「いい加減、髪切んないの? うっとうしくない?」
リンちゃんが俺の髪をぐしゃぐしゃと撫でまわしながら言う。チッ……酔ってるなこの人。
「あーもう触るなって酔っ払い」
「何よーあたしにばっかり。ここにいるのはみんな酔っ払いじゃない」
「でも人の髪の毛掴んで遊んでる人はあんただけですー」
俺の髪の毛を掴んで毛先を振り回し、意味もなく笑いだす。お酒って怖い。
梅雨に入って夜も蒸し暑くなってきた。俺は夜の湿気の不快さか、あるいは伊織くんに絆されたか、最近は夜遊びの頻度が減ってきていた。
そんなある夜、珍しくリンちゃんから呼び出されたからバイクを飛ばして来てみたら……これだ。何があったのか知らないけれど、本人の名誉のためになるべく早く連れ帰ろう。
「ほら帰るぞ。だいたい、未成年をバーに呼びつけるなっての」
バーのマスターの生暖かい視線が突き刺さる。ご迷惑をおかけしています。
「りゅーじーん……あたし、振られちゃったー」
「……は?」
「フラれたの。彼氏に。俺のこと本当に好きなの? って。あたし、ちゃんと好きだったんだけどな」
グラスを握ったままぽつりとつぶやく。なんで俺にそんな話を。
「あたしが暇さえあれば店番してるのが嫌なんだって。仕方ないじゃん、あそこも大事な場所なんだから。それで恋人を蔑ろにした気はないのに」
これは、本気でへこんでいるな。それでやけ酒、と。無理に連れ帰っても良いけど、こういうときはやっぱり、吐き出させた方がいいのか?
観念してため息をつく。仕方がない、これも去年の恩返しだ。愚痴に付き合おう。
「はー……。すみません、ノンアルコールで出せるメニューありますか?」
注文を適当に済ませてリンちゃんの隣に腰を下ろす。
「リンちゃんでもやけ酒するんだ」
「はじめてやってみた。案外楽しくもないし、辛いことを忘れられるわけでもないね」
「ふーん……。まあ、向いてなさそうだなって思う。やけっぱち、みたいなのって」
俺にとってのリンちゃんは明るくて強いお姉さんで、ガキの頃は自分たちのように悩んだりしないんだって、半ば本気で思っていた。今ではさすがにリンちゃんだって疲れたり落ち込んだり、怒ったりする日があることを理解はしている。けれどここまで打ちのめされた姿と言うのは、想像ができなかったというのが正直なところだ。
「やめちゃえばよかったんじゃないの」
「何を?」
「駄菓子屋の店番。だって、あれって実質ボランティアでしょ? おばちゃんだって、無理に続けてほしいとは思ってなかったよ」
あの駄菓子屋は確かに思い出深い場所だ。けれど思い出に縛られちゃ本末転倒だ。おばちゃんだって言っていた。いつまでもあそこにはいられないと。
「そうなんだけど、ね……」
「何か問題がある?」
「ううん。ない。でもさ……後悔はしたくないんだよね。もし今あの場所を離れたら、きっと後悔するから」
グラスに入った液体をグイッとあおる。俺はお酒の名前なんて知らないけれど、あまり強いものを飲んでいないといいんだけど。
「あたし別に思い出深いとか、おばちゃんが心配とか、そういう理由で店にいるんじゃないよ」
「じゃあなんで」
俺が聞こうとする前に、リンちゃんはカクテルの中にあった果物をひょいと俺の唇に押し付ける。
「君たち」
「あの、これ、お酒入ってるんじゃ」
そりゃそうだわ。と俺に押し当てた果物を自分で一口。そして続ける。
「あそこの客はみんなあたしのきょうだいなの。あたしの知らない世界を教えてくれる兄ちゃん、姉ちゃん。自分の世界が広がったことを嬉々として伝えに来てくれる弟妹。あそこに来てくれるみんなが大事。あの場所はね、あたしにとって誇りなんだ」
誇り。
口に出してみる。突然そんなことを聞かされても、なんて言えばいいのかわからないよ。
「そりゃあ、良いことばかりじゃないよ? 小学生なんてすぐもの壊すし、買った菓子地面に落として泣くし。誰かさんは怪我して拗ねちゃうし。相手するのはもう大変なんだから」
「拗ねてなんか」
「拗ねてたろ。でもいいんだ、それで。足を止めないでくれればいい。学校でちょっと落ち込んだりするときもあるけど、お菓子を食べて遊んで、また元気に明日を迎えられる。そういう、子供たちの強さがあたしは誇らしいの。誇らしいものだから、譲れない。
「……悪いけど、俺はそこまで強くなんか」
「ばーか。あたしが一番目をかけてる弟分だぞ? 呼べば来れるようにバイクまであげたんだから。気に入ってないわけないでしょ?」
またリンちゃんが髪を弄り回す。
「だからそれやめてって」
「はいはい、色気づいちゃって。でも話せてよかったー! なんかすっきりした。結局あたし、フラれたことよりも駄菓子屋に嫉妬する男にもやもやしてたんだなって」
その後も今どき束縛強い男はない。会えないくらいでピーピー騒ぐな。などの彼氏への不平不満が洪水のようにあふれ出す。
「リンちゃんさあ。その彼氏さん? 好きだったんじゃないの」
「好きだからこそよ。好きな人に好きなものを否定されたらムカつくでしょー。俺より子供の相手がしたいのかって。全然別だろっ」
「はいはい。わかったから……お水飲んでね」
酔っ払いの対処法ってこれでいいんだろうか。とりあえず、これ以上アルコールを摂取されるよりはいいんだろうけど。
「琉仁は、弱くなんかないよ。ただちょっと、臆病かもしれないけどね」
