俺が伊織くんと出会ったあの日。伊織くんの目が真っすぐに俺を見つめたあのとき。
あの感情を、今なら言葉にできる。
嬉しかったんだ。
誰かに見られることが怖くて、どう思われるのかを恐れて、ずっと俺は自分を知る人の目を避けていた。
それは自分のチャチなプライドを守ってくれたけど、酷く寂しかったんだ。自分で自分の価値を毀損し、差し伸べてくれた手も振り払い、勝手に自家中毒に陥っていた。そんなことをしていて苦しくないはずがないのに、そんなことすらわからなくなっていた。
『あの、本当に助かりました。ありがとうございます』
その言葉で本当に救われたのは、きっと俺の方だよ。
誰の目にも映らないようにしていた俺をまっすぐ見てくれた君。君が見てくれているから、俺はなんとか腐りきらずに生きている。嘘偽りなくそう思う。
だから俺は、君に恥ずかしくないように。自信をもってその瞳に映れるように。もう一度生き直したい。
「おかえり。伊織くん」
「ただいま。吉見さんはお月見? まだ時期はやいよ」
「はは。そうかもな」
学校帰りの伊織くんを縁側で出迎えると、自然と隣に並んで座った。
夜風が短くなった髪を撫でる。夏の生温い風じゃあ全然心地良くなんかないけれど、耳に直に風が当たる感覚は随分久しぶりな気がして、どこかくすぐったい。
「髪、まだ慣れませんか?」
「いいや、別に。むしろ、やっと違和感が拭えたみたいな感じ。あ、でも伊織くん的には慣れないかな?」
「……ッ。別に、そんなことはない、です、けど」
伊織くんが顔を逸らす。ま、急にイメチェンすると慣れないよな。
「伊織くんにはさ、本当に礼が言いたいんだ」
「え……? 俺、何かしました?」
特別な何かがあったわけじゃない。ただこの数ヶ月、君と過ごした時間が、凝り固まっていた俺の心をほぐしてくれた。ひたむきに自分の後を追いかけてくれる伊織くんのおかげで、いつの間にか自分を見つめなおすことができたんだ。もしこの数カ月を一人きりですごしていたとしたら、今こんなに穏やかな気持ちで月を見上げてはいないだろう。
「気付いてないならいい。でも俺は、伊織くんに会えてよかったと思ってるよ」
「それは俺の方こそ。ずっと、俺に決まった居場所なんてできないと諦めてた。毎日帰る家も、どこかで仮宿なんだって気がして、どこか帰る場所があるなんて感覚、ずっとなかった。
でも、今は毎日、ここに帰ってくるのが楽しい。ここが俺の帰るべき場所なんだって思えるんだ。この気持ちをくれたのは吉見さんだから――俺も、吉見さんに会えてよかった」
なんだかお互い、妙に恥ずかしいことを告白し合っている気がする。帰るべき場所、か。そんなことで迷っているやつが、どこかにいたな。
「伊織くんが帰るべき場所――そこに、俺も居ていいかな」
「……うん。そうなったら、俺も嬉しい」
行くべき場所は定まった。なら、そろそろ寄り道は終わりだ。俺も帰るべき場所に帰る頃だ。また新しいスタートを切るために。
「伊織くん。明日の放課後、体育館に来てくれないかな」
「それは良いけど。吉見さん、もしかして来るの?」
「いい加減、やり残しは済ませておかないとな。楽しい夏休みを迎えられない」
既にこれ以上ないくらいの休みをもらっている訳だが、その上夏休みのことまで考えるとは、我ながら欲深い。去年の夏は楽しむどころの話じゃなかったが、今年はきっと楽しくなる。だから、この後輩と夏を思い切り楽しむために、俺は去年の夏を終わらせに行く。
翌日、俺は学校に行く前に小林商店に寄った。リンちゃんにも報告はしておこうと思ったからだ。一応、世話にはなったんだし。
「ひゃー、随分さっぱりしたもんだね。なんか、短くするとちょっと可愛くなるね」
「うっせ。いいから、このサポーターちょうだい」
放っておくとどれだけ揶揄われるかわからない。さっさとリンちゃんを仕事モードに引き戻すため、ぶっきらぼうに商品を突き出す。
「はいはい、お買い上げ~。そっか、いよいよ復帰だね?」
「まだ俺の席が残ってればだけどな。一年近くサボったから、ベンチすら怪しい」
「大丈夫だよ、きっと。特に根拠はないけどね。
それにしても、琉仁が社会復帰しちゃうのは寂しいな。あーあ、もう夜中に急に呼びつけたりできないんだ」
「そういうのはもうおしまい。寄り道がどんなに楽しかったって、いつかは戻らないといけないだろ?」
「そうだなあ。それを言われちゃ、駄菓子屋さんとしては何も言えない。鐘が鳴ったら、子供を帰り道に送り出すのが役目だからね。でも、大丈夫? 琉仁くんは、ちゃんとお家に帰れるかな~?」
「あんまり揶揄うなって。俺だって、これでも慕ってくれる後輩がいる頼れる年上なんですけど」
「何それ、初耳。あたしにも紹介してよ」
うーん……リンちゃんは何でも話せる人だけど、こればっかりは。
