9話
玄関のドアを開けた瞬間、ぴたりと空気が張り詰めたのを感じた。嫌な予感がした。
リビングの照明はついていて、台所には買ってきた惣菜のパックがいくつも並んでいる。
その前に、母が立っていた。目を合わせた瞬間、鋭い視線が突き刺さる。
「……おかえり」
低く絞り出されたその声に、凛月は思わず後退りをする。
「今日、私、早く仕事終わったのよ。そしたら誰もいない。夕飯もない。千秋はカップ麺食べてたわよ」
冷たい声が室内に響く。
「……ごめんなさい」
凛月が小さく謝ると、母は眉をひそめて、さらに言葉を重ねた。
「なに? 最近よく出かけてるけど、彼女でもできたわけ?」
凛月は口を開きかけたが、何も言えずに目を伏せた。
一ノ瀬は彼女ではないが、恋人だ。そして、その存在を否定するのは違う。絶対にしたくなかった。
言葉を飲み込んで目を逸らすと、母は大きくため息を吐き、吐き捨てるように続けた。
「まあ、いいけどね。あんたみたいに、いつもおどおどして、人の顔色ばっかり見てるような子、誰にも愛されないんだから」
胸の奥に、突き刺さるような痛みが走った。母の声は冷静だった。
否定したいのに、できなかった。だって図星だったから。ずっと、自分でもそう思っていたから。
凛月は無言で階段を駆け上がり、そのまま部屋に引きこもった。
扉を閉めて、カギをかけ、静かな空間の中に身を沈める。
制服のままベッドに倒れ込むと、涙が静かにこぼれ落ちた。
――母の言う通りだ。人に甘えてばかりで、ろくに自分の意見も言えない。
――自分なんか、誰かに好かれるような人間じゃない。
鼻をすする音が部屋に響く。頬に触れた手が冷たくて、ますます心細くなる。
少しして、ようやく顔を上げた凛月は、スマホを手に取った。
SNSのアカウントを1日ぶりに開く。
スマホの画面に映し出されたのは、「moon」として最後に投稿した写真。
昨日のイベントで買った、新作のシャドウとリップの並んだ画像だった。
光の角度にこだわって撮った一枚。
凛月は、あのときのことを思い出していた。
あの空間にいると、自分が自分でいられた。誰の顔色も気にせずに、ただ「好き」をまっすぐ楽しめた。
「……楽しかったな」
ひとりごとのように、小さくつぶやく。
あのときの出来事を思い浮かべながら、少しでも傷ついた気持ちをごまかそうとする。
そういえば、いつもなら、すぐに「いいね」やコメントをくれるはずのスキマさんから、何のリアクションもなかった。
気になって、スキマさんのプロフィールをタップする。
そこに書かれていたひと言。
《リアルが少し忙しいので、更新頻度ゆるめになります~》
ふと、一ノ瀬の顔が思い浮かぶ。
教室で見る横顔。真剣な目。時折見せる笑顔。
「……一ノ瀬、いま何考えてるんだろ」
スマホを胸元に落としたまま、天井を見つめる。凛月は右手を上に伸ばした。
触れた手のぬくもりは、確かにあった。けれど、それだけではわからないこともある。
もっと知りたい。一ノ瀬の心の中が知りたい。
――もし、スキマさんが一ノ瀬だったら。
SNSを通してなら、一ノ瀬の本音に、少しは触れられるのかもしれない。
凛月はゆっくりと身を起こす。
スマホを手に取り、ためらいがちにDMの画面を開いた。
宛先は、スキマさん。
指先が、ゆっくりと文字を紡ぎ始める。
《こんばんは。少しだけ、話せるかな?》
送信ボタンに親指が触れる。数秒間ためらった末、意を決してタップした。
しばらくして、画面に新しいメッセージの通知が届いた。
《どうしたの? 大丈夫?》
短いけれど、優しい言葉だった。
もしかしたら、この人は、一ノ瀬なのかもしれない。
でも、もしそうじゃなかったとしても――もう少しだけ、誰かとつながっていたい。
そう思いながら、凛月は再び文字を打ち始めた。
《……うん。ちょっとだけ、聞いてほしくて》
凛月は言葉を選びながら、ゆっくりと打ち込んでいく。
こんなふうに誰かに弱音を吐くのは、いつぶりだろう。
