喉の渇きと気怠さで目が覚めた。時計を見ると午後二時を少し回ったところ。いくらなんでも寝すぎた。前までは、遅くとも正午までには確実に起きていたのに、近頃どんどん起床時間が伸びてしまっている。
こうなったのはあの朝に弱い同居人のおかげだ。彼がやってきてから俺の生活習慣に新しく後輩を叩き起こす工程が追加された。そんな日々がもう二週間続いている。
初日こそとんでもない音量のアラームをものともせず寝息を立てていた姿に面食らってしまったが、「普段はここまでではない」という発言通り(正直、あのときは全く信じていなかった)二日目以降は軽い声掛けで目を覚ましてくれた。なんなら最近は起こしてやる前にはもう目が覚めているような日もあり、毛布に埋もれながら「おはよう吉見さん」と声をかけてくる姿は世話の焼ける愛玩動物のように思えなくもない。
いずれは生活環境に慣れて自分で起きられるようになってほしいが、これは体質の問題なのかもしれないし、爆音アラームを止めてほしいというのは俺の要望だから、そこは責任を持つ必要がある。
……いくら年下とはいえ、さすがに甘すぎるだろうか。
自分でも薄々考えてはいる。そこまでやってやる理由はあるのだろうか?
吉見琉仁には、学校に行っていないという明確な引け目がある。怠惰極まる生活を送っているのは明白な事実であるけれど、それでも年下の前では格好つけたいという意地も持っている。
後輩の世話焼きは、要は先輩風を吹かせてプライドを保ちたいだけなのだ。
そこまで自己分析をして、考えるのを止めた。我ながらなんだか情けなくなってくる。後輩の困りごとを利用してマウント取るなんて、すっかり落ちぶれたな、俺は。
朝は三割増しでぼーっとしているとはいえ、きちんと起きて学校に向かう伊織くんと、偉そうに起こしてやってから二度寝を決め込む俺。どう考えても真っ当なのは向こうの方なのに、伊織くんは律儀に毎朝感謝を向けてくれて、その素直さが少し眩しい。
夜はツーリングだったり、社会人チームでプレーしたりで出かけてしまうから、伊織くんと話をするのは朝と夕方の限られた時間だけ。それでも伊織くんが自分に懐いてきてるのがなんとなくわかったし、自分も遅れてできた後輩をそれなりに可愛がり始めている。はじめ婆さんに他所の子供を預かると聞いたときは勘弁してほしいと思ったが、これほど良好な関係が築けているなら及第点は貰っていいんじゃないか。
――お前は先輩面できるような人間じゃないだろうに。
伊織くんのことを考えて浮つきそうになる自分の心に釘を刺す。いくら彼の前で良い恰好をしても、所詮学校に行かないお前は先輩でもなんでもないじゃいか。家でまで学校ごっこに付き合わされる伊織くんの迷惑も考えろよ。
……良くない流れだな。起き抜けから不毛な思考の洪水に流されると、ただでさえ意義のない一日が根っこまで腐り果ててしまう。そうなる前に部屋を出て階下へ降り、顔を洗う。冷水で頭を冷やせば、一時の逃避ではあっても自己嫌悪は引いていった。
爺さんも婆さんも、平日昼間は家にいない。婆さんは趣味が高じた書道の先生を、爺さんは辞め時を見失って家業の墓石商を、七〇代になった今も続けている。二人ともいまだ引退の二文字は頭にない。
婆さんの書道教室には小学生まで通っていたが、じっと筆を握って墨と紙に向かい合うのが性に合わなくてやめてしまった。対して爺さんの商売の方は今でもたまに手伝う。力仕事は、少なくとも書道よりは好ましい。
ひとまず台所で食べ物を見繕う。食パンが二枚残っていたのでオーブントースターに放り込み、焼けるのを待ちつつ冷蔵庫からブルーベリージャムを取り出しておく。
この家では冷蔵庫にブルーベリージャムが常備されている。別にブルーベリージャムが好物という訳でもないのだが、大昔俺が「美味しい」と言って食べていたのを二人はずっと覚えていて、俺がこの家に世話になるときはいつも買ってくる。どうして年寄りというのは最近のことはすぐ忘れるのに、昔のどうでもいいことは律儀に記憶しているんだろう。
焼けたパンにそれぞれジャムとバターを塗って簡単なサンドイッチにして、コップに牛乳を注ぐ。健康的とは言えないが、これでそれなりのカロリーは摂取できる。
食べようとダイニングテーブルに移動すると、テーブルの隅に俺宛ての郵便物が置いてあるのが目に留まる。ああ、模試の結果か。
学校にはもう行っていないけれど、学業を放棄したわけではない。むしろ現状に対して結構しっかり焦っていて、自宅学習は欠かしていないし、こうして全国模試を受けて自分のレベルを把握することにも余念がない。
結果を確認すると、まあ上の下と言ったところ。高二の春から受験を見据えて動いている意識の高い連中の内でこの成績ならひとまず頭を抱えなくても良さそうだが、安心できるレベルでもない。まだ本格的に受験競争に参入していない部活組が急激に成績を伸ばして強力なライバルになることだって十分あり得る。ただでさえ自分でハンデを背負っているようなものなのだから、油断は厳禁だ。
それにしても、まさか自分が高校二年生になっているとは思わなかった。てっきり出席日数が足りなくて留年しているものだと思っていたが、伊織くんがうちにやってきた日に彼を経由して手元に渡ってきた書類から、自分がまだ学校に見捨てられてないことを知った。
本来ならば留年だったが、定期テストだけは保健室登校して受けていて、それなりに優秀な成績を納めていたことでお情けの進級が許された……察するに、俺の処遇はこんなところだろう。ありがたい話ではあるのだが、いつ辞めようかと思っていたのにかえって辞めにくくなってしまった。
もし俺が留年していたら、伊織くんとは同級生になっていたのか。そうしたら、彼と自分の関係性は今と少し違っていたものになっていたのだろうか。そんな益体のないことを考えながら、少し冷めたサンドイッチを頬張った。
「吉見さん、ちょっといいですか?」
その日の夜、夕方から崩れ始めた天気に暇を持て余していたら伊織くんに部屋の外から声をかけられた。彼の方から部屋まで呼び掛けてくるのは初めてのことだ。
「どうしたの」
ドアの隙間から廊下を除くと、寝間着姿の伊織くんが学校の教科書を抱えて立っていた。
「吉見さんって、実は結構勉強出来る方だったりします?」
「ええ……? まあ、できなくはない、と思うけど」
曖昧な返答だったが、伊織くんは顔をぱっと輝かせて
「やっぱり! 実は今朝、模試の通知が来てたのを見ちゃったんですよ。あそこってかなりレベル高い試験をやってる予備校じゃないですか。それで吉見さんって実はかなり頭良いのかなって」
あんな場所に置いてあれば伊織くんの目にも入るか。しかし期待させすぎるのも良くない。勉強に自信がないわけではないが、そもそも今の高校にだってスポーツ推薦で入ったわけで。家でペンを握るようになったのなんか学校に行かなくなった後の話だ。
「試験を受けるだけなら誰でもできるよ。模試は受けたけど、俺の成績は最下位クラスかもとか、思わなかった?」
「それはそうですけど……でも、さっき勉強できなくはないって言ってましたよね」
「できなくはない」程度で良いのなら……聞くだけ聞いてみるか。まさか今から大学選びを迷っているみたいなハイレベルな悩みにも見えないし。
「ごめんごめん、ちょっと意地悪いこと言った。それで、用事は何? 勉強を見てもらいたいとか?」
ひとまず伊織くんを部屋の中に入るよう促し、適当なところに座らせる。伊織くんはなんだか照れたように腰を下ろし、あちこちに視線を這わせる。
「そんなに見ても珍しいものはないよ」
「ええっと……そんなにわかりやすいですか、俺って」
「結構わかりやすいよ」
「……ごめんなさい。ちょっとはしゃいでました」
伊織くんは照れたように顔を俯かせてしまう。そういえば、伊織くんの部屋は何度か入ったけど、二人でこっちの部屋にいるのは初めてだ。もっとも、本当にありふれたものしか置いてない部屋だから伊織くんが何に興味を持って部屋を眺め見ていたのはわからない。
「俺、弟や妹はいても兄や姉はいなくて。年上の部屋って経験ないんですよね」
「そんなに歳離れてないし、君の部屋と似たようなものじゃない?」
「いや全然! 前いた実家では弟たちと一緒で、至るところにシール貼られて全然自分の部屋って感じしなくて。今の部屋はまだ物が少ないから、この部屋参考にしていいですか? 大人っぽい感じ目指したい!」
「別にいいけど、この部屋のどこが大人っぽいと思うの?」
