車窓から差し込む光が、寝不足気味の目に染みる。少し眠ろうかとも考えたが、昨夜から緊張しっぱなしの神経では、瞼を通して入ってくるだけの光でも十分刺激になって寝つくまでには至らない。少し目を閉じては開き、目的の駅までの数を数えてため息をつく。この流れをあと何度繰り返せば自分は学校まで辿り着けるんだろう。
始発電車に乗り込み、片道二時間は下らない距離を移動することは、伊織航大にとってもちろん日常の生活ルーティンではない。ならばちょっとした旅行かといえば、それも違う。ただ俺は、通っている高校に通学するためだけに夜明けと同時に起きて、こうして二時間電車に揺られている。
先月までの通学路は、ありふれた住宅街とそれなりに活気のある商店街を自転車で通り抜けるだけの、往復三〇分もかからない距離だった。それがゴールデンウィークを挟んで久々の登校ではこれだ。通学時間、何倍に膨れ上がってるんだろう。
こんなことになったのは父の急な転勤による引っ越しが原因だ。もともと転勤族の家で育ったからある程度理解はしていたが、まさか高校入学から一カ月でそんな酷な現実を突きつけられるとは思わなかった。
通っている学校は別に進学校という訳でも、そこでしか学べない学問があるという訳でもない、ごくありふれた中堅上位くらいの高校だ。入学してから一カ月では、まだ愛校精神と呼べるほどの愛着もない。……けど、自分にしては受験勉強を頑張って、本来なら少々高望みと言える水準の高校に滑り込んだんだ。その努力が無下にされるような気がして、今度の転校は今までのように受け入れることはできなかった。
自分を慕ってくれる弟妹と離れるのは少し辛かったけど、今回ばかりは親についていかず自活する決心を固めた。親と相談して安アパートでの一人暮らしも検討していたが、最終的には母と縁のある人の家に下宿するということで話がまとまった。なんでも母の昔の習い事の先生だという。
先方は急な頼み事であるにも関わらず快く俺を受け入れてくれて、挨拶こそ済んでいないものの電話で少し話す機会があった。上品そうな印象を受けるお婆さんで、その旦那さんと、お孫さんと一緒に三人暮らしをしているらしい。
「子供の面倒見るのは一人も二人も変わらない」そう言って笑っていたが、そのせいで俺は昨夜から緊張しっぱなしだ。下宿先の人たちはどんな人なんだろう。お孫さんって俺と歳近いのかな。もしかしたら、同じ学校に通っていたりして。もちろん不安もあるけど少し楽しみな気持ちもある。まるで一カ月前の入学式がそっくりそのまま帰ってきたみたいな気分だ。
……ま、よく眠れなかったのは緊張だけでなく、新居に自分の部屋がなくてリビングのソファで寝ていたのもあるんだけど。
彼らと対面できるのは今日の夕方ごろになる。今の実家からの距離では朝のうちに顔を出していては学校に間に合わない。大きな荷物は休みの間に送っておき、当日は直接学校に向かうことにした。すぐに手元に戻るとはいえ、自分が人生で得てきた荷物を小さな鞄一つに収まるくらいまで選別する作業はかなり心細い心境にさせられた。今この鞄には、伊織航大という一人の人間を表すアイコンともいえる「これだけは片時も手放したくない」ものが詰まっている。十六年弱という月日と比べたとき、それが重いのか、思ったよりも軽いのか。それはわからないけど。
初めて聞く駅名のアナウンスが流れ、しばらくすると心地よく揺れる車体が徐々に停止し乗客を入れ替える。ときには自分もその流れに乗って路線を乗り継ぎ慣れ親しんだ街へと近づいていく。
目的地に近づき、時間が過ぎる。徐々に車内の人も増えてきたけど、それでもまだ電車は早朝の気だるげな雰囲気に満ちている。スーツを着たサラリーマン。うたた寝をしているお婆さん。夜職帰りと思しき女性。それぞれ全く暮らしぶりが違いそうな人たちが、この車両に集まっている。
中でも目を引くのが、黒のライダースジャケットを来た長髪の男性だ。目を瞑り微かに寝息を立てているが、それがかえって顔立ちの良さを際立てる。座っていてもわかる長身だが、たぶん歳は自分とそれほど離れていない。
……不良かな。
見た目だけで人を決めつけるのは良くないが、背の高い人が黒い服を着ているとそれだけで威圧感は出てしまう。それに肩までかかるほどの長髪となると自分の学校なら確実に頭髪検査で引っかかる。
彼はちょうど真向かいに座っているから、自分と比べた時の身長差がよくわかる。座高も足の長さも全然違って、並べたら頭一つ分くらい差がありそうだ。身長が欲しい事情がある訳でもないけれど、どうせならまだまだ伸びてほしい。
とはいえ、育ち盛りがこうして眠い目を擦っているようでは伸びるものも伸びなさそうだ。せめてもの抵抗で、俺は再び入眠を試みる。ジャケットの人への対抗心ではないけれど、背筋を伸ばして背もたれに体重を預ける姿勢になると、車両の揺れがさっきよりも大きく感じてなんだか心地いい。
「ねえ、君。起きた方が良いんじゃない?」
誰かに肩を叩かれる感覚で意識を取り戻す。さっきまで全然眠れなかったのに、自分でも驚くくらいすんなりと寝入ってしまっていたみたい。
肩を叩く手は絶妙な力加減で、これならもっとよく眠れそうだ。……いや、そうじゃない。誰の手だ、これ。ていうかどういう状況だ。
夢心地の頭を瞬時に切り替えて目を開ける。
「お、起きた」
目の前には、さっきまで目の前で寝ていたジャケットの人。その顔が至近距離で自分を見つめている。
「うわっ!」
思わず、下がっていた頭を飛び起こすとジャケットの人は一歩下がって苦笑する。
「あー、安心しろ。別にカツアゲとかじゃないから」
そんな疑いを持っていた訳ではなかったんだけど、そう伝えようにも起き抜けで声が出てこず、少し掠れた声で「ありがとうございます……」と伝えるのが精いっぱいだった。
「その制服、若高のだよね。もうすぐ最寄りだよ」
若高とは俺が通う若原高校の通称で、彼の言う通り電車はその最寄り駅に差し掛かっていた。もし起こしてもらえなかったら寝過ごしていたかもしれない。
「本当だ。ありがとうございます、助かりました」
「ん、別に大したことじゃないから」
本当に大したことと思っていなさそうで、そっけなく目線を車内案内のモニターに移すとあくびをしながら扉の前に移動した。その仕草は見た目が与える威圧感からはだいぶかけ離れている。もしかしたら、それほど怖い人ではないのかもしれない。
間もなく電車は駅に止まり、二人そろって駅に降りる。
「あの、本当に助かりました。ありがとうございます」
迷いなく歩き始める背中に再度礼を言う。それは勝手に偏見の目で見ていたことの詫びも含んでのものだけど、同時に心からの感謝でもある。放っておいても良かっただろうに、わざわざ声をかけてくれたことにはやっぱりきちんと感謝を伝えたい。
ジャケットの人はほんの少し意外そうな顔で振り返ったが、すぐに目を細めて「うん。学校遅れるなよ」とだけ言い、ゆったりとした足取りで去っていった。後ろ姿を見て再び思う。やっぱりこの人は、立ち居振る舞いに華がある。こういう人だから、余裕を持って人助けができるのかもしれない。
しかし危なかった。きっとクラスの誰よりも早起きしただろうに遅刻する羽目になっていた。それじゃあ二時間電車に揺られた甲斐がない。
……ま、ああいう人との出会いがあるのなら、また早朝の電車に乗ってみるのも悪くはないかもしれないが。
「おっはようさーん。伊織クン、新居の居心地はどうだったかね?」
教室につくと、珍しい顔が真っ先に俺の席にやってきた。中学からの悪友の三宅搭だ。
「ああ、おはよう。お前が朝からいるなんて珍しいな。何しに来たんだ」
もちろん、生徒が学校に来る理由なんて勉学に励むため……というのが普通だが、こいつがそんなことの為に学校に来るはずがない。なにせ、朝からクラスにこいつの声が響くのは「珍しい」ことなんだ。
「何って、そんなの決まってんだろ? 新生活に臨む親友の心の安寧の為に来てやったのさ。環境が変わって浮ついた心を地に足つけさせるのは友の役目だろう?」
「いや、お前が朝から顔を出してるなんて非日常そのものなんだが」
三宅の言葉を訳すと、「急な引っ越しとそれに伴う作業で連休明けの伊織航大はきっと面白いことになってそうだから見物に来ました」というのが正しい。要はタチの悪い野次馬さんだ。
「新居がどうって、そんなの最悪に決まってるだろ。俺の部屋ないんだし。昨日なんかリビングのソファで寝たからまだ肩とか違和感あるし……」
「そりゃまたお気の毒。ってか、部屋がないってマジか」
「どうせすぐ下宿するからって用意されなかった。たぶん俺が卒業するまでにまた引っ越す想定なんだろうな」
大げさな身振りで俺の境遇に同情してくれる三宅だが、家庭での扱いはこいつもそう変わらない。俺とは事情がだいぶ異なるけど、こいつも家に居場所がないタイプの人間だ。
けっこう良いところのお坊ちゃんなんだが、とにかく親とそりが合わないらしい。中学の頃から夜遊びを繰り返し、登校は不定期。そんなだから、学校が同じとはいえ本来俺とは接点がなかった。
今のような関係になるきっかけになったのは中二のとある休日。その日は年下の兄弟たちを連れて近場のゲームセンターに出かけていた。
「にーちゃん、あれ取って」
妹がクレーンゲームのぬいぐるみを欲しがった。ここはサクッとゲットして兄の威厳を見せたかったのだが、想定外の大苦戦。すり減っていくおこづかい(ライフ)と、懇願の眼差しで自分を見つめる妹。
取れないから、我慢してね。とはとても言えず……困っていたところに三宅は現れた。
「それ、欲しいの? うーん……良い位置までは来てるな。貸してみ」
言うが早いか、操作レバーを握ると一発で目当てのうさぎさんを落としてくれた。
「ありがとう! 金髪のおにいちゃん!」
小学生とは無邪気なもので、中学生と金髪という組み合わせの悪質さを知らずきらっきらの笑顔を向ける。俺も本来なら礼を言わなきゃいけないのだが、校内でも有名な不良である三宅にどう接したらいいのかわからない。だって、中学で金髪だぞ! 絶対怖いだろ!
