七月に入り、気温は日々上がる一方だ。本格的な夏の到来を前に、周囲は長期休暇を見据えてどこかそわそわしている。それは俺たちも例外ではなく、今日は一足早い夏休みだ。休日を利用して、期末試験を無事終えたご褒美として海にやってきていた。もちろん、運転は吉見さんだ。
「お疲れさま、吉見さん。これ、そこの自販機で買っておきました」
吉見さんがバイクを置きにいっている間に買っておいた缶コーヒーを渡して、並んで飲む。こないだの灯台とはまた違った、熱い海風が頬を撫でる。
「今日は敬語なんだ」
「あ、あれは忘れてください! あの日は冷静じゃなかったって言うか、はしゃぎすぎました。ああいう子供っぽいところが素じゃないですからね、俺!」
まあ、あの緩みきった距離感で話せた日が一番楽だったのは否定しないけど。
「ははっあんな感じも可愛かったのに」
「可愛いっていうのやめてください。今日は大人な雰囲気で行くと決めてるんで」
かけているサングラスに指をかける。太陽の下で無防備にはしゃぎまわるのはお子様だ。できる大人は日光で目を焼かないようサングラスをかけるもの。うん、これで少なくとも中学生に間違われることはないはずだ。たぶん。
吉見さんの運転でやってきたのはあまり県外からの観光客には知られていない隠れスポットで、小さな入り江のようになっている。海は抜群の透明度で青空の色を湛えている。青い海という使い古されきった言葉がぴったりだ。慣用句は使い勝手が良いから慣用句になるのだな。
「こんなきれいな海、始めてです」
「だから言ったでしょ、水中撮影できるカメラ持っておいでって」
先輩が絶対損はさせないと言い張るので、今日は部の備品の水中カメラを持ってきている。面倒な申請書を書かされたけど、もう既にそんなことは気にならなくなっていた。
早速水着に着替えると、海に潜ってカメラを構える。周囲に人はいないからカメラも好きに向けられる。
海の世界は想像以上に美しかった。元々水というモチーフに惹かれている時期なんだけど、水のフィルターを通して世界を切り取るというやり方に大きな可能性を感じる。だって、水の中から陽光が乱反射する海面を見ているだけでもきっと今日一日飽きない。
「吉見さーん! こっち来て! すごいよ、海ってこんなに透明なことあるんだ!」
「はいはい、今行くよ」
水着姿の吉見さんはやっぱりライフガードでがっちり日光を防いでいたが、髪をまとめ上げて一本に結んでいるからいつもよりちょっと爽やかに見える。
「うーん、波の間からカメラを向けているやつがいると、平和な入り江が一気に物騒な感じになるな」
「言い方!」
先輩に抗議の意味を込めて水をかける。けれど先輩はそんなの全然意に介さないようにケラケラ笑っているばかりだ。
「一回沖まで行ってみようか。伊織くんは泳げる方?」
「まあ、そこそこは。でもあんまり遠くまではいきたくないです。万が一カメラ無くしたら怖いんで」
ストラップをつけて首から下げているとはいえ、あまり好き勝手すると何かあった時に恐い。楽しむけれど、あまり羽目は外さないようにしないとね。
「オーケー。じゃあちょうどいい感じのところまで」
吉見さんに続いて徐々に沖に向かっていく。なにせ水が透き通っているから、急に深みに足を取られることもない。沖合まで行くこともそれほど怖くはなかった。
「この辺りでちょうどいいかな。伊織くんもギリギリ頭が出せるよな?」
ギリギリ、という言われ方が引っかかるけど、地面に爪先立ちして辛うじて顎のあたりまで出せるくらいじゃそう言われても文句は言えない。どうせ見るのは海面じゃなくて海中だ、あまり気にするのはやめよう。
浜辺で撮った水中写真も良かったけど、こっちはもっとすごかった。さっきよりも深い分青が濃い。その一面の青の世界を貫くように光の柱が立っている。こんな光景。自分一人の探索範囲じゃ絶対に見つけられなかった。
