車窓から差し込む光が、寝不足気味の目に染みる。瞼を貫通してくる朝焼けをうっとうしく思いながらゆっくりと目を開ける。目的の駅まであと三駅。もうひと眠りするには短すぎる中途半端な位置。何も今目を覚まさなくていいだろうに。睡眠をとるのは諦めて大きく伸びをしてみる。それだけでこの身体はある程度調子を取り戻してくれる。
 昨日は結局何時ごろに寝たんだっけ。たしか三時くらいまではだらだらと話を聞いていた。それで目が覚めたのが六時手前。……いくら生活が夜型とはいえ、睡眠時間が三時間を切るのはキツイ。
 まだ頭には靄がかかったような気がして、それを振り払うように大きく息を吸って吐く。電車内とはいえ、朝の新鮮な空気は思考のスイッチを切り替えるのに適している。ほんの少し前までは、夜の空気よりも朝の空気の方が馴染み深かったのだが。今ではすっかり朝日を見ることが少なくなった。そのことに自嘲しつつ椅子に深く腰掛ける。
 スマホを取り出し通知を確認し、またポケットにしまうのでちょうど一駅。あと二駅。暇だ。
 あくびをしつつ首を回すと、ふと前の席に目が止まる。若高の制服を着た子が、すやすやと眠っている。羨ましくなるような眠りっぷりだ。
「……そういや、通学の時間帯か、今は」
 ここのところ、目に入れないよう無意識に避けていたものを見てしまった気がして、ほんの少し胸の内のどこかが痛んだ、気がする。
「いいや。別に、なんてことないだろ」
 誰に言うでもなく呟く。あの制服に自分が袖を通していないのは、自分がそうしなかったからだ。いつだって戻れるのに、そうしていない。なら、こんな風に未練たらしく見ず知らずの誰かを気にする必要なんてない。
 ただ……少しばかり、眩しいな。
 制服の具合やまだ幼さの残る寝顔から見るに、今年入った新入生だろう。その初々しさも、自分の心を搔きむしる理由の一端に違いない。
『間もなく、わかはら~。わかはら~お降りの際は――』
 車内アナウンスが目的駅に差し掛かることを知らせる。……嘘だろ? さっきまではあんなに時間が過ぎるのが遅かったのに、目の前の若校生を見てたら二駅分も過ぎていた。いくらなんでも、朝からぼんやりしすぎだろう、俺!
 眠りこけた彼は車内アナウンスを聞いても起きる気配がない。起こす義理もないので放っておいても良いのだが……どうあれ暇つぶしにはなった。どうする、起こすか?
 いやいや、大きなお世話というものだろう。そうなんだけど。
「ねえ、君。起きた方が良いんじゃない?」
 考えを纏める前に彼の肩を叩いていた。理由なら後からいくらでもつけられる。こんなのとはいえ同じ高校に所属する先輩として、後輩に手助けしてやる。うん、立派な心掛けだ。でもそういうのはどうにも嘘くさくて。結局のところ――俺は彼が妙に気になった。それだけのことだ。
「お、起きた」
 声もなく彼の目が開く。そして一呼吸おいて「うわっ!」
 「うわっ」ときたか。まるで猛獣にでも襲われたような……そう思いかけて自分の風貌を頭に思い描く。ああ、たしかに。これはビビるわ。
「あー、安心しろ。別にカツアゲとかじゃないから」
 両手を上げて敵意はないことをアピールする。それが効いたのかどうかはわからないが、ひとまず彼は落ち着いたようだ。「ありがとうございます……」とか細い声で礼を言うのは聞こえたが、俺と目が合っているせいでどうも落ち着かないらしく居心地悪そうに眼を泳がせている。仕方がない、軽く話題でも振ってやるか
「その制服、若高のだよね。もうすぐ最寄りだよ」
 全く状況を理解していなかったようで、電光表示を見てはっとする。表情の変わり方が見ていてちょっと面白い。
「本当だ。ありがとうございます、助かりました」
「ん、別に大したことじゃないから」