「あ、の。ありがとう……妹も喜んでる」
「おう! よかったなー。てか、ちょっと前から見てたけど気の毒になるくらい飲まれてたもんな、伊織。さすがに声かけちまったわ」
話してみると予想以上に人懐っこい笑みが帰ってきて、しかも彼のような人種にはきっと自分は認識すらされていないと思っていたのに、名前も憶えられていた。
そこでは短く話しただけだったが、その間にこいつが意外と学校では周囲をよく観察していること。そして学校の誰もが抱いている印象に反して、とても話しやすいことを知った。この日をきっかけに徐々に学校でも交流するようになっていき、最初の内こそ「伊織が三宅に目ぇつけられた」と心配されたものだが、気の置けない友人関係を築いていけた。
この世の終わりのような内申点から一体どんな手段を使ったのか、こうして同じ学校に進学したのもあって今でもその関係は変わらない。変わったことと言えば、三宅の根城がゲームセンターから繁華街の雀荘とバイト先のピザ屋に移ったくらいのものだ。「今までは延々とメダルゲームを積んでも一円にもならなかったが、今ではツモると儲かる!」と嬉々として話してきたのが、入学してから交わした最初の会話だ。
そんな暮らしぶりなので、登校頻度もまちまち。朝から学校にいた場合、その利湯理由は寝ずに朝を迎えたか素寒貧で居場所がないかの二択だ。まだ五月でこれなので、担任教師はさぞ胃を痛めているだろう。
「言っとくけど、そんなに面白いことはないぞ。そりゃ、多少疲れてはいるけどさ」
「そりゃ残念。ホームシックで突然泣き出したりしたら面白いんだけどな」
「泣くかバカ」
「ははは、冗談。真面目な話、突然人んちで暮らし始めるって気も遣うだろ。ちょっとでも緊張をほぐしてやろうかなって思ってきたんだよ」
こういうことをさりげなく言えるのが三宅の人の好さだ。もちろん隙を見せれば悪びれもせずネタにしてくるが、それでもこの心遣いは本物だ。
「悪いな、三宅。正直、結構嬉しいよ」
「ああ、良いってことよ。ところで……俺、今授業どの辺か全然知らないから、ノート貸してくんね?」
「……お前、それが目的か!」
前言撤回。やっぱこいつはろくでもない。……まあ、ろくでなしは嫌いじゃないけどさ。
呆れながら鞄をまさぐる。荷物がかさばるので全教科は持っていないが、今日の分のノートは持っている。ちなみに三宅は当然のように置き勉しているので学校には手ぶらでやってくる。
「ふむふむ。教科書に、ノートに、携帯と財布……そしてカメラですか。なんだ、いつも通りだな」
「悪かったな、変わり映えしなくて」
朝はこの荷物を自分の分身のように思っていたが、こうして指摘されるとなんだかちゃちな荷物のようにも感じる。携帯には思い出がたくさん保存されているし、一緒にしまってあるイヤホンは悩みぬいて買ったお気に入りの、ちょっと良いやつだ。なによりカメラは一番の趣味で絶対に手放せない。……とはいえ、三宅の言う通りこの辺は俺の荷物としておなじみのメンツだ。そりゃ、こんなときでも持ち歩くものはいつだって持ち歩くに決まっているか。
一時間目の英語のノートを手に取りパラパラとめくる三宅に、ふと思い立ってカメラを向ける。
「きゃっ。隠し撮りですかー伊織サンのエッチ!」
シャッターを切る瞬間、三宅はふざけて掌で目元を隠した。
「どれどれ、見せてみ。お、このポーズをとるだけでなんかちょっとイケメン度上がってね?」
「上がってねーよ」
「いやいや、よく見てごらんなさいな。俺のシュッとした鼻筋がね……。てか、なんでいきなり撮った? 俺の顔なんて見慣れてるだろ」
「今朝、お前にちょっとだけ似てる人に会ったから――」
今朝の電車での出来事を思い出す。ちょっと見た目が怖いけど、実は良い人っぽかったジャケットの人。あれくらい絵になる被写体もそうないだろう。赤の他人だから、撮影したいなんてのは叶わない望みだろうけど。
だから微妙に共通点のある三宅を写してみたのだが……まあこいつも俺より背は高いけど三センチだし、顔は整ってるけど放蕩すぎる生活で肌は荒れてるし、というかたまに風呂入らないでいるときあるし……。
「――いや、よく見たら全然似てなかった。悪い、ただの気まぐれだよ」
「……お前、やっぱ疲れてんじゃね? 写真オタクではあるけどそこまで見境なくないだろ」
どうだろう。たしかに、普段なら行動する前に働く理性が職務放棄気味な気はする。
「……そうかも。もし授業中居眠りしたらごまかしといてくれ」
その後、一応眠らないように気を張っていたつもりだったが、気が付けば言葉通りに居眠りをしていて、その日の授業は全体の半分ほどしか記憶に残らなかった。三宅が一体どんなごまかし方をしてくれたのかは定かではないが、放課後まで教師に注意されるようなことはなかった。だが。
「伊織、ちょっといいか?」
帰り際、担任に呼び止められて内心冷や汗をかく。居眠りを咎められるのだろうか。
「はい、なんですか?」
「ちょっと職員室まで来てほしいんだ」
「い、居眠りで職員室まで!?」
「そういえばよく寝てたな。はは、違う違う。ちょっとした頼み事だよ。休み明けで疲れて寝てるのなんて伊織に限らないしな」
家の事情を知っていることもあって、普段はちゃんと起きているからと特別にお目こぼししてくれた。それは助かるが、じゃあ一体何の用だろう。特別に教師から頼みごとをされるほど優秀な生徒でもないと思うのだけど。
不思議に思いながら担任の背中を追って職員室に入る。教室では気さくな先生も気難しい先生も、職員室では皆一様に冷たく感じる。別に特別冷淡な雰囲気を出しているのではなく単に教室と職員室では業務内容が違うだけ。教室では物事を教えるのが仕事でも、職員室では事務仕事が優先で、生徒の応対は副次的な仕事でしかない。そういう大人の事情も分かってはいるのだけど、この雰囲気は苦手だ。
「ああ、来てくれましたか」
俺に用があったのは担任ではなく、社会科を教えている別の教師だった。たしかに授業では顔を見るが、わざわざ呼びつける理由に心当たりはない。
「伊織くんは今度から桑原さんのお宅に世話になるんですよね?」
「はい。まあ」
何が「まあ」なのかは自分でもよくわからないが、まさかここでそんなことを聞かれるとは思わず、間の抜けた相槌を打ってしまう。桑原さん夫妻のお宅が今日から自分が帰る家だ。
「うん。それじゃあね、桑原さんにこれを届けてほしいんだ」
そういって取り出したのは、A4サイズほどの紙ならすっぽり収まる程度の大きさの茶封筒だった。中にはそれなりの紙束が入っているらしく、少し膨れている。
「鞄に入りますか? 紙袋を用意しますが」
「えっと、たぶん入ると思います」
「そうですか。ではお願いしますね」
茶封筒を受け取り、丁寧にしまう。うん、これならよれたり皴が入ることもなさそうだ。
「ないとは思いますが、個人情報なのでくれぐれも中身は覗かないように」
頼みと言うのはそれだけのようで、それっきりパソコンに向き直ってしまった。他の教師も皆似たような状況で、そういえば中間試験が近いことを思い出しす。忙しなくキーボードを打つ音が響いているのはその準備に追われているからだろう。
これ以上残っていても仕方がないので、職員室から辞そうと扉に手を伸ばすと、
「伊織君!」
先ほどの教師が呼び止めてくる。
「……いえ、何でもありません。君に言うことじゃあなかったことを、言いそうになっただけです。ああ、本当に封筒の中身は見ないように。悪戯では済みませんからね」
「え? ああ、はい。わかってます」
「なら良いのです。さようなら、気を付けて帰るように」
ちょっと変な先生だな……。そう思いながら、初めての家路を歩き始めた。そういえば、この先生は桑原さんとはどういう関係なんだろう?