「なんだよ、急に」
「見てる人はいるんだよってこと。それで、君も誰かを見ててあげて。そうしていれば、悪いようにはならないから」
どういう意味? って聞こうとしたけれど、リンちゃんの言葉の真意を聞くことはできなかった。だって――
「ちょっと、寝ないでよ!? 俺明日爺ちゃんの仕事手伝わなきゃいけないから、深夜まで付き合えないよ!?」
お節介で世話の焼けるお姉さんは、言いたいことだけ言うとすやすやと夢の世界に繰り出してしまった。困り果てた俺はバーのマスターにタクシーを呼んでもらい、リンちゃんを家まで送り届けた。財布の中にちゃんとお金が入っていてよかった。
……誇らしいもの、か。
俺が誰かに「誇ってもらえるような人間だとは、とうてい思えない。自分にとってそうと言えたものは、全て手からすり抜けていってしまった。
「琉仁、お前仕事の価値ってのはどうやって決まってるか知ってるか」
それが爺さんの口癖だった。何度も聞かされれば嫌でも覚えるっつーのに、爺さんは返事を待たずにしゃべり続ける。
「仕事ってのは、要は全て生産活動の代行だ。食料を作れない者の為に食料を作り対価を得る。手元に木材がない人の為に木を伐り加工して届けてやる。突き詰めると、金銭を得るって行為はみんなそれだ。そして、ライバルは少なければ少ないほどいい。儲けはその分大きくなる」
「じゃあ、どうやってライバルが少ない仕事を見つけるの」
幼い俺が応える。
「良い質問だ。ライバルが少ない職業。それはスキルのいる仕事だ。簡単にはできないことや、訓練を積まないと危険なもの。自分の時間全てを捧げてもまだ足りないほど努力が必要なもの。そういう仕事と出会えりゃ、幸福な人生だな」
「うーん……でもそれって辛くない? ずっとずっと頑張り続けるなんて、大変だよ」
「そうだな。努力が苦にならないものなんてのはない。けれど苦しみさえ喜びに思える仕事ってのもあるもんだ。例えば、石売りとかな」
そう言って、爺さんは自分の仕事がいかに魅力的かを語るんだ。石は生死を超えて人と人を繋ぐもの。そして、人は皆いつか死ぬのだから、需要がなくなることはない。永遠に廃業することのない仕事だと。
けれど、今では爺さんのこの言葉は幼い孫に対する見栄だったのだと理解している。葬儀のあり方は爺さんの若い頃と比べて様変わりし、今では個人の墓石屋も廃業が後を絶たない時代だ。
それがわかっているから、爺さんは三人いる子供の誰にも跡は継がせなかった。今ではただ、昔のお得意さんの為だけに看板を掲げているに過ぎない。どれだけ努力しても、その苦しみごと愛せる天職。そんなものは、たとえ一時見つけられてもすぐにこの手からすり抜けていく。
時代に取り残された仕事を幽霊のように続けている爺さんは、バスケに見放されて、でもまだしがみついている俺とどこか似ている気がする。
なあ、爺さん。もう先がないってわかっていることに縋り続けるのは、どんな仕事より辛くないか? 俺は……正直もう、辛くて辛くて泣きだしたいくらいなんだ。
どんなに声をかけ続けても、記憶の中の爺さんは何も答えてくれなかった。
「悪いな、琉仁。最近歳でよ、だいぶ体にガタが来た」
「いいよ、別に。食わせてもらってるんだし働かないとね」
「なんだ、そんなこと気にしてんのか? まだ高校生なんだ、ちょっとくらい休んだって良いだろうよ。そんなこと気にすんなら、その髪どうにかして来い」
「うっせ。つーか爺さんはそろそろ引退しろよ。運転中に腰でもやったら事故るぞ」
今日も旧い客から墓石の手入れを頼まれたとかで、爺さんは俺を連れて炎天下の墓地で仕事をしたところだ。まだ軽トラの運転はできないので役に立つ場面はせいぜいが荷物持ちだが、本当なら運転も変わってやりたい。
「そういやぁ今日は伊織くんは体育祭だっけなあ。見に行ってやんないのか」
「そんな保護者参観じゃないんだから」
だいたい、下手に体育祭なんかに顔を出したら巻き込まれかねない。下手すりゃリレーなんか走らされる。これでも療養中なんで、それは勘弁願いたい。
「そうかぁ? あの子、お前に懐いてるじゃねえか。行ってやったら喜ぶと思うぜ?」
……喜んでくれる、か。
「そう言われて、ノコノコやってくる俺も、どうかしてるよな」
顔を隠すためにつけた厚いマスクの下でひとりごちる。体育祭はもう終盤だったが、騎馬戦はクライマックスを飾る花形競技。終わっていないなら間に合ったってことだ。人ごみをかき分けて保護者参観席からグラウンドの様子を伺う。
「……あ、伊織くん」
もう残っている騎馬が少なかったのもあるが、不思議と探さずに伊織くんを見つけることができた。状況は……あまり良くない。けど見るからに相手は油断しているから、伊織くんにだって勝ち目はあるはずだ。
「伊織くーん! 大丈夫だ! やってやれー!」
本当は声を出すのは知り合いに見つかるリスクがあるけど。でもせっかく来たのに後輩の頑張りに声の一つもかけられないんじゃ先輩としてあまりにも薄情だ。気が付くと、目一杯の応援を込めて伊織くんにエールを送っていた。
次の瞬間、伊織くんは跳ねて敵の鉢巻きを奪った。この展開にオーディエンスも歓声を上げる。一年が三年の騎馬を負かすなんて展開は滅多に起きない珍しいことだ。
「やった! やったよ吉見さん!」
あのバカ、嬉しいのはわかるけど名前を呼ぶなよ!