 本当に大したことをしたわけじゃないから、ばつが悪くて目線を逸らす。ついでのあくびはちょっとわざとらしすぎたか。自分の滑稽さに笑いをかみ殺しつつドアの前に立つ。ちょっとしたお戯れはこれまで。ピカピカの一年生はこんなダメな先輩と付き合ってちゃあいけないぜ。
 電車は駅に着き、馴染みのホームに足をつける。帰ってさっさと寝よう。寝不足だから柄にもなくノスタルジーに引っかかるのだから。
「あの、本当に助かりました。ありがとうございます」
 後ろから声がかかる。振り返るとさっきの彼がこちらを見据えていた。さっきまでの所在無げな目ではなく、まっすぐに俺を見ている。
 ……この気持ちはなんだろう。電車を降りればもう他人だと思っていたから、ここでも礼を言われたのは予想外だった? 改めて礼を言う丁寧さに感心した? ううん。どれも違う。俺は今どんな顔をしているんだろう。
 自分の中の言語化が済まないうちに、口は自動で自然な答えを口にしていた。と思う。実のところ、なんて答えたかなんて全く自覚していない。けれど、彼の様子を見るに変なことを口走りはしていないはず。
 それからは記憶が途切れ途切れで、気が付いたら自室のベッドで寝転がっていた。そういえば、今夜には隣に同居人が増えるんだったか。そんなことを思いながら、泥のような眠りに沈んでいった。


 軽快とは言えない目覚めを迎えた頃には、もうとっくにお昼と言えるような時間は過ぎていた。そのまま夕方まで自室で過ごしてやりたい気分だったが、今の俺には珍しく、今日は外出しなければならない用事がある。
 鈍重な身体を起こし軽くシャワーを浴びると、メンテナンスを頼んでいた愛車を引き取りに出かけた。俺はバイクに乗り始めてまだ半年だが、乗ってる機体は貰い物で結構なロートルだ。大事を取って小まめに診てもらうようにしている。
「よう、不良少年。バイクは仕上がってるぜ」
 いかにも町の車屋さん、という見た目のガレージに顔を出すと、油に汚れた顔をニカッとさせた店主のおじさんが出迎えてくれる。この人は爺さんと古い付き合いがあるらしく、メンテナンスも相場よりだいぶ安く引き受けてくれている。
「不良はやめてよ。別に、悪いことしてるわけじゃない」
「でもよ、まだ学校行ってねんだろ? そうだ、どうせならもう辞めちまってウチで働いてみるか? 手に職つくぞぉ」
「あはは、考えとくよ」
 地元って感じの温い空気感は嫌いじゃない。けれど、この手のおじさんジョークに付き合っているときりがない。会話を適当に切り上げ、バイクにまたがりキーを刺す。
 エンジンが駆動し、全身に微かな振動が伝わる。乗り始めたばかりの頃は少し恐怖もあったが、今ではこの振動に親しみを覚えてきている。
「じゃ、またお願いするね。おじさん」
「おうよ。お前んとこの爺さんにもよろしくな」
 頷くことで返事として、俺はヘルメットを被りガレージを後にする。これで本日の『用事』は終了だ。十代男子とは思えないほどの簡素な予定表に自分でも笑ってしまいそうになる。
 せっかく重たい身体を引きずって外に出たんだ。たまには沢山日の光を浴びておくべきだろうか……なんてことを考えていたら、行き先は自然と決まっていた。幹線道路を逸れて住宅街の細道へ。しばらく走らせると家々の間に古めかしい商店が見えてくる。
 商店の周りには学校帰りの小学生たちがたむろしていて騒がしい。氷菓子を加えている子、ベンチにカードゲームを広げている子、くすくすと楽しそうに内緒話をしている子。相変わらず、ここは牧歌的な空気が流れている。
 子供が遊んでいるばかりの場へいきなり大人(彼らから見たら高校生なんてオッサンだ)がバイクで乗り付けてきたらせっかくの放課後が台無しだ。かなり手前から減速し、歩くような速さで店の脇にバイクを停める。