桑原さんの家は学校から歩きで二〇分ほどの閑静な住宅街の中にあった。少し古びてはいるが庭付きの戸建てで、三階建て。豪邸というほど立派なものではないかもしれないが、家の事情で生まれてこの方賃貸住まいな自分の目には素敵な住まいに映る。
迎えてくれたのは桑原明子さんに、則夫さん。明子さんは電話で話した声の印象通り上品で穏やかな、則夫さんは口調こそぶっきらぼうだが随所に家へ迎える子供への配慮を感じさせる、とても優しそうな人たちだ。
「疲れてるでしょ? 自分のお家と同じようにくつろいでいいからね」
そう言われてはいどうも、と寛げるわけはないのだが、その優しさが嬉しい。この家なら安心して帰ってこれることを、到着してすぐに確信した。
家の間取りは一階がリビングにダイニング、風呂やトイレ、そして和室。二階が老夫婦それぞれの部屋。そして三階にも廊下を挟んで向かい合うように二部屋。このうちの一つが俺の為に用意された部屋だ。
「まずはお部屋を見ておいで。荷物はもう運んでおいたから」
明子さんに促され、まずは自室を見ておくことになった。古い家屋特有の、少々急な階段を上り、突き当り左。
「わあ……」
嘆息が漏れる。七畳はある部屋で、日当たりも良い。今まで兄弟たちと一緒の部屋に押し込められていたのもあって、突然自分にこんなに広いパーソナルスペースが与えられるとどう使えばいいかわからないくらいだ。
「どう? 古い家だから気に入らないかもしれないけど」
「いいえ、すごくいい部屋ですね。気に入りました!」
「それならよかった」
口元に手を当て微笑む明子さんは皆が思い浮かべる優しいおばあちゃんそのものだ。
「向いは琉仁(りゅうじん)の部屋。ほら、前に話したでしょう? もう一人、一緒に住んでる孫がいるって。困った子だけど仲良くしてあげて」
困った子、というのがどれほどのものか知らないけれど、俺は三宅という大変困ったやつを知っているので、恐らく大丈夫だろう。あれ以上の傑物がそうそう同じ町にいたら堪らない。そこまでこの街の若者の心は乱れていないはずだ。
「はい、ぜひ。その……琉仁くん? は今いるんですか?」
「それが、ついさっき出かけちゃったのよ、予定があるとかで。まったく、ご挨拶くらいしなさいって言ったのに『どうせ後で会うんだから』ですって」
明子さんは怒る姿も優しさが隠せず、全然迫力がない。それほど怒っていないか、あるいはある程度諦めているのかもしれない。
「言う通り、いつかは顔を合わせるので、全然いいですよ。突然やってくるよそ者の為に予定を開けてくれ、とも言えませんし」
「よそ者なんて。言った通り、自分の家と思ってくれていいのよ?」
「……はい。ありがとうございます」
俺はすでにこの部屋をだいぶ気に入っている。嘘偽りなく、この部屋でなら実家以上にリラックスした時間を過ごせるだろう。
「ああ、そうだ。学校の先生から預かったんですが、これ……何かわかります?」
忘れないうちに、と例の茶封筒を明子さんに手渡す。
「ああ。これ、琉仁のね」
宛先は桑原さん夫妻ではなく例のお孫さんだったのか。冷静に考えれば気付けたはずだが、彼が同じ学校の生徒だという発想が今の今まで出てこなかった。あの歴史教師はたしか二年の担任を受け持っていたから、琉仁さんは先輩になる。ひょっとすると今日のうちのどこかですれ違っていたかもしれない。
「同じ学校だったんですね。それなら心強いです」
何気なく発した言葉だったが、さっきまでと違い明子さんからの応答がない。
「明子さん?」
「……え、ええそうね。あの子も、後輩が一緒なら気も引き締まるんじゃないかしら」
明子さんの笑顔はどこかぎこちないものに変わっていた。何か引っかかるようなことを言ってしまっただろうか。
「気にしないで。ほら、言った通り困った子なのよ。先生にも心配かけて、まったくもう」
茶封筒を琉仁さんの部屋に放り込むと、足早に階段を下りていく。三宅レベルなのかはわからないが、明子さんにとって頭痛の種なのは間違いないようだ。
そうなると、多少は心配になる。もしあまり快く思われていないのだとしたら、やっぱり居心地は悪い。とはいえ出ていく先などないので、受け入れてもらうほか無いんだけど。
階下へ降りていく明子さんを見送ると、改めて自室を眺めてみる。自分が持ち込んだ荷物の他に、簡素なカラーボックスと少し古びている文机が置かれていた。これなら当面収納と勉学で困ることはないだろう。仄かに埃っぽいところを見るに、家内に眠っていた不要な家具を持ってきてくれたのだろう。それだってわざわざ用意してくれたのには違いない。ありがたく使わせてもらおう。
「ふわぁ……はあ。まだ日は出てるのに、あくびなんてな」
自分の居場所と言える場所をようやく得たからか、今朝からの眠気がぶり返す。押入れを開けたら布団と一緒に座布団が仕舞われていたので、これを枕に寝転んでみる。そして、俺は明子さんに夕食の誘いを受けるまでしばし眠りこけていたのだった。
桑原宅での食事は、それは美味しいものだった。
実家では出なかったような和食中心の献立は新鮮だったし、おかずを取り合って喧嘩する兄弟がいないだけで食事と言うのはこんなにも和やかかつ穏やかな時間になるのだということを初めて知った。
ダイニングテーブルには四人分の椅子が置かれていたけど、例の琉仁さんは結局夕食までには戻らず、三人での食事となった。
その後は風呂を勧められ、昨夜から凝り固まった身体をリフレッシュ。今朝までの緊張はどこへやら、他人の家にいるとは思えない、旅館にでも泊まったかのようにリラックスしていた。自分がそこまで図太い性格をしているとは思っていない。きっと桑原さん夫婦の度量がそれだけ深いのだろう。
身体の火照りを冷ますため縁側に腰を下ろす。昼は日々気温が上がっていく一方だが、夜風は春らしい涼やかで心地の良いものだ。
……いいな、こういう暮らし。最初父の転勤を聞いたときはどうなるかと思ったけど、今ではありがたいくらいだ。
しばらくそうして涼んでいると、風に乗って遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきた。音は段々と近づいてくる。近くに住んでいる人なんだな、と思っていたら、音は家の間近まで接近し、眩いライトが目の前を照らした。
道路から侵入してきたバイクは庭先に停めてある則夫さんの軽トラックの横までのろのろと走り、そこで止まった。バイクに乗って現れた人はヘルメットを被っていて顔が見えないが、彼が「琉仁さん」であることにはすぐに思い至った。
琉仁さんがメットを脱ぐ。露わになったのは長い黒髪を後ろで束ねた素顔……髪型こそ少し違っているけどその顔には見覚えがある。
「今朝のジャージの人……?」
驚きで固まっていると、琉仁さんもこちらに気づいたようでまじまじと俺を見やる。暗がりで判りにくかったけど、向こうも驚いている様子で「マジか」と小さく呟くのが聞こえた。
「えっと。君、朝電車であった子だよね」
「はい。あのときの、起こしてもらった」
「だよね。うわ、すげー偶然。今日からウチに来る伊織くんって君かぁ」
よく見ると服装は今朝と違っていたが、似通った同系統のライダースジャケットを着ており、ぱっと見のヤカラ感は強い。けれど琉仁さんはそんな第一印象を軽く吹き飛ばすようなフランクさで、俺の肩を軽く叩きつつ隣に腰を下ろした。
「えっと、自己紹介するべきですよね。伊織航大です、今日からお世話になります」
「いいっていいって、そんな固くならないで。俺は吉見琉(よしみりゅう)仁(じん)。じいさんちの居候って点じゃ伊織くんと変わらないから、俺に遠慮なんてしなくていいからね」
桑原さんとは苗字が違うのか……。そう気になったことを見透かしたように、琉仁さん改め吉見さんは「ここ、母方の実家なんだ」と付け足す。
そうだったのか。吉見さんも元からここに住んでいたのではなく、実家から越してきた……やはり通学の為だろうか? それなら俺の制服を知っていたのも当然だ。自分も同じ学校に通っているのだから。……そうなると気になることが出てくる。
「あの、吉見さんは大丈夫でしたか? 俺でも学校ギリギリだったのに、あのとき制服着てませんでしたよね?」
寝起きだったとはいえ、人の服装は間違えない。駅からこの家まで戻って、そこから着替えて学校では間違いなく間に合わない。
俺の疑問に吉見さんは「あー、それなー……」と呟きながら困ったように笑みを浮かべる。その様子に「ああ、サボったのかな」と思ったものの、吉見さんの返事は意外なものだった。
「実はさ、俺学校行ってないんだよね」
「え……? あ、今日休んだってことですか? そういえば明子さんも、今日吉見さんは用事があって外出してるって言ってました」
それであの教師がわざわざ俺にお使いなんか頼んだのか。と納得しかけるが、吉見さんはまだ何かを言い辛そうにして、しきりに髪をかき上げている。
「えーっと、そうじゃなくて……なんつーかもっと極端って言うか。本当に行ってないんだよ、一切。去年の九月から」
去年の九月から、一切学校に行ってない?