《自分は昔から人の顔色ばかりうかがってばっかで、意見とか、なかなか言えなくて。何か言われたらすぐ引いちゃうし、ちゃんと向き合うことができないんだ》
打っては消し、また打っては直しながら、それでも凛月は続けた。
《最近、恋人ができた。でも、その人は『メイクをしてる自分』のことが好きで、付き合ったんじゃないかって思ってる》
《素の自分なんか、何もないし、魅力なんて一つもないんだよね》
送信を終えたあと、少しだけ震える指先をそっと握りしめる。
これまで誰にも見せたことのない、本当の自分だった。
数十秒の沈黙のあと、画面に言葉が届いた。
《moonさん、話してくれてありがとう》
《でもさ、自分のことをそんなふうに言わないで。自信を持って。顔色うかがってしまうのは、優しさでもあるし、それがmoonさんの大事な一部じゃないかな》
凛月の目に、じんわりと涙がにじむ。今の自分には優しい言葉が染みるようだ。
さらに続くメッセージに、思わず息をのんだ。
《それにさ、好きになってくれた人の気持ちを疑うのは、ちょっとだけ失礼かもしれないよ。きっとその人は、メイクしてるmoonさんだけじゃなくて、その奥にいるmoonさん自身のこともちゃんと見てると思うよ》
――好きになってくれた気持ちを、疑うのは失礼。
その考えは、凛月にはなかった。
でもたしかに、自分に置き換えてみると明白だった。一ノ瀬への想いを疑われたらきっと悲しい。
《……ありがとう。少しだけ、楽になった気がする》
泣いた後の目は少し熱を持っていて、まばたきする瞼が重たかったけれど、さっきまでより少しだけ呼吸がしやすくなっている気がした。
一ノ瀬のことが好きだと、そう思っているのなら、自分の不安に押しつぶされてばかりじゃダメだ。
もし一ノ瀬がメイクした自分の姿だけでなく、その奥までちゃんと見てるのなら――自分は中身を好きになってもらえるように努力をすべきだ。
凛月は自分のやるべきことが明確になったような気がしていた。
玄関のドアを開けた瞬間、ぴたりと空気が張り詰めたのを感じた。嫌な予感がした。
リビングの照明はついていて、台所には買ってきた惣菜のパックがいくつも並んでいる。
その前に、母が立っていた。目を合わせた瞬間、鋭い視線が突き刺さる。
「……おかえり」
低く絞り出されたその声に、凛月は思わず後退りをする。
「今日、私、早く仕事終わったのよ。そしたら誰もいない。夕飯もない。千秋はカップ麺食べてたわよ」
冷たい声が室内に響く。
「……ごめんなさい」
凛月が小さく謝ると、母は眉をひそめて、さらに言葉を重ねた。
「なに? 最近よく出かけてるけど、彼女でもできたわけ?」
凛月は口を開きかけたが、何も言えずに目を伏せた。
一ノ瀬は彼女ではないが、恋人だ。そして、その存在を否定するのは違う。絶対にしたくなかった。
言葉を飲み込んで目を逸らすと、母は大きくため息を吐き、吐き捨てるように続けた。
「まあ、いいけどね。あんたみたいに、いつもおどおどして、人の顔色ばっかり見てるような子、誰にも愛されないんだから」
胸の奥に、突き刺さるような痛みが走った。母の声は冷静だった。
否定したいのに、できなかった。だって図星だったから。ずっと、自分でもそう思っていたから。
凛月は無言で階段を駆け上がり、そのまま部屋に引きこもった。
扉を閉めて、カギをかけ、静かな空間の中に身を沈める。
制服のままベッドに倒れ込むと、涙が静かにこぼれ落ちた。
――母の言う通りだ。人に甘えてばかりで、ろくに自分の意見も言えない。
――自分なんか、誰かに好かれるような人間じゃない。
鼻をすする音が部屋に響く。頬に触れた手が冷たくて、ますます心細くなる。
少しして、ようやく顔を上げた凛月は、スマホを手に取った。
SNSのアカウントを1日ぶりに開く。
スマホの画面に映し出されたのは、「moon」として最後に投稿した写真。
昨日のイベントで買った、新作のシャドウとリップの並んだ画像だった。