 小林商店。俺も前はここに駄菓子を買いに来る子供の一人だった。今は菓子目当てに来ることはほとんどないけど、別の形で世話になっている。
「こんにちはー。おばちゃんかリンちゃんいるー?」
 いかにも昭和レトロな洒落たガラスがはめ込まれた引き戸をゆっくりと開き店内を覗き込む。長年に渡る地元ちびっこによる過酷な使用で戸にはだいぶガタが来ており、ほとんど力を入れなくてもガタガタと不安になるような音を立てるから、本当は声なんてかけなくても誰か来たことは伝わるんだけど、そこはもう癖のようなものだ。
「あれ、琉仁じゃん。こんな時間に来るなんて珍しい」
 店棚の奥から俺らが「リンちゃん」と呼ぶ女性が顔を出す。店内は古い蛍光灯しか光源がなく窓から差し込む光くらいが頼みという薄暗さだが、それでも明るく染めた長い髪を揺らす姿は映えている。この人の快活な雰囲気が店の雰囲気を暗いものにしていない。
「うっわ、なにその目の隈。あんたまた夜遊びしてんでしょ!」
「え。そ、そんなに目立つ?」
「うーそ。でもやっぱ寝てないんだろ。ダメだぞースポーツマンがそんな生活してちゃ」
「昔の話だって」
「えー? 今もウチに買い物しに来るくせに。どの口が言ってんだっつーの」
 リンちゃんがデコピンしようとしてくるのを首を背けて避ける。「避けんな」と声がかかるが、そう言われて大人しくするやつなんていない。
 あの古びた商店は子供向けの駄菓子屋だろう――と言うのが往来を行く人の大部分が抱く印象だろう。だが、こう見えて小林商店は事業を多角に展開している先進的な店だ。子供には駄菓子を。大人には酒とたばこを、そして青春の日々にいる若者にはふさわしい相棒を……要するに文房具や部活動用のスポーツ用品などを置いている。さすがに専用のシューズだったり高額な道具は置いてないけど、テーピングテープやサポーター、粉末タイプのドリンクのような汎用性と需要の高い雑貨は一通り揃う。
 まだ学校に行っていた頃はよく利用していた。……そして、今でもたまに買い物に来る。前より頻度はずっと下がったけど。
「あの純朴なスポーツ少年がすっかり夜遊びを覚えて……あーあ、バイクなんて教えるんじゃなかったか」
 リンちゃんが大げさな身振りとともにため息をつく。だが、ちょっと待ってほしい。たしかに今乗っているバイクを譲ってくれたのはリンちゃんだけど。
「バイクに乗りたいって最初に決めたのは俺なんだけど。別にリンちゃんに言われたからじゃない」
「どうだか。本当はあたしの運転に惚れたんじゃないの?」
「勝手に言ってろ。そうだ、おばちゃんは元気?」
「おばちゃんならほら、店番しながら寝てる」
 リンちゃんが指差した方を見ると、レジの奥で慣れ親しんだ老婆が目を細めて座っている。よく耳をそばだてれば微かないびきも聞こえてくる。
「大丈夫なのあれ」
「大丈夫なんだなこれが」
 話していたら、ちょうど表の小学生の一人が駄菓子を持ってレジに置いた。すると、おばちゃんはぱっと目を開き。
「八十円」
 ポケットから出された百円玉を拾い上げ、「はいお釣り。ありがとね」と言うまでわずか二秒ほど。これが熟練の技ってやつか。
「これを元気と言えるのかは解釈の余地があるけど、まあ元気だよ」
 リンちゃんはおばちゃんのお孫さんだ。周りの子がみんなおばちゃんと呼ぶものだから、リンちゃんもまたおばちゃんをおばちゃんと呼んでいる。俺らくらいの年頃の連中にとってはみんなのお姉さんのような存在だ。今は大学生で、暇なときにこうして店を手伝っている。
 そして、おばちゃんはおばちゃんだ。俺が生まれる遥か前からおばちゃんで、俺が初めて店に来た時にはもうかなり歳がいっていたはずなんだけど、今でも自他ともに扱いはおばちゃんと変わりない。この人がおばあちゃんと呼ばれるようになるには背中が九十度どころか一四〇度は曲がらないといけないんじゃないか?