伊織くんの言葉に、にわかに周囲がざわめきだす。まずい、女子の何人かがこっちを見ている。今のところ知っている顔はないが、女子ってどういう繋がりがあるかわからない。知り合いに捕まったら面倒だ、逃げよう。
本当はすぐに伊織くんを労いたかったけど、仕方がない。おめでとうは、バイクに乗せてやるときだ。
「クラスの打ち上げに行かないでこっちを選んだの?」
「うん! だって吉見さん、せっかく来てくれたのに帰っちゃうんだもん」
「そりゃお前のせいだ。わざわざ変装したのに、名前を呼ぶから気づかれたんだ」
「そっか、ごめん!」
ご褒美はてっきり後日だと思っていたが、体育祭から直帰してきた伊織くんにねだられた俺はこうして深夜の国道でバイクを走らせている。行き先のリクエストを聞いたが「吉見さんの好きな場所」と言われてしまったので、走らせながら考えている最中だ。自分から乗せてくれって言ったくせに、行きたい場所を考えてないってどういうことだコラ。
「すごーい! 気持ちいいね、バイクで走るのって」
「だろ? 自分で運転するともっとハマるよ」
……まあ、伊織くんが楽しそうならいいか。
特に目的地を定めず海の方へ向かっていたが、伊織くんはそういうところ好きかな。カメラが好きみたいだし、わかりやすい撮影スポットがあった方がいいか。
普段は考えないようなことをぐるぐると考えながら運転する自分がなんだかおかしい。そもそも免許を取ったのは時間ができて暇だったというのもあるが、バイクに乗れば面倒なことを考えずに済みそうと思ったのが理由だ。たしかに初めのうちはバイクに乗っている間はバスケのことや将来のことについての悩みから逃げ出せたような気分になった。このまま走り続ければ、自分はあらゆるしがらみを振り払って自由になれる。そんな気すらしていた。
けれどそんな幻想は、国道の横の路線を走る電車が軽々と俺を追い抜いていったのを見て萎んで消えた。俺が自由になれると思い込んでいた速度は、せいぜいその程度でしかなかったんだ。
結局だらだらと海まで走ってきてしまったので、海沿いの灯台にやってきた。一瞬男二人でデートスポットというのはどうなのかと思いはしたけど、まあいいだろ。走ること自体を楽しんでいたし、ここはオマケだ、オマケ。
「綺麗だねー。吉見さん、ここ来たことあるの?」
「いや、初めてだ。こういう場所があるってのは知ってたけど」
「そっか。俺てっきり前に彼女と来たのかと思った」
「どっから出てきたんだよ彼女。いねぇよ」
「えーそうなの? モテそうなのに、バスケ部」
伊織くんはかなりはしゃいでいるのか普段より言葉が砕けてて、ちょっと幼い印象を受ける。こういう話も今までしたことがなかったのに今日は随分と掘り下げようとしてくるものだ。
「練習きつすぎると時間空けられないからな。中学の時はそれで自然消滅」
「なーんだ、やっぱりいたんじゃん彼女」
「うーん、あれ彼女って言うのか? 一応そういうことになってるけど、付き合っていた実感まるでないぞ」
周りに囃し立てられてくっついただけのおままごと。正直カウントするのも馬鹿らしいと思っている。高校に行ってる間は忙しくてそれどころじゃなかったし、行かなくなったらまた別の意味で恋愛どころではない。今はあまり、そういうことは考えていない。
「あの後さ、なんで俺が吉見さんのこと知ってるんだって、知らない先輩から色々聞かれたんだ。その中に女子多かったから、モテてるのかなーって」
「モテるモテないじゃなくて、単純に俺が消息不明だから興味を引いただけだろ。それで、なんか言ったの?」
「ううん、迷惑になると思ったから黙ってた」
伊織くんは賢い子だから、俺が消えたことで色々察したのだろう。律儀に口を堅くしてくれたのは助かるが、きっと今頃携帯には山のようにメッセージが入っている。電源は高校の敷地を出てすぐに切っておいた。
「そうか、それは助かる。でも別にちょっとくらい喋ったってかまわないよ」
「うーん……でも、あんまり人に言ったりはしたくないかな」
「なんで?」
「だって、吉見さんとこうして出かけてるの、俺たち以外に誰も知らないわけでしょ? そういう秘密の共有って、なんだかワクワクしません?」
「うーん、ワクワクねぇ……するか?」
「吉見さんノリ悪い」
「ノリが良けりゃ学校からドロップアウトなんてしてねぇよ」
「それどういう関係あるの?」
「よく考えたら、別に関係ないか」
伊織くんが噴き出すのを見て、俺も釣られて笑ってしまう。これだけ笑ってくれるなら連れてきた甲斐もあったか。
二人で笑っていたら、灯台が突然輝きだした。たぶん、時間になったら点灯するイルミネーションなんだろう。
「お、なんか始まったな。写真撮ってみたら?」
「うんん。やってみる」
背中を押したら、楽しそうにカメラを向けて駆け回り始めた。俺は長い運転で多少気も張りつめていたので、ベンチに腰を下ろして一息つく。電飾がギラギラしていて落ち着かないが、座れるだけでだいぶ緊張も解れる。
伊織くんは様々な角度からライトアップされた灯台を撮っている。その様はまるで小動物のようだ。いや、よく考えたら俺の前ではいつもこんなか。じゃあ、俺以外の前での伊織くんはどんな感じなんだろう。
少なくとも今日は年長相手に果敢に挑んで勝利した姿を見ている。案外こんな可愛げは俺の前くらいでしか見せないのかも……って、何考えてるんだろう俺。
「吉見さん、写していいですか?」
あれだけ撮ってまだ満足してないのか、戻ってきた伊織くんは俺まで撮ろうとしてくる。