「気に入った?」
息継ぎの為に海面に浮上すると、優しい笑顔を浮かべた吉見さんが出迎えてくれる。
「うん。最高!」
しまった、そうじゃない。大人っぽく大人っぽく……。油断するとつい砕けた言葉が出てきてしまう。きっと、年上の先輩に遊びに連れていってもらう、なんて経験が乏しいからこうなるんだ。実家で弟たちと接しているときにはどんなに楽しくたってこうはならない。
俺が油断した言葉遣いを恥ずかしく思っているのも、吉見さんはお見通しのようだ。胡麻化すように潜水して、水の世界を底へ底へと逃げていく。
吉見さんも俺を追いかけて潜水してきて、海底の自分と海面間際の吉見さんとで視線が絡み合う。
白い空を背景に、青の世界に浮く吉見さんは、見惚れてしまうくらい神秘的な美しさを纏っていた。いつもより身体のラインが出る服装だから、鍛えられているのもわかりやすい。
写真を撮らないと。
そんなことを考える前にカメラを吉見さんに向けていた。俺たちはまるで陸も空もなくなってしまったように、ただ青の世界に浮かんで互いの存在だけを確かめ合っていた。
思えば海の中に潜ったりなんかしなくても、ずっとずっと俺の心は浮ついていた。吉見さんと過ごしていると、どうしても地に足がつかない。自分が思っているような伊織航大という陸地から、ふわりふわりと浮かんでいってしまう。
吉見さんが海底の俺に手を伸ばす。やめて。そんなに優しい目で見ないでよ。俺を引っ張って、見たこともない世界に連れていこうとしないでよ。
だって、これ以上されたら俺、吉見さんから離れられなくなっちゃうよ。
「おい、大丈夫か?」
「……大丈夫じゃないかもです」
「マジか!?」
「え? ああいや。えーと、その、冗談です。」
「はあー、もうやめろよ。底の方にいると思ったら全然動かなくなったから冷や汗かいたぞ」
「すみません。ちょっと夢中になりすぎて酸欠気味になったかも。一旦浜まで戻りましょうか」
それからも、浜辺でとりとめもないことを話したり、気が向いたらまた沖に行って写真を撮ったり。二人きりの海水浴はあっという間に時間が過ぎていった。
日が傾き始めた頃合いで陸に上がり、日の暮れ始めた海を二人で眺める。
「あの、さ。俺も今日、伊織くんにお願いがあるんだよね」
「なんですか? 改まって」
吉見さんは神妙な顔つきで、この人らしくなく口元をもごもごさせていた。なんだろう。俺にできることならやってあげたい。
「その……もし嫌じゃなかったらなんだけど、俺の髪……切ってくんない?」
「俺で良いんですか?」
「うん。自分じゃ決心が鈍るから。たぶん美容院の予約入れてもサボっちゃいそうだ。ここで伊織くんにやってもらうのが一番すっきりする」
どういう心境で髪を切ろうとしたのかも、そこでなぜ俺が指名されたのかもわからない。けれど、吉見さんからの頼み事なんてこれが初めてだ。うん、断る理由はどこにもない。
「わかりました。鋏はありますか?」
「うん、バッグの中に入れてきた」
吉見さんがバッグから取り出した鋏を受け取ると後ろに回り込んで髪を撫でる。
「本当にいいんですか? なんだかもったいないな」
「良いんだよ。こだわって伸ばしたんじゃなくて、ただのものぐさだ。正直邪魔だったしな」
個人的には名残惜しかったけど、吉見さんの頼みなら断れない。髪に鋏を入れて少しずつ切っていく。
「前と横はどうします?」
「そっちは良いや。後ろだけばっさりやってくれれば後は自分でやれる」
「わかりました」
ただ髪を切るだけなのに、ある種の緊張感が漂っていた。どうして切るの、とか。聞いてみたかったのが本心だったけど、あえて何も聞きはしなかった。聞かせるべきと思ったタイミングで、きっと吉見さんはこっちが何も言わなくたって教えてくれる。
鋏を握り、黒い絹のような髪に手を伸ばす。
(あ、さらさらだ……)
