5話

 学校に着くと、一ノ瀬の姿が自然と目に入った。
 土曜のことを思い出すと、どこか気まずいような、妙に照れくさいような気持ちになる。

 ――落ち着け、別にやましいことはしてない。

 そう言い聞かせていたところに、不意に声が飛んできた。

「おはよ」

 顔を上げると、思ったよりも近い距離に一ノ瀬がいた。
 凛月は平常心を保って返事をする。

「おはよう」

 たったそれだけなのに、声が震えていないか心配になる。

「あれ、本当に似合ってたよ」

 さらっと言う目の前の男に、凛月は思わず頭を抱えそうになった。
 こいつは恥ずかしいとか、そういうのないのだろうか。

「……ありがと」

 本当はもっと言いたいことがあるのに、うまく言葉にならない。
 でもひとつだけ、胸の奥からふっと湧き上がってくる感情があった。

 ――もう一度、「可愛い」って言われたい。
 あの、何も飾らない声で。もう一度。

 「また、やってくれたりする?」

 ぽろっとこぼれたその言葉は、思った以上に素直だった。
 一ノ瀬は驚いたように目を丸くしたあと、軽く頬を緩めて笑った。
 控えめだが本当に嬉しそうな顔である。

「もちろん。俺もまたやりたいと思ってたとこ」

 なぜかその顔を直視できなかった。そんな自分自身に凛月は少し戸惑っていた。
 どうしてこんなにも一ノ瀬のことが気になるのか。
 胸の奥に芽生えた感情は、ただの憧れや興味とは違うもののような気がした。
 それを認めるのが怖くて、そっと心に蓋をする。これはきっと気づいてはいけない感情だ。

 ――波風立てずに、穏便に。

 そう心の中で唱えながら、凛月はいつも通りの笑みで一ノ瀬に頷いた。

 けれど、そんなやりとりがあったからといって、ふたりの距離が一気に縮まるわけでもなかった。
 たまに届くメッセージは決まってコスメの話ばかり。
 学校では相変わらず会話らしい会話はほとんどない。共通の友人もおらず、放課後に一緒に帰ることもない。
 「友達」と呼ぶには、どこか不確かな関係だった。

 金曜の夜。
 凛月は静かに台所で食器を洗っていた。リビングからは、母と千秋の笑い声とテレビの音が流れてくる。今日は母の機嫌がいいらしい。

 そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。
 手を拭いて画面を確認すると、「一ノ瀬」の名前が表示されていた。

 《今、話せる?》

 すぐには返さず、洗い物を終えるとさりげなく廊下を抜けて自室へ向かう。
 何気ない足取りを装ったつもりだったが、背後から母の声が飛んできた。

「最近さ、スマホ見てニヤニヤしてない? もしかして彼女できた?」
「ちがうってば」

 苦笑しつつも、心臓が跳ねていた。
 ニヤついていたなんて自覚はなかったが、言われてみれば確かに思い当たる節はある。
 もっと気をつけなければ。気を引き締めなければ、嵐のようなものが心の中に吹き込んでしまいそうだった。

 部屋の扉を静かに閉めると、すぐにスマホを開く。新たなメッセージが届いていた。

 《日曜、空いてる?》
 《ちょっと行ってみたいイベントがあってさ。メイク好きなら楽しめると思うんだけど》

 添付されたURLをタップすると、画面に映し出されたのは『ビューティフェス』の告知ページだった。
 最新のコスメやスキンケア商品の展示、プロによるメイク実演、限定グッズの販売――まさに夢のようなイベント。

「こんなのあるんだ!」

 自然と頬が緩んだ。胸がふわっと弾むのを感じる。

 《ただ、男ふたりで行くのはちょっと浮くかも》
 《嫌だったら無理しなくていいよ》

 たしかに、男子高校生が二人で行くには目立ちそうだ。
 けれど、それ以上に行ってみたいという気持ちが勝っていた。
 指が自然と動く。

 《じゃあさ》
 《俺、メイクしたまま行ってみる》

 すぐに返信が届いた。

 《大丈夫か?》

 画面を見つめたまま、凛月は小さく息を吸った。
 緊張はある。けれど、それ以上に、試してみたい気持ちがあった。

 《たぶん、すごく緊張する。でも一ノ瀬が店員さんと話してくれたり、やり取りしてくれるなら、行けると思う》

 しばらくの沈黙ののち、画面に表示されたのは、思った通りの返事だった。

 《分かった。全部、俺がやる》

 一ノ瀬なら、きっとそう言ってくれると思っていた。
 そうして、短いやり取りを続け日曜の予定を決めた。