訊くと、伊織くんは俺が普段着ているライダースジャケットが吊るしてあるハンガーラックを指差して「あれとか、大人っぽいじゃないですか!」と心底楽し気に笑う。この二週間で、伊織くんの言葉遣いは徐々に距離が近づいてきている。それは無意識的なものではなく、会話の流れを読んで意識的に距離を詰めていると感じる。彼の方も色々考えながら親しくなろうと手を伸ばしているんだろう。俺に屈託がないと言えば噓になるが、それを無碍にはできない。
「ま、俺の部屋チェックも良いけどさ。目的は勉強なんだろ?」
「そうでした。えっと、吉見さんって去年の今頃は学校に通ってたんですよね?」
「そうだな。去年の九月までは」
もっとも、九月の大部分は病院にいたから、実質夏休み前までしか行ってなかったけど。
「中間テストの過去問って持ってたりしませんか? 今の学校、結構無理して入ったんでテスト自信が無いんですよね……」
なるほど。この時期後輩が先輩に用があるとすれば、こういう話になるよな。幸い、手元には去年受けたテスト問題と模範解答が三学期末の分まで残してある。今となっては誰のためにというのでもないのだが、惰性でファイリングは続けていた。言わばそれは形骸化した習慣のようなものだ。日の目は浴びないと思っていたが、意外なかたちで役立ってくれるなら報われる。
ちょっと待ってて、と言いかけて思考が止まる。過去問を纏めたファイルは押入れの中だが、伊織くんのいるこの状況で開けるのはできれば避けたい。なんとか話を逸らそうと話題を探す。
「過去問を渡すのは良いけど、伊織くん自信がないってどのレベル?」
「うーん……自分では基礎はできてると思うんですけど」
「応用問題になると躓くって感じかな」
「そうなんです。方程式を当てはめるだけなら大丈夫だけど、図形とかグラフとかが出てくると途端に。英語も、読み書きは行けるんですけどリスニングや発音がダメで」
話を聞いてみると、伊織くんは基礎を大事にするあまりその部分にばかり力を注いでしまっている印象を受ける。何事も基礎練習が大事なのは確かだが、難しい課題に挑戦して成功体験を積んでいかなければ実力がついても精神(こころ)がついていかない。自分の能力を過信して難問に挑戦し、挫けてしまうのも考え物だが、彼にはその心配は無用だろう。少し高望みな受験をパスしたという事情で自分の能力を過小評価しているのかもしれない。
「たしかに過去問で雰囲気掴んどくのも良いけど、演習量が足りてないんじゃないかな。良かったら俺が使ってた問題集あげようか? まとめて持っていくから先に自分の部屋に戻っててよ」
アドリブだったけどなんとか場所を変えられそうだ。伊織くんは「ありがとう、吉見さん!」と嬉しそうに自室に戻っていった。悪いけど、まだ君に押入れの中身は見せられない。あんなに純粋に好意を向けてくる相手には自分の恥部など晒せない。
――さて、と。
重い腰を上げて押入れの引き戸を開ける。中にあるのはバスケットボールにユニフォーム。トロフィーや賞状、昔の仲間と撮った写真。その他今視界に入れたくないもの全般。かつて俺を形成していたもの全ての残骸がここにある。
じくり、と足が痛む。本当に痛いのか錯覚なのか、それすらももう自分にはわからない。
目当ての過去問集は、部活で使っていた練習ノートを仕舞った段ボール箱の中にある。俺のいたバスケ部は勉学にも厳しかった。補修を受ける羽目になればその分練習時間が減るし、万が一夏期講習にでも呼ばれようものなら試合に出ることも危うくなる。
だからテスト前は部員がなんとかこの山を乗り越えようと団結して事に当たる。お互い苦手分野を教え合って補ったり、いずれやってくる後輩の為に過去問を保存したり。みんな机に向かうより身体を動かしたいやつばかりだから、勉強会が気づけば即興の1on1になってたりして、それはそれで楽しかった。
……ああ、楽しかったんだな、俺。
自ら捨て去っておいて郷愁を感じるのも身勝手な気がするけど、おかげで妙に伊織くんに甘くなる理由が分かった。結局のところ、誰かの世話を焼くのが好きなんだ。それは一人でいては決して満たせない欲求だ。
自分の能力を高めるのは好きだ。そうして周りに影響を与えて、みんなでどんどん高みに上っていくのが好きだ。努力が裏切らないとは限らないけれど、一人が努力する姿を見せれば集団の雰囲気がプラスの方に向かっていくのは確かだ。そういう世界に身を置くのが好きだ。
……未練タラタラか、なっさけねぇ。でもま、今回は伊織くんにとってもプラスになりそうだし、良しとするか。
あまり待たせて戻ってこられても困る。中間の過去問と去年使っていた市販の問題集をいくつか選んで、伊織くんの部屋に向かう。
「遅かったですね。探させちゃいました?」
「ううん、ちょっと懐かしくなって見ていただけ。今日は雨で出かける気もないし、寝るまで勉強付き合うよ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
屈託のない笑顔を見せられて心が痛む。こうして好意を向けられるのは純粋に嬉しいんだけど、自らの意思で捨てたはずの青春を、みっともなく拾い集めようとしている自分の行動が惨めな気持ちになってくる。
だからせめて伊織くんのことを、本来バスケ部で迎えるはずだった後輩の代替品などではなく、一人の後輩として真摯に向き合おうと思った。
六月を目前に控え、日中は急激に暑くなり始めていた。今日は中間テスト最終日、伊織くんは昨夜も遅くまで勉強していた。その成果を出し切れていればいいが。
とはいえ、勝負の日であるのは俺も同じだ。例の茶封筒には「授業は受けなくてもテストは今まで通り受けに来ておけ」という指示も書かれていた。それでどうにかなる話ではない気がするが、テストを受けるくらい減るものでもないので一般の生徒に遅れてのんびり学校に向かう。制服に袖を通すのは久しぶりだ。制服の移行期間とか覚えてないけど、今はまだ冬服で良いんだよな?
この時間に制服姿で出歩くと補導される恐れがある。ただでさえ長身と長髪で目立つのでなるべく存在感を消して歩きたいのだが……俺の見た目で背中を屈めて歩いていたら余計に誤解を招くかもしれない。シンプルに柄が悪い。
幸い補導を受けることはなく学校までたどり着いた。なるべく知り合いと顔を合わせないように、裏口を選んで校内に入る。もう半年以上不登校をしているので、侵入はスマートだ。
「おはようございまーす」
スリッパをぱたぱたとさせて保健室までたどり着き、元気よく挨拶。我ながら堂に入った保健室登校だ。
「吉見君、保健室ではお静かに」
保険医が俺に顔も向けずに注意する。この先生はそれなりに美人と評判だが、生徒と仲良くなりすぎないようにと妙にそっけないを取る人だ。こちらもこちらで、もう俺への対応は慣れたものだ。
「ごめんなさーい。でもこんな日にわざわざ保健室に来る人いないでしょ? 今まで一度もいなかったし」
「今までがそうでも、今日がどうかはわからないでしょ」
もっともな正論で怒られてしまったので、大人しく席に着く、
「じゃ、まずは国語からね。問題はそこに置いてあるけど、タイマーで時間測るから。よしって言うまで開いちゃだめよ」
3,2,1……よし。合図と同時に問題をめくり、解答欄を埋めていく。
事情があってテストが受けられない生徒にはこういった形でテストを受けることが認められている。俺の場合、全教科一身上の都合による欠席なので、この形式のテストが夕方まで連続で続いていく。本来何日かに分けて実施されるものを一日でこなすことになるのでハードスケジュールなのは確かだが、自業自得なので文句も言えない。
そういえば、学校に文理どちらのコースに進むか言ってなかったな。どういう扱いになっているのだろうと疑問に思いながらテストをこなしていたが、どちらに転んでも良いようにという考えからか、なんと文理両方の科目がフルセットで襲い掛かってきた。まともに休み時間を取っていては終わらないので、昼食もそこそこに丸一日テストに向き合うことになってしまった。
「お、終わりました……」
最後の世界史を片付けた途端、糸が切れたように机に倒れ込む。並よりはタフな自信があったが、これは堪える……。
文理幅広くカバーしていたつもりだが、物理や化学、それに倫理なんかは一年で履修できる教科の延長線上にいない為ノーマークだった。勉強していないのだから、当然厳しい戦いとなる。
さすがに化学か物理のどっちかは後で参考書を買ってきた方が良いな……いやそれより次回もこの量を出されては死んでしまう。はやめに文理選択くらいは担任に伝えておくか……いや、待てよ。二年に上がっているということは、俺もどちらかに学校の判断で編入されているはずだ。それなら、無理に全部の教科でテストを受ける必要もないはずじゃないか?
