「写真の確認作業手伝えって言うから見てやったけど、なにこれ全部ヤローの肌色じゃねーの。水着美女の写真とかねぇーんすか」
「そっちは女子部員の担当だよ。男が潜水して女子の水着姿撮るとか絵面が完全に犯罪だろ」
「犯罪上等、そこで男になれねーから伊織クンは一皮むけないんですよ」
「じゃあカメラ貸すから行ってきなよ。行けるものなら」
 中間テストも終えて校内も落ち着きを取り戻した六月初旬。この日は朝から断続的に雨が降ったり止んだりを繰り返していて、傘を持ってこなかった俺はなかなか帰るタイミングがつかめないでいた。仕方がないので雨が止むまでこの前撮影した水泳部の加工・編集作業の終わった写真を確認することにした。横の三宅は暇そうに購買をうろついていたところをカレーパン一つで買収し手伝わせることになったのだが、被写体がお好みでないらしく見るからにやる気を失っている。
 いや。やる気というか、覇気を感じないのは何も三宅だけじゃない。学校全体が、じめじめとして仄かに気怠い雰囲気に包まれている。もっともこれからまた体育祭に向けて慌ただしくなってくることを思うと、ひと時の平穏というやつだ。
「あーあー! 騙さーれた! なーにが水着写真の確認だぁ! この詐欺師! 悪魔! カメラオタク!」
「俺がカメラオタクなんて、そんなの失礼だよ。凄い人たちはやっぱりフィルムから拘ったりするけど、俺なんかどうしても楽だからデジタルに逃げちゃうし。そもそもお金をかけられない。金銭の有無が即ちその人個人の愛好家としての深さを決めるわけじゃないけど、やっぱり取れる選択肢の幅は狭まっちゃうからな。実際技量もまだまだだし、オタクというよりはせいぜいカメラ好きというか――」
「そーいうところだろうがぁ! 無自覚なら余計タチ悪いわ!」
 どうも今日の三宅は不機嫌だ。そもそも基本自由人の三宅が学校をほっつき歩いてるのだから、その時点で何か異変は起きていたのだと気づくべきだった。
「どうしたんだよ。なんか荒れてるな」
「べっつにー? 荒れてないけどー? まあ、この後バイトで面倒だなぁってさ」
「ああ、お前のバイト先、ピザ屋だもんな」
 雨の日は配達が億劫になるというのに注文は増える。そのくせ給料は増えない。たしかに、仕方ないとはいえ気が立つのはしょうがないか。
「こういう雨の日は、けしからん客が増えるわけですよ。たとえば、天気を口実に恋人を家に連れ込んで、イチャコラしてるような客! そんなところにピザを届けにゃならない俺の悲しみがわかりますかっ!」
 こいつはバイト先で一体何を見たんだ……。
「いや、そういう客ばかりとは限らないだろ」
「いいや、限るね。雨の日にデリバリーを頼む客にロクなやつらはいねぇ。家でぬくぬくサブスクで映画でも見ているアベックが、降りしきるそぞろ雨の雰囲気に流されて『ユーとネクスト行っちゃう?』みたいなくっだらねーこと言ってふしだらなことしてんのよ。ピザを頼んだのも忘れてなァ! あーやらしー! あー破廉恥!」
 お前は何を言っているんだ。
「ま、まあ……お前が大変なのはわかったよ。ありがとな、手伝ってくれて」
「それは気にするな。こう見えて一宿一パンの恩義は忘れない男ですから。でも次呼ぶときもう少し爽やかな写真にしてねー?」
「善処するよ」
 ま、いま部に来てる撮影依頼、相撲部とアメフト部なんだけど。
「にしても、お前なんか作風変わったよな。中坊のころなんか人撮らないで風景ばっか撮ってたじゃん」
 三宅の言う通り、中学までの俺は風景写真ばかり撮っていた。それには個人的な活動だったから人を撮影する大義名分がなかったというのもあるが、単純に風景写真を撮るのが好きだったのも大きい。高校に上がっても最初は積極的に人を撮ろうという気はしていなかった。あのときまでは。
「綺麗に撮りたいな、って思う人がいてさ。その練習じゃないけど、色々人を撮る経験もしてみようかなって」
 俺の何気ない言葉に三宅は目を光らせ食いつく。
「なになに、それちょっと甘酸っぱい予感がする。一体どこの誰ですかこの純朴天然チェリーちゃんに思春期の風を吹かせたのはぁ!?」
