花さんが料理を運びに行ってから、しばらくの間俺たちは何も話さなかった。

というより、話そうとすると何かがこぼれ出そうで話せなかったという方が正しいかもしれない。

何をどうやって話そうかと考えている間に、耳まで真っ赤にした雄大は烏龍茶をごくごくと飲み干した。

「あのさ、朝陽。なんか食べる?もしなかったら、店出たい……んだけど」

沈黙を先に破ったのは、雄大だった。

「あ、うん。俺は大丈夫。……外、出よっか」

雄大がバタバタと忙しそうに料理を運ぶ花さんを呼び止めて、店を出ることを伝える。

俺は残った烏龍茶を飲み切ってから、鞄をカウンター席の下から取り、店の入り口まで移動した。

「花さん、あの。腕の手当てとか色々ありがとうございました」

お礼を伝えると、花さんは「放って置けなくて声かけたんだけど。結局役に立てずにごめんね」と苦いものを食べた時みたいな顔をして俺たちに謝っていた。

「いえ、そんなことないです」と言って、チラッと店の奥を見ると、千紗さんが花さんを指差してから手を合わせて「ごめんね」とジェスチャーしていた。

結果はどうであれ、喧嘩をしている状態の俺たちが今こうして話せているのは花さんたちのおかげだろう。

あのままだと、険悪な雰囲気のまま帰って、雄大自身のことを知るチャンスを逃していたかもしれない。

千紗さんに大きな声でお礼を伝えるには遠かったから、深めに頭を下げてから店の外に出た。

 外はすっかり夜になったというのに、下がりきらない気温と湿度のせいで、生暖かい空気が肌にまとわりついてくる。

「あ、ちょっと待って。店にスマホ忘れた」

ズボンのポケットを数回叩いた雄大が、忘れ物を取りに店に戻った。

ふと、1人になると居酒屋での雄大との会話や、花さんの言葉が脳裏に浮かんでくる。

(はぁ…………やばい……どうしよ)

気を抜くと、顔の至る所が勝手に緩んでくる。

これ以上、だらしない顔にならないように両手で頬をギュッと抑えた。

 そもそも、雄大のことは小説関係なく好きだ。

めんどくさがりで、甘え上手で、飄々としていて、一生懸命……。

言い出したらキリがないけど、書き上げた小説を嬉しそうに見せてくる時の笑顔なんかは、見ていると元気をもらえる。

だけど、居酒屋で創作への想いや、お兄さんとの関係を聞いて、これまで知らなかった雄大の葛藤が、小説に登場する主人公たちの不器用な行動に繋がっていたのだと理解した。

小説を通じて、伝わってくる雄大の人間性に好きという言葉で表せないぐらいの熱い気持ちがあふれてくる。

(だめだ……好きすぎる)

雄大に恋心を伝えるつもりなんて全く無かったのに、今はすごく伝えたくてたまらない。

落ち着こうと、目をギュッと瞑って、呼吸を繰り返す。

(本当だったりすんのかな……)

店で聞いた花さんの「雄大くんも朝陽くんのことかなり好きなんだね」という言葉を静かに反芻する。

雄大が俺のことを好きかもしれないという淡い期待で頭の中が埋め尽くされる。

「何してんの?」

花さんに2度目のお礼を言って店から出てきた雄大に、不思議そうな声で話しかけられる。

「え、あ、おかえり。早かったね……」

両頬を押さえて、目を瞑って考え事している姿を見られて、顔から火が出そうになった。

「スマホ、あった?」

雄大の忘れ物の話へと話題を逸らす。

「あったよ。てか、もう今日はこのまま帰りたいんだけど。いい?」

「え? あぁ、うん。そうだな」

雄大の言葉を聞いて、今日の本来の予定を思い出した。

雄大はそういう意味で言ったのか、わからなかったけどゲイバーのことなんてすっかり忘れていた。

遠回りして帰りたいと言う雄大の希望を聞いて、コンビニで飲み物を買ってから家の近くの公園に寄ることにした。


 花さんの店を出て、すぐ近くにあったコンビニでカップに入ったコーヒーを買って、公園に向かう。

話したいことは、公園に着いてからゆっくり話そうと思うと、ちょうど良い話題が見つからなくて無言になる。

歩きながら時々コーヒーを飲むと、カラカラとストローが氷同士を当てて涼しげな音を立てる。

(雄大の手……)