「なんで俺なんだよ。ほかにもっと撮るべきものあるだろ」
「ううん。俺、吉見さんが撮りたい」
いつになく真剣な表情で見てくるから、つい頷いてしまう。潮風が髪を揺らすせいで被写体としてはイマイチだろうに、伊織くんは構わずシャッターを切ってくる。
「おい。写すならもうちょい良いタイミングで写してよ。髪ぐしゃぐしゃだって」
「大丈夫だよ。吉見さん、すごくきれいだから」
きれい、なんて言われて一瞬思考がフリーズする。何言ってるんだと思ったけど、きっと伊織くんはイルミネーションのことを言っているんだろう。
その後にも何回かシャッターを切り、伊織くんはやっと満足げに頷いた。
「うん。本当にきれいだ」
「満足したか? じゃ、そろそろ帰ろう。伊織くんも今日は疲れてるだろ」
「うん、ちょっと惜しいけど、また来れるもんね」
「おい、また俺の後ろにくっついてくるつもりか?」
「……ダメ?」
そうやって来られると、つい甘やかしてしまいたくなる。ここで調子にのんなとあしらってもきっと、せがまれればまた後ろにのっけてしまうんだろう。
「考えとくよ」
「うん、ありがとう吉見さん!」
バイクのエンジンを駆けながらふと、家に帰ったらこの砕けた口調の伊織くんもおしまいなのかな、なんてことを考える、それは少しだけ、寂しいかもしれない。
伊織くんと部屋の前で別れて自室に帰ってきた。後ろに人を乗せて往復距離を運転するとさすがに疲れる。心地良い疲労感に身を任せてこのまま眠ってしまいたいところだけど、そういうわけにもいかないだろう。俺は一度深呼吸すると、今まで切っていた携帯の電源を入れなおす。
「あー……来てるなぁ」
仲の良かった友人やバスケ部の連中から大量のメッセージが届いている。一つずつ相手してたらきりがないから、特に仲が良かった一人を選んで電話をかけることにした。
「元気かな、加賀」
この前、一瞬だけ見た横顔は一年前から少しも変わっていなかった。けれど、加賀には俺が勝手をしたことでかなり苦労を掛けたはずだ。加賀に対しては同じ中学出身故の甘えがどうしても抜けきれない。
「……ルニか」
加賀はすぐに電話に出た。ルニと言うのは、ごく親しい友人だけが使う俺のあだ名だ。
「よう。なんかすごいことになってたみたいだから、お前にだけは連絡しとこうと思って」
「凄いことになってるのはこっちもだよ。お前、本当に今日来てたのか?」
「まあね。今ウチで世話焼いてる後輩がいてさ。その子の為にふらっと寄っただけ。実際にいたのは十分ほどだよ」
「ふらっと寄ったにしてはばっちり顔隠してたって噂だけど」
「そりゃあ隠すでしょ。先生に見つかると面倒だしね」
「面倒なのは俺たちに見つかるのもじゃないのか」
そういう答えにくい質問、振ってくるなよ。
俺が黙っていたせいで、しばらく沈黙が続く。それが答えだよ、って言いたいけれど、加賀はきっと黙っていちゃ何もわからねえよと言うのだろう。そういう誤魔化しを加賀は殊更に嫌うのだ。
「まだ戻ってくる気はないのか」
沈黙にしびれを切らしたのか、加賀が再び口火を切った。
「まだっていうか、二度とっていうか」
「嘘だな。自分でも迷っているようなことを断言するな。腹が立つ」
はあ。お互いを知っているって、本当にタチが悪い。俺がいまだユニフォームも捨てられないのをわかっているんだ、こいつは。
「怪我はどうなんだ」
「ああ……たぶん、無理をしなければプレーはできると思う」
「そうか……それは、良かったよ」
ここで初めて、少しだけ雰囲気が砕けた。けれど、加賀。無理をしなければ、なんていうのはありえない話なんだよ。常に限界値を超えていくことで自らを高めていくのがスポーツだ。いざという時に無理を押せない選手に周りは誰も期待しない。
「俺は、お前に戻ってきてほしい。プレイヤーじゃなくてもいい。お前が支えてくれれば、チームはより上を目指せる。お前があの一年に目をかけてるのはわかった。でも、お前が見なきゃいけない後輩は他にいるだろ。あいつじゃない」
加賀の言葉に、一瞬頭がカッとなる。なんだよそれ。勝手なこと言いやがって。コートの外から俺が、どんな気持ちで仲間の活躍を見ていたと思ってるんだ。だいたい、なんで俺が付き合う後輩まで指図されなきゃならないんだ。
そんな激情が噴出しかけるが、言いたいことが沸騰して溢れそうなときに限って口は動かない。
「俺たち、絶対に全国行こうって話したよな。俺は正直無理だって思ってたけど、周りに本気で期待されてるお前がいたから信じれたんだ。お前、あの頃の俺らに今の自分を誇れるのか?」
「誇れるって言ったらびっくりするだろ」
「ああ、たぶん今すぐ殴りに行くだろうな。笑えねえわ、マジで」
「……ごめん」
「何に対してのだよ」
「なんかもう、いろいろ。……ほんとごめん」
なんだか嫌になって、通話を切ってしまいたくなる。けれどそうしないのは、最後に残った意地のようなものだ。ここで一方的に会話を打ち切ったら、俺は加賀の中で本当に死んでしまう。
それは、友人に対してはしたくない仕打ちだ。
「俺は知ってるよ。お前はどこまで腐ったって、バスケだけは裏切れない。だから待ってる。俺の知っている吉見琉仁は、そういうヤツだから」
これ以上言葉を交わしたところで平行線だと悟ったようで、加賀は最後にそれだけ言うと通話を切った。終わってしまえば、本当に呆気ない会話だった、
――誇れるもの、ね。
あの頃、確かに俺にはそれがあった。自分の力で未来を切り拓いているという確かな自覚が誇らしかった。
じゃあ、今は?
