21話
7月半ば。期末考査が終わり、教室の空気が一気にゆるむころ。
学年委員から「花壇の水やり当番表」が配られた。暑い盛り、多くの生徒は面倒がって名簿に丸を付けない。結局、紙はほぼ白紙のまま回ってきた。
「まあ、サボってもバレねーよな」
友人が笑いながら囁く。
一ノ瀬も正直、そのとおりだと思っていた。真昼の校庭裏など、教員すら滅多に来ない。
結局くじ引きで決まり、一ノ瀬は夏休み初日に担当することとなった。
朝9時、照り返しの強い渡り廊下を抜け、裏庭の花壇へ向かう。
サボっても良かったのだが、もし自分が水をやらなかったために枯れたりしたら夢見が悪い気がした。
ホースだけを放ってさっさと帰るつもりで角を曲がった一ノ瀬は、思わず足を止めた。
シャツの袖を折り上げて、水をまく凛月。
周りには誰もいない。誰も見ていないのに、凛月は真面目に花壇の世話をしていた。
一ノ瀬は思わずその場に立ち尽くした。
息を飲んで、胸の奥が妙にざわついた。
こんなサボってもバレないような当番、誰かに押しつけることだってできただろうに。
なんで、そんなふうにちゃんとやってるんだよ。
イライラしてた自分が、ばかみたいだった。
この人は、成海とは違う。
でも――違うからこそ、知りたくなっていた。
たとえば、美術室の前に飾られていた授業で描いた絵。
凛月は、線路の脇に咲いた菜の花を描いていた。通学路のどこかにありそうな風景だったが、どこか優しい雰囲気を感じた。
試験の順位表を見て、凛月の名前が50番以内にあるのを見つけた。ちゃんと努力してるんだなと思った。そういう地味な真面目さが、なんとなく気になった。
体育祭のあと、昇降口に貼り出された写真の購入申込用紙。校庭に迷い込んだ猫を撮った写真に、凛月の名前が小さく書かれていた。
こういうの、買うのか。その意外性が、なんだか可愛いと思った。しかも、書かれた文字が驚くほど丁寧で整っていて、つい見惚れてしまった。
話したことは一度もないのに、少しずつ、じわじわと、凛月という存在が胸の中に入り込んできた。
○
ある秋晴れの日のこと、東雲に呼び出された。
屋上へ続く階段の途中。誰も来ない静かな場所。
いつになく真剣な東雲の顔に、一ノ瀬は嫌な予感がしていた。
「ずっと言おうと思ってた」
東雲の声は、震えていた。
「一ノ瀬のことが、好き」
一ノ瀬は目を見開いた。
なんとなくわかっていたはずなのに、現実として言葉にされると、何も返せなかった。
「……ごめん」
絞り出した声は、あまりに小さかった。東雲は眉をしかめる。
「俺、お前のこと……そういうふうには、思えない。それと、他に好きな人がいるんだ」
東雲は静かに一ノ瀬のことを見つめる。一ノ瀬の心の奥底を測っているようだった。
「佐野凛月?」
一ノ瀬の心臓がどきりと鳴った。
思わず目を伏せる。それだけで、答えは明白だった。
「佐野くんは似てるけど成海じゃない。一ノ瀬は、もういない人を見てるだけなんじゃないの?」
東雲の声は、怒っても泣いてもいなかった。ただ、淡々と冷静だった。
「ねえ、それって佐野くんにも、成海にも失礼だと思わない?」
「違う!!」
声が思わず大きくなった。
東雲は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから唇をぎゅっと結んだ。
たしかに最初は、成海の面影を追いかけていただけだった。
けれど、気づけば違った。凛月は凛月で、真面目で、不器用で、優しくて。別の誰かだった。
「……変だよな。話したこともないのに、気になってるなんて」
「話しかけてみなよ。それくらいしてみたらいいじゃん」
東雲はふっと笑った。どこか寂しそうで、それでもやさしい笑顔だった。