お互い無言の割に近くを歩いているせいか、半歩ほど前を歩く雄大の手と俺の手が何度も一瞬だけぶつかる。

普段なら身体が触れるぐらいそこまで意識しないのに、今は雄大の手が自分に触れる度にドキッとする。

一瞬手が当たったかと思うと、すぐに離れてしまう雄大の手をこのまま握ったらどうなるのだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていると、また手が当たる。

……ギュッ。

手が触れたと思った瞬間、雄大は何も言わずに俺の手を取った。

雄大の大きくて、骨張った手が俺の手をふんわりと握った。

(あ……)

自分の手を包み込む雄大の体温を感じた瞬間、ドキっと心臓が大きく脈打つ。

俺は、逃げれる程度の弱さで手を握る雄大に応えるように、ぎゅっと握り返した。

「ん、ふふっ」

手を繋いだまま歩く雄大が小さい声で笑った。

「ふっ、んふふ」

俺も雄大につられて笑ってしまう。

「ふふっ、はは」
「ん、あははっ」

さっきまで無言だったのに、急に可笑しくなってきて、ふたりで笑う。

雄大が俺の手を取って、俺がその手を握り返した。

ただ、それだけのことなのに、雄大の気持ちも俺の気持ちも通じ合った気がする。

「朝陽。好きだよ。……好き」

雄大はちょっとだけ振り返って、目尻をふにゃっと下げて微笑んだ。

シンプルな言葉と穏やかな低い声から、愛おしいという感情が真っ直ぐ伝わってくる。

「俺も。……俺も、好きだよ。雄大のこと」

これまでずっと言いたくて諦めていた言葉を伝える。

胸にずっと秘めていた想いを伝えると、胸の奥深いところが熱くなってきた。

その熱は徐々に喉を伝って、両方の目にまで伝わってくる。

「あ、あれ?」

気がついた時には、頬に涙が一筋つぅーっと流れていた。

「朝陽?」

雄大が俺の顔を見て、心配そうに立ち止まる。

「なんで泣いてんの?え、手痛かった?それとも嫌だった?ごめん」

雄大がハラハラと握っていた手を離し、謝りながら俺の涙を指で拭う。

「ふふっ、ごめん。なんか……感極まってつい…………あー、もう。俺、今日泣いてばっか……り」

突然、唇に雄大の唇が触れる感触がした。

さっきまで涙を拭ってくれていた大きな手は、俺の頬から首辺りをそっと支えている。

「好き……」

ゆっくりと唇が離した雄大が呟く。

その雄大の男らしくて掠れた声が、身体の奥にビリビリと響いてくる。

「泣かないで、朝陽」

雄大は俺をぎゅうっと抱きしめながら、耳元でいつもみたいに甘えたように話す。

「え、あ……うん」

一瞬の出来事に、何が起きたのかとポカンとして涙は止まってしまった。

(え、俺、今雄大とキス……)