誇らしいもの、と考えてると、ふと伊織くんの顔が浮かんだ。あの頃の自分みたいに、愚直に自分の好きなことを追いかけている。
夜、寝るまでのわずかな時間。隣で楽しそうに写真に込めた思いや、構図の意図を話してくれる姿はもうすっかり目に馴染んでしまった。
伊織くんの愚直さは言葉にもちょくちょく表れている。時折自分に向けられる「かっこいい」とか「大人っぽい」みたいな称賛はまさにそれだ。思ったことをストレートに表現できるのは彼の良いところだ。以前上手く絵を描けなくて悔しい思いをしたというのも関係があるんだろう。恥ずかしいような言葉だとしても自分の感性を表に出すことの方が、出せずに苦しむことよりよほど良いということだ。
そうか、昨日のリンちゃんの気持ちが少しは理解できたかもしれない。伊織くんが楽しそうにしてくれていたら――それだけで俺も、なんだか誇らしいかもしれない。自分に嘘をつかない生き方ができている後輩は誇らしい。だから、あんな風に言葉をまっすぐぶつけられると、冗談だろうといなすこともできやしない。
「なんだよ、きれいって……」
考えないといけないことは山ほどあるのに、思い出さなくて良いことを思い出す。ひどく疲れているはずなのに、今夜は眠れそうな気がしない。
胸に燻るこの熱は、きっと梅雨の寝苦しさのせい。
リンちゃんが俺の髪をぐしゃぐしゃと撫でまわしながら言う。チッ……酔ってるなこの人。
「あーもう触るなって酔っ払い」
「何よーあたしにばっかり。ここにいるのはみんな酔っ払いじゃない」
「でも人の髪の毛掴んで遊んでる人はあんただけですー」
俺の髪の毛を掴んで毛先を振り回し、意味もなく笑いだす。お酒って怖い。
梅雨に入って夜も蒸し暑くなってきた。俺は夜の湿気の不快さか、あるいは伊織くんに絆されたか、最近は夜遊びの頻度が減ってきていた。
そんなある夜、珍しくリンちゃんから呼び出されたからバイクを飛ばして来てみたら……これだ。何があったのか知らないけれど、本人の名誉のためになるべく早く連れ帰ろう。
「ほら帰るぞ。だいたい、未成年をバーに呼びつけるなっての」
バーのマスターの生暖かい視線が突き刺さる。ご迷惑をおかけしています。
「りゅーじーん……あたし、振られちゃったー」
「……は?」
「フラれたの。彼氏に。俺のこと本当に好きなの? って。あたし、ちゃんと好きだったんだけどな」
グラスを握ったままぽつりとつぶやく。なんで俺にそんな話を。
「あたしが暇さえあれば店番してるのが嫌なんだって。仕方ないじゃん、あそこも大事な場所なんだから。それで恋人を蔑ろにした気はないのに」
これは、本気でへこんでいるな。それでやけ酒、と。無理に連れ帰っても良いけど、こういうときはやっぱり、吐き出させた方がいいのか?
観念してため息をつく。仕方がない、これも去年の恩返しだ。愚痴に付き合おう。
「はー……。すみません、ノンアルコールで出せるメニューありますか?」
注文を適当に済ませてリンちゃんの隣に腰を下ろす。
「リンちゃんでもやけ酒するんだ」
「はじめてやってみた。案外楽しくもないし、辛いことを忘れられるわけでもないね」
「ふーん……。まあ、向いてなさそうだなって思う。やけっぱち、みたいなのって」
俺にとってのリンちゃんは明るくて強いお姉さんで、ガキの頃は自分たちのように悩んだりしないんだって、半ば本気で思っていた。今ではさすがにリンちゃんだって疲れたり落ち込んだり、怒ったりする日があることを理解はしている。けれどここまで打ちのめされた姿と言うのは、想像ができなかったというのが正直なところだ。
「やめちゃえばよかったんじゃないの」
「何を?」
「駄菓子屋の店番。だって、あれって実質ボランティアでしょ? おばちゃんだって、無理に続けてほしいとは思ってなかったよ」
あの駄菓子屋は確かに思い出深い場所だ。けれど思い出に縛られちゃ本末転倒だ。おばちゃんだって言っていた。いつまでもあそこにはいられないと。
「そうなんだけど、ね……」
「何か問題がある?」
「ううん。ない。でもさ……後悔はしたくないんだよね。もし今あの場所を離れたら、きっと後悔するから」
グラスに入った液体をグイッとあおる。俺はお酒の名前なんて知らないけれど、あまり強いものを飲んでいないといいんだけど。
「あたし別に思い出深いとか、おばちゃんが心配とか、そういう理由で店にいるんじゃないよ」
「じゃあなんで」
俺が聞こうとする前に、リンちゃんはカクテルの中にあった果物をひょいと俺の唇に押し付ける。
「君たち」
「あの、これ、お酒入ってるんじゃ」
そりゃそうだわ。と俺に押し当てた果物を自分で一口。そして続ける。
「あそこの客はみんなあたしのきょうだいなの。あたしの知らない世界を教えてくれる兄ちゃん、姉ちゃん。自分の世界が広がったことを嬉々として伝えに来てくれる弟妹。あそこに来てくれるみんなが大事。あの場所はね、あたしにとって誇りなんだ」
誇り。
口に出してみる。突然そんなことを聞かされても、なんて言えばいいのかわからないよ。
「そりゃあ、良いことばかりじゃないよ? 小学生なんてすぐもの壊すし、買った菓子地面に落として泣くし。誰かさんは怪我して拗ねちゃうし。相手するのはもう大変なんだから」
「拗ねてなんか」
「拗ねてたろ。でもいいんだ、それで。足を止めないでくれればいい。学校でちょっと落ち込んだりするときもあるけど、お菓子を食べて遊んで、また元気に明日を迎えられる。そういう、子供たちの強さがあたしは誇らしいの。誇らしいものだから、譲れない。
「……悪いけど、俺はそこまで強くなんか」
「ばーか。あたしが一番目をかけてる弟分だぞ? 呼べば来れるようにバイクまであげたんだから。気に入ってないわけないでしょ?」
またリンちゃんが髪を弄り回す。
「だからそれやめてって」
「はいはい、色気づいちゃって。でも話せてよかったー! なんかすっきりした。結局あたし、フラれたことよりも駄菓子屋に嫉妬する男にもやもやしてたんだなって」
