3話

 夕飯を終え、自室に戻る。
 明日は土曜日。千秋は父親の家に泊まりに行っていて、今夜は家にいない。
 凛月は行かない。父に会いに行くことを、母があからさまに嫌がるからだ。

 ベッドの端に腰を下ろす。
 そのとき、机の上に置いたスマホがふと光る。
 画面には、一ノ瀬からの通知が表示されていた。

《明日、うち来ない?》

 あの後、一ノ瀬と連絡先を交換した。
 メッセージアプリに表示された「一ノ瀬颯太」の名前が、少し不思議に感じられる。しかし、こんなに早く連絡が来るとは思っていなかった。

《明日なら誰もいないから。ちゃんとライトもあるし、落ち着いてメイクできると思う》

 まさかいきなり家に呼ばれるとは。まだ連絡先を交換してまもないのに。
 凛月の常識では考えられないが、どうやら一ノ瀬は細かいことは気にしないタイプのようだ。
 けれど、明日は都合がよい。千秋がいない日は、母の機嫌も不安定で、家にいても気が休まらない。いつもは勉強を理由に外で時間を潰していたけれど、予定があるならその方がいい。

《わかった》

 短く返すと、すぐに返事が来た。

《じゃあ駅前で待ち合わせな》

 柴犬がぺこっとお辞儀している、ゆるいタッチのスタンプが添えられている。

《佐野ってさ、思ったより絵文字とか使わないんだな》
《一ノ瀬こそ、スタンプの趣味どうなってんの》

 たわいもないやりとりが、自然と続いた。

《あのロゼリップ、俺も欲しくなった》
《あれ、限定だからもう売ってないよ》
《そうなのか。佐野って、どこでコスメ買ってる?》
《隣町のドラストで買ってる》
《おすすめ教えて》

 一ノ瀬は、想像していたよりもずっと話しやすかった。
 こんなふうに誰かとメッセージを続けるのは、久しぶりかもしれない。

《じゃ、明日。おやすみ》
《おやすみ》

 通知が途切れたあと、凛月はようやくSNSを開いた。
 今日はスマホを手放す暇もなかった気がするのに、moonとしての投稿はすっかり放置していた。
 ふと、スキマさんのポストが目に入った。

《今日は、ちょっといいことがあった。》

 シンプルな一文だった。
 凛月は、そっと「いいね」を押す。

 ――ガタン。

 階下から、何かが倒れるような音が響いた。

「……っ」

 胸がざわつく。スマホを置いて、思わず部屋を飛び出した。
 階段を駆け下り、リビングへ入る。すると、母親が机に突っ伏していた。
 テーブルには、チューハイの缶がいくつも転がっている。

「……母さん?」

 呼びかけると、母はゆっくりと顔を上げた。
 崩れたアイメイクの奥、虚ろな視線が凛月を捉える。

「……あなただけは、私の理想でいてね」

 ぽつりとこぼれたその言葉に、胸がきゅっと縮こまる。
 もし、メイクが好きだと母にバレたら。母はなんて言うだろうか。

 いっそ、嫌いになってくれた方が、絶望された方が、楽なのだろうか。
 その答えは出ないままだ。

 翌朝、約束の時間ちょうどに駅前へ着くと、すでに一ノ瀬が立っていた。
 制服姿ではない私服の一ノ瀬は、少し雰囲気が違って見えた。黒のキャップを目深にかぶり、シンプルな白いTシャツにスウェットパンツ。飾り気はないものの、似合っていた。

「はよ」

 軽く手を上げて近づいてきた一ノ瀬に、凛月も小さく「おはよう」と返す。
 土曜の朝の街は少し静かで、狭い歩道でもふたりで並んで歩く余裕があった。大きな通りから外れて住宅街へ入り、数分歩いたところで、一ノ瀬の家に着く。

「どうぞ」

 通された部屋は、想像よりずっと整っていた。
 机の上には、リングライトとスタンドミラー、そして整然と並べられたメイク道具の数々。ファンデーション、リップ、アイパレット、ブラシ……それから名前は知っていても使ったことがないようなブランドのコスメも混ざっていた。