「背が高くて、長い黒髪が似合う……」
「わぁーお長身のセクスィ~系ですか! 良いよね、黒髪ロング! お目が高い!」
「一緒に住んでる男の人」
「はい解散。チッそんなこったろーと思ったわ」
「勝手に変な妄想したのはお前だろ……」
 こいつはバイト先できっと何か、本当にひどい目に遭ったのだろう。今日の三宅は脳みそがショッキングピンクで使い物にならない。
「別に綺麗なものって性別関係ないだろ。俺は本当に吉見さんが綺麗だと思ったんだから」
 桑原さんちでの下宿生活が始まって早一カ月。俺と吉見さんはだいぶ打ち解けてきていた。特に用はなくとも互いになんとなく部屋を行き来して漫画を貸し借りしたり、勉強を教えてもらったりしている。
 先日急に不登校の理由を告白されたときは驚いたけど、それだけ信頼されてるんだなって思うと嬉しくなる。実家では自分が長男だったからか、兄ができたみたいで毎日が結構楽しい。
「吉見さんてーのはあれだろ。丁寧に勉強を教えてくれてるって言う下宿先のイケメンだっけ? 黒髪美人と一対一でお勉強……だが男だッ! まあギリ有罪ってところか?」
 どこの国のなんて法律に則った裁判だそれは。
「俺が思うに、お前は黒髪ロングの魔物にやられている」
「お、おう……?」
「我々日本男児のDNAには黒髪ロングを見ると無条件で『グッとくる』因子が存在している。わかるかい?」
「で、でーえぬえー」
「そう。お前は遺伝子によって支配されている! 例の先輩サンじゃなくて、その髪の毛に撃ち抜かれてるわけさ」
 ……そうなのか? 確かに、吉見さんが髪をかき上げてたりすると色気があるなと思うこともあるけど、少しアンニュイで大人っぽい雰囲気が格好いいと感じているだけだと思うけど……。
「そうやってなんでも色恋に繋げるのやめろよ。いまどきそういうのキツイって」
「そんなこと言ってっと、貴重な青春棒に振りますよー。まああれだ、お前はもしその先輩サンが髪を切ってもグッときたのなら、本当に惚れてるんだと思うぜ」
「惚れるって。そういうんじゃないし」
「さあてね。――って、ふざけてる間にバイトの時間だ。あーだりぃ~」
 口は好き放題走らせるくせに足取りはすこぶる重く、三宅はバイト戦士として旅立っていった。作業の役には立たなかったが、話し相手としてはまずまずカレーパン分の仕事はしてくれたと思おう。
 雨は依然止まない。ここからは一人の作業だ、
 撮った写真データはカメラから写真部備品のノートパソコンに移してあり、そこで残す写真を選別していく。ブレて何が写っているのかわからないようなものはもちろん消去。似たような写真は写りの良い何枚かに絞って他は消去。こんな地道な作業も嫌いじゃない。
 水中写真というのは部としても初めての試みだったが、せっかく完全防水使用の良いカメラがあるのだから、と自分から志願してやってみた。思った通りプールサイドから泳いでいる風景を撮るのとは迫力が違う。
 特によく撮れたと思う一枚を拡大してみる。ターンして壁を蹴る、まさにその瞬間を切り取った写真だ。壁を蹴るしなやかな脚の筋肉、真っすぐに水を切る腕のライン、そしてターンのダイナミックさを演出する白い泡。あの水中でくるんと回転するやつって鼻に水が入ったりしないのかな。
 データを閉じて時計を見る。三宅が帰ってからまだ十分も経っていない。話し相手がいなくなると急に時間の進みが遅くなったように感じてつい集中力が切れてしまい、ぼんやりと外を眺める。
 晴れた日の鮮明さも良いけれど、雨の日のしっとりしたどこか陰影がぼやけた風景だって悪くない。例えば公園で葉の茂った樹木を写すにしても、青空から切り取られたような緑と曇天に溶けるような緑では全く違った印象になる。雨の降った夜の、アスファルトに溜まった水が都市の光を淡く照り返す光景なんかは見知った街でも幻想的な作品になる。
 水って言うモチーフ、良いかもしれないな……。水を纏ったものを写すでも良いけど、晴れた日にあえて水を通して世界を眺める、なんて切り口も面白そう。
 窓の外の雨は勢いが強まる一方だ。いい加減、もう帰ろうかな。傘は途中で買えばいいし、最悪夏服のワイシャツなら濡れても構わない。
