6話

 日曜の朝、約束の時間より少し早く一ノ瀬の家を訪ねた。

「おじゃまします」
「どうぞー。部屋、こっち」

 案内された部屋は、前に来たときと同じように整っていた。
 机の上には、既にいくつかのコスメが並べられている。一ノ瀬が準備して待っていたのがよくわかる。

「じゃ、はじめるか」

 凛月は椅子に座り、目を閉じる。前回よりも、少しだけ緊張が少なかった。
 指先がそっと肌に触れる。その手つきは前回と変わらず丁寧で優しかった。

「今日は、雰囲気変えてみようかと。柔らかめ、ナチュラル寄りで」
「……おまかせで」

 一ノ瀬は真剣な顔でメイクを進めていく。
 前回よりも手際がいい気がするのは慣れだろうか。

 そうしてしばらく経ってから、手鏡を覗いた凛月は、自分の顔がふんわりとした印象に変わっていることに気づく。
 アイシャドウはベージュ系にほんのりラメ、チークも血色を感じさせる淡いピンク。
 眉のラインも整えられ、目元がやわらかく見える。

「うん、やっぱり可愛い」
「……!」

 相変わらずドキドキするが、もう驚くのにも少し慣れてきた。
 それに、一ノ瀬は、こういう言葉をためらいなく言う人だということもわかってきていた。

「ありがとう」

 照れ隠しに視線を逸らしながら、小さく呟いた。

「服、どうする? 着替える?」
「あ、このままで行こうと思ってる」

 凛月の体格は細身で、身長も低めだ。
 今日は大きめのパーカーに、ゆったりしたパンツを合わせている。
 スニーカーも含め、体のラインを隠すスタイルなら、外を歩いても違和感はないだろう。

「ん、了解」

 一ノ瀬はうなずき、さっとメイク道具を片付ける。

 玄関で靴を履きながら、ふと一ノ瀬が立ち止まった。

「もし何か困ったら、すぐ言って。無理はしなくていいから」

 凛月は小さくうなずいた。最初から一ノ瀬を頼るつもりだったから、不安はなかった。
 一ノ瀬が玄関の扉を開けると、外の風がふわりと吹き込んできた。
 ひやりとした空気に、思わず凛月は目を細める。いつの間にか、季節はすっかり秋に変わっていた。

 『ビューティフェス』の会場は想像以上の人出だった。それでも、キラキラと輝く装飾や、並んだブースの賑わいに胸が躍る。

「……すご」

 凛月が小さく声を漏らすと、隣で一ノ瀬が得意げに笑った。

「な? 絶対好きだと思った」

 一ノ瀬が笑ってうなずく。
 コスメのブース、メイクの実演コーナー、香水体験エリアまで、会場は見どころが盛りだくさんだった。

「あれ可愛い……!」

 凛月の目に留まったのは、ブルー系のアイシャドウ。
 淡い水色に、粒の細かいラメが重なり、まるで朝露のような透明感がある。

「試してみたら?」

 一ノ瀬の一言に、凛月はおそるおそるチップを手に取り、手の甲に色をのせてみる。

「うわ、綺麗……」

 周りに聞こえないように、凛月は小さな声で呟く。

 光の角度によって色が変わるような、儚げなきらめきに思わず見惚れる。
 以前一ノ瀬にメイクしてもらったときから、ブルーのシャドウは絶対欲しいと思っていた。
 まさかすぐに気に入った色味に出会うなんて。凛月は迷うことなく、購入を決めた。

「青色似合うよな、凛月」

 その何気ない一言が嬉しくて、自然と口元がゆるむ。

「……あ、俺、あっちのリップ見てみたい」

 タイミングを見計らうように、一ノ瀬が指を向けたのはリップのブースだった。
 凛月は小さく頷き、そのあとを追いかける。

 一ノ瀬は何本かのリップを手に取りながら、店員と軽く言葉を交わしていく。

「これと、これにしよ」

 最終的に一ノ瀬は2本のリップを選んだようで、手に持っていたテスターを元に戻すと、購入の列に並ぶ。
 レジ前はかなり混み合っていた。
 凛月はそっと一ノ瀬の肩を軽く叩く。気づいた一ノ瀬が少し身をかがめ、凛月の口元へ耳を寄せた。