「それは、えっと……こういう言い方していいかわからないんですけど、不登校、ってやつですか?」
とても失礼なことを聞いているので慎重に、できる限り丁寧に聞いてみる。本当は聞くべきじゃなかったのかもしれないけど、そんな風に考える余裕もなかった。
「そ。バリバリ不登校。学校行かずにバイク乗り回して遊んでる悪い先輩です、よろしくね!」
横に座った吉見さんは半分自棄になったように不登校宣言をすると、そのまま後ろに倒れ込んだ。髪を縛っていたヘアゴムをポケットにしまうと、俺の方を向いて、
「悪いな、一緒に住む先輩がこんなんで。ま、夜型で生活リズム合わないと思うから空気だとでも思っといてよ」
ははは、と笑うのは自嘲かそれとも愛想笑いか。けれど俺は吉見さんが不登校なことなんてどうでもよくて、ただ月の光に映える吉見さんのことを綺麗だな、と思って眺めていた。
「その髪――」
「ん? ああ、人前に出なくなったらなんかどうでもよくなって。しばらく切ってねーな」
似合うから伸ばしてるんですか。と口に出そうになったが、そうなる前に吉見さんが言葉を拾って投げ返してくれる。言葉に出なくて良かった。無造作に伸ばしているだけの髪を褒められても、嬉しくはなかっただろう。
けれど俺は本心から、その黒髪が綺麗で吉見さんの顔立ちによく似合っていると思った。綺麗ですね、なんて恥ずかしいこと、余計言えないけれど。
「ちょっと、琉仁。家に上がるときは縁側からじゃなくて玄関からっていつも言ってるでしょ?」
吉見さんの帰宅に気づいた明子さんが家の中から声をかける。「へーい」と返事した吉見さんは起き上がると「またね、おやすみ」と玄関の方へ向かっていった。俺は返事をする暇もなくて、ただ軽やかな足取りで階段を上っていく吉見さんの足音をぼんやりと聞いていた。
「伊織くん、伊織くん、起きて。ねえこれ、どうやって止めるの?」
肩を叩かれて、眠っていた意識が浮上する。肩を叩く手は絶妙な力加減で、これならもっとよく眠れそうだ。……あれ、最近も似たようなことがあったような。でも大丈夫、ここは安心して眠れる場所だから。
「おーい。起きろっつーの!」
肩を叩くどころか揺さぶられる感触に堪らず目を開ける。いつかのように、至近距離に顔があって、怪訝な目で俺を見ている。
「やっと起きた。あれだけ目覚まし派手に鳴ってて起きないの? こっちも起こされたわ」
「ふぇ? すみません……朝は弱くて」
寝起きの掠れた声で言い訳をしてみる。実家でも弟たちに「にいちゃんの目覚ましうるさい」と言われて起きるのが常だった。自分でも朝の弱さは気にしてて、周りに迷惑を駆けず起きられるよう目覚ましの音量は大きめにセットしているのだが……今のところ、その努力はかえって周囲への被害を大きくしているのが現状だ。
携帯のアラームを止めてひとまず落ち着いたところで、急激に頭が回転し始め、ようやく現状を認識する。ここは昨晩からの俺の部屋。そして傍らには若干不機嫌そうな吉見さん。これは、二日目からいきなりやらかしてしまったか。
「ご、ごごごめんなさい! 迷惑でしたか迷惑でしたよね本当すみません!」
慌てて平謝りする。そういえば夜型って言っていた。ようやく寝ついたタイミングで起こしてしまったのだとしたら、不機嫌そうなのはもっともだ。
「いいよ、謝らなくて。夜起きて朝寝てる方がおかしいんだから。……まあ、うるさかったのは事実だけど」
言葉は優しいが、若干棘があるように感じるのは気のせいじゃないだろう。生活リズムの不一致は同居する上ではトラブルの種だ。早めに矯正しないとお互いへの不満は溜まっていく一方になってしまう。
「悪い、俺もちょっと言葉がきつかったかも。つーか、このナリで詰めたらそりゃ恐いか。あのな、別にそんな怒ってないから。気にすんなよ」
目の前の後輩があまりにもしょぼくれているように見えたのか、吉見さんは少し言葉のトーンを上げて声をかけてくれた。
「朝、そんなに弱ぇの」
申し訳なさやら、高校生にもなって年上に気を遣われるやるせなさやらで何と答えたらいいのかわからない。けれどここで黙っていては、それこそ呆れられてしまう。
「普段はここまで起きれないってことはないんですけど……この部屋の居心地が良すぎて、寝つきが良すぎたのかも……」
なんでも良いから答えなきゃ、とは思ったものの、これは自分でもどうなんだと思う。たしかに兄弟で雑魚寝だった頃と比べたら一人部屋の睡眠は快適だったが、寝坊を部屋のせいにするのはめちゃくちゃだ。
なのに吉見さんは俺の言葉を大真面目に受け取って、腕を組みながら何事かを考えている。
「環境の変化で自律神経が崩れてるってのもありえるか。ま、そりゃ俺も似たようなもんだし怒れないな。……わかった。じゃあ朝起こしてやるからとりあえずその目覚ましは止めろ。それで毎朝起こされるのはちょっときつい」
「え、いいんですか?」
「次善の策だわな。あの騒音を毎朝鳴らされるくらいなら自分で起きて伊織くん叩き起こした方がマシ。でも百パーセントの保証はしないから自分で起きる努力もしろよ」
冗談じゃなく、吉見さんが神か仏に見える。肩まで無造作に伸びたジーザスな髪が余計に神々しさを際立てているのもあるかもしれない。
じゃあな、と部屋を出る吉見さんの後を追うように、自分も起床して部屋を出る。階下からはお味噌汁の良い匂いが漂ってきていた。部屋に引っ込もうとした吉見さんは最後に振り向くと「ああそうだ、勝手に部屋入って悪かった」と言い残してドアを閉めた。
吉見さんはこのまま二度寝だろうか。できるなら、朝ご飯も一緒に食べたかったな、と思ったがこれ以上を望むのは欲張りすぎか。
緩みきった精神に喝を入れるため、大きく伸びをして朝の空気を目一杯吸い込む。さあ、新しい一日が始まる。
始発電車に乗り込み、片道二時間は下らない距離を移動することは、伊織航大にとってもちろん日常の生活ルーティンではない。ならばちょっとした旅行かといえば、それも違う。ただ俺は、通っている高校に通学するためだけに夜明けと同時に起きて、こうして二時間電車に揺られている。
先月までの通学路は、ありふれた住宅街とそれなりに活気のある商店街を自転車で通り抜けるだけの、往復三〇分もかからない距離だった。それがゴールデンウィークを挟んで久々の登校ではこれだ。通学時間、何倍に膨れ上がってるんだろう。
こんなことになったのは父の急な転勤による引っ越しが原因だ。もともと転勤族の家で育ったからある程度理解はしていたが、まさか高校入学から一カ月でそんな酷な現実を突きつけられるとは思わなかった。
通っている学校は別に進学校という訳でも、そこでしか学べない学問があるという訳でもない、ごくありふれた中堅上位くらいの高校だ。入学してから一カ月では、まだ愛校精神と呼べるほどの愛着もない。……けど、自分にしては受験勉強を頑張って、本来なら少々高望みと言える水準の高校に滑り込んだんだ。その努力が無下にされるような気がして、今度の転校は今までのように受け入れることはできなかった。
自分を慕ってくれる弟妹と離れるのは少し辛かったけど、今回ばかりは親についていかず自活する決心を固めた。親と相談して安アパートでの一人暮らしも検討していたが、最終的には母と縁のある人の家に下宿するということで話がまとまった。なんでも母の昔の習い事の先生だという。
先方は急な頼み事であるにも関わらず快く俺を受け入れてくれて、挨拶こそ済んでいないものの電話で少し話す機会があった。上品そうな印象を受けるお婆さんで、その旦那さんと、お孫さんと一緒に三人暮らしをしているらしい。