 帰ろう、と決心したちょうどそのとき、携帯が震えてチャットアプリの通知が表示される。
『まだ学校?』
 吉見さんだ。さっき三宅に変なことを言われたせいで変に意識してしまう、
『はい、今教室です。雨に降られてしまって……』
『よかった そと みて』
 言われた通り窓の外に目をやると、敷地の外の道路上で傘を差し手を振っている吉見さんが見えた。その手にはもう一本の傘が握られている。
『迎えに来てくれたんですか?』
『うん。降りておいで、裏口で待ってる』
 あまり待たせないようにと急いで玄関口から靴を回収し、裏口へ向かう。迎えに来てくれるなんて思っていなかったから、嬉しさで自然と足が軽くなる。
「お待たせしました」
 既に裏口で待っていた吉見さんに声をかけると、携帯を見ていた顔を上げて笑顔を浮かべる。
「お疲れ。さ、帰ろっか」
「ありがとう、吉見さん。ほんと助かりました。あとちょっと遅かったら走って帰るところだった」
「風邪ひくよー? ……でもこの状況ならたぶん俺もそうするしそこは良いか。とはいえ、伊織くんは困ったら遠慮なく俺を呼びなよ? どうせ昼間暇してんだし、傘くらい届けるよ」
 吉見さんが努めて年上らしい余裕を見せてくると、自分もこの人にあんまり格好悪いところは見せたくないという対抗心のような気持ちが湧いてくる。そういうところがまたガキ臭いんだよな、と冷笑する自分も心の内側にいるけど、今はとりあえず聞こえないふり、だ。
 やっぱり、吉見さんは自分の中で今一番興味深い観察対象だ。傘を差して歩く後ろ姿さえ他の人とは違って見える、この人の所作ひとつひとつに美しさを感じてしまうのは、自分が世話になっていて尊敬しているってフィルターがかかっているからだろうか?
「なに? こっちじーっと見て」
「へぇ!? い、いえ……あの、吉見さんまだ長袖着てて、暑くないのかなって」
 斜め後ろを歩いているからバレてないと思って見すぎていた。胡麻化すために咄嗟に思いついたことを喋ってみたが、服装の疑問も自分で言って気になってきた。近頃は雨でも気温が下がらないどころか、湿気で不快感も増してくる。にもかかわらず吉見さんの服装は今日もお気に入りのジャケットだ。それぞれデザインが違うモノを沢山持っていて、最近ようやく俺も違いが分かるようになってきた。
「これ? メッシュ素材だからけっこう通気性良くて涼しいよ」
 着てみる? と聞かれたけど、今だと濡れてしまうので辞退する。とりあえず話は逸らせたみたいだ。
「学校はそろそろ体育祭だっけ。練習始まってる頃?」
 並んで話していたら、たまたま体育祭に話題が移る。あいにくの雨だから練習は専ら体育館で行っているけど、運動部に所属してるやつらは本番を見据え静かに燃え上がっている。
「そうですね。運動部の連中は部活対抗リレーに全力向けてるみたいです」
「あったなーそんなの。一年前のことなのにだいぶ昔のことに感じる」
「吉見さんも出てたんですか?」
「そのときはバスケ部員だったからね。ちゃんとユニフォーム着て走ったよ」
 その姿を想像するも、今の吉見さんのイメージと合致しない。俺のクラスにもバスケ部員はいるけど、彼らがたった一年で吉見さんのような先輩然とした落ち着いた雰囲気を纏える気もしなかった。
「ちょっとみたいな、吉見さんのユニフォーム姿」
「えー、ヤダ」
「なんでですか。いいじゃん、見せてくれても」
「だって伊織くん、この前制服着た俺のことコスプレって言ったじゃん」
 それを言われると何も言い返せない。これは相当根に持ってるぞ、吉見さん。
 対抗リレーもそうだが、高校生にもなると体育祭は保護者に向けたデモンストレーションという色を完全になくし、競技は真剣勝負になってくる。それはいいんだけど。ちょっと困る競技が一つだけある。
「そういえば。吉見さん、うちの学校の騎馬戦……あれなんなんですか? ちょっと危なすぎると思うんだけど」
「それは俺に言われても……でもあれ、全学年合同だから一年はプレッシャーだよな」
