2話

 翌日の昼休み。
 凛月は窓際の席で、持参したパンをかじりながらスマホを眺めていた。
 誰かなにかいい感じのコスメを投稿していないだろうか。親指で画面をスクロールしながら、惰性で流れるフィードを追う。

 最近、少しマンネリ気味だと感じていた。
 独学のメイクには限界があるし、気づけばいつも似たようなパターンばかりになってしまう。
 冒険してみたくても、限られた小遣いではそういくつも試せない。

 ――バイト、しようかな。

 ふと頭をよぎった考えに苦笑する。千秋の面倒も見なければならないのに、そんな時間はあるのだろうか。
 そのとき、不意に背後から声をかけられた。

「佐野」

 名前を呼ばれて、反射的にスマホを伏せる。
 振り返ると、一ノ瀬が立っていた。手には、自販機で買ったらしいペットボトルのジュースが二本。

「これ。一本当たったから、いる?」

 差し出されたそれを、凛月はほんの少しだけ間をおいてから受け取った。

「……ありがとう」
「じゃ」

 それだけ言って、一ノ瀬は立ち去ろうとする。
 きっと、誰でもよかったのだろう。ただジュースを受け取ってくれる誰かを探していただけ。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、声が飛んできた。

「……それ、ロゼリップ?」

 その言葉に、凛月の呼吸が一瞬止まった。
 カバンのサイドポケットに入れていたリップクリームが、ほんの少しだけ顔を覗かせていた。
 ポケットにしまっておけば誰にも見つからないと思って、なんとなく持ってきてしまっていた、それ。迂闊だった。やはり置いてくるべきだった。

「……知ってるの?」

 動揺を隠すように、笑ってみせる。
 一ノ瀬は変わらぬ無表情のまま、言った。

「妹が使ってる。限定色だよな。男が持ってるの、あんま見ないからさ」

 言い訳したほうがいいだろうか。
 間違えて買っちゃったとか、保湿力が高いってレビューを見たとか。
 でも、それを言うのもなんだか白々しい気がして、結局、何も言えなかった。
 一ノ瀬はそれ以上何も言わず、手に持ったペットボトルのキャップをひねってジュースを一口飲む。
 無言の時間が流れる。

「俺さ――」

 不意に、一ノ瀬が口を開いた。
 視線が、まっすぐに凛月を捉える。
 その目で、見ないでほしい。
 そう思って、凛月は反射的に目を逸らした。

「前からちょっと、気になってたんだけど。佐野って、写真撮るの好きなの?」

 手が、止まった。
 パンを持っていたはずの指先に、力が入らなくなっていた。

「写真……?」
「そう」

 一ノ瀬は表情を変えない。そして、

「投稿してたやつ、見た」

 何気ない口調でそう言った。
 鼓動が、ひとつ跳ねた。

「最初は本当にたまたま。探してたコスメのレビュー漁ってたら見つけた」

 目の前がじわりと揺れた。凛月は喉をヒュッと鳴らした。平然を装ってゆっくりと息を吸って問いかける。

「……どの、アカウント?」

 質問は自然だったはずなのに、声が乾いていた。
 一ノ瀬は答えず、ゆっくりと首を傾げる。

「顔、隠してても、なんとなくわかるんだよな。雰囲気とか、手とか」

 そう言って、一戸は凛月の手元に視線をやる。
 思わず、凛月はパンごと手を机の下に引っ込めた。
 まるで答えになっていない、そう思う。しかし、その返しは凛月がmoonであると気づいていることを暗に示しているように聞こえた。

「別に、バラす気はないよ」

 責めるでも、からかうでもなく、ただ知っていると伝えるだけの言い方だった。

「でも、あのメイク、似合ってると思う」

 その一言を残して、一ノ瀬は立ち去る。
 残された凛月の耳の奥には、『似合ってる』という言葉がこだましていた。
 初めて、人から直接似合っていると言われた。
 それは知らない感覚だった。文字で言われるよりもずっと彩度が高くて、じっとりと胸に色を残した。
 
 それが高揚だと気づいたのは、しばらく経ってからだった。

 授業の始まりを知らせるチャイムが鳴っても、教科書の内容は頭に入らないままだった。
 黒板の文字が視界に映っても、意味を持たずに通り過ぎていく。
 シャーペンの芯が折れても気にする気力がわかず、ただぼんやりと時間に身を任せるだけ。気づけば授業は終わっていた。
 放課後のざわめきの中、鞄を持ったまま、凛月はトイレへ向かった。人気のない鏡の前に立ち、自分の顔を見つめる。

 色のない唇。凛月はそっと自身の唇に触れる。
 そのとき、頭をよぎったのは、一ノ瀬の言葉だった。

「最初は本当にたまたま。探してたコスメのレビュー漁ってたら見つけた」

 コスメのレビューって言っていたよな……?
 もしかして一ノ瀬は、コスメに興味があるのだろうか。

 さっきはアカウントが知られたことに動揺するばかりで、そこまで考えが及ばなかった。
 けれど今になって思い返すと、彼が口にした言葉の中に気になる単語が入っていた気がする。

「一ノ瀬、颯太」

 気づけば名前を口にしていた。凛月は軽く唇を噛む。そして意を決してトイレから出た。
 
 教室にはもういなかった。
 図書室にも、昇降口にも姿はない。

 もしかして――。

 そう思って、凛月は校舎の階段をゆっくりとのぼる。
 見つからないでほしいような、でも見つけたいような気持ちを抱えたまま、屋上へ続く扉に手をかけた。

 開けた先、風の音の中に、制服の袖がひらめく。
 一ノ瀬がいた。
 鉄柵にもたれ、空を見上げていたその姿に、凛月はおそるおそる声をかける。

「……一ノ瀬」

 その名を呼ぶと、一ノ瀬がこちらを向いた。
 どこか驚いたような顔で、凛月を見る。

「どうした?」

 ――コスメ好きなの?
 ――もしかして買ったりするの?
 ――そもそも誰が使うの?
 
 そんな質問が浮かんでは消え、また浮かんでは消えた。質問をするということは、自分も何かを開示しなければならないのだ。
 自分はなぜ、メイクをするのか。それは言葉にできるようでうまくできない、凛月の心のやわらかい部分の話だった。
 悩んでいると、一ノ瀬の方から近づいてきた。
 ぴたりと凛月の前で立ち止まる。そして凛月の顔をじっと見つめてから覗き込む。すぐ目の前に一ノ瀬の顔があった。

「……何も塗ってないと、けっこう雰囲気違うんだな」

 一ノ瀬は凛月よりも背が高かった。
 見上げるようにして目を合わせる。今度は逸さなかった。

「ねえ」

 一ノ瀬が、静かに口を開く。

「俺に――化粧、させてくれない?」