「子供の面倒見るのは一人も二人も変わらない」そう言って笑っていたが、そのせいで俺は昨夜から緊張しっぱなしだ。下宿先の人たちはどんな人なんだろう。お孫さんって俺と歳近いのかな。もしかしたら、同じ学校に通っていたりして。もちろん不安もあるけど少し楽しみな気持ちもある。まるで一カ月前の入学式がそっくりそのまま帰ってきたみたいな気分だ。
……ま、よく眠れなかったのは緊張だけでなく、新居に自分の部屋がなくてリビングのソファで寝ていたのもあるんだけど。
彼らと対面できるのは今日の夕方ごろになる。今の実家からの距離では朝のうちに顔を出していては学校に間に合わない。大きな荷物は休みの間に送っておき、当日は直接学校に向かうことにした。すぐに手元に戻るとはいえ、自分が人生で得てきた荷物を小さな鞄一つに収まるくらいまで選別する作業はかなり心細い心境にさせられた。今この鞄には、伊織航大という一人の人間を表すアイコンともいえる「これだけは片時も手放したくない」ものが詰まっている。十六年弱という月日と比べたとき、それが重いのか、思ったよりも軽いのか。それはわからないけど。
初めて聞く駅名のアナウンスが流れ、しばらくすると心地よく揺れる車体が徐々に停止し乗客を入れ替える。ときには自分もその流れに乗って路線を乗り継ぎ慣れ親しんだ街へと近づいていく。
目的地に近づき、時間が過ぎる。徐々に車内の人も増えてきたけど、それでもまだ電車は早朝の気だるげな雰囲気に満ちている。スーツを着たサラリーマン。うたた寝をしているお婆さん。夜職帰りと思しき女性。それぞれ全く暮らしぶりが違いそうな人たちが、この車両に集まっている。
中でも目を引くのが、黒のライダースジャケットを来た長髪の男性だ。目を瞑り微かに寝息を立てているが、それがかえって顔立ちの良さを際立てる。座っていてもわかる長身だが、たぶん歳は自分とそれほど離れていない。
……不良かな。
見た目だけで人を決めつけるのは良くないが、背の高い人が黒い服を着ているとそれだけで威圧感は出てしまう。それに肩までかかるほどの長髪となると自分の学校なら確実に頭髪検査で引っかかる。
彼はちょうど真向かいに座っているから、自分と比べた時の身長差がよくわかる。座高も足の長さも全然違って、並べたら頭一つ分くらい差がありそうだ。身長が欲しい事情がある訳でもないけれど、どうせならまだまだ伸びてほしい。
とはいえ、育ち盛りがこうして眠い目を擦っているようでは伸びるものも伸びなさそうだ。せめてもの抵抗で、俺は再び入眠を試みる。ジャケットの人への対抗心ではないけれど、背筋を伸ばして背もたれに体重を預ける姿勢になると、車両の揺れがさっきよりも大きく感じてなんだか心地いい。
「ねえ、君。起きた方が良いんじゃない?」
誰かに肩を叩かれる感覚で意識を取り戻す。さっきまで全然眠れなかったのに、自分でも驚くくらいすんなりと寝入ってしまっていたみたい。
肩を叩く手は絶妙な力加減で、これならもっとよく眠れそうだ。……いや、そうじゃない。誰の手だ、これ。ていうかどういう状況だ。
夢心地の頭を瞬時に切り替えて目を開ける。
「お、起きた」
目の前には、さっきまで目の前で寝ていたジャケットの人。その顔が至近距離で自分を見つめている。
「うわっ!」
思わず、下がっていた頭を飛び起こすとジャケットの人は一歩下がって苦笑する。
「あー、安心しろ。別にカツアゲとかじゃないから」
そんな疑いを持っていた訳ではなかったんだけど、そう伝えようにも起き抜けで声が出てこず、少し掠れた声で「ありがとうございます……」と伝えるのが精いっぱいだった。
「その制服、若高のだよね。もうすぐ最寄りだよ」
若高とは俺が通う若原高校の通称で、彼の言う通り電車はその最寄り駅に差し掛かっていた。もし起こしてもらえなかったら寝過ごしていたかもしれない。
「本当だ。ありがとうございます、助かりました」
「ん、別に大したことじゃないから」
本当に大したことと思っていなさそうで、そっけなく目線を車内案内のモニターに移すとあくびをしながら扉の前に移動した。その仕草は見た目が与える威圧感からはだいぶかけ離れている。もしかしたら、それほど怖い人ではないのかもしれない。
間もなく電車は駅に止まり、二人そろって駅に降りる。
「あの、本当に助かりました。ありがとうございます」
迷いなく歩き始める背中に再度礼を言う。それは勝手に偏見の目で見ていたことの詫びも含んでのものだけど、同時に心からの感謝でもある。放っておいても良かっただろうに、わざわざ声をかけてくれたことにはやっぱりきちんと感謝を伝えたい。
ジャケットの人はほんの少し意外そうな顔で振り返ったが、すぐに目を細めて「うん。学校遅れるなよ」とだけ言い、ゆったりとした足取りで去っていった。後ろ姿を見て再び思う。やっぱりこの人は、立ち居振る舞いに華がある。こういう人だから、余裕を持って人助けができるのかもしれない。
しかし危なかった。きっとクラスの誰よりも早起きしただろうに遅刻する羽目になっていた。それじゃあ二時間電車に揺られた甲斐がない。
……ま、ああいう人との出会いがあるのなら、また早朝の電車に乗ってみるのも悪くはないかもしれないが。
「おっはようさーん。伊織クン、新居の居心地はどうだったかね?」
教室につくと、珍しい顔が真っ先に俺の席にやってきた。中学からの悪友の三宅搭だ。
「ああ、おはよう。お前が朝からいるなんて珍しいな。何しに来たんだ」
もちろん、生徒が学校に来る理由なんて勉学に励むため……というのが普通だが、こいつがそんなことの為に学校に来るはずがない。なにせ、朝からクラスにこいつの声が響くのは「珍しい」ことなんだ。
「何って、そんなの決まってんだろ? 新生活に臨む親友の心の安寧の為に来てやったのさ。環境が変わって浮ついた心を地に足つけさせるのは友の役目だろう?」
「いや、お前が朝から顔を出してるなんて非日常そのものなんだが」
三宅の言葉を訳すと、「急な引っ越しとそれに伴う作業で連休明けの伊織航大はきっと面白いことになってそうだから見物に来ました」というのが正しい。要はタチの悪い野次馬さんだ。
「新居がどうって、そんなの最悪に決まってるだろ。俺の部屋ないんだし。昨日なんかリビングのソファで寝たからまだ肩とか違和感あるし……」
「そりゃまたお気の毒。ってか、部屋がないってマジか」
「どうせすぐ下宿するからって用意されなかった。たぶん俺が卒業するまでにまた引っ越す想定なんだろうな」
大げさな身振りで俺の境遇に同情してくれる三宅だが、家庭での扱いはこいつもそう変わらない。俺とは事情がだいぶ異なるけど、こいつも家に居場所がないタイプの人間だ。
けっこう良いところのお坊ちゃんなんだが、とにかく親とそりが合わないらしい。中学の頃から夜遊びを繰り返し、登校は不定期。そんなだから、学校が同じとはいえ本来俺とは接点がなかった。
今のような関係になるきっかけになったのは中二のとある休日。その日は年下の兄弟たちを連れて近場のゲームセンターに出かけていた。
「にーちゃん、あれ取って」
妹がクレーンゲームのぬいぐるみを欲しがった。ここはサクッとゲットして兄の威厳を見せたかったのだが、想定外の大苦戦。すり減っていくおこづかい(ライフ)と、懇願の眼差しで自分を見つめる妹。
取れないから、我慢してね。とはとても言えず……困っていたところに三宅は現れた。
「それ、欲しいの? うーん……良い位置までは来てるな。貸してみ」
言うが早いか、操作レバーを握ると一発で目当てのうさぎさんを落としてくれた。
「ありがとう! 金髪のおにいちゃん!」
小学生とは無邪気なもので、中学生と金髪という組み合わせの悪質さを知らずきらっきらの笑顔を向ける。俺も本来なら礼を言わなきゃいけないのだが、校内でも有名な不良である三宅にどう接したらいいのかわからない。だって、中学で金髪だぞ! 絶対怖いだろ!
