桑原さんの家で過ごす最初の一週間は目まぐるしく過ぎていく。朝吉見さんに起こされ、学校へ行き、放課後を友人たちと過ごし、帰ってくるとご飯を食べて吉見さんと少し話、出かけていく姿を見送る。そんな流れを繰り返していたらあっという間に休日だ。
「ふぁああ……まだ眠い」
 こっちはまだまだいくらでも寝れるんだけど、時計の針は容赦なく午後を指し示しているのでとりあえず起きることにして階下に降りてきた。これ以上惰眠をむさぼっているのは魅力的ではあるがもったいない。
「伊織くんおはよう。寝ぐせすごいけど、大丈夫?」
「はぇ!? いたんですか吉見さん!?」
「今帰ってきたとこ。そうだ、なんか食べる? 俺も小腹が減ってるんだよね」
 どこかで一晩過ごしてきたらしい吉見さんはどれどれ……とキッチンを物色するとパンを二切れトースターに突っ込んだ。
「バター派? マーガリン派」
「俺はどちらでも」
「なら良かった。我が家にはマーガリンを置いていない。年寄りはあれを毒だと思っているから」
 じゃあ、なんで聞いたんだろう。
 しばらく、じーっというトースターの動作音を聞きながら窓から庭を眺めてみる。緑はこの一週間で濃さを増し、夏への準備を進めている。
「そろそろ除草剤撒く時期だな」
 吉見さんが、俺の視線を追いかけてそんなことを言う。
「マーガリンはダメで除草剤はアリなんですね」
「ほんとな。あれのほうがよほど毒だろって」
 ぷはっと吉見さんが噴き出した。この人も、こんな風に笑うことあるんだ。いや、そりゃそうか。勝手にクールな大人のイメージを持っているけれど、実際は歳が一つ違うだけなんだ。
「お、焼けた。ジャムの選択肢ならあるよ。ブルーベリーとオレンジ」
「その二択なら、ブルーベリーで」
「へぇ、気が合うじゃん」
 慣れた手つきで食器棚から皿を取り出すと、パンを乗っけて食卓に並べられる。
「いただきます」
 バターとジャムをたっぷりと塗り付けたパンは十分なカロリーが補給できる。栄養バランスを考えるなら副菜にサラダでもあればいいんだろうが、男子高校生の朝飯事情に栄養バランスが考慮されることはほぼない。手早く、それなりに美味ければそれで良い。
「おう、起きて来たかぁねぼすけ。琉仁もいるのか! こりゃちょうどいいや」
 ちょうど二人がパンを食べ終わる頃、桑原さん夫妻が帰宅した。
「なんだよ爺さん。俺たちになんか用?」
 吉見さんの疑問を明子さんが引き取る。
「伊織くんのお部屋のことなんだけどね。一応必要そうなものは置いといたけど、まだまだ殺風景だと思うの。帰って寝るだけの部屋じゃあ寂しいでしょ? だから何か欲しいものを買ってくればって、言おうと思ってたの」
「ええっと……気持ちは嬉しいんですけど、お金が……親からはあんまりお小遣いもらってるわけじゃないんで……」
「大丈夫、お金なら伊織くんのお母さんから頂いてるから。下宿代って言って貰ったのだけど、こんなにたくさん頂けないわ。だから、その分は伊織くんが使って」
「そんな、部屋に食事まで用意して頂いてるので、それは受け取ってください。そんなことしたら俺が怒られます」
「って言うと思ってた」
 俺に遠慮されることを完全に予想していたようで、明子さんは何やら封筒を吉見さんに手渡した。
「はい、琉仁。このお金で伊織くんに何か奢ってあげなさい。年上らしいところ、見せないと」
「……そこで俺の出番かぁ」
 吉見さんは呆れた顔をしながら封筒を受け取る。だいぶ屁理屈だけど、これなら使っても大丈夫……なのか?