同じ人間の髪の毛だと思えないくらい、触り心地が良い。ついつい手の内で髪の毛を遊ばせてしまう。
「はは、くすぐったいよ」
「あっ、ごめんなさい。なんだか触り心地良くて」
「ふふっなんだよそれ」
怒られる前に真面目にやろうと、一呼吸。なのに気が付くと余計な考えがまた頭をよぎる。そういえば、手以外で吉見さんに直で触れたのは初めてだな、とか。先輩も知らないような視点でこの人を見ているんだな、とか。
波の音としょき、しょき……という鋏の音が静かな入り江に響く。世界から切り離されたような、なんてあまりにも陳腐な言葉だけど、もしこの手の鋏で吉見さんと自分だけを切り取れるのだとしたら、俺はどうしていたかわからない。
初めは大変な作業だと思って取り掛かったけど、髪を切るなんて作業は案外すぐに終わってしまう。切った髪をビニール袋に捨てて、海に落ちないように纏めたらおしまいだ。
「えーっと。どうかな?」
髪を切った吉見さんが振り向く。まだ長いままの前髪が、夕日の下で揺らめいている。
『お前はもしその先輩サンが髪を切ってもグッときたのなら、本当に惚れてるんだと思うぜ』
こんなときにあいつの言葉を思い出すなんて。ああ、どうしよう。これが本当だって言うのなら、俺はもう確実に、言い訳しようがないくらい――吉見さんに惚れている。
それはきっと、あの日電車の中で初めてこの人に見つめられたときから。あの瞬間から、俺はどうしようもなくこの人に惹かれていた。
困ったなぁ。俺、吉見さんのことが好きだ。
「あれ、結構マズいかんじ? あーっと、別に伊織くんは気にしなくていいからね? 頼んだのは俺だし!」
俺が黙ってしまったせいで、吉見さんが俄かに焦りだす。一応は俺のことをフォローしてくれてるけど、出来栄えが気が気じゃないのかしきりに後ろ髪を触っている。
「ううん。変じゃないよ。でももうちょっと調整したいから、もう一度向こう向いてくれますか?」
「え? うんわかった、任せるよ」
吉見さんは何も疑わずに背中を向ける。その背中に額を押し当てて
(好きです。吉見さん)
言いたい。けど、言えない。言葉にすればきっと優しい吉見さんを困らせてしまうから。
何度も何度も、喉は振るわさずに舌と唇だけで、けっして伝わらない思いを口にする。
「伊織くん?」
さすがにおかしいと思ったのか、吉見さんが怪訝そうな声を上げる。
「……ああ、ごめんなさい。夕日が眩しくて。髪、俺の勘違いでした。これ以上は素人が切っちゃうと悲惨なことになりそうかな」
「そっか。ありがとう伊織くん」
吉見さんの屈託のない笑顔を見るだけで頬が緩みそうになる。これは本当に、どうしたらいいんだろう。自覚をしたら止まれない。
俺はこの後、この人にしがみついて家に帰るんだけど。大丈夫かな。家に着くまでに、心臓が爆発しないかな。
「あれ、伊織くん顔赤くない? ちゃんと日焼け止め塗った?」
「……あー。ちょっと、足りなかったかも」
「ははは。俺もバイクに乗り始めた頃にあったなー。顔のヘルメットが光通す部分だけ焼けちゃって。怖いよねぇ、日光って」
目元だけ日に焼けた吉見さんを想像するだけで帆をが緩むのを自覚する。待って、違う。バカ、いくらなんでも、これは頭が湯だちすぎだ。
「あーあ。やっぱりはしゃぎすぎちゃいました。怖いですね、夏って」
海を見て言うのは吉見さんの顔が見れないからか、あるいはこの顔を見せたくないからか。たぶんどっちも。
「でも、楽しかったろ? また来ようぜ」
まるで親が帰るのを渋る子に言い聞かせるように、吉見さんはそんなことを言う。肌が触れそうなほど近づいて、俺の頭まで撫でながら。髪切るのに上着脱いでるのをこの人は忘れているのか。いやいやいや、おかしいのはそんなことを気にする俺の方で。ていうか……次!? 次があるのか!? あったら俺は、どうなってしまうんだ!