その後も今どき束縛強い男はない。会えないくらいでピーピー騒ぐな。などの彼氏への不平不満が洪水のようにあふれ出す。
「リンちゃんさあ。その彼氏さん? 好きだったんじゃないの」
「好きだからこそよ。好きな人に好きなものを否定されたらムカつくでしょー。俺より子供の相手がしたいのかって。全然別だろっ」
「はいはい。わかったから……お水飲んでね」
酔っ払いの対処法ってこれでいいんだろうか。とりあえず、これ以上アルコールを摂取されるよりはいいんだろうけど。
「琉仁は、弱くなんかないよ。ただちょっと、臆病かもしれないけどね」
「なんだよ、急に」
「見てる人はいるんだよってこと。それで、君も誰かを見ててあげて。そうしていれば、悪いようにはならないから」
どういう意味? って聞こうとしたけれど、リンちゃんの言葉の真意を聞くことはできなかった。だって――
「ちょっと、寝ないでよ!? 俺明日爺ちゃんの仕事手伝わなきゃいけないから、深夜まで付き合えないよ!?」
お節介で世話の焼けるお姉さんは、言いたいことだけ言うとすやすやと夢の世界に繰り出してしまった。困り果てた俺はバーのマスターにタクシーを呼んでもらい、リンちゃんを家まで送り届けた。財布の中にちゃんとお金が入っていてよかった。
……誇らしいもの、か。
俺が誰かに「誇ってもらえるような人間だとは、とうてい思えない。自分にとってそうと言えたものは、全て手からすり抜けていってしまった。
「琉仁、お前仕事の価値ってのはどうやって決まってるか知ってるか」
それが爺さんの口癖だった。何度も聞かされれば嫌でも覚えるっつーのに、爺さんは返事を待たずにしゃべり続ける。
「仕事ってのは、要は全て生産活動の代行だ。食料を作れない者の為に食料を作り対価を得る。手元に木材がない人の為に木を伐り加工して届けてやる。突き詰めると、金銭を得るって行為はみんなそれだ。そして、ライバルは少なければ少ないほどいい。儲けはその分大きくなる」
「じゃあ、どうやってライバルが少ない仕事を見つけるの」
幼い俺が応える。
「良い質問だ。ライバルが少ない職業。それはスキルのいる仕事だ。簡単にはできないことや、訓練を積まないと危険なもの。自分の時間全てを捧げてもまだ足りないほど努力が必要なもの。そういう仕事と出会えりゃ、幸福な人生だな」
「うーん……でもそれって辛くない? ずっとずっと頑張り続けるなんて、大変だよ」
「そうだな。努力が苦にならないものなんてのはない。けれど苦しみさえ喜びに思える仕事ってのもあるもんだ。例えば、石売りとかな」
そう言って、爺さんは自分の仕事がいかに魅力的かを語るんだ。石は生死を超えて人と人を繋ぐもの。そして、人は皆いつか死ぬのだから、需要がなくなることはない。永遠に廃業することのない仕事だと。
けれど、今では爺さんのこの言葉は幼い孫に対する見栄だったのだと理解している。葬儀のあり方は爺さんの若い頃と比べて様変わりし、今では個人の墓石屋も廃業が後を絶たない時代だ。
それがわかっているから、爺さんは三人いる子供の誰にも跡は継がせなかった。今ではただ、昔のお得意さんの為だけに看板を掲げているに過ぎない。どれだけ努力しても、その苦しみごと愛せる天職。そんなものは、たとえ一時見つけられてもすぐにこの手からすり抜けていく。
時代に取り残された仕事を幽霊のように続けている爺さんは、バスケに見放されて、でもまだしがみついている俺とどこか似ている気がする。
なあ、爺さん。もう先がないってわかっていることに縋り続けるのは、どんな仕事より辛くないか? 俺は……正直もう、辛くて辛くて泣きだしたいくらいなんだ。
どんなに声をかけ続けても、記憶の中の爺さんは何も答えてくれなかった。
「悪いな、琉仁。最近歳でよ、だいぶ体にガタが来た」
「いいよ、別に。食わせてもらってるんだし働かないとね」
「なんだ、そんなこと気にしてんのか? まだ高校生なんだ、ちょっとくらい休んだって良いだろうよ。そんなこと気にすんなら、その髪どうにかして来い」
「うっせ。つーか爺さんはそろそろ引退しろよ。運転中に腰でもやったら事故るぞ」
今日も旧い客から墓石の手入れを頼まれたとかで、爺さんは俺を連れて炎天下の墓地で仕事をしたところだ。まだ軽トラの運転はできないので役に立つ場面はせいぜいが荷物持ちだが、本当なら運転も変わってやりたい。
「そういやぁ今日は伊織くんは体育祭だっけなあ。見に行ってやんないのか」
「そんな保護者参観じゃないんだから」
だいたい、下手に体育祭なんかに顔を出したら巻き込まれかねない。下手すりゃリレーなんか走らされる。これでも療養中なんで、それは勘弁願いたい。
「そうかぁ? あの子、お前に懐いてるじゃねえか。行ってやったら喜ぶと思うぜ?」
……喜んでくれる、か。
「そう言われて、ノコノコやってくる俺も、どうかしてるよな」
顔を隠すためにつけた厚いマスクの下でひとりごちる。体育祭はもう終盤だったが、騎馬戦はクライマックスを飾る花形競技。終わっていないなら間に合ったってことだ。人ごみをかき分けて保護者参観席からグラウンドの様子を伺う。
「……あ、伊織くん」
もう残っている騎馬が少なかったのもあるが、不思議と探さずに伊織くんを見つけることができた。状況は……あまり良くない。けど見るからに相手は油断しているから、伊織くんにだって勝ち目はあるはずだ。
「伊織くーん! 大丈夫だ! やってやれー!」
本当は声を出すのは知り合いに見つかるリスクがあるけど。でもせっかく来たのに後輩の頑張りに声の一つもかけられないんじゃ先輩としてあまりにも薄情だ。気が付くと、目一杯の応援を込めて伊織くんにエールを送っていた。
次の瞬間、伊織くんは跳ねて敵の鉢巻きを奪った。この展開にオーディエンスも歓声を上げる。一年が三年の騎馬を負かすなんて展開は滅多に起きない珍しいことだ。
「やった! やったよ吉見さん!」
あのバカ、嬉しいのはわかるけど名前を呼ぶなよ!