 騎馬戦は全学年の男子がひとまとまりになっての乱戦という形式になる。A組対B組の対決なら一年生から三年生まで全学年のA組男子と、同じくB組の男子が一斉にぶつかり合うのだ。
「たしかに学年を超えた競技はあってもいいと思いますけど、いくら何でもこれは雑すぎません?」
 ついこないだまで中学生だった一年の騎馬と盤石な三年生の騎馬では戦いにならない。それを前提において、弱い一年生の騎馬で退路を塞ぎ三年生が有利な状況で攻撃を仕掛けていく、みたいな戦略性もあるみたいだけど……これに限っては小柄だから素早いとは限らない。結局素早さも小回りも成熟した三年生の方が上ということがほとんどだ。
「でもみんなで大声出しながら走り回るの、俺は楽しかったけどな」
「どうせ吉見さんは騎馬の上でもみくちゃにされたことがないから言えるんですよ」
「そうだなー俺は騎馬の方だった……あれ、伊織くんもしかして上?」
 言っておくが、俺の身長は高一男子の平均水準だ。ただちょっと、うちのクラスには発育の良い男子が集まりすぎてるだけで。
「伊織くん……軽そうだもんね」
「なんですかその間は。ちゃんと平均身長ありますし、まだ伸びますし」
「平均身長としか言わないのって、大抵平均に少し届いてないパターンだよね」
「そんなことは……」
 そんなことは、あるかもしれないけど。
「からかわないでくださいよ。結構本気で不安で、憂鬱なんだから」
「楽しめばいいと思うけどね。何が不安なの?」
 こういう風に吉見さんに聞かれると、悩みとかもやもやを何でも話してしまう。吉見さんが解決策を持っているかはその時次第だけど、いつも何かしらのアドバイスはしてくれる。
「人と取っ組み合いになったことがないんで、目の前に手が伸びてくるとそれだけでちょっと怖いというか……身が縮んじゃうんだよね」
「なるほどな……俺はそんなのしょっちゅうだったから、そんなこと思ってこともなかった」
「え? 吉見さん結構喧嘩慣れしてるの?」
 意外な一面を引き出してしまったかと思ったが、それはすぐに呆れたようなため息とともに否定された。
「違ーよ。バスケだバスケ。突き指も脱臼も覚悟で相手にぶつかっていかなきゃいけないスポーツだから、怖いなんてこと言ってられないってだけ」
「あ、そっちか」
 俺は体育の「怪我をしないように、安全優先」なんてバスケにしか触れたことがないけど、部活として本気で打ち込むとなればそういう世界に身を置くことになるのだろう。慣れというのもあるが、スポーツに打ち込める人はそういう鍔迫り合いも楽しんでしまえるんだろうな。
 もう少し長く話していたかったけど、吉見さんとの帰り道も終わりが来てしまった。同じ家に住んでるのだからもちろん家の中でも話はできるけど、学校からの帰り道というのが特別な感じだったのに。
「なんだお前、いないと思ったら伊織くんといっしょか」
 家の敷地に入ると、縁側に通じている部屋から恒夫さんが顔を出した。
「なんだよ爺さん。何か用?」
「悪いけど、手伝ってほしい仕事が入ったんだ。お前の暇な時間を聞きたい」
「わかったよ。じゃあね、伊織くん。また後で」
 先に玄関から上がっていった吉見さんを見て、今日は「後で」があるんだ。なんてことをぼんやりと考えていた。
 ……いけない。なんか、最近あの人といると浮かれすぎているぞ、俺。敬語も段々崩れてきてるし。
「でもあの人の隣、ほんと居心地いいんだよな」
 雨が覆い隠してくれるくらいの小声で呟く。あともう少し、今の立場に甘えていたくなる。こんなことを思うのは我儘だろうか。

 夕方に強まった雨は午後七時には完全に止み、空には月まで出ていた。夕食を済ませた後は部屋に戻っていたが、なんとなくカメラを手に取って窓辺から月に向けてみる。
 あんまりおもしろくないな。夜空はそれだけで綺麗なものだけど、写真に撮るとどうしてもみんな似たような構図になりがちだ。個性を出そうとすれば機材から撮影場所まで徹底的に選定しないといけない。そんな際限なく金のかかるパワープレーは、俺の状況ではまだ無理だ。
「伊織くんちょっといい?」
「どうぞ」
 この時間に吉見さんの方から訪ねてくるのは珍しい。夜はだいたい、俺の方から暇な頃合いを見計らって声をかけている。