「お、俺! もう一回潜って写真撮ってきます!」
「はあ!? おいバカ! もう日も暮れ始めてるんだからあぶねーって」
静止の声も聞かずに頭から海辺に突っ込む。大丈夫。もともと海に入るつもりなんてない。ただこの波で、頭を冷やしたかっただけだから。
「お疲れさま、吉見さん。これ、そこの自販機で買っておきました」
吉見さんがバイクを置きにいっている間に買っておいた缶コーヒーを渡して、並んで飲む。こないだの灯台とはまた違った、熱い海風が頬を撫でる。
「今日は敬語なんだ」
「あ、あれは忘れてください! あの日は冷静じゃなかったって言うか、はしゃぎすぎました。ああいう子供っぽいところが素じゃないですからね、俺!」
まあ、あの緩みきった距離感で話せた日が一番楽だったのは否定しないけど。
「ははっあんな感じも可愛かったのに」
「可愛いっていうのやめてください。今日は大人な雰囲気で行くと決めてるんで」
かけているサングラスに指をかける。太陽の下で無防備にはしゃぎまわるのはお子様だ。できる大人は日光で目を焼かないようサングラスをかけるもの。うん、これで少なくとも中学生に間違われることはないはずだ。たぶん。
吉見さんの運転でやってきたのはあまり県外からの観光客には知られていない隠れスポットで、小さな入り江のようになっている。海は抜群の透明度で青空の色を湛えている。青い海という使い古されきった言葉がぴったりだ。慣用句は使い勝手が良いから慣用句になるのだな。
「こんなきれいな海、始めてです」
「だから言ったでしょ、水中撮影できるカメラ持っておいでって」
先輩が絶対損はさせないと言い張るので、今日は部の備品の水中カメラを持ってきている。面倒な申請書を書かされたけど、もう既にそんなことは気にならなくなっていた。
早速水着に着替えると、海に潜ってカメラを構える。周囲に人はいないからカメラも好きに向けられる。
海の世界は想像以上に美しかった。元々水というモチーフに惹かれている時期なんだけど、水のフィルターを通して世界を切り取るというやり方に大きな可能性を感じる。だって、水の中から陽光が乱反射する海面を見ているだけでもきっと今日一日飽きない。
「吉見さーん! こっち来て! すごいよ、海ってこんなに透明なことあるんだ!」
「はいはい、今行くよ」
水着姿の吉見さんはやっぱりライフガードでがっちり日光を防いでいたが、髪をまとめ上げて一本に結んでいるからいつもよりちょっと爽やかに見える。
「うーん、波の間からカメラを向けているやつがいると、平和な入り江が一気に物騒な感じになるな」
「言い方!」
先輩に抗議の意味を込めて水をかける。けれど先輩はそんなの全然意に介さないようにケラケラ笑っているばかりだ。
「一回沖まで行ってみようか。伊織くんは泳げる方?」
「まあ、そこそこは。でもあんまり遠くまではいきたくないです。万が一カメラ無くしたら怖いんで」
ストラップをつけて首から下げているとはいえ、あまり好き勝手すると何かあった時に恐い。楽しむけれど、あまり羽目は外さないようにしないとね。
「オーケー。じゃあちょうどいい感じのところまで」
吉見さんに続いて徐々に沖に向かっていく。なにせ水が透き通っているから、急に深みに足を取られることもない。沖合まで行くこともそれほど怖くはなかった。
「この辺りでちょうどいいかな。伊織くんもギリギリ頭が出せるよな?」
ギリギリ、という言われ方が引っかかるけど、地面に爪先立ちして辛うじて顎のあたりまで出せるくらいじゃそう言われても文句は言えない。どうせ見るのは海面じゃなくて海中だ、あまり気にするのはやめよう。
浜辺で撮った水中写真も良かったけど、こっちはもっとすごかった。さっきよりも深い分青が濃い。その一面の青の世界を貫くように光の柱が立っている。こんな光景。自分一人の探索範囲じゃ絶対に見つけられなかった。
「気に入った?」
息継ぎの為に海面に浮上すると、優しい笑顔を浮かべた吉見さんが出迎えてくれる。