「ダメ。あの子は俺のだから。リンちゃん、すぐ年上風吹かそうとするでしょ」
こればっかりは誰だろうと譲れない。さあ、行こう。伊織くんが待ってる。
「吉見さん、こっちこっち」
放課後の学校で伊織くんと落ち合う。教職員に見つかると面倒だから、なるべく目立たないように体育館まで忍び込む。ここまでは順調だ。
体育館の中と外は、目の前の鉄扉一つで区切られている。ようやくここまで帰ってこれた。胸に手を当て、一つ深呼吸。肝心なのはこの先だ。
「吉見さん。やっぱり、怖い?」
「ちょっと……いや、だいぶ。あいつらには迷惑をかけまくったんだ。どんな酷いことを言われても、文句は言えない」
それでも、ここまで来たら逃げることはできない。伊織くんの前ならなおさらだ。俺は意を決して鉄扉に手をかける。
「行ってらっしゃい、吉見さん」
ギイィ……と、重苦しい鉄の音が響く。なるべく静かに開けたつもりだったけど、経年劣化した鉄扉は静かにできない性質らしい。
体育館中の視線が、戸津是習われた闖入者に注がれる。
「あ、れ……ルニだ。ルニがいる。なあ加賀、俺、あそこにルニが見えるんだけど、暑すぎて見えた幻覚じゃないよな」
「いや……俺も見える。から、たぶん幻覚じゃないけど……お前ら、一応水分摂っとけ」
「誰が幻覚だコラ。俺だよ、本物の吉見琉仁だよ」
一瞬、蒸し暑い体育館の中を静寂が包み込む。しかし、その静けさは、昔の仲間たちによってすぐに打ち消される。
「ルーーーニーーーー!」
「うおおおおおおい! お前、急に来んなよ。ビビるだろうが」
「おかえりルニ! もう足平気なん?」
「ちょ、お前ら落ち着けって。足触んな、てか引っ付くな、暑苦しい!」
仲間たちは、拍子抜けするくらい屈託のないリアクションを返してくれる。色々覚悟してきたのに、逆にどうしたらいいかわからずされるがままだ。
「お前ら、いいのか。それでいいのか? 俺、一応退部届出して勝手に辞めた身なんだけど」
「んー? そんなん気にしてるやついたっけ?」
「まあ、一応本気で怒ってるやつはいたな」
全員の視線が加賀に集まる。加賀だけは俺をもみくちゃにする輪に加わらず、仏頂面で腕を組んで俺を見据えている。
「加賀。その――」
「……お前の顔を見たら、言ってやりたいことなんていくらでもあったよ。あったんだけどな――これじゃあこっちも毒気が抜かれる」
加賀は大げさにため息をつきながら、頭を掻く。「おかえり、ルニ」
「うぇーい。かがやんツンデレ―」
「ルニが抜けて寂しかったんだもんなー。よしよし」
「うっせーなアホども。殴るぞ」
まるで一年の隔たりが無いように、あっという間にあの頃の空気に戻されてしまう。けれど、それじゃ良くない。皆が許してくれたとしても、俺自身が許せない。
「それでも、やっぱり言わせてよ。みんなごめん。俺の勝手で迷惑かけた。本当に悪かった」
皆の前で頭を下げる。謝ったって何の意味もないけれど、これだけはけじめをつけないといけない。
「それから、先輩方も。あの頃の俺は、生意気な態度ばかり取っていて、そのくせ半端な形で抜けてしまって……本当に、申し訳ありませんでした」
先輩たちに向けても、改めて頭を下げた。すると先輩たちは顔を見合わせて頷いて、
「それについてなんけどな。吉見、俺たちの方こそ、悪かったよ。お前がどんな思いでチームを引っ張ろうとしてたのか、お前がけがをしてようやく気付けた。バスケに関しちゃ確かな目を持っていたお前がオーバーワークなんて、俺たちが吉見に重荷を背負わせた以外に原因が考えられない」
「だから俺たちも悪かった。良ければまた、チームに戻ってきてくれると嬉しい。今度こそ、上手くやれると思うんだ、俺たち」
それからは、互いに謝罪のリレーで、自分が悪かった、いいやこちらも悪かった、というのが三往復は続いた。
「あの、加賀先輩。この人って、あの?」
先ほどから顔に?マークを浮かべていた一年生の内の一人が、このままでは話が進まないと見て口を開いた。
「ああ、前言ったウチの秘密兵器。コイツが復帰すれば、冗談抜きで戦力が三倍は上がる」
「はあ!? 冗談抜きって、冗談にしか聞こえないんだけど! どこから出て来たんだその数字は。お前、変なこと後輩に吹き込んでないだろうな」
「どうだろうな。いないヤツが悪いんじゃねえか?」
こいつ……。悪い顔しやがる。
「何か文句があるんだったら、こいつで決めようや」
加賀がバスケットボールを投げて寄越す。
「十分でどれだけ点が取れるかのワンゲーム。いけるよな?」
「上等。でもチーム分けは?」
「それくらい選ばせてやるよ。ハンデだハンデ」
それならお言葉に甘えよう。
「それじゃあ……先輩、一緒にやってくれませんか。今度こそ、一つのチームになりましょう」