「会計の間に、トイレ行ってくるね」

 聞こえるように囁き、凛月は会場の隅にある多目的トイレへ向かった。
 今の姿では、男子トイレも女子トイレも気を使わせてしまう。なるべく目立たない場所を選んだ。

 トイレの中で鏡を覗くと、メイクは崩れていなかった。少しほっとして、前髪を整える。
 深呼吸してから扉を開けた、まさにそのときだった。

「ねえ、ひとり?」

 突然の声に、凛月は反射的に振り返る。
 そこには、スーツ姿の男が立っていた。

「男でも女でもいいけど、君、可愛いね」

 男はじりじりと距離を詰めてくる。

「もしよかったらさ、このあと一緒に回らない? ひとりなんでしょ?」

 ――ひとりじゃないです!

 そう言いたいのに、息が詰まる。肩がピクリと跳ねた。
 喉が固まって、声が出ない。

 ――声を出したら、男だってバレる。

 その思いが頭を支配し、足も動かない。

「……凛月!」

 その瞬間、知っている声が飛んできた。
 振り返ると、一ノ瀬が真っ直ぐにこちらへ歩いてきて、凛月の前に立ちはだかるようにして男と視線を遮った。

「連れです。探してたんです、すみません」

 そう言うと、一ノ瀬は自然な動きで凛月の手を取り、そっと引き寄せる。

「行こ」

 優しい声が、凛月の意識をこちらへ戻す。
 ただ頷いて、そのまま手を引かれるようにして歩き出した。
 会場を抜け、外にあるベンチにたどり着くと、どっと疲れが押し寄せる。
 手の中には、一ノ瀬のぬくもりがまだ残っていた。
 その手をぎゅっと握る。消えてほしくない、ずっとこの温かさを感じていたかった。
 一ノ瀬は手に持っていたペットボトルの水を差し出す。

「はい、これ」
「ありがとう……」

 凛月が水を受け取ると、一ノ瀬は申し訳なさそうに眉を下げた。

「全部、俺がやるって言ったのにごめん。一人にさせるんじゃなかった」
「ううん、こっちこそ……声を出せばよかったのに、怖くて出せなかった」

 凛月はほっと一息ついて、言葉を続ける。

「男だってバレたら、どうなるんだろって思った。全部嘘になっちゃう気がした」

 一ノ瀬はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。

「でもたぶん、さっきの人も、凛月のこと本当に可愛いって思ったから声をかけたんだと思う」

 可愛いって確かに言われたいと思っていたが、さっきの男の人に言われたときはゾワっとした。
 好きでもない人から寄せられる好意は嬉しくないのだな。凛月は学んだ気がした。

 そこで初めて気づく。
 一ノ瀬に「可愛い」って言われたとき、自分はどう思ったか。思い出すだけで、胸が熱くなった。
 だめだ。これ以上は踏み込んじゃいけない。気づいてしまえば、もう戻れなくなる。

 凛月が黙ったまま考え込んでいると、一ノ瀬はふいに目をそらし、唇をきゅっと結んだ。

「……そりゃあ、そう言われるよな」

 その言い方が少し拗ねているようで、凛月は目を見開く。

「え、なに、なんでちょっと不機嫌?」
「別に」

 ――まさか、妬いている?