伊織くんの言葉に、にわかに周囲がざわめきだす。まずい、女子の何人かがこっちを見ている。今のところ知っている顔はないが、女子ってどういう繋がりがあるかわからない。知り合いに捕まったら面倒だ、逃げよう。
本当はすぐに伊織くんを労いたかったけど、仕方がない。おめでとうは、バイクに乗せてやるときだ。
「クラスの打ち上げに行かないでこっちを選んだの?」
「うん! だって吉見さん、せっかく来てくれたのに帰っちゃうんだもん」
「そりゃお前のせいだ。わざわざ変装したのに、名前を呼ぶから気づかれたんだ」
「そっか、ごめん!」
ご褒美はてっきり後日だと思っていたが、体育祭から直帰してきた伊織くんにねだられた俺はこうして深夜の国道でバイクを走らせている。行き先のリクエストを聞いたが「吉見さんの好きな場所」と言われてしまったので、走らせながら考えている最中だ。自分から乗せてくれって言ったくせに、行きたい場所を考えてないってどういうことだコラ。
「すごーい! 気持ちいいね、バイクで走るのって」
「だろ? 自分で運転するともっとハマるよ」
……まあ、伊織くんが楽しそうならいいか。
特に目的地を定めず海の方へ向かっていたが、伊織くんはそういうところ好きかな。カメラが好きみたいだし、わかりやすい撮影スポットがあった方がいいか。
普段は考えないようなことをぐるぐると考えながら運転する自分がなんだかおかしい。そもそも免許を取ったのは時間ができて暇だったというのもあるが、バイクに乗れば面倒なことを考えずに済みそうと思ったのが理由だ。たしかに初めのうちはバイクに乗っている間はバスケのことや将来のことについての悩みから逃げ出せたような気分になった。このまま走り続ければ、自分はあらゆるしがらみを振り払って自由になれる。そんな気すらしていた。
けれどそんな幻想は、国道の横の路線を走る電車が軽々と俺を追い抜いていったのを見て萎んで消えた。俺が自由になれると思い込んでいた速度は、せいぜいその程度でしかなかったんだ。
結局だらだらと海まで走ってきてしまったので、海沿いの灯台にやってきた。一瞬男二人でデートスポットというのはどうなのかと思いはしたけど、まあいいだろ。走ること自体を楽しんでいたし、ここはオマケだ、オマケ。
「綺麗だねー。吉見さん、ここ来たことあるの?」
「いや、初めてだ。こういう場所があるってのは知ってたけど」
「そっか。俺てっきり前に彼女と来たのかと思った」
「どっから出てきたんだよ彼女。いねぇよ」
「えーそうなの? モテそうなのに、バスケ部」
伊織くんはかなりはしゃいでいるのか普段より言葉が砕けてて、ちょっと幼い印象を受ける。こういう話も今までしたことがなかったのに今日は随分と掘り下げようとしてくるものだ。
「練習きつすぎると時間空けられないからな。中学の時はそれで自然消滅」
「なーんだ、やっぱりいたんじゃん彼女」
「うーん、あれ彼女って言うのか? 一応そういうことになってるけど、付き合っていた実感まるでないぞ」
周りに囃し立てられてくっついただけのおままごと。正直カウントするのも馬鹿らしいと思っている。高校に行ってる間は忙しくてそれどころじゃなかったし、行かなくなったらまた別の意味で恋愛どころではない。今はあまり、そういうことは考えていない。
「あの後さ、なんで俺が吉見さんのこと知ってるんだって、知らない先輩から色々聞かれたんだ。その中に女子多かったから、モテてるのかなーって」
「モテるモテないじゃなくて、単純に俺が消息不明だから興味を引いただけだろ。それで、なんか言ったの?」
「ううん、迷惑になると思ったから黙ってた」
伊織くんは賢い子だから、俺が消えたことで色々察したのだろう。律儀に口を堅くしてくれたのは助かるが、きっと今頃携帯には山のようにメッセージが入っている。電源は高校の敷地を出てすぐに切っておいた。
「そうか、それは助かる。でも別にちょっとくらい喋ったってかまわないよ」
「うーん……でも、あんまり人に言ったりはしたくないかな」
「なんで?」
「だって、吉見さんとこうして出かけてるの、俺たち以外に誰も知らないわけでしょ? そういう秘密の共有って、なんだかワクワクしません?」
「うーん、ワクワクねぇ……するか?」
「吉見さんノリ悪い」
「ノリが良けりゃ学校からドロップアウトなんてしてねぇよ」
「それどういう関係あるの?」
「よく考えたら、別に関係ないか」
伊織くんが噴き出すのを見て、俺も釣られて笑ってしまう。これだけ笑ってくれるなら連れてきた甲斐もあったか。
二人で笑っていたら、灯台が突然輝きだした。たぶん、時間になったら点灯するイルミネーションなんだろう。
「お、なんか始まったな。写真撮ってみたら?」
「うんん。やってみる」
背中を押したら、楽しそうにカメラを向けて駆け回り始めた。俺は長い運転で多少気も張りつめていたので、ベンチに腰を下ろして一息つく。電飾がギラギラしていて落ち着かないが、座れるだけでだいぶ緊張も解れる。
伊織くんは様々な角度からライトアップされた灯台を撮っている。その様はまるで小動物のようだ。いや、よく考えたら俺の前ではいつもこんなか。じゃあ、俺以外の前での伊織くんはどんな感じなんだろう。
少なくとも今日は年長相手に果敢に挑んで勝利した姿を見ている。案外こんな可愛げは俺の前くらいでしか見せないのかも……って、何考えてるんだろう俺。
「吉見さん、写していいですか?」
あれだけ撮ってまだ満足してないのか、戻ってきた伊織くんは俺まで撮ろうとしてくる。
「なんで俺なんだよ。ほかにもっと撮るべきものあるだろ」
「ううん。俺、吉見さんが撮りたい」
いつになく真剣な表情で見てくるから、つい頷いてしまう。潮風が髪を揺らすせいで被写体としてはイマイチだろうに、伊織くんは構わずシャッターを切ってくる。
「おい。写すならもうちょい良いタイミングで写してよ。髪ぐしゃぐしゃだって」
「大丈夫だよ。吉見さん、すごくきれいだから」
きれい、なんて言われて一瞬思考がフリーズする。何言ってるんだと思ったけど、きっと伊織くんはイルミネーションのことを言っているんだろう。
その後にも何回かシャッターを切り、伊織くんはやっと満足げに頷いた。
