7話
自宅に着くと、玄関の明かりはついていなかった。今日は母は仕事で、弟はサッカー教室の予定だった。
ひとりで部屋に戻り、そっと扉を閉める。
凛月はベッドの前に腰を下ろし、ゆっくりと深呼吸をひとつ。
帰り際、一ノ瀬は、家まで送ると言ってくれた。
でも凛月は、かぶりを振った。理由は、はっきりしていた。
ウィッグを外す。ふわりと空気が頭皮に触れ、現実に引き戻されるような感覚がする。
それから、メイクを落とす。
リムーバーを含ませたコットンで、頬、目元、口元をなぞるたび、鏡の中からふだんの凛月が浮かび上がってくる。
――一ノ瀬は、今の俺を見て、どう思うんだろう。
――メイクを落とした姿を見られるのが、怖い。
そんなことを考えていると、不意にスマホの画面が光った。
《今日はありがとう。ほんとに楽しかった》
《これからもよろしく》
一ノ瀬からのメッセージだった。
「……そっか。両思い、なんだ」
ぽつりと声に出す。
ようやく、その事実が胸に落ちてきた。
信じられないくらい嬉しいのに、なぜか涙が出そうになる。
――ありのままの自分を、好きになってもらいたい。
――メイクしてなくても、可愛いって言ってほしい。
そんな欲張りな願いを思った自分に、ふっと苦笑する。
好きになってもらえただけで奇跡なのに、全部手に入れようだなんて、どれだけ欲深いんだろう。
「相手の望む自分でいるのは得意だろう」
呟くように心の中でそう言い聞かせる。
そう、今回もきっと、いつもと同じようにできる。
凛月はスマホを手に取り、指先をそっと動かした。
《今日はありがとう》
《こちらこそ、よろしく》
短い文章に精いっぱい愛を込める。絶対にこの関係を壊したくない。そう思った。
翌朝、教室に入ると、いつものようにざわついた声が飛び交っていた。
凛月は自分の席に荷物を置き、席に着く。月曜の朝特有のだるさがそこにはあった。
そのとき、不意に視界の端に影が差す。
「おはよ」
聞き慣れた声に、凛月はびくりと肩を揺らす。
振り返ると、そこには一ノ瀬が立っていた。
凛月はとっさに手元の鞄を持ち上げ、顔の下半分を隠すようにして言う。
「お、おはよう……」
自分でも驚くほど、声が上ずっていた。
すっぴんを見られたくない。その思いが、反射的に体を動かしていた。
一ノ瀬は怪訝そうに眉をひそめながら、ちらりと凛月の顔をのぞきこむ。
「……何してんの?」
「べ、別に、ちょっと顔がむくんでるだけ……!」
苦し紛れの言い訳に、一ノ瀬は「ふーん?」と小さく首を傾げる。
凛月が視線を逸らして黙っていると、一ノ瀬は少し間を置いてから言った。
「……今日さ、帰り、一緒に帰らない?」
不意打ちのような誘いに、凛月の心は飛び上がる。
「……う、うん。いいけど」
自分でも驚くほど早口になってしまい、思わず視線をそらした。
一緒に帰る。それだけのことで、今日が少し特別に感じられる。
たった一言で、胸の中がふわりと明るくなるなんて、恋って、すごい。
さっきまで感じていた眠気も、どこかへ消えていた。放課後が待ち遠しい。
「ねえ、凛月くん」
そこへ、横からクラスの女子が声をかけてきた。その後ろでは数人が固まってこちらを見ている。
「文化祭の衣装、ちょっとトラブっちゃって……」
女子のひとりが申し訳なさそうに言葉を続けた。
「喫茶店の衣装、うっかり女子用を多く作っちゃってさ……もう布が足りなくて、男子用はこれ以上作れないの」
「だからね、よかったら、凛月くんに女子の衣装を着てもらえないかなって」
「えっ、俺、制服のままでいいよ?」
凛月は戸惑いながら、引きつった笑顔を浮かべた。
けれど女子たちは引かない。