ふとした疑問を口走ると、保険医が「やっと気づいたか」という顔をしている。不良生徒への学校からのささやかなペナルティだったのかもしれない。「こんな目に遭いたくなければ、ちゃんと学校に来るように」という無言の圧力を感じる。
「まさか本当に全部解いちゃうとは思わなかった。そういうガッツがあるから見捨てられないのよね、君って。なんにせよ、お疲れ様」
答案の束を抱えて職員室まで保険医を見送り、保健室に一人取り残される。普段であればこのまま帰宅、もしくは保健室のベッドで軽く寝かせてもらうところなんだけど。
ちょっとした悪戯心で、俺は携帯を取り出して伊織くんに電話を掛けることにした。せっかく学校に来たのだし、ここで顔を合わせてみるのも面白そうじゃないか。
『先輩? 電話をかけてくるなんて珍しいですね』
「勉強の成果が出たか気になって」
『ばっちりでした。自己採点はまだなんですけど、結構自信があります』
「それは結構。ところで、今暇?」
『すみません……今日は外せない用事がありまして』
断られて初めて、自分が断られる想定を全くしていなかったことに気づく。けれど、伊織くんにも都合というものがあるのだから当然だ。それにきっと、昼間の用事は朝と夜にしか会わない俺よりも優先されるべき用事に違いない。
『今日は部活に寄ってから帰ろうと思って予定いれちゃったんで、ちょっと遅くなっちゃいますね……待てますか?』
「用事って学校の中なの?」
『そうですけど』
「じゃあ、今から保健室に来てみて。面白いものが見れるかもよ」
どういうことかを聞いてくる伊織くんを無視して通話を切る。伊織くんなら、こういう呼びつけ方をすればきっと来る。
間もなく、保健室のドアが開かれ怪訝そうな顔をした伊織くんが入ってくる。あ、目が合った。
一瞬伊織くんは自分が何を見ているのか理解できないようだったが、すぐに驚きの声を上げて近づいてくる。
「吉見さん? 何やってるんですかこんなところで。ていうか、ええ? 制服?」
「そ、実は俺も裏でこっそりテストを受けていたのです。びっくりした?」
「そりゃ、びっくりしますよ……うあ、なんだか吉見さんの制服姿、見慣れなくて違和感凄い」
「いつもより先輩の威厳感じる?」
「というより、ものすごいコスプレ感……」
コスプレ、ときたか。いちおう、現役男子高校生なんだけどな。
「あの、記念に一枚とって良いですか? すっごいレアなので!」
特に拒否する理由もないのでオーケーすると、吉見君は鞄から高価そうなデジタル一眼レフカメラを取り出した。てっきり携帯で撮るのかと思ったが、思ったより本格的だ。
「凄いカメラ持ってるね。もしかして部活って?」
「はい、写真部です。カメラ自体は小学生の頃から持ってるんですけど、部活は高校から。……はい、撮りますね」
撮影が趣味とは聞いていたけれど、思っていたよりだいぶ本格派だ。ていうか、撮りますといきなり言われてもどうすればいいのかわかんねーって。適当にポージングを取ってみるけど、これでいいのか?
「ぷ……吉見さん、なんですかそれ! 真面目にやってくださいよー」
「え、結構真面目だって。ほら、こうやって髪かき上げるポーズとかどう?」
「吉見さんは普通で良いんです! ほら、もっと自然な感じで」
自然と言われるとかえって自然がわからなくなる。結局伊織くんが満足するまで付き合わされてしまった。
「あ、もうこんな時間だ。吉見さん、俺そろそろ行くね」
「うん。先約があるって言ってたよね。ごめんね、無理に呼びつけて」
伊織くんで遊ぶつもりがかえって遊ばれてしまったが、楽しい時間は過ごせた。俺の用事は済んだのだが、伊織くんは俺に意外な提案をしてきた。
「これから部に依頼があった撮影なんですけど、吉見さんも一緒に来ます?」
「いいの?」
「はい! 俺、吉見さんに趣味のこと話したことなかったし。この機会に知ってもらいたいなって」
そんな風に言われたら断れない。あまり学校に長居するつもりはなかったが、つい頷いてしまった。
「じゃあ一緒に行こうか。撮影場所は?」
「ちょっと意外かもしれませんけど……プールです!」
若原高校のプールは体育館の入っている別棟の最上階に位置している。プールまで行くのに必ず体育館の横を通過しなければいけないので、そのときは知り合いに出くわさないかと身を強張らせていた。
「俺、この学校のプール見るの初めてなんですよね。噂じゃすっごいって聞きましたが」
「いいや、すっごいなんてものじゃない。すっっっっごいぜ」
階段を上りながら伊織くんと話すことで、ようやく体の緊張が取れてくれた。伊織くんは俺の些細な変化には当然気が付かず、まだ見ぬプールへ期待を膨らませている。
わが校のプールは五〇メートルのコースが六レーン。一般的な二五メートルプールよりも大きく、このプールを目当てに入学してくる人もいるという話だ。さらに屋上は開閉型で、雨の日でも構わず使用できるし、天気のいい日は屋外プールのような気分で泳げる。
「うわあ……ほんとに大きいんですね」
実際目の当たりにした伊織くんも心なしか声が弾んでいる。まだ授業ではシーズン外だが、水泳部はオールシーズン使っているので今日もプールサイドには塩素の匂いが漂っている。
「もしかして、写真部の子?」
プールサイドを見物していたら、男子生徒が声をかけてきた。まだ制服姿だが、髪の脱色具合から察するに彼も水泳部だろう。彼は伊織くんと俺を交互に見ると不思議そうに顔を傾ける。たしかに、カメラを持った伊織くんと俺の並びは事情を知らなければ不思議な取り合わせに見えるだろう。
「えっと、彼は……助手です。撮影の手伝いに来てもらいました」
「助手?」
明らかに変なものを見るような目で見ているが「ドモ、助手っす」と適当に話を合わせておく。気にはなるが口を挟むほどではないと判断されたのか、彼もそれ以上追及はしてこず「水泳部三年の瀧です。今日はよろしくね」と伊織くんの肩を叩いた。
「……」
「どうしたの」
あの瀧という水泳部員の対応に思うところがあったのか、伊織くんは何か納得がいかなそうな表情だ。
「吉見さんもそうだけど、なんでみんな俺の肩叩くんだろう。そんなちょうどいい位置にあるの、俺の肩」
「……ま、男子はこれから身長伸びるよ。俺も一年で五センチは伸びたし」
「今俺、身長の話してないです」
フォローしたつもりがかえって虎の尾を踏んでいた。なんなら俺はたまに頭を撫でそうになっていたことは黙っておこう。
「ところで、撮影ってどんなの?」
「卒アル用です。集合写真はもちろんプロの方を呼ぶんですけど、普段の活動写真は写真部が撮った写真も採用できるので、たまに呼ばれるんです」
そんなシステムだったとは知らなかった。去年、俺らは呼んだことなんてあったっけ。
しばらく記憶を探っていたら、気が付いたら伊織くんが隣からいなくなっていた。慌ててプールサイドを探すも、姿が見当たらない。プールでは水泳部員たちがテスト勉強の鬱憤を晴らすかのようにのびのびと泳いでいる。
「あれ……伊織くん?」
「はい、呼びましたか?」
声がした方へ顔を向けると、なぜか伊織くんも学校指定の水着姿になっていた。水着とカメラのアンバランスさは、制服を着た俺に引けを取らないと思う。
「その恰好……なに?」
「俺も一緒に入るんです。泳ぐところをこの防水カメラでパシャリと。ダイナミックに!」
よくわからないけど伊織くんが心底楽しそうだから、まあいいか。
伊織くんはそのままカメラを持って水泳部員たちの群れに突撃していき、水飛沫も構わずシャッターを切りまくっている。その姿は朝の寝起き時のような子供っぽさはそのままに、自分の好きなことに脇目も振らず邁進する意思の強さが感じられる。それは、いつの間にか俺が零れ落としてしまったもののような気がした。
……うわ、潜水して真下から撮影してる。よく息続くなあれ。
「あれは写真部にしておくのがもったいないな。あれだけ潜水できるなら磨けば光りそうだ」
横で見ていた瀧さんが称賛の声を上げる。専門じゃないから知らないけど、彼が言うなら本当に伊織くんには水泳の才もあるのだろう。
そういえば、この人は泳がないんだろうか。ずっとプールサイドで部員たちを見守っており、時折声をかけているのは見たが一向に更衣室に向かう気配はない。
「あの……プールには入らないんですか?」
俺の疑問に彼は困ったように笑うと、腿のあたりを手で叩いた。
「怪我だよ、怪我。足痛めちまってね。しばらくは裏方さ」
瀧さんの言葉にはっとする。馬鹿なことを聞いた。いくら手持ち無沙汰だったとはいえ、これはない。自分に限って、こんな質問を軽率にするべきじゃなかった。今自分が一人だったら間違いなく頬を叩いていた。だって、自分もおんなじだから。
傍で仲間が練習しているのをただ見ているしかないときの気持ちはよくわかる。悔しくないわけがない。心穏やかでいるはずがない。ましてや三年生だ。一番重要な時期に怪我で退くことの絶望は俺でも計り知れない。
「……すみません、失礼なことを聞いて」
「いや構わないよ。スポーツと付き合う以上、向き合わなきゃいけないことだからな」
この先輩は俺よりはるかに達観していた。現状を嘆くことなく受け止め、再起を図ろうとしている。それができずに逃げた自分とは大違いだ。
「……怖くなったりしませんか」
「怖いって、復帰できないことがか?」
「それもありますけど、自分の心が変わってしまうのが」
俺が怪我をして部活に出れなくなったとき、その穴を埋めようとチームメイトがより一層奮起してくれた。最初はそれが純粋に嬉しかった。……けれど、徐々に素直に喜べなくなっていった。
――本来なら、そこに立っていたのは俺なんじゃないか?