「あ、の。ありがとう……妹も喜んでる」
「おう! よかったなー。てか、ちょっと前から見てたけど気の毒になるくらい飲まれてたもんな、伊織。さすがに声かけちまったわ」
話してみると予想以上に人懐っこい笑みが帰ってきて、しかも彼のような人種にはきっと自分は認識すらされていないと思っていたのに、名前も憶えられていた。
そこでは短く話しただけだったが、その間にこいつが意外と学校では周囲をよく観察していること。そして学校の誰もが抱いている印象に反して、とても話しやすいことを知った。この日をきっかけに徐々に学校でも交流するようになっていき、最初の内こそ「伊織が三宅に目ぇつけられた」と心配されたものだが、気の置けない友人関係を築いていけた。
この世の終わりのような内申点から一体どんな手段を使ったのか、こうして同じ学校に進学したのもあって今でもその関係は変わらない。変わったことと言えば、三宅の根城がゲームセンターから繁華街の雀荘とバイト先のピザ屋に移ったくらいのものだ。「今までは延々とメダルゲームを積んでも一円にもならなかったが、今ではツモると儲かる!」と嬉々として話してきたのが、入学してから交わした最初の会話だ。
そんな暮らしぶりなので、登校頻度もまちまち。朝から学校にいた場合、その利湯理由は寝ずに朝を迎えたか素寒貧で居場所がないかの二択だ。まだ五月でこれなので、担任教師はさぞ胃を痛めているだろう。
「言っとくけど、そんなに面白いことはないぞ。そりゃ、多少疲れてはいるけどさ」
「そりゃ残念。ホームシックで突然泣き出したりしたら面白いんだけどな」
「泣くかバカ」
「ははは、冗談。真面目な話、突然人んちで暮らし始めるって気も遣うだろ。ちょっとでも緊張をほぐしてやろうかなって思ってきたんだよ」
こういうことをさりげなく言えるのが三宅の人の好さだ。もちろん隙を見せれば悪びれもせずネタにしてくるが、それでもこの心遣いは本物だ。
「悪いな、三宅。正直、結構嬉しいよ」
「ああ、良いってことよ。ところで……俺、今授業どの辺か全然知らないから、ノート貸してくんね?」
「……お前、それが目的か!」
前言撤回。やっぱこいつはろくでもない。……まあ、ろくでなしは嫌いじゃないけどさ。
呆れながら鞄をまさぐる。荷物がかさばるので全教科は持っていないが、今日の分のノートは持っている。ちなみに三宅は当然のように置き勉しているので学校には手ぶらでやってくる。
「ふむふむ。教科書に、ノートに、携帯と財布……そしてカメラですか。なんだ、いつも通りだな」
「悪かったな、変わり映えしなくて」
朝はこの荷物を自分の分身のように思っていたが、こうして指摘されるとなんだかちゃちな荷物のようにも感じる。携帯には思い出がたくさん保存されているし、一緒にしまってあるイヤホンは悩みぬいて買ったお気に入りの、ちょっと良いやつだ。なによりカメラは一番の趣味で絶対に手放せない。……とはいえ、三宅の言う通りこの辺は俺の荷物としておなじみのメンツだ。そりゃ、こんなときでも持ち歩くものはいつだって持ち歩くに決まっているか。
一時間目の英語のノートを手に取りパラパラとめくる三宅に、ふと思い立ってカメラを向ける。
「きゃっ。隠し撮りですかー伊織サンのエッチ!」
シャッターを切る瞬間、三宅はふざけて掌で目元を隠した。
「どれどれ、見せてみ。お、このポーズをとるだけでなんかちょっとイケメン度上がってね?」
「上がってねーよ」
「いやいや、よく見てごらんなさいな。俺のシュッとした鼻筋がね……。てか、なんでいきなり撮った? 俺の顔なんて見慣れてるだろ」
「今朝、お前にちょっとだけ似てる人に会ったから――」
今朝の電車での出来事を思い出す。ちょっと見た目が怖いけど、実は良い人っぽかったジャケットの人。あれくらい絵になる被写体もそうないだろう。赤の他人だから、撮影したいなんてのは叶わない望みだろうけど。
だから微妙に共通点のある三宅を写してみたのだが……まあこいつも俺より背は高いけど三センチだし、顔は整ってるけど放蕩すぎる生活で肌は荒れてるし、というかたまに風呂入らないでいるときあるし……。
「――いや、よく見たら全然似てなかった。悪い、ただの気まぐれだよ」
「……お前、やっぱ疲れてんじゃね? 写真オタクではあるけどそこまで見境なくないだろ」
どうだろう。たしかに、普段なら行動する前に働く理性が職務放棄気味な気はする。
「……そうかも。もし授業中居眠りしたらごまかしといてくれ」
その後、一応眠らないように気を張っていたつもりだったが、気が付けば言葉通りに居眠りをしていて、その日の授業は全体の半分ほどしか記憶に残らなかった。三宅が一体どんなごまかし方をしてくれたのかは定かではないが、放課後まで教師に注意されるようなことはなかった。だが。
「伊織、ちょっといいか?」
帰り際、担任に呼び止められて内心冷や汗をかく。居眠りを咎められるのだろうか。
「はい、なんですか?」
「ちょっと職員室まで来てほしいんだ」
「い、居眠りで職員室まで!?」
「そういえばよく寝てたな。はは、違う違う。ちょっとした頼み事だよ。休み明けで疲れて寝てるのなんて伊織に限らないしな」
家の事情を知っていることもあって、普段はちゃんと起きているからと特別にお目こぼししてくれた。それは助かるが、じゃあ一体何の用だろう。特別に教師から頼みごとをされるほど優秀な生徒でもないと思うのだけど。
不思議に思いながら担任の背中を追って職員室に入る。教室では気さくな先生も気難しい先生も、職員室では皆一様に冷たく感じる。別に特別冷淡な雰囲気を出しているのではなく単に教室と職員室では業務内容が違うだけ。教室では物事を教えるのが仕事でも、職員室では事務仕事が優先で、生徒の応対は副次的な仕事でしかない。そういう大人の事情も分かってはいるのだけど、この雰囲気は苦手だ。
「ああ、来てくれましたか」
俺に用があったのは担任ではなく、社会科を教えている別の教師だった。たしかに授業では顔を見るが、わざわざ呼びつける理由に心当たりはない。
「伊織くんは今度から桑原さんのお宅に世話になるんですよね?」
「はい。まあ」
何が「まあ」なのかは自分でもよくわからないが、まさかここでそんなことを聞かれるとは思わず、間の抜けた相槌を打ってしまう。桑原さん夫妻のお宅が今日から自分が帰る家だ。
「うん。それじゃあね、桑原さんにこれを届けてほしいんだ」
そういって取り出したのは、A4サイズほどの紙ならすっぽり収まる程度の大きさの茶封筒だった。中にはそれなりの紙束が入っているらしく、少し膨れている。
「鞄に入りますか? 紙袋を用意しますが」
「えっと、たぶん入ると思います」
「そうですか。ではお願いしますね」
茶封筒を受け取り、丁寧にしまう。うん、これならよれたり皴が入ることもなさそうだ。
「ないとは思いますが、個人情報なのでくれぐれも中身は覗かないように」
頼みと言うのはそれだけのようで、それっきりパソコンに向き直ってしまった。他の教師も皆似たような状況で、そういえば中間試験が近いことを思い出しす。忙しなくキーボードを打つ音が響いているのはその準備に追われているからだろう。
これ以上残っていても仕方がないので、職員室から辞そうと扉に手を伸ばすと、
「伊織君!」
先ほどの教師が呼び止めてくる。
「……いえ、何でもありません。君に言うことじゃあなかったことを、言いそうになっただけです。ああ、本当に封筒の中身は見ないように。悪戯では済みませんからね」
「え? ああ、はい。わかってます」
「なら良いのです。さようなら、気を付けて帰るように」
ちょっと変な先生だな……。そう思いながら、初めての家路を歩き始めた。そういえば、この先生は桑原さんとはどういう関係なんだろう?