「うん。最高!」
しまった、そうじゃない。大人っぽく大人っぽく……。油断するとつい砕けた言葉が出てきてしまう。きっと、年上の先輩に遊びに連れていってもらう、なんて経験が乏しいからこうなるんだ。実家で弟たちと接しているときにはどんなに楽しくたってこうはならない。
俺が油断した言葉遣いを恥ずかしく思っているのも、吉見さんはお見通しのようだ。胡麻化すように潜水して、水の世界を底へ底へと逃げていく。
吉見さんも俺を追いかけて潜水してきて、海底の自分と海面間際の吉見さんとで視線が絡み合う。
白い空を背景に、青の世界に浮く吉見さんは、見惚れてしまうくらい神秘的な美しさを纏っていた。いつもより身体のラインが出る服装だから、鍛えられているのもわかりやすい。
写真を撮らないと。
そんなことを考える前にカメラを吉見さんに向けていた。俺たちはまるで陸も空もなくなってしまったように、ただ青の世界に浮かんで互いの存在だけを確かめ合っていた。
思えば海の中に潜ったりなんかしなくても、ずっとずっと俺の心は浮ついていた。吉見さんと過ごしていると、どうしても地に足がつかない。自分が思っているような伊織航大という陸地から、ふわりふわりと浮かんでいってしまう。
吉見さんが海底の俺に手を伸ばす。やめて。そんなに優しい目で見ないでよ。俺を引っ張って、見たこともない世界に連れていこうとしないでよ。
だって、これ以上されたら俺、吉見さんから離れられなくなっちゃうよ。
「おい、大丈夫か?」
「……大丈夫じゃないかもです」
「マジか!?」
「え? ああいや。えーと、その、冗談です。」
「はあー、もうやめろよ。底の方にいると思ったら全然動かなくなったから冷や汗かいたぞ」
「すみません。ちょっと夢中になりすぎて酸欠気味になったかも。一旦浜まで戻りましょうか」
それからも、浜辺でとりとめもないことを話したり、気が向いたらまた沖に行って写真を撮ったり。二人きりの海水浴はあっという間に時間が過ぎていった。
日が傾き始めた頃合いで陸に上がり、日の暮れ始めた海を二人で眺める。
「あの、さ。俺も今日、伊織くんにお願いがあるんだよね」
「なんですか? 改まって」
吉見さんは神妙な顔つきで、この人らしくなく口元をもごもごさせていた。なんだろう。俺にできることならやってあげたい。
「その……もし嫌じゃなかったらなんだけど、俺の髪……切ってくんない?」
「俺で良いんですか?」
「うん。自分じゃ決心が鈍るから。たぶん美容院の予約入れてもサボっちゃいそうだ。ここで伊織くんにやってもらうのが一番すっきりする」
どういう心境で髪を切ろうとしたのかも、そこでなぜ俺が指名されたのかもわからない。けれど、吉見さんからの頼み事なんてこれが初めてだ。うん、断る理由はどこにもない。
「わかりました。鋏はありますか?」
「うん、バッグの中に入れてきた」
吉見さんがバッグから取り出した鋏を受け取ると後ろに回り込んで髪を撫でる。
「本当にいいんですか? なんだかもったいないな」
「良いんだよ。こだわって伸ばしたんじゃなくて、ただのものぐさだ。正直邪魔だったしな」
個人的には名残惜しかったけど、吉見さんの頼みなら断れない。髪に鋏を入れて少しずつ切っていく。
「前と横はどうします?」
「そっちは良いや。後ろだけばっさりやってくれれば後は自分でやれる」
「わかりました」
ただ髪を切るだけなのに、ある種の緊張感が漂っていた。どうして切るの、とか。聞いてみたかったのが本心だったけど、あえて何も聞きはしなかった。聞かせるべきと思ったタイミングで、きっと吉見さんはこっちが何も言わなくたって教えてくれる。
鋏を握り、黒い絹のような髪に手を伸ばす。
(あ、さらさらだ……)
同じ人間の髪の毛だと思えないくらい、触り心地が良い。ついつい手の内で髪の毛を遊ばせてしまう。
「はは、くすぐったいよ」
「あっ、ごめんなさい。なんだか触り心地良くて」