「でも俺、今帰ってきたところなんだけど。今日じゃないとダメ?」
「明日は天気予報雨だ。今日だってこの後天気は崩れる。早く行ってこい。だいたいお前はいつだって休みだろう。土日の予定くらい他人に合わせろ」
「……へーい」
「あの、迷惑でしたら俺はいつでも」
「あーうん、平気。全く寝てないわけじゃないから」
 吉見さんの笑顔は気のせいか少し弱弱しいものだった。

 十分後、それぞれ身支度を済ませた俺たちはバス停への道を歩いていた。実はバイクに乗せてもらえないかと密かに期待していたのだが、そんなことにはならなかった。考えてみたら吉見さんは寝不足なわけだし、二人乗りでバイクを運転するなんてありえないか。
 それでも、いつかは乗ってみたいなぁ。
 俺の前を歩く吉見さんは、いつも夜外出するときに着ているようなバイカーファッションではなく、ライトブルーのデニムにベージュのニットというシンプルな格好だ。髪はハーフアップに結んでいて、いつもとは雰囲気が全然違う。俺も変な格好はしていないつもりだけど、『着こなし感』ってやつでだいぶ大きな差が開いてしまっているような気がしてしまう。あれくらい身長があれば何を着ても格好良く着こなせるのかな……。
 あまりに背中を凝視してしまっていたからか、不意に吉見さんは振り返り、
「なに? さっきから視線感じるんだけど」
 うん、しっかりバレていた。
「吉見さんの服、いつものとは違うなーって」
「あー、服? 君に合わせてみたんだけど」
「俺に?」
「うん。あまりにも着る服の系統が離れてると、ちょっと雰囲気浮くかなって」
 たしかに、いつものクールなバイカーファッションでは並んで歩くのは少し気後れしていたかもしれない。わざわざ俺のことまで考えて着る服を考えてきてくれたのはありがたいような、少し気恥しいような……。
「不良が年下脅して連れ回してる、なんて風に見られたら嫌じゃん」
 あー……そういうことかぁ。別に俺のためとかではなく、冤罪をかけられないようにと。中学生のころ、繁華街を三宅と歩いているときパトロール中のお巡りさんに保護されかけた記憶がよみがえる。あまりヤンチャな格好をしていると要らぬ偏見は持たれやすい。
「そういえば、伊織くんはこの辺にはどれくらいだっけ?」
「中二の冬からです。吉見さんは?」
「俺はもう生まれた頃から。高校は婆さんちの方が近いから移り住んだけど、実は実家もけっこう近く」
「じゃあこの辺は地元ってやつですね。いいなー。俺、ずっとあちこち移ってるせいで地元みたいな感覚ってないんです」
 なるべく軽めに言ってみたつもりだけど、実はかなり実感がこもってる。俺は本心から地元とか故郷みたいな感覚が羨ましい。それがただの無いものねだりなのはわかってるんだけど。
「んー。顔馴染みがずっと変わんないってのは、結構窮屈なもんだよ」
「……そうなんですか?」
 それっきり吉見さんは難しい顔をして黙ってしまった。
「吉見さん? あの、すみません。俺、何か気に障ることを……?」
「あー……別に伊織くんが悪いわけじゃないよ。俺こそごめんね」
 謝らせてしまったことで、はっとする。吉見さんは今学校を休んでいる状態だ。例えば、人間関係で問題を抱えてしまっていた可能性だってある。だとしたら、悪気がないにせよ今の発言はデリカシーがない。それくらい考えろよ、俺! 家で会う吉見さんは面倒見が良くて包容力があって……だからつい甘えてしまうけれど、きっと俺の知らない過去に何かがあったはずだ。
 なんとなくぎこちなくなってしまって、バス停に着いてからもお互い会話のきっかけがつかめない。もしかすると、今までは顔を合わす時間が長くなかったから上手くやっていけていると勘違いしてただけで、俺はこの人の好意に甘えてばかりで仲良くなんかなれてなかったんじゃないか。
 どうしよう、それはすごく嫌だ。
 まだ出会って一週間だけど、俺は吉見さんの面倒見の良さに少なからず尊敬の念を抱いている。それはあの日電車で肩を叩いてくれたときからずっと、積み重なっていく一方だ。できることなら、もっと仲良くなりたい。こんな気まずい空気でいるのは嫌だ。
 そんな思いを自覚すると、自分でも不思議な気持ちになる。今まで、こんな風に誰かと積極的に距離を縮めたいと思うことなんてなかった。
 うん。それなら、なおさら自分から行かないと。ここで遠慮してたらもったいない。
「吉見さん。俺、もっと吉見さんと仲良くなりたい」
 バス停の椅子に並んで座っていて、俺が急にそんなことを言うから吉見さんはちょっと戸惑った顔をしている。ちょっと唐突すぎたかな。でも自分だって戸惑っているんだから仕方ない。
