔らかい暗さが恋しくなってくる。
「朝陽、これ買ったら?」
雄大が大きなあざらしの抱き枕を持ってきた。
「どっから持ってきたんだよ、それ。ははっ。要らねえ。それは、お前の方が必要だろ、寝相悪いんだから」
いいと思ったけどなー、と言って元の場所に戻しに行った雄大が、リアルなウミヘビのぬいぐるみを持ってきた。
「じゃあこれはー?」
「要らない。リアルすぎて、夜ベッドにいたら悲鳴あげるわ」
「えー良いでしょ。おもしろくて」
「良くない。お前、さっきからわざと変なのばっか選んでるだろ」
よく次から次へと、持って帰りづらい物ばかり選んでくるなと思う。
「んー、じゃあ、これは?」
「どうせまた変な……」
雄大が手に持っていたのは、手のひらの中に収まるくらいの小さくて、ふわふわしたジンベエザメのキーホルダーだった。
「どう?これ」
コロンとしたシルエットをしたジンベエザメのキーホルダーは、ふわふわした毛で覆われている。
「それはかわいいけど」
「けど?」
雄大がわざとらしく、俺の顔を覗き込んでくる。
「じゃあ、さっきのウミヘビと、これだったらどっちがいい?」
「それは断然こっちだろ」
ジンベエザメのキーホルダーを指さして即答する。
「じゃ、これせっかくの記念に買おーっと」
雄大がジンベエザメのキーホルダーを2匹連れて、レジへ向かう。
「おい、2こ持ってんぞ」
「これは朝陽のぶんー」
「え?それなら自分で買うよ」
「いいのいいの!僕が買いたくなったんだから」
雄大はスタスタとレジに並ぶ人たちの列に混ざり、スマホのQR決済の画面を出している。
(あーもう……好きだ)
雄大の遠ざかっていく背中が恋しい。
このまま両思いなんだと勘違いしていたい。
(……はぁ。だめだぞ、俺……)
これが女友達だったら、勘違いしても良いのだろうかと重たくてモヤモヤした何かが一瞬、心の中を通った。
土産物コーナーを出て、最寄り駅まで歩く。
まだ15時ぐらいだから、俺たちと同じ方向へ向かう人は少ない。
近くのカフェやレストラン、ショッピングエリアにでも行ってるのだろう。
「はい、これ。朝陽のジンベエ」
雄大が歩きながら、俺の手のひらの上にさっきのジンベエザメのキーホルダーを乗せる。
「えと、ありがとう」
手のひらの中で、ふわふわと転がるジンベエザメは愛くるしくて、少し切ない。
「僕、こういうの男兄弟だったからか、あんまりこういうの買ったことないんだよね」
雄大はキーチェーンに指をかけて、つんつんとジンベエザメをつついている。
「だから、良いでしょ。帰ってからも楽しい」
雄大の口から出た『帰ってからも楽しい』という言葉を聞いて、さっきまで「もう終わりか」と寂しい気持ちになっていた俺とは感じ方が違って新鮮だった。
「毎日、もふもふ撫でて話しかけてあげてね。そんで僕の家に来るときは、ジンベエ連れてきて、僕のと遊ばせてあげてね」
「ははっ。わかったわかった、ちゃんと俺のジンベエもてなせよ」
しょうもない会話だけど、2人の今日の思い出がこれからも続く気がして嬉しくなった。