桑原さんの家は学校から歩きで二〇分ほどの閑静な住宅街の中にあった。少し古びてはいるが庭付きの戸建てで、三階建て。豪邸というほど立派なものではないかもしれないが、家の事情で生まれてこの方賃貸住まいな自分の目には素敵な住まいに映る。
迎えてくれたのは桑原明子さんに、則夫さん。明子さんは電話で話した声の印象通り上品で穏やかな、則夫さんは口調こそぶっきらぼうだが随所に家へ迎える子供への配慮を感じさせる、とても優しそうな人たちだ。
「疲れてるでしょ? 自分のお家と同じようにくつろいでいいからね」
そう言われてはいどうも、と寛げるわけはないのだが、その優しさが嬉しい。この家なら安心して帰ってこれることを、到着してすぐに確信した。
家の間取りは一階がリビングにダイニング、風呂やトイレ、そして和室。二階が老夫婦それぞれの部屋。そして三階にも廊下を挟んで向かい合うように二部屋。このうちの一つが俺の為に用意された部屋だ。
「まずはお部屋を見ておいで。荷物はもう運んでおいたから」
明子さんに促され、まずは自室を見ておくことになった。古い家屋特有の、少々急な階段を上り、突き当り左。
「わあ……」
嘆息が漏れる。七畳はある部屋で、日当たりも良い。今まで兄弟たちと一緒の部屋に押し込められていたのもあって、突然自分にこんなに広いパーソナルスペースが与えられるとどう使えばいいかわからないくらいだ。
「どう? 古い家だから気に入らないかもしれないけど」
「いいえ、すごくいい部屋ですね。気に入りました!」
「それならよかった」
口元に手を当て微笑む明子さんは皆が思い浮かべる優しいおばあちゃんそのものだ。
「向いは琉仁(りゅうじん)の部屋。ほら、前に話したでしょう? もう一人、一緒に住んでる孫がいるって。困った子だけど仲良くしてあげて」
困った子、というのがどれほどのものか知らないけれど、俺は三宅という大変困ったやつを知っているので、恐らく大丈夫だろう。あれ以上の傑物がそうそう同じ町にいたら堪らない。そこまでこの街の若者の心は乱れていないはずだ。
「はい、ぜひ。その……琉仁くん? は今いるんですか?」
「それが、ついさっき出かけちゃったのよ、予定があるとかで。まったく、ご挨拶くらいしなさいって言ったのに『どうせ後で会うんだから』ですって」
明子さんは怒る姿も優しさが隠せず、全然迫力がない。それほど怒っていないか、あるいはある程度諦めているのかもしれない。
「言う通り、いつかは顔を合わせるので、全然いいですよ。突然やってくるよそ者の為に予定を開けてくれ、とも言えませんし」
「よそ者なんて。言った通り、自分の家と思ってくれていいのよ?」
「……はい。ありがとうございます」
俺はすでにこの部屋をだいぶ気に入っている。嘘偽りなく、この部屋でなら実家以上にリラックスした時間を過ごせるだろう。
「ああ、そうだ。学校の先生から預かったんですが、これ……何かわかります?」
忘れないうちに、と例の茶封筒を明子さんに手渡す。
「ああ。これ、琉仁のね」
宛先は桑原さん夫妻ではなく例のお孫さんだったのか。冷静に考えれば気付けたはずだが、彼が同じ学校の生徒だという発想が今の今まで出てこなかった。あの歴史教師はたしか二年の担任を受け持っていたから、琉仁さんは先輩になる。ひょっとすると今日のうちのどこかですれ違っていたかもしれない。
「同じ学校だったんですね。それなら心強いです」
何気なく発した言葉だったが、さっきまでと違い明子さんからの応答がない。
「明子さん?」
「……え、ええそうね。あの子も、後輩が一緒なら気も引き締まるんじゃないかしら」
明子さんの笑顔はどこかぎこちないものに変わっていた。何か引っかかるようなことを言ってしまっただろうか。
「気にしないで。ほら、言った通り困った子なのよ。先生にも心配かけて、まったくもう」
茶封筒を琉仁さんの部屋に放り込むと、足早に階段を下りていく。三宅レベルなのかはわからないが、明子さんにとって頭痛の種なのは間違いないようだ。
そうなると、多少は心配になる。もしあまり快く思われていないのだとしたら、やっぱり居心地は悪い。とはいえ出ていく先などないので、受け入れてもらうほか無いんだけど。
階下へ降りていく明子さんを見送ると、改めて自室を眺めてみる。自分が持ち込んだ荷物の他に、簡素なカラーボックスと少し古びている文机が置かれていた。これなら当面収納と勉学で困ることはないだろう。仄かに埃っぽいところを見るに、家内に眠っていた不要な家具を持ってきてくれたのだろう。それだってわざわざ用意してくれたのには違いない。ありがたく使わせてもらおう。
「ふわぁ……はあ。まだ日は出てるのに、あくびなんてな」
自分の居場所と言える場所をようやく得たからか、今朝からの眠気がぶり返す。押入れを開けたら布団と一緒に座布団が仕舞われていたので、これを枕に寝転んでみる。そして、俺は明子さんに夕食の誘いを受けるまでしばし眠りこけていたのだった。
桑原宅での食事は、それは美味しいものだった。
実家では出なかったような和食中心の献立は新鮮だったし、おかずを取り合って喧嘩する兄弟がいないだけで食事と言うのはこんなにも和やかかつ穏やかな時間になるのだということを初めて知った。
ダイニングテーブルには四人分の椅子が置かれていたけど、例の琉仁さんは結局夕食までには戻らず、三人での食事となった。
その後は風呂を勧められ、昨夜から凝り固まった身体をリフレッシュ。今朝までの緊張はどこへやら、他人の家にいるとは思えない、旅館にでも泊まったかのようにリラックスしていた。自分がそこまで図太い性格をしているとは思っていない。きっと桑原さん夫婦の度量がそれだけ深いのだろう。
身体の火照りを冷ますため縁側に腰を下ろす。昼は日々気温が上がっていく一方だが、夜風は春らしい涼やかで心地の良いものだ。
……いいな、こういう暮らし。最初父の転勤を聞いたときはどうなるかと思ったけど、今ではありがたいくらいだ。
しばらくそうして涼んでいると、風に乗って遠くからバイクのエンジン音が聞こえてきた。音は段々と近づいてくる。近くに住んでいる人なんだな、と思っていたら、音は家の間近まで接近し、眩いライトが目の前を照らした。
道路から侵入してきたバイクは庭先に停めてある則夫さんの軽トラックの横までのろのろと走り、そこで止まった。バイクに乗って現れた人はヘルメットを被っていて顔が見えないが、彼が「琉仁さん」であることにはすぐに思い至った。
琉仁さんがメットを脱ぐ。露わになったのは長い黒髪を後ろで束ねた素顔……髪型こそ少し違っているけどその顔には見覚えがある。
「今朝のジャージの人……?」
驚きで固まっていると、琉仁さんもこちらに気づいたようでまじまじと俺を見やる。暗がりで判りにくかったけど、向こうも驚いている様子で「マジか」と小さく呟くのが聞こえた。
「えっと。君、朝電車であった子だよね」
「はい。あのときの、起こしてもらった」
「だよね。うわ、すげー偶然。今日からウチに来る伊織くんって君かぁ」
よく見ると服装は今朝と違っていたが、似通った同系統のライダースジャケットを着ており、ぱっと見のヤカラ感は強い。けれど琉仁さんはそんな第一印象を軽く吹き飛ばすようなフランクさで、俺の肩を軽く叩きつつ隣に腰を下ろした。
「えっと、自己紹介するべきですよね。伊織航大です、今日からお世話になります」
「いいっていいって、そんな固くならないで。俺は吉見琉(よしみりゅう)仁(じん)。じいさんちの居候って点じゃ伊織くんと変わらないから、俺に遠慮なんてしなくていいからね」
桑原さんとは苗字が違うのか……。そう気になったことを見透かしたように、琉仁さん改め吉見さんは「ここ、母方の実家なんだ」と付け足す。
そうだったのか。吉見さんも元からここに住んでいたのではなく、実家から越してきた……やはり通学の為だろうか? それなら俺の制服を知っていたのも当然だ。自分も同じ学校に通っているのだから。……そうなると気になることが出てくる。
「あの、吉見さんは大丈夫でしたか? 俺でも学校ギリギリだったのに、あのとき制服着てませんでしたよね?」
寝起きだったとはいえ、人の服装は間違えない。駅からこの家まで戻って、そこから着替えて学校では間違いなく間に合わない。
俺の疑問に吉見さんは「あー、それなー……」と呟きながら困ったように笑みを浮かべる。その様子に「ああ、サボったのかな」と思ったものの、吉見さんの返事は意外なものだった。
「実はさ、俺学校行ってないんだよね」
「え……? あ、今日休んだってことですか? そういえば明子さんも、今日吉見さんは用事があって外出してるって言ってました」
それであの教師がわざわざ俺にお使いなんか頼んだのか。と納得しかけるが、吉見さんはまだ何かを言い辛そうにして、しきりに髪をかき上げている。
「えーっと、そうじゃなくて……なんつーかもっと極端って言うか。本当に行ってないんだよ、一切。去年の九月から」
去年の九月から、一切学校に行ってない?