「俺、小さい頃から引っ越しばかりで一つの場所に長くいたことってないんです。思い入れが深くなりすぎると別れが辛くなるから、他人との距離もどちらかと言えば遠い方で」
「うん」
 喋りながら自分の考えを整理していて、言葉もところどころつっかえる。吉見さんはそれを、相槌を打ちながら静かに聞いてくれている。
「でも俺、吉見さんとはもっと仲良くなりたい。こんな風に家族以外の誰かと近い距離で生活することなんてなかったから、戸惑っているだけなのかもしれないけど……それでも、毎朝起こしてくれたり、帰ってきて話聞いてくれたり、そういう人、吉見さんが初めてだから……だから、吉見さんのことがもっと知りたい」
 別に、気になることをなんでもかんでも訊きたいとは思わない。言いたくないことなら、離してもらえなくたって構わない。けれど俺は、今はまだこの人のことを知らなすぎる。
「……君、案外遠慮がないタイプだね」
 吉見さんが俺の顔をまじまじと見ながら言った。しまった、距離を測り違えたかも。
「いいよ」
「……え? いいんですか?」
「別に構わないって、それくらい。まあなんでも答えるとは限らないけど、何か聞きたいなら答えるよ。続きはあれに乗ってからだけどな」
 ちょうど繁華街行きのバスが滑り込んでくる。吉見さんの顔には、一瞬よぎった暗い影はもうない。さっきまでの気まずい空気はなんだったのかってくらい、吉見さんは軽やかな足取りでバスに乗り込んでいく。

 バスは休日なのに比較的空いていて、後部の四人掛けの椅子を二人で占有できた。
「……で、伊織くんは俺に何をききたいのかな?」
 吉見さんが改めて問い直す。その表情は面白いおもちゃを見つけたとでもいう様に悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。うう……質問権はこっちにあるのに、なんだか試されているような気になってしまう。
「ええと……好きな食べ物って何ですか」
「……それ、聞きたい?」
 テンパって、ものすごくどうでもいいことを聞いてしまった。吉見さん、ちょっと失笑してないか? ……けれどもう後には引けない。これで行くしかない!
「はいッ! 聞きたいです!」
「そう……。えーっと、パンは好きだな。柔らかいのよりも、固めが好き。カッチカチのフランスパンを齧るときが幸せかな」
「へ、へぇ……。美味しいですよね、フランスパン」
 くっっっっそ盛り上がらない……。なんだよ俺、会話下手くそか!
「誕生日は……」
「一〇月三一日」
「血液型は」
「B型」
 いやいやいや。俺はそんなことが知りたいんじゃなくて……。いや、でも知りたい知りたいって、俺はこの人の何を知りたかったんだっけ?
「なんかこれ、あれを思い出すな。小学校で女子に書かされたやつ」
 ああ……あったなぁそんなの。もっとも、俺は声をかけられることはなかったけど。吉見さん、子供の頃は女子に人気のあったタイプかぁ。
「伊織くんさ、本当に聞きたいのはそういうことじゃないんじゃない? 例えば――俺はどうして学校行ってないのか、とか」
 唐突に吉見さんが爆弾を投げてくる。そりゃあ、気にならないはずないんだけど。
「はい。正直……とても気になってます。でも、それは今聞いていいことじゃないと思ってます。どう言ったらいいのかな……けっして踏み込むのが嫌なんじゃなくって、今はまだ違う、みたいな。もしいつか先輩が話してみてもいいって思うときが来て、そのとき俺に何かできることがあれば――」
 力になりたい。うん。ようやく頭の中で整理ができた。俺はこの人のことをなんでもかんでも知りたいんじゃない。信頼してほしいんだ。俺ばかり甘えてしまうのではなく、自分も頼ってもらえるような関係になりたい。
 だって俺は、この短い期間でこの先輩のことをだいぶ信頼してしまっているのだから。
「そっか。ありがと、伊織くん。でも、一つだけ。俺が学校に行かない理由なんて、ほんと大した理由じゃないんだ。たぶん聞いたら伊織くんにダサいと思われる。そんな理由だよ」
 きっとどんな理由を聞いたってそんなことは思わないと思う。でも信頼されるような後輩になろうと思ったから、今は何も言わない。
「ていうか、俺ばかり質問攻めなのもなんか違うよな。そうだ、伊織くんのことも聞かせてよ」
「俺のことを? 聞いたって面白くないと思いますけど……」
「それはズルくね? 人に聞いておいて」
「それはそうですけど」
「はい、じゃあ趣味は? 俺はツーリング」
 俺が口ごもる間にさっさと話を進めてしまう。やっぱり、吉見さんって根はかなり陽な方だよね……?