「……すごい」

 凛月は思わず声を漏らす。
 机に近づいて、コンパクトをひとつ手に取る。裏を見ると、海外ブランドの文字が並んでいた。

「なんでこんなに揃ってるの……?」
「目指してるから。メイクアップアーティスト」

 一ノ瀬は、床に座り込むとリップのケースを指先でくるくる回すようにして言った。

「将来そっちの道に進みたくて、小遣いとバイト代は全振りしていろいろ試してる。でも自分の顔だけじゃ限界あるし、誰かにやらせてもらえると助かる」
「……家の人は、反対しないの?」

 すると、一ノ瀬は首を軽く傾げる。

「うーん、よくわかってないと思う。けど、好きにやればって言ってくれてる」

 その言い方は、突き放しているようで、干渉してこない優しさも感じた。
 一ノ瀬の家族と凛月の家族は、少し違うようだ。

「佐野は? なんで、メイク好きなの?」

 思いがけず飛んできた問いに、凛月は動きを止めた。
 どうして、と言われても。好きだから、楽しいから、という理由はもちろんある。でも、それだけじゃない。自分がメイクする理由は一ノ瀬のような純粋な理由ではない。
 だけどそれを一ノ瀬に話すのは違う。

「……うーん。なんとなく、かな。楽しいし」

 そして話を逸らすように言葉を続ける。

「あと……佐野って呼ばれるの、あんまり好きじゃないんだ」

 それは、ずっと心の奥に引っかかっていたことだった。『佐野』は母方の姓。小学校三年のときに変わって、もう何年も経つのにいまだに馴染まないのだ。

「凛月でいいよ」

 一ノ瀬は一瞬きょとんとした顔をしたのち、真面目な顔に戻って頷く。

「……そっか。じゃあ、凛月」
「うん、そっちの方がしっくりくる」

 そのやりとりが終わっても、一ノ瀬はそれ以上、何も聞いてこなかった。気を遣ってくれているのだろう。

「じゃあ早速始めていいか?」
「……よろしくお願いします」

 凛月は一言返し、そっと椅子を引いて腰を下ろした。
 その間に、一ノ瀬はスプレーボトルを手に取り、手のひらにシュッと吹きかける。
 その仕草がやけに慣れていて、思わず目で追ってしまう。どうやら手の消毒らしい。

「ちょっとごめん」

 そう声をかけてから、一ノ瀬は真っ白なクロスを手に取って、凛月の首元にふわりとかけた。
 まるで美容室みたいだ、と思った矢先。ひんやりとした指先が、頬に触れた。

「……!」

 びくりと肩が跳ねる。
 そしてそっとおでこの髪をすくい、小さなピンで留める。

「あ、髪、邪魔かなって」

 そう言って一ノ瀬は自然に手を引く。
 凛月は、動揺を隠すように小さく首を振った。

「……ううん、ごめん。人にメイクしてもらうの、初めてだから。勝手が分からなくて」
「緊張する? 俺もちょっと緊張してる」

 一ノ瀬は、ははっと声を出して笑った。目尻に皺ができる。
 そういう顔で笑うのか、なんだか意外だった。凛月の頬も自然と緩む。

「声はかけるけど、不安だったり嫌だったりしたら言ってほしい」
「……わかった。でも今のでだいぶほぐれた気がする」
「そうか、じゃあ続き進めるからな」

 そう言うと、一ノ瀬はさっと手にチューブを取る。
 どうやら下地のようだ。キャップを回して外し、中身を凛月の顔に乗せて、さっと伸ばしていく。

「本当はスキンケアからやったほうがいいんだけど、今日は割愛な」

 そう言いながら、次にファンデーションのコンパクトを開いた。
 ブラシにパウダーを含ませ、顔にやわらかく重ねていく。凛月は自然と目を閉じた。
 サッサッというブラシの音が、静かな部屋に響く。
 首元まで丁寧に塗り終えると、一ノ瀬はビューラーを手に取った。