 部屋にきた吉見さんは服装こそさっきと変わっていないものの、脇にバスケットボールを抱えていた。
「ちょっと遊びに行かない?」
「今からですか? それに、俺バスケなんて素人ですよ」
「俺だってもう素人同然だよ。ま、人と至近距離でぶつかり合う練習にでもと思ってさ」
 そうか。吉見さんは帰り道話したことを覚えていて、それで誘ってくれたんだ。
 吉見さんの部屋には何度か入ってるけど、バスケットボールなんてみたことがない。今まで目につかないところに仕舞っていたボールをまた取り出してくるのは、きっと吉見さんにとって容易いことじゃない。
 そこまでして誘ってくれたんだ。ここは夜遊びに付き合おう。
「ありがとう吉見さん。それで、どこまで行くの?」
「近所の公園かな。あそこはそこそこ広いし、水捌けの良い地面もあるから」
「わかりました。準備ができたらすぐ行くから、吉見さんは下で待っててください」
 カメラをショルダーバッグに入れてすぐあとを追いかける。せっかく夜の街を出歩くなら、シャッターチャンスは逃せない。
 公園までの道すがら、カメラ越しに見える夜の街を歩く。
「ほんとに写真が好きなんだね」
「先輩こそ。今でも実は結構バスケ好きでしょ」
「……どうかな。嫌いではないと思うけど、好きかどうかは――」
 ふと影が差した吉見さんの顔を、意を決してカメラで捉える。静かな夜にシャッター音が鳴り響く。
「何、今撮ったの?」
「ほら、見てくださいよ吉見さん。好きでも嫌いでもないって人は、きっとこんな顔しませんよ」
「……うーわ、俺こんな暗い顔してた?」
「してました。もー、こんなの吉見さんらしくないから消しちゃうよ」
 今さっき撮った写真を即消去。いつか吉見さんを撮りたいと思って狙っているけど、これは全然ダメ。俺は吉見さんの、もっと綺麗な部分を捉えたい。それはただ姿を写せばいいわけじゃなくて、この人の持つ優しさとか、格好良さを引き出さないと、きっと写真に残せない。
「こないだのお返しに、俺も昔話をするね」
「昔話?」
「うん。実は俺もね、一瞬学校に行かない時期があったんだ。小学生の頃に」
「伊織くんも?」
 そう。実は俺も、吉見さんと同じく不登校をやっていた。原因は小学校の図工の時間。俺はなんというか……率直に言うと絵が下手だ。物を見る目は人並み以上にあると思っているけど、描画のセンスが致命的に足りていない。
 目で見たものを、そのまま紙に写し取る。そんな簡単なことがどうしてできないんだろう。
 俺の絵はちょっと下手くそすぎて、よく周りにからかわれた。それだけなら我慢できたけど、その周りの子の絵だって俺が頭の中で描き上げた絵と比べたら全然だ。
 表現したい世界が頭の中で像を結んでいるのに、手は思うように動いてくれない。そのギャップが苦しくて図工が怖くなり、しまいには学校にも行きたくなくなってしまった。
 それを見かねた両親が送ってくれたのが生まれて初めての自分のカメラだ。絵が描けなくても、これがあれば目で見た世界を表現できるから、と。
 安物のデジタルカメラだったけど嬉しかった。これがあっても、図工の時間が苦しいのは変わらない。けれど「ここになくても、どこかに自分の世界を表現できる方法がある」という安心感が、俺を元の生活に戻してくれた。以来、カメラは欠かさず持ち歩きたい趣味であり、お守り代わりになった。
 大体そんな話を、吉見さんは黙って聞いてくれた。吉見さんが過去を打ち明けてくれたんだから、俺だって昔の恥ずかしい話はするべきだ。――いや、吉見さんにだから、聞いてほしい。
「そっか。伊織くんは俺より強いね。俺なんかもう半年以上不登校だー」
「先輩だって、きっと戻ろうと思えば戻れるよ」
「そうかな? ……伊織くんは、やっぱり学校は行った方がいいと思う?」
 難しいことを聞いてくるな。俺の言葉で簡単に行動を変えるような人じゃないと思うけど、この質問はちゃんと考えて答えるべきだろう。
「一般論では、そうだと思います。けれど俺は、必ずしもそうじゃないと思う、かな。誰もがやるべき、全ての人がこうであるべき人生なんて、そんなのないですよ。