そんなことは考えるべきじゃない。結果としてそこに立っているのが自分でないのなら、それが全てだ。そうわかってはいるのだけど、仲間たちの活躍を見ていると、ふっと魔が差してしまう。怖いのは、怪我が治らないことでもない。復帰したとて周りに追いつけない、ということでもない。
今日は笑顔で仲間たちを労えた。でも明日は? もっとその先は? そう考えてしまうと、途端に明日を思うのが怖くなった。俺は明日も仲間に同じ顔を向けられるだろうか。また次の日の俺は今日までと同じ吉見琉仁でいられるだろうか。
いつか、彼らに酷い暴言を吐いてしまうんじゃないか……。そうなってしまう可能性が、たまらなく怖い。
上手く伝えられたかはわからないけど、気が付けばそんなことをぽつぽつと話していた。
「……そりゃあ、怖いだろ。嫉妬しない選手は伸びない。それは敵でも、仲間でもだ」
瀧さんはまっすぐにプールを見つめていた。その瞳は穏やかな口調とは裏腹に鋭い光を湛えているように見える。
「自分は身動きが取れないってのに、周りはお構いなしに先に進んでいく。そこで嫉妬するのは普通だ。それからどうするか、自分の現実と世界の速度にどう折り合いをつけるか。それが大事だと、俺は思っている。俺はプールサイドを離れられなかったが、答えは一つだけじゃないと思う」
「例えば、堪えきれなくてその場から逃げるのも……ですか」
「ははは! 誰よりも早く進んで、逃げ切るスポーツをしている俺にそれを聞くのか? そりゃあ、逃げるのも大事さ。ずっとつかず離れずだけが仲間じゃない。寄り道してみた先にいた何の関係もない誰かが、また昔の仲間と向き合うきっかけになる――一人きりにさえならなければ、そういうこともあるだろうよ」
そのとき、プールの方から声が聞こえた。伊織くんだ。水飛沫が陽光を反射してキラキラしていて、濡れそぼった髪の毛も相まってなんだか別人のように見える。
「すみません、そろそろ確認お願いできますか?」
「おう、お疲れさん。今行く」
瀧さんは怪我など感じさせない確かな足取りで歩きだす。伊織くんの周りは写真を見ようと人だかりができていた。三学年が一緒くたになっているので伊織くんはもみくちゃにされてしまっている。
「伊織くん、こっち」
人だかりから弾き出された伊織くんに手を伸ばす。伸ばした手に、伊織くんの濡れた手の感触が伝わる。
「よっ……と」
腕に力を込めて引き上げる。さすがに長時間の潜水は堪えたのか息の上がっている伊織くんだったが、今までになく満足げだ。視線の先には水泳部員たち。すげーすげーと盛り上がっている様子を見て誇らしそうにしている。
「凄いじゃん。こんな評判のいい写真部ってなかなかいないんじゃね?」
伊織くんはニコっと笑うと「これから修正作業もしなきゃなんですけどね」とはにかんだ。
「それより吉見さんこそ、なんだかさっきよりも顔色が良いですよ」
「そうか? 気のせいだろ」
「そうかなぁ」
写真を撮っているからだろうか。伊織くんは目ざといタイプかもしれない。
「じゃ、俺先に階段のとこで待ってるから。カメラ取り戻して着替えたら合流な」
これ以上何かを感付かれる前に背を向ける。きっと下の体育館では、バスケ部員が活動しているはずだ。けれど、帰り道は来た道よりは怖くなかった。
待つこと十分ほど、更衣室を抜けてしっとりした雰囲気の伊織くんが戻ってきた。
「いやぁ、それにしても良かった、完全防水! この性能は自腹じゃ買えないなぁー!」
あのカメラはどうやら学校の備品だったらしい。支給された部費で購入したものなのだろう。卒業アルバムの撮影にまで影響力を及ぼしていると、相応に羽振りも良くなるのだろうか。
並んで階段を下りる。プールは建物の四階にあるから、階段も結構長い。体育館は建物の二階分までのスペースを占有しているから、二階の踊り場からは体育館の様子がよく見えた。
バスケ部が練習している。知った顔がほとんどだが、新入生らしき見覚えのない生徒も混ざっていた。胸に寂しいような苛つくような、妙な感覚が去来する。そう簡単に割り切れるほど、やっぱり俺は強くない。
けれど、今日は自分の汚い部分を見せられそうなくらいには、勇気が持てた気がする。
「吉見さん?」
二階の広場で下を見下ろし固まっている俺に気づいて、伊織くんが振り向く。
「ちょっと、暗い話するね。悪いんだけど、聞いてくれない?」
「はい? 良いですけど……」
どこから話したものか。けれど、きっと伊織くんが気になっていそうな部分から始めるのが良いだろう。
「伊織くん、俺が何で不登校してるか、気にならない?」
「……そりゃあ、気になりますけど。それって、聞いても大丈夫なんですか」
「まあ、今日は良いかなって。なんだろう、久しぶりに学校に来たからかな」
「じゃあ今聞かなきゃですね。明日になったら気が変わってるかも」
伊織くんは横に並ぶと、じっと俺の言葉を待ってくれた。
「……俺さ、一年前はあそこでああやってバスケしてたんだ」
伊織くんは大して驚かない。別に驚かそうとしてたわけじゃないけど、このリアクションのなさは少し拍子抜け。茶化してくれてよかったんだけど……きっと、真面目に聞いてくれているんだろうな。
「……うん。なんか、凄く想像できる。吉見さん背が高いもんね。エースだったりして」
「一年の中じゃ一番期待されてたよ」
バスケに関することなら、謙遜することなく自信を持って言える。あの頃自分は確かに期待されていたし、そのことを自分でも認識していた。驕りと言われようとも、あのとき一番の有望株が自分だったことは譲れない。
「やっぱそんなだとさ、周りの一年とは露骨に扱いに差が生まれるんだよな。先輩たちからの当たりが俺だけちょっとキツかったり。愛情の裏返しもあっただろうけど、ポジションを積極的に奪いに来ている訳だから、それだけじゃなかったと思う。そんな先輩に追いつきたくて、見返してやりたくて躍起になって、それで……自分の限界を見誤った。足、怪我しちゃってさ」
どこを怪我しちゃったんですか。と大げさに心配する伊織くんを静止しつつ、軽く膝をさする。
「……全然知りませんでした。さっき水から上げてもらうとき体重かけちゃったけど、マズかったんじゃ」
「それは平気。激しく動かさなければ日常生活には問題ないくらいだよ」
日常生活には問題ない、という言葉は、当時の自分には「選手復帰は諦めろ」という死刑宣告のように聞こえて好きじゃなかった。
「それで、学校にも?」
「……ま、しばらくは行ってたんだけど、部活出なくなったら急に学校に行く意味わかんなくなっちゃってさ。気が付けば立派な不登校の出来上がり」
怪我をしてから学校に行かなくなるまでの間は、本当に辛かった。さっきプールで瀧さんにぶつけた悩みが延々頭の中で回転していておかしくなりそうで。
「……そうだったんですか。すみません、こんなところに連れてきてしまって。いやなこと思い出させちゃいましたよね」
「それは良いんだ。逆にすっきりしたし」
「すっきり?」
「そう。バスケ部の奴らは新しい後輩もできて、新しいチームになった。俺にも、なんだかんだで可愛い後輩もできた。あんまり過去に囚われてても意味ねーなって」
「可愛いってなんですかー。ちょっと照れるんですけど。あ、それなら俺も吉見さんのこと先輩って呼んだ方がいい?」
「ん、それはやだな。なんか家の中でまで外での関係持ち込むの、息苦しいでしょ」
そもそも俺が学校に来るのはテストを受けに来る日だけ。伊織くんは今まで通りで良い。今までどおりが良い。
「わかりました……。では、これからもよろしくお願いしますね、吉見さん!」
正直、未練はまだある。きっと一生持ち続けることになる。けれど、今はいったん離れよう。俺は今、一年前には思いもよらなかった道を歩いている。そこには少し手のかかる後輩がいて、なんだかんだで並んで歩いている。ならしばらくは、伊織くんと同じ景色を見てみようと思うんだ。
――たまには学校に来てみるのも、悪くないじゃないか。
こうなったのはあの朝に弱い同居人のおかげだ。彼がやってきてから俺の生活習慣に新しく後輩を叩き起こす工程が追加された。そんな日々がもう二週間続いている。
初日こそとんでもない音量のアラームをものともせず寝息を立てていた姿に面食らってしまったが、「普段はここまでではない」という発言通り(正直、あのときは全く信じていなかった)二日目以降は軽い声掛けで目を覚ましてくれた。なんなら最近は起こしてやる前にはもう目が覚めているような日もあり、毛布に埋もれながら「おはよう吉見さん」と声をかけてくる姿は世話の焼ける愛玩動物のように思えなくもない。
いずれは生活環境に慣れて自分で起きられるようになってほしいが、これは体質の問題なのかもしれないし、爆音アラームを止めてほしいというのは俺の要望だから、そこは責任を持つ必要がある。
……いくら年下とはいえ、さすがに甘すぎるだろうか。
自分でも薄々考えてはいる。そこまでやってやる理由はあるのだろうか?