7月半ば。期末考査が終わり、教室の空気が一気にゆるむころ。
学年委員から「花壇の水やり当番表」が配られた。暑い盛り、多くの生徒は面倒がって名簿に丸を付けない。結局、紙はほぼ白紙のまま回ってきた。
「まあ、サボってもバレねーよな」
友人が笑いながら囁く。
一ノ瀬も正直、そのとおりだと思っていた。真昼の校庭裏など、教員すら滅多に来ない。
結局くじ引きで決まり、一ノ瀬は夏休み初日に担当することとなった。
朝9時、照り返しの強い渡り廊下を抜け、裏庭の花壇へ向かう。
サボっても良かったのだが、もし自分が水をやらなかったために枯れたりしたら夢見が悪い気がした。
ホースだけを放ってさっさと帰るつもりで角を曲がった一ノ瀬は、思わず足を止めた。
シャツの袖を折り上げて、水をまく凛月。
周りには誰もいない。誰も見ていないのに、凛月は真面目に花壇の世話をしていた。
一ノ瀬は思わずその場に立ち尽くした。
息を飲んで、胸の奥が妙にざわついた。
こんなサボってもバレないような当番、誰かに押しつけることだってできただろうに。
なんで、そんなふうにちゃんとやってるんだよ。
イライラしてた自分が、ばかみたいだった。
この人は、成海とは違う。
でも――違うからこそ、知りたくなっていた。
たとえば、美術室の前に飾られていた授業で描いた絵。
凛月は、線路の脇に咲いた菜の花を描いていた。通学路のどこかにありそうな風景だったが、どこか優しい雰囲気を感じた。
試験の順位表を見て、凛月の名前が50番以内にあるのを見つけた。ちゃんと努力してるんだなと思った。そういう地味な真面目さが、なんとなく気になった。
体育祭のあと、昇降口に貼り出された写真の購入申込用紙。校庭に迷い込んだ猫を撮った写真に、凛月の名前が小さく書かれていた。
こういうの、買うのか。その意外性が、なんだか可愛いと思った。しかも、書かれた文字が驚くほど丁寧で整っていて、つい見惚れてしまった。
話したことは一度もないのに、少しずつ、じわじわと、凛月という存在が胸の中に入り込んできた。
○
ある秋晴れの日のこと、東雲に呼び出された。
屋上へ続く階段の途中。誰も来ない静かな場所。
いつになく真剣な東雲の顔に、一ノ瀬は嫌な予感がしていた。
「ずっと言おうと思ってた」
東雲の声は、震えていた。
「一ノ瀬のことが、好き」
一ノ瀬は目を見開いた。
なんとなくわかっていたはずなのに、現実として言葉にされると、何も返せなかった。
「……ごめん」
絞り出した声は、あまりに小さかった。東雲は眉をしかめる。
「俺、お前のこと……そういうふうには、思えない。それと、他に好きな人がいるんだ」
東雲は静かに一ノ瀬のことを見つめる。一ノ瀬の心の奥底を測っているようだった。
「佐野凛月?」
一ノ瀬の心臓がどきりと鳴った。
思わず目を伏せる。それだけで、答えは明白だった。
「佐野くんは似てるけど成海じゃない。一ノ瀬は、もういない人を見てるだけなんじゃないの?」
東雲の声は、怒っても泣いてもいなかった。ただ、淡々と冷静だった。
「ねえ、それって佐野くんにも、成海にも失礼だと思わない?」
「違う!!」
声が思わず大きくなった。
東雲は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから唇をぎゅっと結んだ。
たしかに最初は、成海の面影を追いかけていただけだった。
けれど、気づけば違った。凛月は凛月で、真面目で、不器用で、優しくて。別の誰かだった。
「……変だよな。話したこともないのに、気になってるなんて」
「話しかけてみなよ。それくらいしてみたらいいじゃん」
東雲はふっと笑った。どこか寂しそうで、それでもやさしい笑顔だった。