「それは、えっと……こういう言い方していいかわからないんですけど、不登校、ってやつですか?」
とても失礼なことを聞いているので慎重に、できる限り丁寧に聞いてみる。本当は聞くべきじゃなかったのかもしれないけど、そんな風に考える余裕もなかった。
「そ。バリバリ不登校。学校行かずにバイク乗り回して遊んでる悪い先輩です、よろしくね!」
横に座った吉見さんは半分自棄になったように不登校宣言をすると、そのまま後ろに倒れ込んだ。髪を縛っていたヘアゴムをポケットにしまうと、俺の方を向いて、
「悪いな、一緒に住む先輩がこんなんで。ま、夜型で生活リズム合わないと思うから空気だとでも思っといてよ」
ははは、と笑うのは自嘲かそれとも愛想笑いか。けれど俺は吉見さんが不登校なことなんてどうでもよくて、ただ月の光に映える吉見さんのことを綺麗だな、と思って眺めていた。
「その髪――」
「ん? ああ、人前に出なくなったらなんかどうでもよくなって。しばらく切ってねーな」
似合うから伸ばしてるんですか。と口に出そうになったが、そうなる前に吉見さんが言葉を拾って投げ返してくれる。言葉に出なくて良かった。無造作に伸ばしているだけの髪を褒められても、嬉しくはなかっただろう。
けれど俺は本心から、その黒髪が綺麗で吉見さんの顔立ちによく似合っていると思った。綺麗ですね、なんて恥ずかしいこと、余計言えないけれど。
「ちょっと、琉仁。家に上がるときは縁側からじゃなくて玄関からっていつも言ってるでしょ?」
吉見さんの帰宅に気づいた明子さんが家の中から声をかける。「へーい」と返事した吉見さんは起き上がると「またね、おやすみ」と玄関の方へ向かっていった。俺は返事をする暇もなくて、ただ軽やかな足取りで階段を上っていく吉見さんの足音をぼんやりと聞いていた。
「伊織くん、伊織くん、起きて。ねえこれ、どうやって止めるの?」
肩を叩かれて、眠っていた意識が浮上する。肩を叩く手は絶妙な力加減で、これならもっとよく眠れそうだ。……あれ、最近も似たようなことがあったような。でも大丈夫、ここは安心して眠れる場所だから。
「おーい。起きろっつーの!」
肩を叩くどころか揺さぶられる感触に堪らず目を開ける。いつかのように、至近距離に顔があって、怪訝な目で俺を見ている。
「やっと起きた。あれだけ目覚まし派手に鳴ってて起きないの? こっちも起こされたわ」
「ふぇ? すみません……朝は弱くて」
寝起きの掠れた声で言い訳をしてみる。実家でも弟たちに「にいちゃんの目覚ましうるさい」と言われて起きるのが常だった。自分でも朝の弱さは気にしてて、周りに迷惑を駆けず起きられるよう目覚ましの音量は大きめにセットしているのだが……今のところ、その努力はかえって周囲への被害を大きくしているのが現状だ。
携帯のアラームを止めてひとまず落ち着いたところで、急激に頭が回転し始め、ようやく現状を認識する。ここは昨晩からの俺の部屋。そして傍らには若干不機嫌そうな吉見さん。これは、二日目からいきなりやらかしてしまったか。
「ご、ごごごめんなさい! 迷惑でしたか迷惑でしたよね本当すみません!」
慌てて平謝りする。そういえば夜型って言っていた。ようやく寝ついたタイミングで起こしてしまったのだとしたら、不機嫌そうなのはもっともだ。
「いいよ、謝らなくて。夜起きて朝寝てる方がおかしいんだから。……まあ、うるさかったのは事実だけど」
言葉は優しいが、若干棘があるように感じるのは気のせいじゃないだろう。生活リズムの不一致は同居する上ではトラブルの種だ。早めに矯正しないとお互いへの不満は溜まっていく一方になってしまう。
「悪い、俺もちょっと言葉がきつかったかも。つーか、このナリで詰めたらそりゃ恐いか。あのな、別にそんな怒ってないから。気にすんなよ」
目の前の後輩があまりにもしょぼくれているように見えたのか、吉見さんは少し言葉のトーンを上げて声をかけてくれた。
「朝、そんなに弱ぇの」
申し訳なさやら、高校生にもなって年上に気を遣われるやるせなさやらで何と答えたらいいのかわからない。けれどここで黙っていては、それこそ呆れられてしまう。
「普段はここまで起きれないってことはないんですけど……この部屋の居心地が良すぎて、寝つきが良すぎたのかも……」
なんでも良いから答えなきゃ、とは思ったものの、これは自分でもどうなんだと思う。たしかに兄弟で雑魚寝だった頃と比べたら一人部屋の睡眠は快適だったが、寝坊を部屋のせいにするのはめちゃくちゃだ。
なのに吉見さんは俺の言葉を大真面目に受け取って、腕を組みながら何事かを考えている。
「環境の変化で自律神経が崩れてるってのもありえるか。ま、そりゃ俺も似たようなもんだし怒れないな。……わかった。じゃあ朝起こしてやるからとりあえずその目覚ましは止めろ。それで毎朝起こされるのはちょっときつい」
「え、いいんですか?」
「次善の策だわな。あの騒音を毎朝鳴らされるくらいなら自分で起きて伊織くん叩き起こした方がマシ。でも百パーセントの保証はしないから自分で起きる努力もしろよ」
冗談じゃなく、吉見さんが神か仏に見える。肩まで無造作に伸びたジーザスな髪が余計に神々しさを際立てているのもあるかもしれない。
じゃあな、と部屋を出る吉見さんの後を追うように、自分も起床して部屋を出る。階下からはお味噌汁の良い匂いが漂ってきていた。部屋に引っ込もうとした吉見さんは最後に振り向くと「ああそうだ、勝手に部屋入って悪かった」と言い残してドアを閉めた。
吉見さんはこのまま二度寝だろうか。できるなら、朝ご飯も一緒に食べたかったな、と思ったがこれ以上を望むのは欲張りすぎか。
緩みきった精神に喝を入れるため、大きく伸びをして朝の空気を目一杯吸い込む。さあ、新しい一日が始まる。