吉見琉仁には、学校に行っていないという明確な引け目がある。怠惰極まる生活を送っているのは明白な事実であるけれど、それでも年下の前では格好つけたいという意地も持っている。
後輩の世話焼きは、要は先輩風を吹かせてプライドを保ちたいだけなのだ。
そこまで自己分析をして、考えるのを止めた。我ながらなんだか情けなくなってくる。後輩の困りごとを利用してマウント取るなんて、すっかり落ちぶれたな、俺は。
朝は三割増しでぼーっとしているとはいえ、きちんと起きて学校に向かう伊織くんと、偉そうに起こしてやってから二度寝を決め込む俺。どう考えても真っ当なのは向こうの方なのに、伊織くんは律儀に毎朝感謝を向けてくれて、その素直さが少し眩しい。
夜はツーリングだったり、社会人チームでプレーしたりで出かけてしまうから、伊織くんと話をするのは朝と夕方の限られた時間だけ。それでも伊織くんが自分に懐いてきてるのがなんとなくわかったし、自分も遅れてできた後輩をそれなりに可愛がり始めている。はじめ婆さんに他所の子供を預かると聞いたときは勘弁してほしいと思ったが、これほど良好な関係が築けているなら及第点は貰っていいんじゃないか。
――お前は先輩面できるような人間じゃないだろうに。
伊織くんのことを考えて浮つきそうになる自分の心に釘を刺す。いくら彼の前で良い恰好をしても、所詮学校に行かないお前は先輩でもなんでもないじゃいか。家でまで学校ごっこに付き合わされる伊織くんの迷惑も考えろよ。
……良くない流れだな。起き抜けから不毛な思考の洪水に流されると、ただでさえ意義のない一日が根っこまで腐り果ててしまう。そうなる前に部屋を出て階下へ降り、顔を洗う。冷水で頭を冷やせば、一時の逃避ではあっても自己嫌悪は引いていった。
爺さんも婆さんも、平日昼間は家にいない。婆さんは趣味が高じた書道の先生を、爺さんは辞め時を見失って家業の墓石商を、七〇代になった今も続けている。二人ともいまだ引退の二文字は頭にない。
婆さんの書道教室には小学生まで通っていたが、じっと筆を握って墨と紙に向かい合うのが性に合わなくてやめてしまった。対して爺さんの商売の方は今でもたまに手伝う。力仕事は、少なくとも書道よりは好ましい。
ひとまず台所で食べ物を見繕う。食パンが二枚残っていたのでオーブントースターに放り込み、焼けるのを待ちつつ冷蔵庫からブルーベリージャムを取り出しておく。
この家では冷蔵庫にブルーベリージャムが常備されている。別にブルーベリージャムが好物という訳でもないのだが、大昔俺が「美味しい」と言って食べていたのを二人はずっと覚えていて、俺がこの家に世話になるときはいつも買ってくる。どうして年寄りというのは最近のことはすぐ忘れるのに、昔のどうでもいいことは律儀に記憶しているんだろう。
焼けたパンにそれぞれジャムとバターを塗って簡単なサンドイッチにして、コップに牛乳を注ぐ。健康的とは言えないが、これでそれなりのカロリーは摂取できる。
食べようとダイニングテーブルに移動すると、テーブルの隅に俺宛ての郵便物が置いてあるのが目に留まる。ああ、模試の結果か。
学校にはもう行っていないけれど、学業を放棄したわけではない。むしろ現状に対して結構しっかり焦っていて、自宅学習は欠かしていないし、こうして全国模試を受けて自分のレベルを把握することにも余念がない。
結果を確認すると、まあ上の下と言ったところ。高二の春から受験を見据えて動いている意識の高い連中の内でこの成績ならひとまず頭を抱えなくても良さそうだが、安心できるレベルでもない。まだ本格的に受験競争に参入していない部活組が急激に成績を伸ばして強力なライバルになることだって十分あり得る。ただでさえ自分でハンデを背負っているようなものなのだから、油断は厳禁だ。
それにしても、まさか自分が高校二年生になっているとは思わなかった。てっきり出席日数が足りなくて留年しているものだと思っていたが、伊織くんがうちにやってきた日に彼を経由して手元に渡ってきた書類から、自分がまだ学校に見捨てられてないことを知った。
本来ならば留年だったが、定期テストだけは保健室登校して受けていて、それなりに優秀な成績を納めていたことでお情けの進級が許された……察するに、俺の処遇はこんなところだろう。ありがたい話ではあるのだが、いつ辞めようかと思っていたのにかえって辞めにくくなってしまった。
もし俺が留年していたら、伊織くんとは同級生になっていたのか。そうしたら、彼と自分の関係性は今と少し違っていたものになっていたのだろうか。そんな益体のないことを考えながら、少し冷めたサンドイッチを頬張った。
「吉見さん、ちょっといいですか?」
その日の夜、夕方から崩れ始めた天気に暇を持て余していたら伊織くんに部屋の外から声をかけられた。彼の方から部屋まで呼び掛けてくるのは初めてのことだ。
「どうしたの」
ドアの隙間から廊下を除くと、寝間着姿の伊織くんが学校の教科書を抱えて立っていた。
「吉見さんって、実は結構勉強出来る方だったりします?」
「ええ……? まあ、できなくはない、と思うけど」
曖昧な返答だったが、伊織くんは顔をぱっと輝かせて
「やっぱり! 実は今朝、模試の通知が来てたのを見ちゃったんですよ。あそこってかなりレベル高い試験をやってる予備校じゃないですか。それで吉見さんって実はかなり頭良いのかなって」
あんな場所に置いてあれば伊織くんの目にも入るか。しかし期待させすぎるのも良くない。勉強に自信がないわけではないが、そもそも今の高校にだってスポーツ推薦で入ったわけで。家でペンを握るようになったのなんか学校に行かなくなった後の話だ。
「試験を受けるだけなら誰でもできるよ。模試は受けたけど、俺の成績は最下位クラスかもとか、思わなかった?」
「それはそうですけど……でも、さっき勉強できなくはないって言ってましたよね」
「できなくはない」程度で良いのなら……聞くだけ聞いてみるか。まさか今から大学選びを迷っているみたいなハイレベルな悩みにも見えないし。
「ごめんごめん、ちょっと意地悪いこと言った。それで、用事は何? 勉強を見てもらいたいとか?」
ひとまず伊織くんを部屋の中に入るよう促し、適当なところに座らせる。伊織くんはなんだか照れたように腰を下ろし、あちこちに視線を這わせる。
「そんなに見ても珍しいものはないよ」
「ええっと……そんなにわかりやすいですか、俺って」
「結構わかりやすいよ」
「……ごめんなさい。ちょっとはしゃいでました」
伊織くんは照れたように顔を俯かせてしまう。そういえば、伊織くんの部屋は何度か入ったけど、二人でこっちの部屋にいるのは初めてだ。もっとも、本当にありふれたものしか置いてない部屋だから伊織くんが何に興味を持って部屋を眺め見ていたのはわからない。
「俺、弟や妹はいても兄や姉はいなくて。年上の部屋って経験ないんですよね」
「そんなに歳離れてないし、君の部屋と似たようなものじゃない?」
「いや全然! 前いた実家では弟たちと一緒で、至るところにシール貼られて全然自分の部屋って感じしなくて。今の部屋はまだ物が少ないから、この部屋参考にしていいですか? 大人っぽい感じ目指したい!」
「別にいいけど、この部屋のどこが大人っぽいと思うの?」
訊くと、伊織くんは俺が普段着ているライダースジャケットが吊るしてあるハンガーラックを指差して「あれとか、大人っぽいじゃないですか!」と心底楽し気に笑う。この二週間で、伊織くんの言葉遣いは徐々に距離が近づいてきている。それは無意識的なものではなく、会話の流れを読んで意識的に距離を詰めていると感じる。彼の方も色々考えながら親しくなろうと手を伸ばしているんだろう。俺に屈託がないと言えば噓になるが、それを無碍にはできない。
「ま、俺の部屋チェックも良いけどさ。目的は勉強なんだろ?」
「そうでした。えっと、吉見さんって去年の今頃は学校に通ってたんですよね?」
「そうだな。去年の九月までは」
もっとも、九月の大部分は病院にいたから、実質夏休み前までしか行ってなかったけど。