「写真撮影……が、好きです」
「へーぇ。良いじゃん。じゃあ今撮ってみる?」
「え!? 今ですか?」
 吉見さんは鞄からスマホを取り出して俺の肩を掴むと、頭を寄せてシャッターを切った。
「じ、自撮りですか……」
「俺、こういうのしか知らないから。でも、結構よく撮れてるんじゃね? ってそりゃカメラが良いからか」
 すぐに写真が共有され、余裕たっぷりな笑みを浮かべた吉見さんと、見るからにこういうのに慣れていない自分のツーショットが画面に表示される。
「こういう写真はあまり撮らないタイプ?」
「そうですね……あまり」
 あまり、どころか本当はまったくと言っていい。けど……まあ悪くはないんじゃないか。こういう撮影だって。
「ふだんは風景写真をよく撮るんです。町とか空とか。綺麗な風景をカメラに収めるのが好きです」
「自然物を撮るのが好きなの?」
「それはちょっと違います。そもそも自然物っていうのが自分の周りにどれくらいあるのかなって考えると、実は完全な自然物ってそう多くないと思うんです」
 ついてこれてるかな、と目線を伺う。吉見さんは真面目に話を聞いてくれているから、一旦話を続けてみよう。
「どんな風景だって、ある瞬間に突然現れたわけじゃなくって、人の手だったり時間の流れだったり、色々な要因があってそこに現れているんだと思うんです。だからある風景が人の心を打ったとき、それは偶然なんかじゃなくて、たしかな理由がある。写真は一瞬を切り取るものだってみんな思ってるけど、本当はもっと大きなものを形に残す作業なんだと思ってます。……なんだか観念的な話になっちゃいましたね」
 そっと顔色を伺ってみる。
「ごめん。正直何が言いたいのかはわからない。けど、伊織くんがすごく一生懸命なのは分かった。だからさ、その趣味は応援するよ」
 そんな風に言って貰えたのは初めてだ。学校で入った写真部の中にも、自分の考えに理解を示してくれた人はいなかった。どうしよう。今、けっこう嬉しい、
「ありがとうございます。でも、一応人物も撮れるようにならないと、とは考えてるんです。部では学校行事の写真も撮りますし」
「学校行事かー。覚えてねーなー、だいぶ行ってなくて」
 それからは、目的地まで去年の吉見さんの思い出話を聞いていた。この後やってくる体育祭はけっこうハードらしいとか、夏服に切り替わると食堂のメニューも変わるとか。今このときだけは、まるで普通の先輩後輩になったような気がした。

 吉見さんに先導されバスを降りる。見たところ、周囲はどこまでも続く幹線道路とその道沿いにある商業施設という、日本中どこでも見られそうな風景だ。申し訳程度に植えられた街路樹がさらさらと揺れていること以外、特筆するようなものは見られない。
「この辺りを歩いたことはなかったな」
「そうだろー。結構穴場なんだぜ」
 連れられしばらく歩くと、遠目に複数のテナントが入った複合施設が見えてくる。人通りも多くなり、賑やかな喧騒が伝わってくるようだ。
「休日を過ごすのにあまり寂しいところは嫌だけど、人が多すぎるのも困るだろ? そういうときはここだな」
 入口のフロア案内に目を通す。一階は大型スーパーがフロアの大部分を占め、余ったスペースにファミレスチェーン店やパン屋が出店しているようだ。ここから四階までが商業スペースで、それ以降は駐車場。屋上は解放され子供向けの小規模遊園地と大人向けのビアガーデンになっているようだ。まあ、平たく言えばどちらもテーマパークみたいなもんだな。
「何か気になるところ、あった?」
「そうですね……あっ。服、見てみたいかも」
 三階に入ったアパレルショップが目に止まる。せっかく吉見さんと買い物に来てるんだから、今した方がいい買い物をしよう。
「服欲しいんだ?」