「ビューラーするから絶対目開けるなよ。まつ毛切れる」
「はい」

 カチカチと金属音が響く。凛月はじっと、目を閉じたまま息を潜める。
 すると、不意に一ノ瀬が話しかけてきた。

「凛月ってさ」
「ん?」
「普段、ベージュ系のシャドウ多いよな?」
「んー……一番無難っていうか。失敗しない気がして」

 本当はもっと色味のあるアイシャドウを使ってみたいが、冒険して失敗するのが怖いのだ。

「ケバケバしいのはなんか違うじゃん」
「それはそう」

 一ノ瀬はそうだなと首を傾げながら、アイシャドウを手に取る。

「せっかくならブルーのシャドウ使ってみよう」
「ブルー? それいける?」
「大丈夫だって、任せろ」

 凛月は困惑した表情で一ノ瀬が手に取ったアイシャドウを見る。爽やかな色味は確かに綺麗だとは思うが、自分の顔に乗せたら化け物みたいにならないだろうか。
 そんな凛月の不安をよそに、一ノ瀬は鼻歌混じりに色を取り、手の甲でトーンを確かめる。

「うんうん、いい感じの色。ちょっと目閉じてて」

 どうにでもなれ、という気分だった。
 きっと一ノ瀬は、止まらない。だったら、この流れに身を任せてしまおう。
 そこからは目をほぼ閉じたままだった。
 
「アイラインと眉毛はこんな感じで……と」

 時折、一ノ瀬の独り言が聞こえるものの、順調にメイクは進んでいるようだった。

「凛月ってブルベっぽいよな」
「そう?」
「そしたらこのリップの方がいいか……」

 うーん、と首を傾げる一ノ瀬。
 凛月は机の上のリップに視線をやる。

「あ、これ」
「ん?」

 凛月が指差したリップは、マットな赤いリップだった。

「こういう、ザ・口紅っぽい色の、つけたことがないから試してみたい」
「へえ、いいじゃん。似合うと思う」

 ――似合うと思う。

 その短い単語に、心臓が一瞬だけ跳ねた。

「ん、ちょっと口開けて」

 言われるまま、凛月はそっと唇を開いた。
 軽く見上げると、真剣な眼差しの一ノ瀬がいる。
 その視線が、自分の唇だけを見ていると分かると、むず痒いような心地がした。
 そして、バチっと目が合う。一ノ瀬が小さく首を横に倒した。

「どうした?」
「いや、別に」

 見惚れてた?
 いや、違う。一ノ瀬を視線を独占しているという優越感に浸っていたと言った方が近い気がした。

「最後に、これも」
「え、ウィッグまであるの?」

 一ノ瀬が取り出したのは、ウィッグだった。驚きで思わず声が漏れる。

「そんなに種類はないけどな。たぶん、このくらいの長さが合うかなって」

 そう言って、一ノ瀬はセミロングの落ち着いた色味のウィッグを選び、やさしく凛月の頭にのせていく。
 少しずつ位置を整え、顔まわりの髪を軽く手ぐしで整える指先は、やっぱり慣れている。

「……よし、できた」

 そう言って手渡された鏡を、凛月はそっとのぞき込んだ。

「……可愛い」

 鏡の中にいたのは、自分だとは思えないくらい、整った顔立ちの女の子だった。
 ほんのりブルーがきいたアイシャドウに、輪郭を引き立てる赤いリップ。
 セミロングの髪が頬にそっとかかって、どこか儚げで、でも確かに可愛かった。

 言葉にならない思いを抱えたまま、ゆっくりと一ノ瀬を見上げる。
 一ノ瀬は鏡越しの視線を受け止めるように、ふっと口元を緩めた。

「可愛い」

 そのひとことが、胸の奥を強く打った。
 鼓動が跳ねる。ビリ、と電流のような衝撃が、背筋を走った。
 戸惑いと、嬉しさと、どうしようもない不安がないまぜになって、凛月は何も言えなかった。