「中間テストの過去問って持ってたりしませんか? 今の学校、結構無理して入ったんでテスト自信が無いんですよね……」
なるほど。この時期後輩が先輩に用があるとすれば、こういう話になるよな。幸い、手元には去年受けたテスト問題と模範解答が三学期末の分まで残してある。今となっては誰のためにというのでもないのだが、惰性でファイリングは続けていた。言わばそれは形骸化した習慣のようなものだ。日の目は浴びないと思っていたが、意外なかたちで役立ってくれるなら報われる。
ちょっと待ってて、と言いかけて思考が止まる。過去問を纏めたファイルは押入れの中だが、伊織くんのいるこの状況で開けるのはできれば避けたい。なんとか話を逸らそうと話題を探す。
「過去問を渡すのは良いけど、伊織くん自信がないってどのレベル?」
「うーん……自分では基礎はできてると思うんですけど」
「応用問題になると躓くって感じかな」
「そうなんです。方程式を当てはめるだけなら大丈夫だけど、図形とかグラフとかが出てくると途端に。英語も、読み書きは行けるんですけどリスニングや発音がダメで」
話を聞いてみると、伊織くんは基礎を大事にするあまりその部分にばかり力を注いでしまっている印象を受ける。何事も基礎練習が大事なのは確かだが、難しい課題に挑戦して成功体験を積んでいかなければ実力がついても精神(こころ)がついていかない。自分の能力を過信して難問に挑戦し、挫けてしまうのも考え物だが、彼にはその心配は無用だろう。少し高望みな受験をパスしたという事情で自分の能力を過小評価しているのかもしれない。
「たしかに過去問で雰囲気掴んどくのも良いけど、演習量が足りてないんじゃないかな。良かったら俺が使ってた問題集あげようか? まとめて持っていくから先に自分の部屋に戻っててよ」
アドリブだったけどなんとか場所を変えられそうだ。伊織くんは「ありがとう、吉見さん!」と嬉しそうに自室に戻っていった。悪いけど、まだ君に押入れの中身は見せられない。あんなに純粋に好意を向けてくる相手には自分の恥部など晒せない。
――さて、と。
重い腰を上げて押入れの引き戸を開ける。中にあるのはバスケットボールにユニフォーム。トロフィーや賞状、昔の仲間と撮った写真。その他今視界に入れたくないもの全般。かつて俺を形成していたもの全ての残骸がここにある。
じくり、と足が痛む。本当に痛いのか錯覚なのか、それすらももう自分にはわからない。
目当ての過去問集は、部活で使っていた練習ノートを仕舞った段ボール箱の中にある。俺のいたバスケ部は勉学にも厳しかった。補修を受ける羽目になればその分練習時間が減るし、万が一夏期講習にでも呼ばれようものなら試合に出ることも危うくなる。
だからテスト前は部員がなんとかこの山を乗り越えようと団結して事に当たる。お互い苦手分野を教え合って補ったり、いずれやってくる後輩の為に過去問を保存したり。みんな机に向かうより身体を動かしたいやつばかりだから、勉強会が気づけば即興の1on1になってたりして、それはそれで楽しかった。
……ああ、楽しかったんだな、俺。
自ら捨て去っておいて郷愁を感じるのも身勝手な気がするけど、おかげで妙に伊織くんに甘くなる理由が分かった。結局のところ、誰かの世話を焼くのが好きなんだ。それは一人でいては決して満たせない欲求だ。
自分の能力を高めるのは好きだ。そうして周りに影響を与えて、みんなでどんどん高みに上っていくのが好きだ。努力が裏切らないとは限らないけれど、一人が努力する姿を見せれば集団の雰囲気がプラスの方に向かっていくのは確かだ。そういう世界に身を置くのが好きだ。
……未練タラタラか、なっさけねぇ。でもま、今回は伊織くんにとってもプラスになりそうだし、良しとするか。
あまり待たせて戻ってこられても困る。中間の過去問と去年使っていた市販の問題集をいくつか選んで、伊織くんの部屋に向かう。
「遅かったですね。探させちゃいました?」
「ううん、ちょっと懐かしくなって見ていただけ。今日は雨で出かける気もないし、寝るまで勉強付き合うよ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
屈託のない笑顔を見せられて心が痛む。こうして好意を向けられるのは純粋に嬉しいんだけど、自らの意思で捨てたはずの青春を、みっともなく拾い集めようとしている自分の行動が惨めな気持ちになってくる。
だからせめて伊織くんのことを、本来バスケ部で迎えるはずだった後輩の代替品などではなく、一人の後輩として真摯に向き合おうと思った。
六月を目前に控え、日中は急激に暑くなり始めていた。今日は中間テスト最終日、伊織くんは昨夜も遅くまで勉強していた。その成果を出し切れていればいいが。
とはいえ、勝負の日であるのは俺も同じだ。例の茶封筒には「授業は受けなくてもテストは今まで通り受けに来ておけ」という指示も書かれていた。それでどうにかなる話ではない気がするが、テストを受けるくらい減るものでもないので一般の生徒に遅れてのんびり学校に向かう。制服に袖を通すのは久しぶりだ。制服の移行期間とか覚えてないけど、今はまだ冬服で良いんだよな?
この時間に制服姿で出歩くと補導される恐れがある。ただでさえ長身と長髪で目立つのでなるべく存在感を消して歩きたいのだが……俺の見た目で背中を屈めて歩いていたら余計に誤解を招くかもしれない。シンプルに柄が悪い。
幸い補導を受けることはなく学校までたどり着いた。なるべく知り合いと顔を合わせないように、裏口を選んで校内に入る。もう半年以上不登校をしているので、侵入はスマートだ。
「おはようございまーす」
スリッパをぱたぱたとさせて保健室までたどり着き、元気よく挨拶。我ながら堂に入った保健室登校だ。
「吉見君、保健室ではお静かに」
保険医が俺に顔も向けずに注意する。この先生はそれなりに美人と評判だが、生徒と仲良くなりすぎないようにと妙にそっけないを取る人だ。こちらもこちらで、もう俺への対応は慣れたものだ。
「ごめんなさーい。でもこんな日にわざわざ保健室に来る人いないでしょ? 今まで一度もいなかったし」
「今までがそうでも、今日がどうかはわからないでしょ」
もっともな正論で怒られてしまったので、大人しく席に着く、
「じゃ、まずは国語からね。問題はそこに置いてあるけど、タイマーで時間測るから。よしって言うまで開いちゃだめよ」
3,2,1……よし。合図と同時に問題をめくり、解答欄を埋めていく。
事情があってテストが受けられない生徒にはこういった形でテストを受けることが認められている。俺の場合、全教科一身上の都合による欠席なので、この形式のテストが夕方まで連続で続いていく。本来何日かに分けて実施されるものを一日でこなすことになるのでハードスケジュールなのは確かだが、自業自得なので文句も言えない。
そういえば、学校に文理どちらのコースに進むか言ってなかったな。どういう扱いになっているのだろうと疑問に思いながらテストをこなしていたが、どちらに転んでも良いようにという考えからか、なんと文理両方の科目がフルセットで襲い掛かってきた。まともに休み時間を取っていては終わらないので、昼食もそこそこに丸一日テストに向き合うことになってしまった。
「お、終わりました……」
最後の世界史を片付けた途端、糸が切れたように机に倒れ込む。並よりはタフな自信があったが、これは堪える……。
文理幅広くカバーしていたつもりだが、物理や化学、それに倫理なんかは一年で履修できる教科の延長線上にいない為ノーマークだった。勉強していないのだから、当然厳しい戦いとなる。
さすがに化学か物理のどっちかは後で参考書を買ってきた方が良いな……いやそれより次回もこの量を出されては死んでしまう。はやめに文理選択くらいは担任に伝えておくか……いや、待てよ。二年に上がっているということは、俺もどちらかに学校の判断で編入されているはずだ。それなら、無理に全部の教科でテストを受ける必要もないはずじゃないか?