「俺、今まであんまりおしゃれとか意識してこなかったんですよね。良い服着ても、弟たちに引っ張られてすぐよれちゃいますし。吉見さんに色々教えてもらえるなら心強いです」
「なるほどね。でも俺だって、別に詳しいわけじゃないよ? ただ無難なもの選んでるだけだし」
 そうやって「無難」をそつなく選べるところが、俺からしたらもう遥かな高みなんですけど。
 エレベーターに乗り込み目当ての店舗へ移動する。三階は書店や眼鏡屋、鍼灸院など比較的小規模なテナントが集まっていて、店舗間を結ぶ廊下も人通りが少なかった。
 目当てのアパレルは少し暗めの照明とうるさくない音楽が流れたシックな雰囲気で、一人だと絶対入るのに躊躇するタイプの店だ。
「何か希望はあるの? 系統とか」
「似合うかはわかりませんけど、大人っぽい服装がしたいです。落ち着いた雰囲気というか、最低限中学生に間違われないくらいの」
 吉見さんみたいな服装で! と言うのは、さすがに憚られた。真似っこしたがりって、まるでうちの弟たちみたいで、この歳でそういうのはちょっと恥ずかしい。
「ああ……伊織くん、童が――ちょっとフレッシュな雰囲気が強めだもんね」
「いま童顔って言おうとしました!? べ、別に普通だと思うですけど!」
「ごめんごめん。で、何か気になるものはある?」
「うーんと、例えばこういうのとか」
 ふと目についた中折れハットを手に取り頭に乗せてみる。こう言うのを格好良く被れるようになったら理想的なんだけど……。
「そ、それは……ちょっと難易度高いんじゃないか?」
「ですよね……」
 自分が年齢より幼く見られがちなことを余所にしても、高校生でこれを着こなすのは相当難しいのはわかる。けれど憧れはあるんだよな……。
「無理に年齢高めのアイテムを選ばなくたって、全体でごまかせばいいんじゃね? 例えばこういうのとか」
 吉見さんは次々と服を持ってきては俺の前にかざして、しばらく首をひねるとまた服を取り換えに店の中を歩き回る。
「これでどうだろう。ちょっと合わせて試着してみなよ」
 買い物かごに上下一式揃ったセットを渡されて、試着室に押し込まれる。吉見さんのコーディネートはオーバーサイズの無地の白Tシャツにグレーのチノパン。それとベージュのサマーカーディガン。
 吉見さんのチョイスは自分で言っていた通り無難なもので、奇抜さはない。けれど全体的に緩めのサイズを着ているのもあって、シルエットからして違って見える。なるほど。全体でごまかすとはこういうことか。
「うん。いいじゃん、似合ってるよ」
「えへへ。そうですか?」
「うん。やっぱり最初なら、どんな色にも合わせられるものを揃えておくといいと思う。着回しできれば便利だからね。それに、このカーディガンは冷感素材だからこれからの季節にも着ていけると思う。あ、支払いはどうする?」
「あのお金は部屋の模様替えに使ってと言われましたし……ここは、自分の小遣いで何とかします」
 ――と、見栄を張ったものの、財布事情に余裕がある身ではない。恐る恐る値札を確認し、六月までの生活費を計算する。……相当節約すれば、行けなくはない。
「……買ってきますっ」
 財布を握りしめレジに向かった。もちろん、その握りこぶしに相当な決意が込められていたのは言うまでもない。

 その後は四階の家具売り場へ。それほど大型の店舗ではなく雑貨屋と家具屋の中間くらいの規模だが、家電製品もそれなりに置いていて生活に必要そうなものは一通り揃っている。ここでの買い物なら、品揃えに物足りなさを感じることはなさそうだ。
「見なよあれ。タコ焼き機だって」
 吉見さんが調理用家電のコーナーで足を止め、タコ焼き機をまじまじと眺める、
「実家にあったなぁ、それ。結局一度やったきりしまっちゃいましたけど」
「なんで? もったいない」