「うん。本当にきれいだ」
「満足したか? じゃ、そろそろ帰ろう。伊織くんも今日は疲れてるだろ」
「うん、ちょっと惜しいけど、また来れるもんね」
「おい、また俺の後ろにくっついてくるつもりか?」
「……ダメ?」
そうやって来られると、つい甘やかしてしまいたくなる。ここで調子にのんなとあしらってもきっと、せがまれればまた後ろにのっけてしまうんだろう。
「考えとくよ」
「うん、ありがとう吉見さん!」
バイクのエンジンを駆けながらふと、家に帰ったらこの砕けた口調の伊織くんもおしまいなのかな、なんてことを考える、それは少しだけ、寂しいかもしれない。
伊織くんと部屋の前で別れて自室に帰ってきた。後ろに人を乗せて往復距離を運転するとさすがに疲れる。心地良い疲労感に身を任せてこのまま眠ってしまいたいところだけど、そういうわけにもいかないだろう。俺は一度深呼吸すると、今まで切っていた携帯の電源を入れなおす。
「あー……来てるなぁ」
仲の良かった友人やバスケ部の連中から大量のメッセージが届いている。一つずつ相手してたらきりがないから、特に仲が良かった一人を選んで電話をかけることにした。
「元気かな、加賀」
この前、一瞬だけ見た横顔は一年前から少しも変わっていなかった。けれど、加賀には俺が勝手をしたことでかなり苦労を掛けたはずだ。加賀に対しては同じ中学出身故の甘えがどうしても抜けきれない。
「……ルニか」
加賀はすぐに電話に出た。ルニと言うのは、ごく親しい友人だけが使う俺のあだ名だ。
「よう。なんかすごいことになってたみたいだから、お前にだけは連絡しとこうと思って」
「凄いことになってるのはこっちもだよ。お前、本当に今日来てたのか?」
「まあね。今ウチで世話焼いてる後輩がいてさ。その子の為にふらっと寄っただけ。実際にいたのは十分ほどだよ」
「ふらっと寄ったにしてはばっちり顔隠してたって噂だけど」
「そりゃあ隠すでしょ。先生に見つかると面倒だしね」
「面倒なのは俺たちに見つかるのもじゃないのか」
そういう答えにくい質問、振ってくるなよ。
俺が黙っていたせいで、しばらく沈黙が続く。それが答えだよ、って言いたいけれど、加賀はきっと黙っていちゃ何もわからねえよと言うのだろう。そういう誤魔化しを加賀は殊更に嫌うのだ。
「まだ戻ってくる気はないのか」
沈黙にしびれを切らしたのか、加賀が再び口火を切った。
「まだっていうか、二度とっていうか」
「嘘だな。自分でも迷っているようなことを断言するな。腹が立つ」
はあ。お互いを知っているって、本当にタチが悪い。俺がいまだユニフォームも捨てられないのをわかっているんだ、こいつは。
「怪我はどうなんだ」
「ああ……たぶん、無理をしなければプレーはできると思う」
「そうか……それは、良かったよ」
ここで初めて、少しだけ雰囲気が砕けた。けれど、加賀。無理をしなければ、なんていうのはありえない話なんだよ。常に限界値を超えていくことで自らを高めていくのがスポーツだ。いざという時に無理を押せない選手に周りは誰も期待しない。
「俺は、お前に戻ってきてほしい。プレイヤーじゃなくてもいい。お前が支えてくれれば、チームはより上を目指せる。お前があの一年に目をかけてるのはわかった。でも、お前が見なきゃいけない後輩は他にいるだろ。あいつじゃない」
加賀の言葉に、一瞬頭がカッとなる。なんだよそれ。勝手なこと言いやがって。コートの外から俺が、どんな気持ちで仲間の活躍を見ていたと思ってるんだ。だいたい、なんで俺が付き合う後輩まで指図されなきゃならないんだ。
そんな激情が噴出しかけるが、言いたいことが沸騰して溢れそうなときに限って口は動かない。
「俺たち、絶対に全国行こうって話したよな。俺は正直無理だって思ってたけど、周りに本気で期待されてるお前がいたから信じれたんだ。お前、あの頃の俺らに今の自分を誇れるのか?」
「誇れるって言ったらびっくりするだろ」
「ああ、たぶん今すぐ殴りに行くだろうな。笑えねえわ、マジで」
「……ごめん」
「何に対してのだよ」
「なんかもう、いろいろ。……ほんとごめん」
なんだか嫌になって、通話を切ってしまいたくなる。けれどそうしないのは、最後に残った意地のようなものだ。ここで一方的に会話を打ち切ったら、俺は加賀の中で本当に死んでしまう。
それは、友人に対してはしたくない仕打ちだ。
「俺は知ってるよ。お前はどこまで腐ったって、バスケだけは裏切れない。だから待ってる。俺の知っている吉見琉仁は、そういうヤツだから」
これ以上言葉を交わしたところで平行線だと悟ったようで、加賀は最後にそれだけ言うと通話を切った。終わってしまえば、本当に呆気ない会話だった、
――誇れるもの、ね。
あの頃、確かに俺にはそれがあった。自分の力で未来を切り拓いているという確かな自覚が誇らしかった。
じゃあ、今は?
誇らしいもの、と考えてると、ふと伊織くんの顔が浮かんだ。あの頃の自分みたいに、愚直に自分の好きなことを追いかけている。
夜、寝るまでのわずかな時間。隣で楽しそうに写真に込めた思いや、構図の意図を話してくれる姿はもうすっかり目に馴染んでしまった。
伊織くんの愚直さは言葉にもちょくちょく表れている。時折自分に向けられる「かっこいい」とか「大人っぽい」みたいな称賛はまさにそれだ。思ったことをストレートに表現できるのは彼の良いところだ。以前上手く絵を描けなくて悔しい思いをしたというのも関係があるんだろう。恥ずかしいような言葉だとしても自分の感性を表に出すことの方が、出せずに苦しむことよりよほど良いということだ。
そうか、昨日のリンちゃんの気持ちが少しは理解できたかもしれない。伊織くんが楽しそうにしてくれていたら――それだけで俺も、なんだか誇らしいかもしれない。自分に嘘をつかない生き方ができている後輩は誇らしい。だから、あんな風に言葉をまっすぐぶつけられると、冗談だろうといなすこともできやしない。
「なんだよ、きれいって……」
考えないといけないことは山ほどあるのに、思い出さなくて良いことを思い出す。ひどく疲れているはずなのに、今夜は眠れそうな気がしない。
胸に燻るこの熱は、きっと梅雨の寝苦しさのせい。