ふとした疑問を口走ると、保険医が「やっと気づいたか」という顔をしている。不良生徒への学校からのささやかなペナルティだったのかもしれない。「こんな目に遭いたくなければ、ちゃんと学校に来るように」という無言の圧力を感じる。
「まさか本当に全部解いちゃうとは思わなかった。そういうガッツがあるから見捨てられないのよね、君って。なんにせよ、お疲れ様」
答案の束を抱えて職員室まで保険医を見送り、保健室に一人取り残される。普段であればこのまま帰宅、もしくは保健室のベッドで軽く寝かせてもらうところなんだけど。
ちょっとした悪戯心で、俺は携帯を取り出して伊織くんに電話を掛けることにした。せっかく学校に来たのだし、ここで顔を合わせてみるのも面白そうじゃないか。
『先輩? 電話をかけてくるなんて珍しいですね』
「勉強の成果が出たか気になって」
『ばっちりでした。自己採点はまだなんですけど、結構自信があります』
「それは結構。ところで、今暇?」
『すみません……今日は外せない用事がありまして』
断られて初めて、自分が断られる想定を全くしていなかったことに気づく。けれど、伊織くんにも都合というものがあるのだから当然だ。それにきっと、昼間の用事は朝と夜にしか会わない俺よりも優先されるべき用事に違いない。
『今日は部活に寄ってから帰ろうと思って予定いれちゃったんで、ちょっと遅くなっちゃいますね……待てますか?』
「用事って学校の中なの?」
『そうですけど』
「じゃあ、今から保健室に来てみて。面白いものが見れるかもよ」
どういうことかを聞いてくる伊織くんを無視して通話を切る。伊織くんなら、こういう呼びつけ方をすればきっと来る。
間もなく、保健室のドアが開かれ怪訝そうな顔をした伊織くんが入ってくる。あ、目が合った。
一瞬伊織くんは自分が何を見ているのか理解できないようだったが、すぐに驚きの声を上げて近づいてくる。
「吉見さん? 何やってるんですかこんなところで。ていうか、ええ? 制服?」
「そ、実は俺も裏でこっそりテストを受けていたのです。びっくりした?」
「そりゃ、びっくりしますよ……うあ、なんだか吉見さんの制服姿、見慣れなくて違和感凄い」
「いつもより先輩の威厳感じる?」
「というより、ものすごいコスプレ感……」
コスプレ、ときたか。いちおう、現役男子高校生なんだけどな。
「あの、記念に一枚とって良いですか? すっごいレアなので!」
特に拒否する理由もないのでオーケーすると、吉見君は鞄から高価そうなデジタル一眼レフカメラを取り出した。てっきり携帯で撮るのかと思ったが、思ったより本格的だ。
「凄いカメラ持ってるね。もしかして部活って?」
「はい、写真部です。カメラ自体は小学生の頃から持ってるんですけど、部活は高校から。……はい、撮りますね」
撮影が趣味とは聞いていたけれど、思っていたよりだいぶ本格派だ。ていうか、撮りますといきなり言われてもどうすればいいのかわかんねーって。適当にポージングを取ってみるけど、これでいいのか?
「ぷ……吉見さん、なんですかそれ! 真面目にやってくださいよー」
「え、結構真面目だって。ほら、こうやって髪かき上げるポーズとかどう?」
「吉見さんは普通で良いんです! ほら、もっと自然な感じで」
自然と言われるとかえって自然がわからなくなる。結局伊織くんが満足するまで付き合わされてしまった。
「あ、もうこんな時間だ。吉見さん、俺そろそろ行くね」
「うん。先約があるって言ってたよね。ごめんね、無理に呼びつけて」
伊織くんで遊ぶつもりがかえって遊ばれてしまったが、楽しい時間は過ごせた。俺の用事は済んだのだが、伊織くんは俺に意外な提案をしてきた。
「これから部に依頼があった撮影なんですけど、吉見さんも一緒に来ます?」
「いいの?」
「はい! 俺、吉見さんに趣味のこと話したことなかったし。この機会に知ってもらいたいなって」
そんな風に言われたら断れない。あまり学校に長居するつもりはなかったが、つい頷いてしまった。
「じゃあ一緒に行こうか。撮影場所は?」
「ちょっと意外かもしれませんけど……プールです!」
若原高校のプールは体育館の入っている別棟の最上階に位置している。プールまで行くのに必ず体育館の横を通過しなければいけないので、そのときは知り合いに出くわさないかと身を強張らせていた。
「俺、この学校のプール見るの初めてなんですよね。噂じゃすっごいって聞きましたが」
「いいや、すっごいなんてものじゃない。すっっっっごいぜ」
階段を上りながら伊織くんと話すことで、ようやく体の緊張が取れてくれた。伊織くんは俺の些細な変化には当然気が付かず、まだ見ぬプールへ期待を膨らませている。
わが校のプールは五〇メートルのコースが六レーン。一般的な二五メートルプールよりも大きく、このプールを目当てに入学してくる人もいるという話だ。さらに屋上は開閉型で、雨の日でも構わず使用できるし、天気のいい日は屋外プールのような気分で泳げる。
「うわあ……ほんとに大きいんですね」
実際目の当たりにした伊織くんも心なしか声が弾んでいる。まだ授業ではシーズン外だが、水泳部はオールシーズン使っているので今日もプールサイドには塩素の匂いが漂っている。
「もしかして、写真部の子?」
プールサイドを見物していたら、男子生徒が声をかけてきた。まだ制服姿だが、髪の脱色具合から察するに彼も水泳部だろう。彼は伊織くんと俺を交互に見ると不思議そうに顔を傾ける。たしかに、カメラを持った伊織くんと俺の並びは事情を知らなければ不思議な取り合わせに見えるだろう。
「えっと、彼は……助手です。撮影の手伝いに来てもらいました」
「助手?」
明らかに変なものを見るような目で見ているが「ドモ、助手っす」と適当に話を合わせておく。気にはなるが口を挟むほどではないと判断されたのか、彼もそれ以上追及はしてこず「水泳部三年の瀧です。今日はよろしくね」と伊織くんの肩を叩いた。
「……」
「どうしたの」
あの瀧という水泳部員の対応に思うところがあったのか、伊織くんは何か納得がいかなそうな表情だ。
「吉見さんもそうだけど、なんでみんな俺の肩叩くんだろう。そんなちょうどいい位置にあるの、俺の肩」
「……ま、男子はこれから身長伸びるよ。俺も一年で五センチは伸びたし」
「今俺、身長の話してないです」
フォローしたつもりがかえって虎の尾を踏んでいた。なんなら俺はたまに頭を撫でそうになっていたことは黙っておこう。
「ところで、撮影ってどんなの?」
「卒アル用です。集合写真はもちろんプロの方を呼ぶんですけど、普段の活動写真は写真部が撮った写真も採用できるので、たまに呼ばれるんです」
そんなシステムだったとは知らなかった。去年、俺らは呼んだことなんてあったっけ。
しばらく記憶を探っていたら、気が付いたら伊織くんが隣からいなくなっていた。慌ててプールサイドを探すも、姿が見当たらない。プールでは水泳部員たちがテスト勉強の鬱憤を晴らすかのようにのびのびと泳いでいる。
「あれ……伊織くん?」
「はい、呼びましたか?」
声がした方へ顔を向けると、なぜか伊織くんも学校指定の水着姿になっていた。水着とカメラのアンバランスさは、制服を着た俺に引けを取らないと思う。
「その恰好……なに?」
「俺も一緒に入るんです。泳ぐところをこの防水カメラでパシャリと。ダイナミックに!」
よくわからないけど伊織くんが心底楽しそうだから、まあいいか。
伊織くんはそのままカメラを持って水泳部員たちの群れに突撃していき、水飛沫も構わずシャッターを切りまくっている。その姿は朝の寝起き時のような子供っぽさはそのままに、自分の好きなことに脇目も振らず邁進する意思の強さが感じられる。それは、いつの間にか俺が零れ落としてしまったもののような気がした。
……うわ、潜水して真下から撮影してる。よく息続くなあれ。
「あれは写真部にしておくのがもったいないな。あれだけ潜水できるなら磨けば光りそうだ」
横で見ていた瀧さんが称賛の声を上げる。専門じゃないから知らないけど、彼が言うなら本当に伊織くんには水泳の才もあるのだろう。
そういえば、この人は泳がないんだろうか。ずっとプールサイドで部員たちを見守っており、時折声をかけているのは見たが一向に更衣室に向かう気配はない。
「あの……プールには入らないんですか?」
俺の疑問に彼は困ったように笑うと、腿のあたりを手で叩いた。
「怪我だよ、怪我。足痛めちまってね。しばらくは裏方さ」
瀧さんの言葉にはっとする。馬鹿なことを聞いた。いくら手持ち無沙汰だったとはいえ、これはない。自分に限って、こんな質問を軽率にするべきじゃなかった。今自分が一人だったら間違いなく頬を叩いていた。だって、自分もおんなじだから。
傍で仲間が練習しているのをただ見ているしかないときの気持ちはよくわかる。悔しくないわけがない。心穏やかでいるはずがない。ましてや三年生だ。一番重要な時期に怪我で退くことの絶望は俺でも計り知れない。
「……すみません、失礼なことを聞いて」
「いや構わないよ。スポーツと付き合う以上、向き合わなきゃいけないことだからな」
この先輩は俺よりはるかに達観していた。現状を嘆くことなく受け止め、再起を図ろうとしている。それができずに逃げた自分とは大違いだ。
「……怖くなったりしませんか」
「怖いって、復帰できないことがか?」
「それもありますけど、自分の心が変わってしまうのが」
俺が怪我をして部活に出れなくなったとき、その穴を埋めようとチームメイトがより一層奮起してくれた。最初はそれが純粋に嬉しかった。……けれど、徐々に素直に喜べなくなっていった。
――本来なら、そこに立っていたのは俺なんじゃないか?