「だって、凛月くん背も低いし、顔も綺麗で中性的じゃん? 絶対似合うよ!」
「ね、お願い!目立つし、話題になるし!」
必死な女子たちの言葉に、ますます困惑する凛月。
――なんで、そうなるんだよ。
文化祭で女装なんて、目立つに決まってる。
写真だって撮られるし、きっとSNSにも上がる。
面白がられるか、笑いものになるか。いや、最悪、気持ち悪いなんて言われたら、たまったもんじゃない。
でも、ここで強く拒めば、空気が悪くなるのは目に見えていた。
女子たちだって悪気があって言ってるわけじゃないのはわかる。だからこそ、断りづらい。
――自分さえ、我慢したら、丸く収まるのだろうか。
仕方なく引き受けようと、凛月は口を薄く開けた。
そのときだった。
「じゃあ、俺がメイクする」
一ノ瀬の声が、静かに、けれど強く響いた。
「え? なんで?」
女子たちがきょとんと目を丸くする。
「そこまでは頼んでないっていうか……一ノ瀬には関係ないじゃん?」
一ノ瀬はゆっくりと女子たちを見渡し、それから凛月に視線を戻して言った。
「やだ。俺がメイクする。それ以外はダメ」
その言葉に、空気が一瞬止まったような静けさが広がった。
「……もう、わかった!変だったら私たちが直すから!」
ひとりの女子が渋々折れて、ため息まじりにそう言い、女子たちは引き下がっていった。
凛月は驚いて、一ノ瀬の横顔をじっと見つめた。
「どうしたの?」
「ああでも言わないと、しつこそうだったから。それに凛月、引き受けようとしてただろ」
「……まあ」
凛月がうつむきがちにそう答えると、一ノ瀬は軽くため息を吐いた。その顔は呆れているようにも見えた。
「凛月のそういう優しいとこ、好きだけどさ。もっと自分を大事にしろよ」
そう言って、そっと凛月の頭をポンポンと叩き、一ノ瀬は席に戻っていく。
頭には一ノ瀬の手の感覚が残ったままだった。
自宅に着くと、玄関の明かりはついていなかった。今日は母は仕事で、弟はサッカー教室の予定だった。
ひとりで部屋に戻り、そっと扉を閉める。
凛月はベッドの前に腰を下ろし、ゆっくりと深呼吸をひとつ。
帰り際、一ノ瀬は、家まで送ると言ってくれた。
でも凛月は、かぶりを振った。理由は、はっきりしていた。
ウィッグを外す。ふわりと空気が頭皮に触れ、現実に引き戻されるような感覚がする。
それから、メイクを落とす。
リムーバーを含ませたコットンで、頬、目元、口元をなぞるたび、鏡の中からふだんの凛月が浮かび上がってくる。
――一ノ瀬は、今の俺を見て、どう思うんだろう。
――メイクを落とした姿を見られるのが、怖い。
そんなことを考えていると、不意にスマホの画面が光った。
《今日はありがとう。ほんとに楽しかった》
《これからもよろしく》
一ノ瀬からのメッセージだった。
「……そっか。両思い、なんだ」
ぽつりと声に出す。
ようやく、その事実が胸に落ちてきた。
信じられないくらい嬉しいのに、なぜか涙が出そうになる。
――ありのままの自分を、好きになってもらいたい。
――メイクしてなくても、可愛いって言ってほしい。
そんな欲張りな願いを思った自分に、ふっと苦笑する。
好きになってもらえただけで奇跡なのに、全部手に入れようだなんて、どれだけ欲深いんだろう。
「相手の望む自分でいるのは得意だろう」
呟くように心の中でそう言い聞かせる。
そう、今回もきっと、いつもと同じようにできる。
凛月はスマホを手に取り、指先をそっと動かした。
《今日はありがとう》
《こちらこそ、よろしく》
短い文章に精いっぱい愛を込める。絶対にこの関係を壊したくない。そう思った。
翌朝、教室に入ると、いつものようにざわついた声が飛び交っていた。