光の角度にこだわって撮った一枚。
凛月は、あのときのことを思い出していた。
あの空間にいると、自分が自分でいられた。誰の顔色も気にせずに、ただ「好き」をまっすぐ楽しめた。
「……楽しかったな」
ひとりごとのように、小さくつぶやく。
あのときの出来事を思い浮かべながら、少しでも傷ついた気持ちをごまかそうとする。
そういえば、いつもなら、すぐに「いいね」やコメントをくれるはずのスキマさんから、何のリアクションもなかった。
気になって、スキマさんのプロフィールをタップする。
そこに書かれていたひと言。
《リアルが少し忙しいので、更新頻度ゆるめになります~》
ふと、一ノ瀬の顔が思い浮かぶ。
教室で見る横顔。真剣な目。時折見せる笑顔。
「……一ノ瀬、いま何考えてるんだろ」
スマホを胸元に落としたまま、天井を見つめる。凛月は右手を上に伸ばした。
触れた手のぬくもりは、確かにあった。けれど、それだけではわからないこともある。
もっと知りたい。一ノ瀬の心の中が知りたい。
――もし、スキマさんが一ノ瀬だったら。
SNSを通してなら、一ノ瀬の本音に、少しは触れられるのかもしれない。
凛月はゆっくりと身を起こす。
スマホを手に取り、ためらいがちにDMの画面を開いた。
宛先は、スキマさん。
指先が、ゆっくりと文字を紡ぎ始める。
《こんばんは。少しだけ、話せるかな?》
送信ボタンに親指が触れる。数秒間ためらった末、意を決してタップした。
しばらくして、画面に新しいメッセージの通知が届いた。
《どうしたの? 大丈夫?》
短いけれど、優しい言葉だった。
もしかしたら、この人は、一ノ瀬なのかもしれない。
でも、もしそうじゃなかったとしても――もう少しだけ、誰かとつながっていたい。
そう思いながら、凛月は再び文字を打ち始めた。
《……うん。ちょっとだけ、聞いてほしくて》
凛月は言葉を選びながら、ゆっくりと打ち込んでいく。
こんなふうに誰かに弱音を吐くのは、いつぶりだろう。
《自分は昔から人の顔色ばかりうかがってばっかで、意見とか、なかなか言えなくて。何か言われたらすぐ引いちゃうし、ちゃんと向き合うことができないんだ》
打っては消し、また打っては直しながら、それでも凛月は続けた。
《最近、恋人ができた。でも、その人は『メイクをしてる自分』のことが好きで、付き合ったんじゃないかって思ってる》
《素の自分なんか、何もないし、魅力なんて一つもないんだよね》
送信を終えたあと、少しだけ震える指先をそっと握りしめる。
これまで誰にも見せたことのない、本当の自分だった。
数十秒の沈黙のあと、画面に言葉が届いた。
《moonさん、話してくれてありがとう》
《でもさ、自分のことをそんなふうに言わないで。自信を持って。顔色うかがってしまうのは、優しさでもあるし、それがmoonさんの大事な一部じゃないかな》
凛月の目に、じんわりと涙がにじむ。今の自分には優しい言葉が染みるようだ。
さらに続くメッセージに、思わず息をのんだ。
《それにさ、好きになってくれた人の気持ちを疑うのは、ちょっとだけ失礼かもしれないよ。きっとその人は、メイクしてるmoonさんだけじゃなくて、その奥にいるmoonさん自身のこともちゃんと見てると思うよ》
――好きになってくれた気持ちを、疑うのは失礼。
その考えは、凛月にはなかった。
でもたしかに、自分に置き換えてみると明白だった。一ノ瀬への想いを疑われたらきっと悲しい。
《……ありがとう。少しだけ、楽になった気がする》
泣いた後の目は少し熱を持っていて、まばたきする瞼が重たかったけれど、さっきまでより少しだけ呼吸がしやすくなっている気がした。
一ノ瀬のことが好きだと、そう思っているのなら、自分の不安に押しつぶされてばかりじゃダメだ。
もし一ノ瀬がメイクした自分の姿だけでなく、その奥までちゃんと見てるのなら――自分は中身を好きになってもらえるように努力をすべきだ。
凛月は自分のやるべきことが明確になったような気がしていた。