そんなことは考えるべきじゃない。結果としてそこに立っているのが自分でないのなら、それが全てだ。そうわかってはいるのだけど、仲間たちの活躍を見ていると、ふっと魔が差してしまう。怖いのは、怪我が治らないことでもない。復帰したとて周りに追いつけない、ということでもない。
今日は笑顔で仲間たちを労えた。でも明日は? もっとその先は? そう考えてしまうと、途端に明日を思うのが怖くなった。俺は明日も仲間に同じ顔を向けられるだろうか。また次の日の俺は今日までと同じ吉見琉仁でいられるだろうか。
いつか、彼らに酷い暴言を吐いてしまうんじゃないか……。そうなってしまう可能性が、たまらなく怖い。
上手く伝えられたかはわからないけど、気が付けばそんなことをぽつぽつと話していた。
「……そりゃあ、怖いだろ。嫉妬しない選手は伸びない。それは敵でも、仲間でもだ」
瀧さんはまっすぐにプールを見つめていた。その瞳は穏やかな口調とは裏腹に鋭い光を湛えているように見える。
「自分は身動きが取れないってのに、周りはお構いなしに先に進んでいく。そこで嫉妬するのは普通だ。それからどうするか、自分の現実と世界の速度にどう折り合いをつけるか。それが大事だと、俺は思っている。俺はプールサイドを離れられなかったが、答えは一つだけじゃないと思う」
「例えば、堪えきれなくてその場から逃げるのも……ですか」
「ははは! 誰よりも早く進んで、逃げ切るスポーツをしている俺にそれを聞くのか? そりゃあ、逃げるのも大事さ。ずっとつかず離れずだけが仲間じゃない。寄り道してみた先にいた何の関係もない誰かが、また昔の仲間と向き合うきっかけになる――一人きりにさえならなければ、そういうこともあるだろうよ」
そのとき、プールの方から声が聞こえた。伊織くんだ。水飛沫が陽光を反射してキラキラしていて、濡れそぼった髪の毛も相まってなんだか別人のように見える。
「すみません、そろそろ確認お願いできますか?」
「おう、お疲れさん。今行く」
瀧さんは怪我など感じさせない確かな足取りで歩きだす。伊織くんの周りは写真を見ようと人だかりができていた。三学年が一緒くたになっているので伊織くんはもみくちゃにされてしまっている。
「伊織くん、こっち」
人だかりから弾き出された伊織くんに手を伸ばす。伸ばした手に、伊織くんの濡れた手の感触が伝わる。
「よっ……と」
腕に力を込めて引き上げる。さすがに長時間の潜水は堪えたのか息の上がっている伊織くんだったが、今までになく満足げだ。視線の先には水泳部員たち。すげーすげーと盛り上がっている様子を見て誇らしそうにしている。
「凄いじゃん。こんな評判のいい写真部ってなかなかいないんじゃね?」
伊織くんはニコっと笑うと「これから修正作業もしなきゃなんですけどね」とはにかんだ。
「それより吉見さんこそ、なんだかさっきよりも顔色が良いですよ」
「そうか? 気のせいだろ」
「そうかなぁ」
写真を撮っているからだろうか。伊織くんは目ざといタイプかもしれない。
「じゃ、俺先に階段のとこで待ってるから。カメラ取り戻して着替えたら合流な」
これ以上何かを感付かれる前に背を向ける。きっと下の体育館では、バスケ部員が活動しているはずだ。けれど、帰り道は来た道よりは怖くなかった。
待つこと十分ほど、更衣室を抜けてしっとりした雰囲気の伊織くんが戻ってきた。
「いやぁ、それにしても良かった、完全防水! この性能は自腹じゃ買えないなぁー!」
あのカメラはどうやら学校の備品だったらしい。支給された部費で購入したものなのだろう。卒業アルバムの撮影にまで影響力を及ぼしていると、相応に羽振りも良くなるのだろうか。
並んで階段を下りる。プールは建物の四階にあるから、階段も結構長い。体育館は建物の二階分までのスペースを占有しているから、二階の踊り場からは体育館の様子がよく見えた。
バスケ部が練習している。知った顔がほとんどだが、新入生らしき見覚えのない生徒も混ざっていた。胸に寂しいような苛つくような、妙な感覚が去来する。そう簡単に割り切れるほど、やっぱり俺は強くない。
けれど、今日は自分の汚い部分を見せられそうなくらいには、勇気が持てた気がする。
「吉見さん?」
二階の広場で下を見下ろし固まっている俺に気づいて、伊織くんが振り向く。
「ちょっと、暗い話するね。悪いんだけど、聞いてくれない?」
「はい? 良いですけど……」
どこから話したものか。けれど、きっと伊織くんが気になっていそうな部分から始めるのが良いだろう。
「伊織くん、俺が何で不登校してるか、気にならない?」
「……そりゃあ、気になりますけど。それって、聞いても大丈夫なんですか」
「まあ、今日は良いかなって。なんだろう、久しぶりに学校に来たからかな」
「じゃあ今聞かなきゃですね。明日になったら気が変わってるかも」
伊織くんは横に並ぶと、じっと俺の言葉を待ってくれた。
「……俺さ、一年前はあそこでああやってバスケしてたんだ」
伊織くんは大して驚かない。別に驚かそうとしてたわけじゃないけど、このリアクションのなさは少し拍子抜け。茶化してくれてよかったんだけど……きっと、真面目に聞いてくれているんだろうな。
「……うん。なんか、凄く想像できる。吉見さん背が高いもんね。エースだったりして」
「一年の中じゃ一番期待されてたよ」
バスケに関することなら、謙遜することなく自信を持って言える。あの頃自分は確かに期待されていたし、そのことを自分でも認識していた。驕りと言われようとも、あのとき一番の有望株が自分だったことは譲れない。
「やっぱそんなだとさ、周りの一年とは露骨に扱いに差が生まれるんだよな。先輩たちからの当たりが俺だけちょっとキツかったり。愛情の裏返しもあっただろうけど、ポジションを積極的に奪いに来ている訳だから、それだけじゃなかったと思う。そんな先輩に追いつきたくて、見返してやりたくて躍起になって、それで……自分の限界を見誤った。足、怪我しちゃってさ」
どこを怪我しちゃったんですか。と大げさに心配する伊織くんを静止しつつ、軽く膝をさする。
「……全然知りませんでした。さっき水から上げてもらうとき体重かけちゃったけど、マズかったんじゃ」
「それは平気。激しく動かさなければ日常生活には問題ないくらいだよ」
日常生活には問題ない、という言葉は、当時の自分には「選手復帰は諦めろ」という死刑宣告のように聞こえて好きじゃなかった。
「それで、学校にも?」
「……ま、しばらくは行ってたんだけど、部活出なくなったら急に学校に行く意味わかんなくなっちゃってさ。気が付けば立派な不登校の出来上がり」
怪我をしてから学校に行かなくなるまでの間は、本当に辛かった。さっきプールで瀧さんにぶつけた悩みが延々頭の中で回転していておかしくなりそうで。
「……そうだったんですか。すみません、こんなところに連れてきてしまって。いやなこと思い出させちゃいましたよね」
「それは良いんだ。逆にすっきりしたし」
「すっきり?」
「そう。バスケ部の奴らは新しい後輩もできて、新しいチームになった。俺にも、なんだかんだで可愛い後輩もできた。あんまり過去に囚われてても意味ねーなって」
「可愛いってなんですかー。ちょっと照れるんですけど。あ、それなら俺も吉見さんのこと先輩って呼んだ方がいい?」
「ん、それはやだな。なんか家の中でまで外での関係持ち込むの、息苦しいでしょ」
そもそも俺が学校に来るのはテストを受けに来る日だけ。伊織くんは今まで通りで良い。今までどおりが良い。
「わかりました……。では、これからもよろしくお願いしますね、吉見さん!」
正直、未練はまだある。きっと一生持ち続けることになる。けれど、今はいったん離れよう。俺は今、一年前には思いもよらなかった道を歩いている。そこには少し手のかかる後輩がいて、なんだかんだで並んで歩いている。ならしばらくは、伊織くんと同じ景色を見てみようと思うんだ。
――たまには学校に来てみるのも、悪くないじゃないか。