 だってもしそうなら、こんな風に悩んだりするわけないじゃないですか。悩むのは何が正解かわからないからで、それは学校に通うっていう『正しい正解』以外にも『正しくないけど正解』って言う選択肢があるからな気がするんですよね。正解がわからない以前に正解の数すら俺たちはわからない」
 ちょっと格好つけすぎたか。今更恥ずかしくなってくる。吉見さん、笑ってないかな。
「伊織くん、いつも俺の事かっこいいとか大人とか言ってくれるけど、伊織くんも十分大人じゃん」
「そ、そうかな?」
 ここまで素直に褒められると逆に照れくささが加速する。
 俺の言葉は届いただろうか。吉見さんが背負っているものを、少しでも減らせたならいいのだけど。

 吉見さんに連れられてやってきた公園は、ありふれた児童公園という規模ではなくちょっとした運動場のような場所だった。ベンチの並べられた噴水公園を中心にテニスコートやサッカー場、スケート場、バスケットコートなんかがあって、子供向けのちょっとしたアスレチック広場まである。この時間でも、まだ社会人サッカーのクラブがサッカー場で汗を流していた。
「俺さ、夜出歩くときはまずここに来てボールを触ってるんだ。でも自分のボールを持ってきたのは今日が初めて」
 言いながら、ゴールに向けてボールを放つ。弧を描いたボールはそうなるのが当然という様にネットに収まりゴールポストの下に転がった。
「足を怪我しただけなら、腕は無事かって思うじゃん。でも全然ダメ。どこか不調になると体全体のバランスが崩れるんだ。頭の中の理想と身体の動きが全然一致しない」
「……俺には、とても上手に見えたけど」
「ありがと。たしかに様になって見えるくらいには仕上げられたけど、どんな状況からでもあのパフォーマンスができる自信はない。リハビリはしてるけど以前の感覚がずっと取り戻せないままなんだ」
 吉見さんは転がるボールをじっと見つめている。その視線にあるのはなんだろう。怒りにも嘆きにも、そして愛おしさにも思える眼差しに思えた。
 ああ、やっぱりこの人、綺麗だ。
 どんなに悔しくても、不甲斐なくても。絶対に自分が好きなものを諦めきれない。たとえ正面から向き合えなくなったって、どんな形でも自分の『好き』にしがみつく。そういう往生際の悪い熱を秘めた人だから、きっとこんなにかっこいいんだ。
「吉見さんはかっこいいね」
 まっすぐに、目の前の先輩に伝える。照れ隠しなんて許さないように。
「……そんな真っすぐ言われると、なんて言えばいいかわからないよ」
「何も言わなくたっていいじゃないですか。俺が勝手に言ったんだし」
 カメラの入れたバッグをベンチに置いて、俺もコートの上にぴょんと乗ってみる。
「騎馬戦の練習なら、やっぱりドリブルからボールを奪ってみる練習が良いかな。あ、そうだ。もし吉見さんからボールを取れたら今度バイクの後ろ乗せてよ」
「……なんか急に生意気になったな。やる気になったのは良いけど、それは条件が甘いかな。当日の騎馬戦で一騎でも討ち取れたらってのはどうだ?」
 にやりと笑った先輩は、いつもの様子に戻っていた。


 そして体育祭当日。吉見さんと約束した「一騎討ち取り」という野望を胸に秘めやってきた俺は、致命的なハプニングに見舞われた。
「か、風邪ひいたぁ?」
「ああ。時季外れの悪質な風邪らしい。咳が止まらないんだってさ」
 同じ騎馬を組む予定のクラスメートの一人がまさかの欠席。どうりで今日見かけないと思ったら……。
「どうすんだよ? 不戦敗か?」
「まあそうなるよなぁ……人が足りなきゃしょうがないし。清水が『アタシやるよ!』って張り切ってるらしいけど」
「清水女子だろ」
「でも伊織よりはでかいぜ。縦も横も」
「そりゃそうだけど、女子におぶられる俺の気持ちも考えて!?」
 ていうか清水さんは良いの? それで!
「はーいチーム伊織に業務連絡ぅ業務連絡ぅ。大本営はこちらに我がA組のリーサルウェポンの投入を決定したことをここに通達しまーす」
 クラスを仕切っている女子たちが誰かを連れてこちらにやってくる。リーサルウェポン……! やはり出るのか、清水さん!?