「弟たちがふざけてなんでもかんでも中に入れたがったんですよ。食べられるものならまだいいけど、平気でおもちゃとか入れるんです。中から人形の足が出てきたときは青ざめましたからね」
「それは……だいぶスプラッタだな」
「そうなんです。結局、下の弟が自分で仕込んだレゴブロックを噛んで歯が欠けたところで、父から怒りのたこ焼き禁止令が出されました。正直俺も、あれからたこ焼きはちょっと苦手です……」
 タコのかわりにグミだのわさびだのを冗談のような量仕込まれた、たこ焼きの形をした何かの群れは俺の中でトラウマ一歩手前の記憶と化している。
「そっか……。じゃあこれは要らないね」
 心なしか吉見さんは残念そうだ。もしかしてやりたかったのか? たこ焼きパーティ。
 家電コーナーを抜けて家具売り場へ。小物入れや収納など、あれば便利な品々が並ぶが、まだ引っ越しから日が浅く物も少ない自分には持て余すだろう。かといって、インテリア家具を見てもさっぱりピンと来ない。俺にとってはお城だけど、さすがにお洒落なラグを敷いて、ふかふかのソファを置いて――なんて、今の部屋には荷が勝る。
「伊織くん、この辺はあまり楽しくない?」
「え? 別に、そんなことはないですけど……」
 よほど退屈そうな顔でもしていたか、吉見さんが浮かない顔を向けてくる。
「別につまらないわけじゃないですよ。ただ、ちょっと俺には縁遠いから」
「縁遠い? どうして?」
 どうして、と聞かれると言葉に詰まる。もちろん今住まわしてもらってる部屋のキャパシティの問題もあるが、もっと根本的なところで家具売り場のディスプレイには居心地の悪さを感じる。
「なんていうか、不自然な気がするんですよ。こういうのがいい暮らしって押し付けられてるみたいで。そうじゃなかったらいけないのかよって、ちょっと思ったりするんです」
「悪い。その考えはちょっとわからないかな。まあ、押しつけがましいのは嫌だよなってくらいなら共感できるけど」
「……そうかもしれません。結局これは、俺の妬みも入ってると思うんで。
 どうせすぐ引っ越すんだし、どんなに居心地のいい空間を作れたとしても、やがて出ていかないといけなくなる。だから、居心地のいい空間を作ろうみたいな考えをやっかんでるのかも」
「それはダメだよ、伊織くん」
 自嘲気味に言い捨てた言葉を、吉見さんが拾う。
「俺たちは所詮まだ高校生で、望んだとおりの生き方なんてできないけど……それを諦めるのは、駄目だと思う。自分の好きな生き方を望んでいいと思うし、自分の居心地のいい場所を作ったっていいんだ。
 今日色々話聞いたけど、伊織くんって今まで自分のやりたいことを我慢してきたんじゃない? せっかく実家を出たんだから、もっと欲張って良いと思う。……ま、俺みたいに好き勝手すぎる生き方してるやつが言うのもどうなんだって話だけどさ」
 吉見さんの言葉がすとんと胸に墜ちる。そんなこと、当たり前すぎて今まで思ったこともなかった。
 別に今までだって、苦に思うような我慢をして生きてきた訳じゃない。けれど、譲っても惜しくないものを一つずつ譲っていった結果、心のどこかが麻痺していたのかもしれない。
「伊織くんは自分で服を買ったんだし、そもそも家を出たのも君の意思だよね? なら大丈夫。自分でほしいものは見つけられるよ」
 吉見さんに背中を軽く叩かれる。背中を押してもらえるのは嬉しいんだけど、そう時間単にほしいと思えるものなんて――。
「あっ」
 目についたのは、寝具売り場にあるベッドだ。ベッドで寝ることは密かな憧れだったのだが、弟たちが跳ねようとして危ないからって理由で買ってもらえなかった。今では布団で寝るのが当たり前すぎてベッドで寝たいという願望すら忘れてしまっていた。
「ベッドが欲しい……けど、これを部屋に置いたらだいぶ狭くなっちゃいますね」
「またそうやって諦める理由を探す。よし、今日は何か一つベッドを買って帰るぞ」