「で、今日はどうしたの?」
 改まってそう聞かれると、困る。何か用があったってわけじゃなくて、ここに来たのは本当に気まぐれだからだ。
「あ、そうだ。リンちゃんにもらったバイク。今日メンテしてもらってきたから。大事に使ってるよって報告に」
「ああーあれかぁ。うん、それは嬉しいな。でもあれって年代物だからねー。なにせあたしもあれはひとからもらったものだし」
「え。なにそれ。聞いてない」
「なんか言う機会なくって。あたしも琉仁くらいの頃にセンパイから譲り受けたものなんだよね。こういうのって自分で買えるようになると持て余すんだけど、経緯が経緯だから捨てるのはねぇー。そうかー、まだまともに動くのかあ」
 ……ちょっと待って。もしかして俺、ちゃんと動くかわからないような骨董品押し付けられただけ? 落ち込んでいた時期に譲ってもらったときは、結構本気で嬉しかったんだけど。
「って、そんな目で見ないでよ。バイクの寿命ってのは走行距離だから。この辺は知る分にはまだまだ問題ないって。たぶん」
「はー……ま、自分じゃ絶対買えなかったから感謝はしてるよ」
 学校に行くのが嫌になって部屋でふさぎ込んでいた頃、ふとバイクを乗り回していたリンちゃんの姿を思い出して、俺も乗ってみたいと思った。それは暇を持て余していたが故の思い付きだったかもしれないし、単なる逃避だったのかもしれない。
 簡単なバイトで教習費を賄い、まずは免許を取る事だけを目指した。何もしないでいるよりは気もまぎれたし、爺さんたちや、実家の親も「そういう寄り道もあり」だと黙認してくれた。
 そして晴れて免許を取得した日、どこで聞きつけて来たのかお古のバイクを持って現れたリンちゃんは餞別だと言ってウチに置いていった。「ヘルメット譲るのはさすがにキモいから、自分で用意してね! あ、ノーヘルで乗ってたりしたら罰として無休で一年ウチで働いてもらうから」と、忠告なのか脅迫なのかよくわからない台詞を残して。。
「新しい趣味を見つけたことは嬉しいんだけどさ、学校には戻らないの?」
「どうしてそんなこと聞くんだよ」
「だってあたし、もう琉仁はとっくにバスケ復帰したんだと思ってたもん。こないだ加賀君に琉仁元気? って聞いちゃって、すごい変な空気になったんだからね」
 加賀か……懐かしい名前が出たな。中学から一緒にいる仲間(まだあいつが俺のことをそう思っているかはわからないけど)みたいなものだけど、意識的に避けていてもうずっと声も聞いていない。
「なんでそんな勘違いをしたんだよ」
「だってちょっと前にウチでサポーター買っていったじゃん。あれでいよいよ怪我を克服して復活か! って思ってたのに」
 軽い口調でどんどん古傷を抉ってくれるなぁ、と内心苦笑する。リンちゃんは俺が自暴自棄になっていた頃(それは今もか)に何も言わずに話を聞いてくれたから、別にいいんだけど。
 それこそ、去年の夏なんてひどかった。ひどすぎて逆に記憶が朧げなくらい、ただ漫然と耐え難い時間が続いていたな、という印象だけが残っている。
「靱帯損傷……だっけ。さすがにもう治ってるんだよね?」
「病院でスポーツに復帰して良いとお墨付きをもらうくらいには。今は緩い社会人クラブに混ざって練習してる……ていうか、遊んでるみたいな感じ」
「そっか、あの日はそれで……部活の方は?」
「退部届は持っていったよ。どうなってるのかは知らない。受理しないって、散々文句を言われたから。スポーツ推薦で学校入ったから余計拗れてるのかも」
 去年の今頃を思うと、たった一年で随分と環境が変わってしまった。ふと脳裏に今朝見かけた高校生が浮かぶ。自分もあんな風に学校に通って、部活に精を出す生活を送っていた。家に帰る頃には疲れて眠くて、とても夜遊びなんかできるような体力は残っていない。
 部内での自分は、どちらかと言うと浮いていた自覚がある。若原高校では近年、生徒の人気が他のスポーツに集中してバスケ部が低迷していた。それもあって学校は中学で多少活躍していた俺に並々ならぬ期待をしていたようで……それが、先輩たちとの軋轢を起こした。
 先輩たちから表立って何かをされるようなことはなかったし、同学年の仲間たちは良くしてくれた。けれど、嫉妬と羨望を合わせて煮込んだみたいな、じっとりとした注目は学年を問わず集めていた。正直、バスケは楽しいけど居心地は良くなかった。