「ふぇ? これは一体何の騒ぎ? なんか突然両肩を掴まれてここ連行されてきたんだけど?」
 ってお前(みやけ)かーい!
 三宅はあの有名な宇宙人の写真みたいに両手を繋がれ女子たちに引きずられている。すっかり忘れていたが、こいつの顔は朝から見ていなかった。
「お、お前ここで何やってるんだよ。自分のチームは」
「いやさあ、オレってばロクにホームルームに出席してなかったせいでどの競技にも頭数に入れられてなくってさあ。来てみたは良いものの暇してたってわけ」
「じゃあそもそも、なんで来たんだよ」
「そりゃもう、打ち上げに行きたいからに決まってるっしょ。女子と一緒にご飯食べながら楽しくおしゃべり……。うん、理想の高校生活だぜ★」
 こ、こいつは……! いやいい、今日ばっかりはこいつの社会不適合さに助けられた。
「わかった。じゃあせいぜい女子の好感度を稼ぐための活躍してくれ」
 他の二人にも合意を取り、何とか急ごしらえのチームが出来上がる。三宅の実力は未知数だが、少なくとも勝負の場に上がれただけましだ。
 時間が来て、各々騎馬を組み
上げて位置につく。空砲が開戦の狼煙代わりだ。
 緊張感の中、バンッという音と共に雄たけびが上がり騎馬たちがぶつかり合う。
「で、我々はどうする? 様子見か?」
「いやそんなこと言ってる場合じゃない。弱そうなところを見つけて攻めるべきだべ」
「いやウチらより弱そうなところってどこ?」
 下の三人は全く方向性が合わず、身動きが取れない。攻めるにしろ守りに徹するにしろこうやってまごついているのが一番危ない。
「あ、そうだ。三宅よく聞け?」
「あん?」
 右サイドを固める森が前方の騎馬を顎で指す。
「B組の関、こないだ彼女できたらしいぞ」
「な、何ぃ!?」
 いや、今何の話?
「しかも、もうキスまで行ったらしい」
「ななななななんですとぉう! よし潰すすり潰すぶっ潰す! 行くぜ伊織! 彼女の前で良い恰好しようなんて許さねぇ、ここで落馬してフラれてしまえ!」
 妙なスイッチの入った三宅が猛烈な勢いで関君とやらに突撃していく。
「おい森、なんで今そんなこと吹き込んだんだ! こいつの頭はあまり出来が良いわけじゃないんぞ!」
「いや、こういう敵対感情持たせればバフかかるかなって」
「たしかになんか強そうにはなったけど、戦うのは俺ぇ!」
 三宅の突貫はそれだけで騎馬を崩しかけない勢いがあったが、さすがに向こうも踏み留まり掴み合いが始まる。
 ああクソ! 突然すぎて全然心の準備ができていない!
 必死で敵将の鉢巻きを狙うが、こちらから攻め入ったにもかかわらず状況は劣勢だ。防戦一方で攻めに転じる余力がない。
 膠着状態を破ったのは、味方の上級生の騎馬だった。二年生の騎馬二組がサイドから相手を挟み、流れるように鉢巻きを奪っていく。
 鉢巻きを奪われたら騎馬が健在でもその時点で敗退だ。もちろん鉢巻きは守れても騎馬が崩れたら同じく敗退となる。俺たちの騎馬は三宅の独断専行によりバランスを崩し、その後すぐ崩壊した。
 残りの騎馬が奮戦したおかげで結果的に勝負は俺たちA組の勝利となった。次はC組とD組の戦いで、勝った方が決勝戦の相手になる。
「とにかく反省会だ。すまん、完全に俺の策は失敗していた」
「ああ。囲まれても戦っていた関君素敵、って余計アツアツだってな」
「いやそう言う話じゃなくてな」
 森と三宅はとりあえず横に置いといて、最後の一人の美浜と作戦を練る。
「次も同じ感じじゃ、俺たちは戦力になれそうにないな」
「……僕が思うに、やっぱり指揮系統が構築されてないのがマズいんだと思う。伊織が全てに決定権を握って、馬は何も考えず言われた通りに動く。その形が一番安定するんじゃないか」
「責任重大だな、それ」
「まあ僕たちはまだ一年だし。大事なところは上級生が決めてくれるだろ」