 言うが早いか、吉見さんは寝具スペースの奥へずんずんと入っていってしまい、慌てて後を追いかける。
「こんなのはどうだろ。折り畳み式で、使わないときはスペースを削減できるみたい、ちょっと寝てみなよ」
 なんだか吉見さんは購入する側の俺よりも真剣になっているような。なんでそこまで、と思いつつ心が温かくなる。
「吉見さん、どうしてそこまで俺のためにしてくれるんですか?」
「ん? 一緒に暮らす相手に愛想悪くする理由もないだろ」
「それはそうですけど」
「ま、よく懐く年下相手なら、面倒だって見たくなるもん、さ!」
 不意に吉見さんの手が俺の腕を掴み、そのまま一緒にベッドに倒れ込む。
「ちょっ。急に何ですかー!」
「こうやって揶揄うと面白い反応するから、可愛がりたくなるんだよ」
 吉見さんは俺にデコピンするとさっさと起き上がり、俺はベッドに沈んだままそれを呆然と眺めていた。
「で、寝心地はどうよ」
「……最高です」
 悔しいことに、まったく起き上がれない。それはベッドの寝心地のせいなのか、吉見さんの予測不能な動きのせいなのかはわからなかった。

 購入したベッドの輸送を頼み、今日の目的は果たせた。ぼちぼち夕方に差し掛かる時刻だが、帰宅するにはまだ早い頃合いだ。暇を持て余しそうになったところ、屋上のビアガーデンが簡単な屋台を出していると知り、見物がてら行ってみることにした。
「うわー。結構本格的ですね」
 屋上には子供用のゴーカート広場や簡素なメリーゴーランドが設置されていて、子供たちが休日のお父さんを引っ張りまわしていた。
 軽食を売る屋台も思った以上の規模で出店していて、まるで縁日みたいだ。お好み焼きやたい焼きのような粉ものからチョコバナナみたいなフルーツ系まで、よどりみどり。
「何か食うか? そういえば俺たち、今日食パン一枚しか腹に入れてないし」
「そうですね。吉見さんはやっぱりたこ焼きですか?」
「べ、別にたこ焼きが好きなわけじゃ……作るのが楽しそうだなとは思ったけど。今度で良いよ」
 結局値段や量、それぞれの味の好みから検討を重ね、クレープ屋の屋台に向かった。ここなら食事系から甘味まである程度希望するものが食べられる。俺はチョコバナナを、吉見さんはしばらく迷った後、柑橘系のフルーツの入った期間限定のものを注文した、
 出来上がったクレープを受け取り、展望スペースに設置されたベンチに並んで腰掛けた。
「すごい長めですね」
「六階建ての屋上だからな。結構遠くまで見渡せる」
 なんで二年も住んでて知らなかったんだろう。こんな絶景、最高の撮影ポイントじゃないか。
 街を一望できる大パノラマは、道がどこまでも続いていることを知識ではなく実感として教えてくれる。そして何より空が近い。電線を構図に取り入れて写すのもいいけれど、遮るものがない空と言うのも良いものだ。
 気分が良いと、逆に沈黙も苦ではなくなる。男二人、並んで黙々とクレープを頬張る姿はちょっと不思議な光景かもしれないけど、これだけの景色に囲まれて、わざわざ俺たちを見ている人なんていないだろう。
「伊織くん、生クリームついてる」
「え、どこ? みぎ? ひだり?」
 しばらく口の周りをまさぐっていたら、吉見さんがじれったそうに手を伸ばしてきた。指が、頬に触れる。
「なんでこんなとこにつけてんだよ、うっかりしてんな」
 指についたクリームをペロリと舐めて、呆れたような笑いを浮かべる。……この人、やっぱりちょっと距離近くない?
「吉見さん。こういうの、誰にでもやっちゃだめだと思います」
「やんねーよ。女子なんかにやったらどんな噂立てられるかわかったもんじゃないし。伊織くんはそういうことしないだろうなって、信頼できそうだからしてるんだ」
 そういうことじゃなくてですね……。
 でも、信頼か。うん、こうやって少しずつ、お互いに歩み寄れたらいいな。