凛月は自分の席に荷物を置き、席に着く。月曜の朝特有のだるさがそこにはあった。
そのとき、不意に視界の端に影が差す。
「おはよ」
聞き慣れた声に、凛月はびくりと肩を揺らす。
振り返ると、そこには一ノ瀬が立っていた。
凛月はとっさに手元の鞄を持ち上げ、顔の下半分を隠すようにして言う。
「お、おはよう……」
自分でも驚くほど、声が上ずっていた。
すっぴんを見られたくない。その思いが、反射的に体を動かしていた。
一ノ瀬は怪訝そうに眉をひそめながら、ちらりと凛月の顔をのぞきこむ。
「……何してんの?」
「べ、別に、ちょっと顔がむくんでるだけ……!」
苦し紛れの言い訳に、一ノ瀬は「ふーん?」と小さく首を傾げる。
凛月が視線を逸らして黙っていると、一ノ瀬は少し間を置いてから言った。
「……今日さ、帰り、一緒に帰らない?」
不意打ちのような誘いに、凛月の心は飛び上がる。
「……う、うん。いいけど」
自分でも驚くほど早口になってしまい、思わず視線をそらした。
一緒に帰る。それだけのことで、今日が少し特別に感じられる。
たった一言で、胸の中がふわりと明るくなるなんて、恋って、すごい。
さっきまで感じていた眠気も、どこかへ消えていた。放課後が待ち遠しい。
「ねえ、凛月くん」
そこへ、横からクラスの女子が声をかけてきた。その後ろでは数人が固まってこちらを見ている。
「文化祭の衣装、ちょっとトラブっちゃって……」
女子のひとりが申し訳なさそうに言葉を続けた。
「喫茶店の衣装、うっかり女子用を多く作っちゃってさ……もう布が足りなくて、男子用はこれ以上作れないの」
「だからね、よかったら、凛月くんに女子の衣装を着てもらえないかなって」
「えっ、俺、制服のままでいいよ?」
凛月は戸惑いながら、引きつった笑顔を浮かべた。
けれど女子たちは引かない。
「だって、凛月くん背も低いし、顔も綺麗で中性的じゃん? 絶対似合うよ!」
「ね、お願い!目立つし、話題になるし!」
必死な女子たちの言葉に、ますます困惑する凛月。
――なんで、そうなるんだよ。
文化祭で女装なんて、目立つに決まってる。
写真だって撮られるし、きっとSNSにも上がる。
面白がられるか、笑いものになるか。いや、最悪、気持ち悪いなんて言われたら、たまったもんじゃない。
でも、ここで強く拒めば、空気が悪くなるのは目に見えていた。
女子たちだって悪気があって言ってるわけじゃないのはわかる。だからこそ、断りづらい。
――自分さえ、我慢したら、丸く収まるのだろうか。
仕方なく引き受けようと、凛月は口を薄く開けた。
そのときだった。
「じゃあ、俺がメイクする」
一ノ瀬の声が、静かに、けれど強く響いた。
「え? なんで?」
女子たちがきょとんと目を丸くする。
「そこまでは頼んでないっていうか……一ノ瀬には関係ないじゃん?」
一ノ瀬はゆっくりと女子たちを見渡し、それから凛月に視線を戻して言った。
「やだ。俺がメイクする。それ以外はダメ」
その言葉に、空気が一瞬止まったような静けさが広がった。
「……もう、わかった!変だったら私たちが直すから!」
ひとりの女子が渋々折れて、ため息まじりにそう言い、女子たちは引き下がっていった。
凛月は驚いて、一ノ瀬の横顔をじっと見つめた。
「どうしたの?」
「ああでも言わないと、しつこそうだったから。それに凛月、引き受けようとしてただろ」
「……まあ」
凛月がうつむきがちにそう答えると、一ノ瀬は軽くため息を吐いた。その顔は呆れているようにも見えた。
「凛月のそういう優しいとこ、好きだけどさ。もっと自分を大事にしろよ」
そう言って、そっと凛月の頭をポンポンと叩き、一ノ瀬は席に戻っていく。
頭には一ノ瀬の手の感覚が残ったままだった。