 ひとまずの作戦を立て、最終戦へ臨む。俺が一本取れるかはもはや怪しいけど、どうせなら吉見さんには良い知らせを持って帰りたい。
 一戦目と同じ位置で待機し、開戦を待つ。相手はD組。俺たちよりも鮮やかにC組を降して勝ち上がってきたそうだ。
 やがて、空砲が鳴る。
 合戦は一戦目より苛烈に推移した。両軍共に有力な騎馬が早々に斃れ、戦いは泥沼の膠着状態へ。それでもじりじりと騎馬の数は減っていく。自分たちがまだ生き残っているのは偶然以外の何物でもないだろう。
「ちょ、なんかD組の連中B組より怖いんだけど!? こういうとき前面って損だよな!」
 合戦の矢面に立たされている三宅は、俺と同じかそれ以上に恐怖を感じているかもしれない。吉見さんも背が高かったけど、三宅とぶつかり合う相手はそれ以上に大きいはずだ。
「おい伊織、マークされてる。これは避けられないからなんとか味方が来るまで耐えてくれ」
 予感した通り、三年生の騎馬に目をつけられた。間もなく接敵し、三宅は頭一つ分は大きな相手に体当たりを食らった。
 下もそうだが、俺だって何秒もつかわからない。絶体絶命の状況下、俺は心の中で吉見さんに教わったことを思い起こしていた。

「やっぱりさ、近距離の読み合いで大事なのは目線だよね」
「目線ですか?」
「そう。相手の息遣いもわかる距離だと、どこを見ているかを観察するだけでかなりの情報が読み取れる。相手が素人ならそれで済むんだけど、慣れているとフェイントも使ってくるから騙し合いだ。相手も様子を伺われてるのはわかっているから、必死に目的を読み取られないよう工夫してくる。こっちはそれを探りながら、同時に狙いを気取られないように騙しを混ぜる。ま、実際はコートの盤面とか色々な要素があるから相手の目だけで全部決めてるんじゃないけどね」

 ――ポイントは、目線。それを胸に刻み、俺は思い切り『目を泳がせた』。
 パニックになっているのを装う。いや、実際半狂乱なのは確かなんだけど。でも狙い通り、相手はパニック状態の可哀そうな一年など余裕と考え勝負を決めようと手を伸ばしている。
 正直なところ、一つだけ勝算がある。けれど一発ネタのようなものだし、急場は凌げても長くはもたないだろう。それを、ここでやるのか――?
 決心がつかないまま、一秒ごとに状況が悪化していく。次の瞬間には、俺たちはもう負けているかもしれない。どうする――?

「伊織くーん! 大丈夫だ! やってやれー!」

 遠くから俺を呼ぶ声が聞こえた。体育祭の喧騒の中でも、その声は確かに届いた。
 これでもう、俺の決心は揺らがない。
「……悪い三宅。俺は耐えられそうにない」
「マジか。まあ良い、怪我するよりはマシだ、さっさと鉢巻き渡して降参し――」
「代わりに、お前が耐えてくれ!」
 身を引くだけでは詰められる。頭で避けようとしても、髪の毛を掴まれればおしまいだ。だから俺は、上へ逃げる。
 その場で騎馬を組む手を蹴り、軽い跳躍。鉢巻きめがけ伸びた手は代わりに俺の体操服を掴む。相手は瞬時に失敗を理解したが、体勢を立て直すのに一瞬の隙が生まれる。
 一瞬の浮遊の後、再び騎馬たちの手に俺の体重がかかる。ここが心配だったが、三人とも何とか耐えてくれた。ここで勝負を決める。
 無我夢中で伸ばした手は、いやにあっさりと相手の鉢巻きを奪った。
「嘘……俺、勝てた。やった! やったよ吉見さん!」
 声のした方を向いて、吉見さんの姿を探す。探し人はすぐに見つかった。こんな季節なのに帽子をかぶってマスクまでつけているから、逆に目立っている。俺は吉見さんにも見えるように鉢巻きを握った手を大きく振りあげた。
「よくやった、伊織……でも、そういうのは相談してからやってくれ……。もう、ゲンカイ」
 次の瞬間、俺は尻から地面に落下した。ぶつけた身体は痛かったけど、それ以上に充足感に包まれていた。それはきっと、吉見さんが見ていてくれたからだ。