起こった出来事に頭が追いつかない。

呆けていると、雄大が俺を抱きしめたまま「朝陽。大丈夫?」と耳元で喋る。

「だ、だ、大丈夫!泣き止んだ」

慌てて、泣き止んだことを伝える。

「ほんと?」

抱きしめる腕を少しだけ緩めた雄大が、顔を覗き込んでくる。

「ほんとほんと。大丈夫だって」

嬉しいやら、恥ずかしいやら、いろんな感情が一気に押し寄せてきて、自分が今どんな顔をしているのか想像したくもない。

雄大は俺の顔を見ると、安心したのか俺を抱きしめていた腕を離した。

「ほんとは公園で話そうと思ったのに、先にキスしちゃった。ごめん」

雄大が照れくさそうに頭をかいて、謝っている。

そんな雄大が可愛いと思うのと同時に、本当に両思いなんだという実感がこみ上がってくる。

ドキドキと胸が大きく鳴るのに、どこかホッとして、自然と笑みがこぼれた。

「まぁ、とりあえず公園、行くか……」

そう言って、雄大の唇の感触が残ったまま、もう一度手を繋ぎ直して公園に向かった。


 「やっぱ夜だと誰もいないね」

公園に着くと、雄大が小さな声で言った。

夜の公園は、小さい子どもたちの楽しそうな笑い声で溢れている昼とは違って、街路灯がぼんやりと遊具を照らしている。

「あそこでいい?」

「うん。大丈夫」

雄大が指差したベンチに2人並んで座る。

座ると何だかホッとして、ため息が出た。

「なんか、いろいろあったね」

雄大が遠い昔のことを思い出すみたいに、ぼそりと言ってコーヒーを飲む。

「うん。ほんとだよな」

週刊誌の記者に、一ノ瀬蒼。

雄大との喧嘩に雄大とのキス……ここ数時間で全て起きたとは思えないぐらいだ。

「でも、雄大。話してくれてありがとな。だから、俺も、話す」

「うん?朝陽の話?」

雄大は首を小さく傾げた。

「えーっと、俺、中学ぐらいの時に、男の人しか好きになれないのかもなって気付いてさ。 まぁ、ちゃんと男が恋愛対象なんだって思ったのは大学入ってからなんだけど。 で、今までずっと誰かに話すとかもしなくて。 なんか、言うと関係変わりそうじゃん?……だから、雄大がお兄さんのこと言いたくなかった気持ちがちょっとわかるっていうか」

自分のことを話し慣れてなくて、話が上手くまとまらない。

「友達に紹介された女の子と付き合ってみたりしたけど、何かやっぱ無理でさ。男らしく振る舞おうとか、ちゃんと彼氏をしようって思うと余計に。 んー、なんて言ったらいいんだろ。ずっとみんなを裏切ってるみたいな感覚になるっていうか、世界の道理から外れてる感じがするっていうか……」

雄大は何も言わず、静かにコーヒーを飲みながら聞いている。

こうして話してみると、今まで自分の中に閉じ込めていた重く、濁ったものがゆっくりと外に出ていく感じがした。

「…だから俺は、雄大の小説に救われたんだよね。 雄大の書く恋愛小説の主人公の女の子が逞しすぎてさ」

「え、そんなつもりで書いてなかったんだって」

静かに聞いていた雄大が、すぐに反論してきた。

「はは、ごめん。 でも、不器用な女の子に妙な共感をしちゃって。読むと、泣きたくなるのに、大丈夫だよって背中を押されてるような不思議な感じがして……読んだ時に人を大切に思う気持ちに、性別的な役割なんか無いよなって思えた。 それから雄大の作品のファンになったんだけど、こんな作品を書く雄大ってどんな人間なんだろうってみてるうちに好きになってた。 ここが好きとか、こうしてくれるから好きって言える訳じゃないんだけど。 つまり、俺は雄大のことが好き、という話……です」

うまく伝わったかは分からないけれど、自分の内側を伝えたくて思い浮かんだ言葉を自分なりに並べてみる。

「朝陽……」

「初めてこんなこと人に言った。……結構、恥ずかしいな、これ……あはは」

顔がぼうっと熱くなってきて、手でパタパタと顔を仰ぐ。

「朝陽、ありがと。 たぶん、僕の方こそ救われてると思う」

「え?」

雄大が照れくさそうに前髪をぐしゃぐしゃと崩す。

「僕さ、BL小説を書くための胸がキュンってする場面って何だろうって考えてるうちに、気がついたんだよね。これまでの恋愛小説がうまくいかなかったのは、恋愛に対する理解が浅かったんだなって」

「理解?」

「そ。僕さ、他人にされたら許せないことでも、朝陽なら許せんのね。 なのに、朝陽が誰かと楽しそうに話してるの見ると無性に苛立つくせに、そのまま楽しそうに笑っててほしい気持ちにもなる。 実はここ最近、正反対の感情ばっか生まれてきて、心がぐちゃぐちゃになってたんだよね。何これって」