「……しょうがねえ。後輩の頼みだ」
「加賀の奴、吉見が抜けてからグンと実力伸ばしたしな。全部見てた俺たちがサポートしてやるよ」
先輩たちの背中を追って、久しぶりにコートに入る。準備運動代わりに軽くドリブルしてみて、手のひらにボールの感覚を馴染ませる。ボールの弾む音、照明の眩しさ、シューズが床を擦り鳴る音。何もかもが、一年ぶりとは思えないくらいに体の中にすっと溶け込んでいく。
「いくぞ。相手はルニでも、ブランクがある。ぶっ倒してサボってた分焦らせてやろうや」
「お前らこそ、サボり魔に負けたら言い訳できねーからなっ!」
たった十分間、言い訳ナシのワンゲームが始まる。
実際にプレーしてみて、改めて感じる。やっぱり身体の感覚は全盛期には程遠い。頭では「こう行きたい」というルートが組み上がっても、身体が言うことを聞いてくれない。体中の関節がさびついてしまったかのようだ。
それでも、くらいつく。なぜって、そりゃあやっぱり。
「なあ加賀。やっぱバスケって、楽しいな」
「息上がってるぜ? 強がってんなよ」
「本心だよ。そりゃ、身体は重いんだけどさ」
自分でも驚いている。こんなに体が思うように動かなくなってたら、絶望感で泣き叫びたくなると思ってた。いや、実際去年の俺ならそうなっていた。今は違う。この言うことを聞かない身体で何ができるか。どこまでやれるか。それを試したくて仕方がない。
バスケだけが自分の価値の証明だと思い込んでたから、理想の自分に固執して苦しくなる。でもそうじゃなくて。何かをする理由なんて「好きだから」だけで十分だ。そう思えるようになったのは、何者でもない吉見琉仁を見て、慕ってくれた伊織くんがいたからだ。
互いに譲らず点を入れてはまた返されて、残すところはあと三十秒。次に点を獲得した側が勝利する。
「どうだ? 俺もまだ捨てたもんじゃないだろ」
「捨てねえよ。どれだけ帰りを待ってたと。でも、これ以上調子には乗らせない」
ドリブルしながら近づく加賀をブロックに入る。眼差し、足に掛ける重心移動、手の動き。使えるものは全て使って揺さぶりをかける。
「もらった……!」
悪くない感触だった。一瞬の判断の遅れが加賀の足を鈍らせ、ボールを奪える。
去年までの実力差なら、そうなっていた。
「悪いな、ルニ」
「……っ」
ボールは俺の手に渡ることも、横をすり抜けることもなく、大きく逸れてパスされた。たしかに、そこに走り込んだヤツがいたのは見えていた。視野が狭くなっていた訳じゃない。それでも、加賀は俺との勝負に出るだろう――と思い込まされていた。
パスカットに失敗したボールはそのままシュートされ、小気味のいい音を立ててゴールネットに吸い込まれた。
「ナイッシュー!」
勝利を確信した相手チームが湧き上がる。まだだ、まだ終わっていない。あと二十秒。自分にできることは全て試せ。
絶体絶命のピンチだというのに、思考はやけに澄み渡っている。今の自分に何ができる。どこまでできる。
チームメイトの癖は全て頭に入っている。それはどれだけ実力が伸びたとしても抜けないものだ。ましてや、勝利を確信している今なら。相手の懐に飛び込み、伸ばされた腕を躱し、その度に湧き上がる高揚を押さえつけ、ただゴールネットだけを見据える。
「いいぞ吉見、そのまま突っ込め!」
勢いを殺さないままゴール下に近づき、レイアップを狙う。大丈夫、俺はまだ跳べる。
短く息を吐いて、跳び上がる。ブロックに入った加賀も同様だ。
ネットに向けてボールを投げるのではなく、押し出すように放す。大丈夫、軌道がずれてない。……だが。
横から延びる手がボールを弾き、ネットには至らない。俺はそれを、跳んでから着地するまでのわずかな間、スローモーションのように眺めていた。
試合終了のホイッスルが鳴る。俺は着地の勢いを殺せず、そのまま床の上に大の字になって倒れ込んでしまった。
「……負けたかぁ」
ただ勝敗を確認するためだけの呟き。そこに悔しさや無念は少しもない。それよりも勝ち負けとは関係ないところから湧き上がる充足感で、頭がどうにかなりそうだった。
「よう、加賀。お前こんなに強かったっけ?」
「ルニが弱くなったんだよ」
「言ってくれるな」
「また強くなるって、信じてるからな」
そりゃ、随分と信頼が篤いことで。
ここまで頑張れたのが、ただ好きな後輩の前で良い恰好したいから――なんて聞いたら、こいつは呆れるだろうか。それとも今度こそ、本気でキレるかな。
俺は目線を彷徨わせ、目当ての姿を探す。いつだったか、バスケ部を見下ろした踊り場に伊織くんの姿はあった。
よかった、見ていてくれた。それなら負けたって悔いはない。
充足感の後に来る脱力感が心地いい。いつまで寝てんだ、とチームメイトが横っ腹を蹴ってくるけど、もう少しだけこのままでいさせてほしい。