 一瞬そう思う凛月だったが、すぐにその考えを打ち消す。
 ただのメイク仲間で、しかも男の凛月が可愛いと言われて、なぜ一ノ瀬が嫉妬するのか。

「……俺が可愛いって言われたのは、一ノ瀬のメイクが上手だったからだよ」

 自分がどう見られるかよりも、今は一ノ瀬の手腕が認められたことを強調したかった。
 けれど一ノ瀬は、複雑な顔をして口をもごもごと動かす。

「……うーん、俺のメイクが上手いばかりに……」

 一ノ瀬はまだ何かを小声で続けていたが、凛月にはよく聞こえなかった。
 ふと風が吹き、木の葉が揺れた。空は夕焼け色に染まり始めている。

「……そろそろ行こっか」

 一ノ瀬の言葉に、凛月は頷いた。

 バスの中、揺れる車内で。
 ――夕日が差し込む席に並んで座ったふたりは、さっきより少しだけ、距離が近かった。

 帰りのバスの中、窓の外は夕焼けに染まり始めていた。
 人の少ない車内、ふたり並んで座った静かな時間の中で、一ノ瀬がふいに袋の中をごそごそと探る。

「はい」
「……え?」

 差し出されたのは、さっき一ノ瀬が買ったリップのうちの一本だった。

「それ、凛月に。似合うと思って」
「……俺に?」
「うん。この前、赤いリップも気に入ってたでしょ」

 あまりに自然に言われて、凛月は驚く。
 赤いリップを気に入っていたことも覚えてくれていたのか。
 さりげない一言が、不意打ちのように刺さった。

「……でも、いいの? 結構高かったでしょ」
「いいって。もともと、そのつもりで買ったんだし」

 一ノ瀬は、真正面から迷いなく言う。
 最初から思っていたが、一ノ瀬は嘘をつくタイプではない。いつだって、思ったことをそのまま言葉にする。
 きっと本当に最初から凛月に渡すために買ったのだろう。

「……ありがとう。大事に使う」

 一瞬、静けさが落ちる。
 バスの揺れが、やけに心地よく感じられる中、一ノ瀬がふいに口を開いた。

「あのさ……この前は、ごめん」
「え?」

 何のことか一瞬わからず、凛月は一ノ瀬の顔を見た。

「女子たちが、凛月に荷物持ちさせてたときのこと。俺……ちょっとキツいこと言ったよな」
「ああ……」

 そういえば、そんなこともあったかもしれない。
 凛月は軽くうなずいた。

「そんなに優しいって思われたいのかって、あれ、よく考えたらすごく失礼だったなって」
「いや、それは俺が断れなかっただけだから」

 そう言うと、一ノ瀬は少し困ったように目を伏せた。

「でもさ……俺、凛月のそういうとこ、ちゃんと優しいなって思ったんだ」

 思わぬ言葉に、凛月は瞬きを繰り返した。
 そんなふうに言われるとは思ってもいなかった。

「メイクさせてくれって言ったら、すぐ来てくれたし。今日だって、女の子の格好までして付き合ってくれて……挙句、怖い思いまでさせちゃって」
「いや、それは俺もメイクしてもらいたかったし。それにイベントも行きたかったから」

 どちらかといえば、一ノ瀬の好意に甘えてばかりなのは自分のほうだ。そう凛月は内心で思う。

「そのお礼とお詫びも兼ねて、リップを渡したかったんだ」
「……そっか」

 リップを握る指先に、ぎゅっと力がこもる。
 それを見つめながら、凛月はそっと目を伏せた。

 ――もったいなくて、すぐには使えそうにない。

 そんなことを思っている自分に、思わず小さく笑ってしまう。

「もしさ、他にも欲しいものとか、してほしいことがあれば教えて」
「お礼したいんだ」

 一ノ瀬の真剣な声に、凛月は肩の力が抜けたように笑った。

「もう十分だってば」

 どこまで律儀なのか。それに一体、どれだけすれば気が済むのか。
 ちょっと変な人だな、と思ったその瞬間だった。

「……可愛い」

 一ノ瀬がふと、ぽつりとつぶやいた。
 瞬間、凛月は息を飲む。

「そうやって笑うの、初めて見た」

 言葉と同時に、ゆっくりと一ノ瀬の顔が近づいてくる。

「……一ノ瀬?」

 気づけば、唇がそっと触れて、離れていた。
 それは一瞬の出来事だった。

「凛月、好き」

 その言葉と同時に、バスがトンネルに差しかかる。
 外の光が一気に消え、窓ガラスに自分の姿が映り込む。
 そこに映るのは、メイクをしたまるで女の子のような自分。

 一ノ瀬は、この姿の『凛月』のことを好きだと言ったのだろうか――それとも、素の『凛月』のこと?

 答えを探そうとして、凛月は思考を止めた。
 その先を考えるのが、怖かった。
 だって、

「……俺も、一ノ瀬が好き」

 もう、とっくに気づいていた。
 一ノ瀬を目で追ってしまうこと。話したいと思うこと。
 可愛いと呟く、その声が聞きたいこと。そして、触れてほしいと願っていること。
 浅ましくて醜い、ドロドロとしたその感情のすべてを、胸の奥に押し込めてみないふりをしていた。
 この想いを恋と呼ばずして、なんと言うのだろうか。