雄大がそんな風に俺を見ていたなんて知らなかった。

「隠すのに必死だったし、ドキドキするけど恋愛感情って片付けるには醜い感情多すぎだなって思ってさ。 でも、もしかしたら僕の考える恋の定義がそもそも間違ってるかもしれないって思い始めてて」

「あはは。研究者かよ。恋の定義って、ふふっ」

「なんか確信を持ちたくて、さっき店出てすぐに花さんに聞きに戻っちゃったよね」

「あ、忘れ物……?」

「そうそう。花さんに『僕が朝陽に感じてる感情は何だと思いますか?』って聞いたら、『恋愛感情でしょ、それは』って即答された」

真面目なのか、馬鹿なのか、俺が考えたこともないことを真剣に話す雄大が愛おしくなった。

「だってさ、恋って『落ちる』って表現するじゃん。恋に落ちるって。だから、落とし穴に落ちるみたいに劇的な変化が
起こるものかなって思ってたんだよね。だから、そんな場面をどうやって作ろうかって考えてずっと書いてたの。 なのに、実際は気づいたら落ちてるもんだったから、びびった」

雄大が困ったような顔をして、俺の方を見て笑う。

雄大が笑って話す姿を見ていると、自然と顔の筋肉が緩んでくる。

「でも、朝陽にだけすっごいくっつきたくなるんだよね。不思議なことに」

そう言った雄大は、手を俺の方へ伸ばしてくる。

「……俺も……雄大に触れたくなる、よ」

恐る恐る雄大の手のひらの上に自分の手を重ねる。

雄大は重ねた手を恋人繋ぎになるように握り直して、俺の足の上に置く。

握り直されると自分よりも熱いと思った雄大の手の温度が、じんわりと心地良くなってきて、自分の体温と混ざっていく感じがした。

「で、くっついたら、服ん中に手突っ込んで腹とか触りたくなる」

「は?」

雄大の言葉に驚いて、大きな声で聞き返す。

にこりと笑う雄大の顔を見て、さっきまでの甘くて溶けそうな雰囲気が一瞬でどこかへ行ったのだと察した。

「いやいや、待って。そういうのはもうちょっと、時間が経ってからというか」

「え?」

雄大は、さらにギュっと強く握ってくる。

手から逃れようとしても、長い指が俺の手を捕まえて離してくれない。

バタバタとしているうちに、雄大が自分の方へ俺の手を腕ごと引っ張った。

身体が雄大に近づいて、お互いの顔が近づく。

「っ、ゆうだい!」

「はは。朝陽かわいい。 でも、こんなとこではしないから大丈夫」

そう言って、雄大は握る強さを弱めた。

「はぁ。もう。心臓がもたねえ」

俺はドキドキと高鳴る鼓動を感じながら、逃げるのをやめて雄大にもたれかかった。

「朝陽」

雄大が低い、掠れた声で俺の名前を呼んだ。

「ん?」

雄大の方に頭をもたれさせたまま返事をする。

「僕の恋人になって」

「あ……」

丁寧で、落ち着いた言い方だった。

一瞬、驚いて反応が遅れる。

「……お願い」

「ひゃ、あの」

今度は、いつもの何かしてほしい時の甘えた言い方をしてくる。

雄大の一言、一言すべてに心臓がドキっと反応する。

「こ……こちらこそ、お願いします」

恥ずかしくて、雄大にもたれたまま俯く。

「朝陽、こっち向いて」

言われた通り、ゆっくりと視線を上げる。

(あ……)

顔を上げると、雄大はふわっと吹いた風に透き通るような金色の髪をなびかせて、俺を優しく見つめていた。

「朝陽。キスしたい」

俺は身体を雄大の方へ向け、目を閉じる。

唇にふわっと、柔らかな感触がした。

軽く触れた唇がそっと離れ、目を開けて雄大を見る。

「ね、もうちょっとだけしたい」

「でも、ここ外……」

「だめ?」

俺は雄大を甘やかしてダメだと思うのに抗えない。

「っ、あと1回だけな」

「うん」

夏のじんわりと汗ばむ夜の中でするキスは、ほろ苦くて、甘いコーヒーの味がした。