その後は騒ぎを聞きつけやってきた顧問に職員室に連れていかれ、たっぷりとお説教を食らった。周囲に甘えて勝手なことをしていたのは事実なので、説教は甘んじて受け入れた。
俺の扱いは二年生以降は休学扱いとなっていて、復帰はひとまず九月からという話になった。休んでいた一学期分の単位をどうするかはおいおいの話になるが、テストだけは受けていたのも考慮されて鬼のような量の課題と補修という辺りに落ち着きそうだ。
話し合いを終える頃にはかなり時間が立っていたが、伊織くんは校門の前で待ってくれていた。
「ごめんね、暑い中待たせちゃって」
「いいよ、それくらい。ふふっ、今日は面白いものも見れたしね」
「面白いものってなんだよ」
「それはもう、色々と。そういえば吉見さん、部活ではルニって呼ばれているんだね。俺もルニさんって呼んでいい?」
伊織くんが無邪気に聞いてくる。少し考えたけど、それは……ちょっと嫌かもしれない。
「ダメだな」
「えー、どうしてですか」
「……伊織君にはちゃんと名前を読んでほしい、から」
ううん、なるべく自然な感じで言ってみたけど、やっぱりちょっと気恥ずかしい。けど伊織くんにだけは、あだ名よりも本名で読んでほしいと思ったんだ。
「わかりました。じゃあ……琉仁さん」
「な、なに……?」
「……ふふ、何でもないでーす。……大好きな先輩の名前を、呼んでみたかっただけ」
自分の発言に恥ずかしくなったのは伊織くんも同じのようで、「えへへ」とあまりらしくない照れ笑いを浮かべると、先に走って行ってしまった。俺自身、あまりにも直接的な言葉を投げかけられてにやけてしまっていると思う。
「おいコラ、言っておいて逃げんなよ」
「もーなんですか! 負けて落ち込んでる先輩の為にって後輩がハズいこと言ったんだから、そこは気にせず流してよ!」
伊織くんは立ち止まりはしたものの、振り向きはしなかった。よほど俺に見せたくないような顔をしているのか。
「勝手に落ち込んだことにすんなよ。つーか、自分で言っといて恥ずかしがんなっつの。……俺も、かわいい後輩のことが好きだぜ」
ぽんと肩を叩いて伊織くんを追い抜く。待ってやる気はない。こっちだって、相当に恥ずかしいんだ。
「いつか、その『後輩』って取れますか」
立ち止まったまま、伊織くんが訊いてくる。俺も立ち止まって、やっぱり顔は向けずに訊き返す。
「それは、どういう意味?」
「吉見さんは俺のこと、たぶん後輩だから可愛がってくれてるんだと思う。でもそうじゃなくて……! 俺は先輩後輩みたいなの関係なしに、もっと吉見さんと仲良くなりたい」
伊織くんの口調は今までにないくらい一生懸命なものだった。でも俺は思わず笑いそうになった。だってさ、そんなのもう、とっくにそうだろ。
「何言ってんだよ。俺たちってそういう関係だと思ってるけど。そもそも俺、学校の先輩名乗れるほど学校に行ってないし。……ほら、早く来ないと置いてくよ」
「わかってない! 吉見さんは全然わかってない! あーもう、良いです! 絶対いつか、吉見さんを俺に惚れさせますから!」
結構気の利いたこと言ったつもりだったけど、伊織くんはへそを曲げてしまったようで再度俺を追い抜いていくと、つかつかと先に行ってしまう。その様はやっぱり、対等な友人というよりは世話を焼きたくなる後輩って感じだ。
――まったく。惚れてるかって話なら、それこそなのに。
伊織くんは一体俺に何をしてくれるのか。まるで予想もつかないけど……それは楽しみに待っていよう。時間はまだたくさんあるんだ。
でもやられっぱなしは性に合わない。伊織くんが何か仕掛けてくるのならこっちも迎え撃つ。だって先輩らしく、後輩の前では格好つけたいしさ。
だから、先制攻撃。こういうのは「いつか」じゃ遅いんだぜ。
「待ってって、伊織くん」
「もー! なんですか、俺今余裕なくって――」
振り返る伊織くんの頬を掴み、唇同士をくっつける。一瞬触れるだけの、キスと呼べるかわからない口づけ。
一瞬世界から音が消えたような気がしたけど、きっと気のせい。蝉は喧しく鳴いてるし、心臓の音だってひどくうるさい。
「――は? ――へ?」
「伊織くんの『好き』って、こういうのであってるよね?」
少し刺激が強すぎたか……。伊織くんは顔を真っ赤にして口をパクパクしたかと思えば、俺の胸に顔を埋めてぽかぽかと叩いてくる。完全にキャパオーバーしてる。
でも我慢してね。こっちだって、こんなの初めてなんだから。加減なんてできそうにない。
夏の始まりを告げる空はやたらと高い。最近は彩度の高い景色を見るとつい、伊織くんが喜びそうだなんて考えてしまう。そうだ、夏休みは伊織くんを旅行にでも誘ってみるか。