 そんな状況からどうすれば抜け出せるのかわからなかった。わからないから、自分の実力を証明するしかなかった。結果を出せば、おのずと自分の居場所も定まるだろうと。そう思ってがむしゃらに練習に打ち込んだ。
 実績を出さないと。認めてもらわないと。そんな焦りがきっと怪我を呼び込んだんだろう。自分の許容量も無視して、結構な大けが。うん、まだそれはいい。けがはスポーツにはつきもので、覚悟していなかったわけではない。
 何よりきつかったのは、周りからの俺への態度が急変したことだ。まるで俺がけがをしたことで憑き物が落ちたように。
 あの一年が潰れれば、レギュラーを奪われる心配はない。生意気なあいつも少しは大人しくなるだろう。琉仁がいないなら、自分にだってチャンスがあるかも――。
 考えすぎかもしれない。怪我人相手に優しくなることなんていたって普通のことで、俺が勝手に周囲に悪意のある解釈を当てはめているだけ。きっとそっちが正しいんだろう。
 ただ、一度そう思ってしまうともうだめだった。自分は何のために頑張ろうとしていたんだろうと、虚しさに襲われた。結果を出せば居場所ができると思っていたけれど、周囲が望んでいたのは何もしない、周囲への脅威にならない吉見琉仁でしかなかった。
 周囲を見る目が曇ると、自分の心も曇っていく。最初はコートの外からでもチームに貢献しようと考えた。けれど、自在にコートを駆けまわる仲間たちを見るのがどんどん苦しくなって、最初は部活の為に体育館に顔を出すのが嫌になり、二学期が始まると次第に学校へ行く足取りも重くなって……気が付けば、立派な不登校の完成だ。
 きっぱり諦められれば苦しまないで済む。バイクに乗り始めたのは新しい趣味を始めれば、過去も振り切れると思ったからだ。ただそれでも、やっぱりバスケが好きって気持ちは変えられなくて、小さな社会人サークルに流れ着いた。
 そこではそれなりに可愛がられていると思うけど、やっぱり何か違う。昨夜の夜ふかしもそのサークルでの打ち上げだったのだが、周囲が酒盛りしている中一人ソフトドリンクを飲んでいるだけの時間はどうしても壁を感じてしまって。
 ……俺は、どこへ行けばいいんだろう。そんなことばかり考えているから、今日はここに足が向いたのかもしれない。
「ねえリンちゃん。あのバイクに乗れば、どこへだって行けるかな」
「さあ……どうだろう、県外まで行くのはお勧めしないかな。いつ止まるかわからないから」
 そうか――。結局、行けてせいぜいその程度。ここ半年で俺が得たものなんて、それくらいのものでしかなかったみたいだ。
「桑原んとこのぼっちゃんかえ」
 いつ起きたのか、おばちゃんが目の開ききっていない顔をこちらに向けていた。
「一度ここでお菓子を買った子は、みぃんなおばちゃんがあの世に行くまではウチの子だよぉ。いつ戻ってきても良い。……けれど、ここにずっとは、いられないよ」
 年の功なんだろうか。見透かしたように俺の胸に釘を打つ。
「ちょっとおばちゃん。別にいいじゃないそんなこと言わなくても」
「余計なことを言わなくなった年寄りから死んでいくのよ。周りは皆そうだった」
 いまいち笑えない冗談を零すと、湯呑を一口啜り、また元の、起きているのか寝ているのかわからない姿勢に戻ってしまった。あの言葉だけはどうしても必要だと、思ったのかな。
「……ま、たしかに道草だったかも。そろそろ帰るね、リンちゃん」
「うん。ごめんね、……あ、そうだ、加賀君からの伝言、預かってる」
「なんて?」
「『なんでも良いから話がしたい』君がまた来たら伝えてくれって」
「じゃあ、俺も伝言。『がっかりするからやめておけ』じゃ、よろしく」
 そんなに長く話し込んだわけでもないのに、空は随分と薄暗くなった気がする。そろそろ五時の鐘が鳴って、子供たちも三々五々家路につくのだろう。
 俺が帰る場所はどこだろう。家と呼べる場所はある。それはきっと幸福なことだけど……違う、そうじゃなくって。どこか、ここではない場所。そこには『行く』のではなく『帰る』場所があるんじゃないか――そんなことを思ってしまう。
「ああ、夕日が目に痛い」
 夕日を浴びるとなんだか妙に物悲しくなるから……俺は言いつけ通りヘルメットを被って、バイクのエンジンをかけた。