「ふふっなんだよそれ」
怒られる前に真面目にやろうと、一呼吸。なのに気が付くと余計な考えがまた頭をよぎる。そういえば、手以外で吉見さんに直で触れたのは初めてだな、とか。先輩も知らないような視点でこの人を見ているんだな、とか。
波の音としょき、しょき……という鋏の音が静かな入り江に響く。世界から切り離されたような、なんてあまりにも陳腐な言葉だけど、もしこの手の鋏で吉見さんと自分だけを切り取れるのだとしたら、俺はどうしていたかわからない。
初めは大変な作業だと思って取り掛かったけど、髪を切るなんて作業は案外すぐに終わってしまう。切った髪をビニール袋に捨てて、海に落ちないように纏めたらおしまいだ。
「えーっと。どうかな?」
髪を切った吉見さんが振り向く。まだ長いままの前髪が、夕日の下で揺らめいている。
『お前はもしその先輩サンが髪を切ってもグッときたのなら、本当に惚れてるんだと思うぜ』
こんなときにあいつの言葉を思い出すなんて。ああ、どうしよう。これが本当だって言うのなら、俺はもう確実に、言い訳しようがないくらい――吉見さんに惚れている。
それはきっと、あの日電車の中で初めてこの人に見つめられたときから。あの瞬間から、俺はどうしようもなくこの人に惹かれていた。
困ったなぁ。俺、吉見さんのことが好きだ。
「あれ、結構マズいかんじ? あーっと、別に伊織くんは気にしなくていいからね? 頼んだのは俺だし!」
俺が黙ってしまったせいで、吉見さんが俄かに焦りだす。一応は俺のことをフォローしてくれてるけど、出来栄えが気が気じゃないのかしきりに後ろ髪を触っている。
「ううん。変じゃないよ。でももうちょっと調整したいから、もう一度向こう向いてくれますか?」
「え? うんわかった、任せるよ」
吉見さんは何も疑わずに背中を向ける。その背中に額を押し当てて
(好きです。吉見さん)
言いたい。けど、言えない。言葉にすればきっと優しい吉見さんを困らせてしまうから。
何度も何度も、喉は振るわさずに舌と唇だけで、けっして伝わらない思いを口にする。
「伊織くん?」
さすがにおかしいと思ったのか、吉見さんが怪訝そうな声を上げる。
「……ああ、ごめんなさい。夕日が眩しくて。髪、俺の勘違いでした。これ以上は素人が切っちゃうと悲惨なことになりそうかな」
「そっか。ありがとう伊織くん」
吉見さんの屈託のない笑顔を見るだけで頬が緩みそうになる。これは本当に、どうしたらいいんだろう。自覚をしたら止まれない。
俺はこの後、この人にしがみついて家に帰るんだけど。大丈夫かな。家に着くまでに、心臓が爆発しないかな。
「あれ、伊織くん顔赤くない? ちゃんと日焼け止め塗った?」
「……あー。ちょっと、足りなかったかも」
「ははは。俺もバイクに乗り始めた頃にあったなー。顔のヘルメットが光通す部分だけ焼けちゃって。怖いよねぇ、日光って」
目元だけ日に焼けた吉見さんを想像するだけで帆をが緩むのを自覚する。待って、違う。バカ、いくらなんでも、これは頭が湯だちすぎだ。
「あーあ。やっぱりはしゃぎすぎちゃいました。怖いですね、夏って」
海を見て言うのは吉見さんの顔が見れないからか、あるいはこの顔を見せたくないからか。たぶんどっちも。
「でも、楽しかったろ? また来ようぜ」
まるで親が帰るのを渋る子に言い聞かせるように、吉見さんはそんなことを言う。肌が触れそうなほど近づいて、俺の頭まで撫でながら。髪切るのに上着脱いでるのをこの人は忘れているのか。いやいやいや、おかしいのはそんなことを気にする俺の方で。ていうか……次!? 次があるのか!? あったら俺は、どうなってしまうんだ!
「お、俺! もう一回潜って写真撮ってきます!」
「はあ!? おいバカ! もう日も暮れ始めてるんだからあぶねーって」
静止の声も聞かずに頭から海辺に突っ込む。大丈夫。もともと海に入るつもりなんてない。ただこの波で、頭を冷やしたかっただけだから。