今ならきっと、どこにだって行ける。帰ってくる居場所があるって知れたから。
あの感情を、今なら言葉にできる。
嬉しかったんだ。
誰かに見られることが怖くて、どう思われるのかを恐れて、ずっと俺は自分を知る人の目を避けていた。
それは自分のチャチなプライドを守ってくれたけど、酷く寂しかったんだ。自分で自分の価値を毀損し、差し伸べてくれた手も振り払い、勝手に自家中毒に陥っていた。そんなことをしていて苦しくないはずがないのに、そんなことすらわからなくなっていた。
『あの、本当に助かりました。ありがとうございます』
その言葉で本当に救われたのは、きっと俺の方だよ。
誰の目にも映らないようにしていた俺をまっすぐ見てくれた君。君が見てくれているから、俺はなんとか腐りきらずに生きている。嘘偽りなくそう思う。
だから俺は、君に恥ずかしくないように。自信をもってその瞳に映れるように。もう一度生き直したい。
「おかえり。伊織くん」
「ただいま。吉見さんはお月見? まだ時期はやいよ」
「はは。そうかもな」
学校帰りの伊織くんを縁側で出迎えると、自然と隣に並んで座った。
夜風が短くなった髪を撫でる。夏の生温い風じゃあ全然心地良くなんかないけれど、耳に直に風が当たる感覚は随分久しぶりな気がして、どこかくすぐったい。
「髪、まだ慣れませんか?」
「いいや、別に。むしろ、やっと違和感が拭えたみたいな感じ。あ、でも伊織くん的には慣れないかな?」
「……ッ。別に、そんなことはない、です、けど」
伊織くんが顔を逸らす。ま、急にイメチェンすると慣れないよな。
「伊織くんにはさ、本当に礼が言いたいんだ」
「え……? 俺、何かしました?」
特別な何かがあったわけじゃない。ただこの数ヶ月、君と過ごした時間が、凝り固まっていた俺の心をほぐしてくれた。ひたむきに自分の後を追いかけてくれる伊織くんのおかげで、いつの間にか自分を見つめなおすことができたんだ。もしこの数カ月を一人きりですごしていたとしたら、今こんなに穏やかな気持ちで月を見上げてはいないだろう。
「気付いてないならいい。でも俺は、伊織くんに会えてよかったと思ってるよ」
「それは俺の方こそ。ずっと、俺に決まった居場所なんてできないと諦めてた。毎日帰る家も、どこかで仮宿なんだって気がして、どこか帰る場所があるなんて感覚、ずっとなかった。
でも、今は毎日、ここに帰ってくるのが楽しい。ここが俺の帰るべき場所なんだって思えるんだ。この気持ちをくれたのは吉見さんだから――俺も、吉見さんに会えてよかった」
なんだかお互い、妙に恥ずかしいことを告白し合っている気がする。帰るべき場所、か。そんなことで迷っているやつが、どこかにいたな。
「伊織くんが帰るべき場所――そこに、俺も居ていいかな」
「……うん。そうなったら、俺も嬉しい」
行くべき場所は定まった。なら、そろそろ寄り道は終わりだ。俺も帰るべき場所に帰る頃だ。また新しいスタートを切るために。
「伊織くん。明日の放課後、体育館に来てくれないかな」
「それは良いけど。吉見さん、もしかして来るの?」
「いい加減、やり残しは済ませておかないとな。楽しい夏休みを迎えられない」
既にこれ以上ないくらいの休みをもらっている訳だが、その上夏休みのことまで考えるとは、我ながら欲深い。去年の夏は楽しむどころの話じゃなかったが、今年はきっと楽しくなる。だから、この後輩と夏を思い切り楽しむために、俺は去年の夏を終わらせに行く。
翌日、俺は学校に行く前に小林商店に寄った。リンちゃんにも報告はしておこうと思ったからだ。一応、世話にはなったんだし。
「ひゃー、随分さっぱりしたもんだね。なんか、短くするとちょっと可愛くなるね」
「うっせ。いいから、このサポーターちょうだい」
放っておくとどれだけ揶揄われるかわからない。さっさとリンちゃんを仕事モードに引き戻すため、ぶっきらぼうに商品を突き出す。
「はいはい、お買い上げ~。そっか、いよいよ復帰だね?」
「まだ俺の席が残ってればだけどな。一年近くサボったから、ベンチすら怪しい」
「大丈夫だよ、きっと。特に根拠はないけどね。
それにしても、琉仁が社会復帰しちゃうのは寂しいな。あーあ、もう夜中に急に呼びつけたりできないんだ」
「そういうのはもうおしまい。寄り道がどんなに楽しかったって、いつかは戻らないといけないだろ?」
「そうだなあ。それを言われちゃ、駄菓子屋さんとしては何も言えない。鐘が鳴ったら、子供を帰り道に送り出すのが役目だからね。でも、大丈夫? 琉仁くんは、ちゃんとお家に帰れるかな~?」
「あんまり揶揄うなって。俺だって、これでも慕ってくれる後輩がいる頼れる年上なんですけど」
「何それ、初耳。あたしにも紹介してよ」
うーん……リンちゃんは何でも話せる人だけど、こればっかりは。
「ダメ。あの子は俺のだから。リンちゃん、すぐ年上風吹かそうとするでしょ」
こればっかりは誰だろうと譲れない。さあ、行こう。伊織くんが待ってる。
「吉見さん、こっちこっち」
放課後の学校で伊織くんと落ち合う。教職員に見つかると面倒だから、なるべく目立たないように体育館まで忍び込む。ここまでは順調だ。
体育館の中と外は、目の前の鉄扉一つで区切られている。ようやくここまで帰ってこれた。胸に手を当て、一つ深呼吸。肝心なのはこの先だ。
「吉見さん。やっぱり、怖い?」
「ちょっと……いや、だいぶ。あいつらには迷惑をかけまくったんだ。どんな酷いことを言われても、文句は言えない」
それでも、ここまで来たら逃げることはできない。伊織くんの前ならなおさらだ。俺は意を決して鉄扉に手をかける。
「行ってらっしゃい、吉見さん」
ギイィ……と、重苦しい鉄の音が響く。なるべく静かに開けたつもりだったけど、経年劣化した鉄扉は静かにできない性質らしい。
体育館中の視線が、戸津是習われた闖入者に注がれる。
「あ、れ……ルニだ。ルニがいる。なあ加賀、俺、あそこにルニが見えるんだけど、暑すぎて見えた幻覚じゃないよな」
「いや……俺も見える。から、たぶん幻覚じゃないけど……お前ら、一応水分摂っとけ」
「誰が幻覚だコラ。俺だよ、本物の吉見琉仁だよ」
一瞬、蒸し暑い体育館の中を静寂が包み込む。しかし、その静けさは、昔の仲間たちによってすぐに打ち消される。
「ルーーーニーーーー!」
「うおおおおおおい! お前、急に来んなよ。ビビるだろうが」
「おかえりルニ! もう足平気なん?」
「ちょ、お前ら落ち着けって。足触んな、てか引っ付くな、暑苦しい!」
仲間たちは、拍子抜けするくらい屈託のないリアクションを返してくれる。色々覚悟してきたのに、逆にどうしたらいいかわからずされるがままだ。
「お前ら、いいのか。それでいいのか? 俺、一応退部届出して勝手に辞めた身なんだけど」
「んー? そんなん気にしてるやついたっけ?」
「まあ、一応本気で怒ってるやつはいたな」
全員の視線が加賀に集まる。加賀だけは俺をもみくちゃにする輪に加わらず、仏頂面で腕を組んで俺を見据えている。
「加賀。その――」
「……お前の顔を見たら、言ってやりたいことなんていくらでもあったよ。あったんだけどな――これじゃあこっちも毒気が抜かれる」
加賀は大げさにため息をつきながら、頭を掻く。「おかえり、ルニ」
「うぇーい。かがやんツンデレ―」
「ルニが抜けて寂しかったんだもんなー。よしよし」
「うっせーなアホども。殴るぞ」
まるで一年の隔たりが無いように、あっという間にあの頃の空気に戻されてしまう。けれど、それじゃ良くない。皆が許してくれたとしても、俺自身が許せない。
「それでも、やっぱり言わせてよ。みんなごめん。俺の勝手で迷惑かけた。本当に悪かった」
皆の前で頭を下げる。謝ったって何の意味もないけれど、これだけはけじめをつけないといけない。
「それから、先輩方も。あの頃の俺は、生意気な態度ばかり取っていて、そのくせ半端な形で抜けてしまって……本当に、申し訳ありませんでした」
先輩たちに向けても、改めて頭を下げた。すると先輩たちは顔を見合わせて頷いて、
「それについてなんけどな。吉見、俺たちの方こそ、悪かったよ。お前がどんな思いでチームを引っ張ろうとしてたのか、お前がけがをしてようやく気付けた。バスケに関しちゃ確かな目を持っていたお前がオーバーワークなんて、俺たちが吉見に重荷を背負わせた以外に原因が考えられない」
「だから俺たちも悪かった。良ければまた、チームに戻ってきてくれると嬉しい。今度こそ、上手くやれると思うんだ、俺たち」
それからは、互いに謝罪のリレーで、自分が悪かった、いいやこちらも悪かった、というのが三往復は続いた。
「あの、加賀先輩。この人って、あの?」
先ほどから顔に?マークを浮かべていた一年生の内の一人が、このままでは話が進まないと見て口を開いた。
「ああ、前言ったウチの秘密兵器。コイツが復帰すれば、冗談抜きで戦力が三倍は上がる」
「はあ!? 冗談抜きって、冗談にしか聞こえないんだけど! どこから出て来たんだその数字は。お前、変なこと後輩に吹き込んでないだろうな」
「どうだろうな。いないヤツが悪いんじゃねえか?」
こいつ……。悪い顔しやがる。
「何か文句があるんだったら、こいつで決めようや」
加賀がバスケットボールを投げて寄越す。
「十分でどれだけ点が取れるかのワンゲーム。いけるよな?」
「上等。でもチーム分けは?」
「それくらい選ばせてやるよ。ハンデだハンデ」
それならお言葉に甘えよう。
「それじゃあ……先輩、一緒にやってくれませんか。今度こそ、一つのチームになりましょう」
「……しょうがねえ。後輩の頼みだ」
「加賀の奴、吉見が抜けてからグンと実力伸ばしたしな。全部見てた俺たちがサポートしてやるよ」
先輩たちの背中を追って、久しぶりにコートに入る。準備運動代わりに軽くドリブルしてみて、手のひらにボールの感覚を馴染ませる。ボールの弾む音、照明の眩しさ、シューズが床を擦り鳴る音。何もかもが、一年ぶりとは思えないくらいに体の中にすっと溶け込んでいく。
「いくぞ。相手はルニでも、ブランクがある。ぶっ倒してサボってた分焦らせてやろうや」
「お前らこそ、サボり魔に負けたら言い訳できねーからなっ!」
たった十分間、言い訳ナシのワンゲームが始まる。
実際にプレーしてみて、改めて感じる。やっぱり身体の感覚は全盛期には程遠い。頭では「こう行きたい」というルートが組み上がっても、身体が言うことを聞いてくれない。体中の関節がさびついてしまったかのようだ。
それでも、くらいつく。なぜって、そりゃあやっぱり。
「なあ加賀。やっぱバスケって、楽しいな」
「息上がってるぜ? 強がってんなよ」
「本心だよ。そりゃ、身体は重いんだけどさ」
自分でも驚いている。こんなに体が思うように動かなくなってたら、絶望感で泣き叫びたくなると思ってた。いや、実際去年の俺ならそうなっていた。今は違う。この言うことを聞かない身体で何ができるか。どこまでやれるか。それを試したくて仕方がない。
バスケだけが自分の価値の証明だと思い込んでたから、理想の自分に固執して苦しくなる。でもそうじゃなくて。何かをする理由なんて「好きだから」だけで十分だ。そう思えるようになったのは、何者でもない吉見琉仁を見て、慕ってくれた伊織くんがいたからだ。
互いに譲らず点を入れてはまた返されて、残すところはあと三十秒。次に点を獲得した側が勝利する。
「どうだ? 俺もまだ捨てたもんじゃないだろ」
「捨てねえよ。どれだけ帰りを待ってたと。でも、これ以上調子には乗らせない」
ドリブルしながら近づく加賀をブロックに入る。眼差し、足に掛ける重心移動、手の動き。使えるものは全て使って揺さぶりをかける。
「もらった……!」
悪くない感触だった。一瞬の判断の遅れが加賀の足を鈍らせ、ボールを奪える。
去年までの実力差なら、そうなっていた。
「悪いな、ルニ」
「……っ」
ボールは俺の手に渡ることも、横をすり抜けることもなく、大きく逸れてパスされた。たしかに、そこに走り込んだヤツがいたのは見えていた。視野が狭くなっていた訳じゃない。それでも、加賀は俺との勝負に出るだろう――と思い込まされていた。
パスカットに失敗したボールはそのままシュートされ、小気味のいい音を立ててゴールネットに吸い込まれた。
「ナイッシュー!」
勝利を確信した相手チームが湧き上がる。まだだ、まだ終わっていない。あと二十秒。自分にできることは全て試せ。
絶体絶命のピンチだというのに、思考はやけに澄み渡っている。今の自分に何ができる。どこまでできる。
チームメイトの癖は全て頭に入っている。それはどれだけ実力が伸びたとしても抜けないものだ。ましてや、勝利を確信している今なら。相手の懐に飛び込み、伸ばされた腕を躱し、その度に湧き上がる高揚を押さえつけ、ただゴールネットだけを見据える。
「いいぞ吉見、そのまま突っ込め!」
勢いを殺さないままゴール下に近づき、レイアップを狙う。大丈夫、俺はまだ跳べる。
短く息を吐いて、跳び上がる。ブロックに入った加賀も同様だ。
ネットに向けてボールを投げるのではなく、押し出すように放す。大丈夫、軌道がずれてない。……だが。
横から延びる手がボールを弾き、ネットには至らない。俺はそれを、跳んでから着地するまでのわずかな間、スローモーションのように眺めていた。
試合終了のホイッスルが鳴る。俺は着地の勢いを殺せず、そのまま床の上に大の字になって倒れ込んでしまった。
「……負けたかぁ」
ただ勝敗を確認するためだけの呟き。そこに悔しさや無念は少しもない。それよりも勝ち負けとは関係ないところから湧き上がる充足感で、頭がどうにかなりそうだった。
「よう、加賀。お前こんなに強かったっけ?」
「ルニが弱くなったんだよ」
「言ってくれるな」
「また強くなるって、信じてるからな」
そりゃ、随分と信頼が篤いことで。
ここまで頑張れたのが、ただ好きな後輩の前で良い恰好したいから――なんて聞いたら、こいつは呆れるだろうか。それとも今度こそ、本気でキレるかな。
俺は目線を彷徨わせ、目当ての姿を探す。いつだったか、バスケ部を見下ろした踊り場に伊織くんの姿はあった。
よかった、見ていてくれた。それなら負けたって悔いはない。
充足感の後に来る脱力感が心地いい。いつまで寝てんだ、とチームメイトが横っ腹を蹴ってくるけど、もう少しだけこのままでいさせてほしい。
その後は騒ぎを聞きつけやってきた顧問に職員室に連れていかれ、たっぷりとお説教を食らった。周囲に甘えて勝手なことをしていたのは事実なので、説教は甘んじて受け入れた。
俺の扱いは二年生以降は休学扱いとなっていて、復帰はひとまず九月からという話になった。休んでいた一学期分の単位をどうするかはおいおいの話になるが、テストだけは受けていたのも考慮されて鬼のような量の課題と補修という辺りに落ち着きそうだ。
話し合いを終える頃にはかなり時間が立っていたが、伊織くんは校門の前で待ってくれていた。
「ごめんね、暑い中待たせちゃって」
「いいよ、それくらい。ふふっ、今日は面白いものも見れたしね」
「面白いものってなんだよ」
「それはもう、色々と。そういえば吉見さん、部活ではルニって呼ばれているんだね。俺もルニさんって呼んでいい?」
伊織くんが無邪気に聞いてくる。少し考えたけど、それは……ちょっと嫌かもしれない。
「ダメだな」
「えー、どうしてですか」
「……伊織君にはちゃんと名前を読んでほしい、から」
ううん、なるべく自然な感じで言ってみたけど、やっぱりちょっと気恥ずかしい。けど伊織くんにだけは、あだ名よりも本名で読んでほしいと思ったんだ。
「わかりました。じゃあ……琉仁さん」
「な、なに……?」
「……ふふ、何でもないでーす。……大好きな先輩の名前を、呼んでみたかっただけ」
自分の発言に恥ずかしくなったのは伊織くんも同じのようで、「えへへ」とあまりらしくない照れ笑いを浮かべると、先に走って行ってしまった。俺自身、あまりにも直接的な言葉を投げかけられてにやけてしまっていると思う。
「おいコラ、言っておいて逃げんなよ」
「もーなんですか! 負けて落ち込んでる先輩の為にって後輩がハズいこと言ったんだから、そこは気にせず流してよ!」
伊織くんは立ち止まりはしたものの、振り向きはしなかった。よほど俺に見せたくないような顔をしているのか。
「勝手に落ち込んだことにすんなよ。つーか、自分で言っといて恥ずかしがんなっつの。……俺も、かわいい後輩のことが好きだぜ」
ぽんと肩を叩いて伊織くんを追い抜く。待ってやる気はない。こっちだって、相当に恥ずかしいんだ。
「いつか、その『後輩』って取れますか」
立ち止まったまま、伊織くんが訊いてくる。俺も立ち止まって、やっぱり顔は向けずに訊き返す。
「それは、どういう意味?」
「吉見さんは俺のこと、たぶん後輩だから可愛がってくれてるんだと思う。でもそうじゃなくて……! 俺は先輩後輩みたいなの関係なしに、もっと吉見さんと仲良くなりたい」
伊織くんの口調は今までにないくらい一生懸命なものだった。でも俺は思わず笑いそうになった。だってさ、そんなのもう、とっくにそうだろ。
「何言ってんだよ。俺たちってそういう関係だと思ってるけど。そもそも俺、学校の先輩名乗れるほど学校に行ってないし。……ほら、早く来ないと置いてくよ」
「わかってない! 吉見さんは全然わかってない! あーもう、良いです! 絶対いつか、吉見さんを俺に惚れさせますから!」
結構気の利いたこと言ったつもりだったけど、伊織くんはへそを曲げてしまったようで再度俺を追い抜いていくと、つかつかと先に行ってしまう。その様はやっぱり、対等な友人というよりは世話を焼きたくなる後輩って感じだ。
――まったく。惚れてるかって話なら、それこそなのに。
伊織くんは一体俺に何をしてくれるのか。まるで予想もつかないけど……それは楽しみに待っていよう。時間はまだたくさんあるんだ。
でもやられっぱなしは性に合わない。伊織くんが何か仕掛けてくるのならこっちも迎え撃つ。だって先輩らしく、後輩の前では格好つけたいしさ。
だから、先制攻撃。こういうのは「いつか」じゃ遅いんだぜ。
「待ってって、伊織くん」
「もー! なんですか、俺今余裕なくって――」
振り返る伊織くんの頬を掴み、唇同士をくっつける。一瞬触れるだけの、キスと呼べるかわからない口づけ。
一瞬世界から音が消えたような気がしたけど、きっと気のせい。蝉は喧しく鳴いてるし、心臓の音だってひどくうるさい。
「――は? ――へ?」
「伊織くんの『好き』って、こういうのであってるよね?」
少し刺激が強すぎたか……。伊織くんは顔を真っ赤にして口をパクパクしたかと思えば、俺の胸に顔を埋めてぽかぽかと叩いてくる。完全にキャパオーバーしてる。
でも我慢してね。こっちだって、こんなの初めてなんだから。加減なんてできそうにない。
夏の始まりを告げる空はやたらと高い。最近は彩度の高い景色を見るとつい、伊織くんが喜びそうだなんて考えてしまう。そうだ、夏休みは伊織くんを旅行にでも誘ってみるか。
今ならきっと、どこにだって行ける。帰ってくる居場所があるって知れたから。
