18話
文化祭2日目の朝。
窓から射し込む朝日が、カーテン越しに淡く部屋を照らしていた。
凛月は制服に袖を通しながら、心のどこかでそわそわと落ち着かない気持ちを抱えていた。
今日も、一ノ瀬にメイクをしてもらう。
昨日の朝と同じ流れなのに、なぜか少しだけそわそわとする。
制服の襟元を整え、リップクリームをひと塗り。
支度を終えた凛月は、早めに家を出た。
〇
「おはよう、凛月」
昇降口の隅。
人の少ない朝の空気の中、一ノ瀬が先に待っていた。
「おはよう。今日もよろしく」
二人で並んで教室までの階段を上がる。
「昨日より、ちょっとだけ仕上がり攻めてみようと思ってて」
教室に入り、いつもの席を指さすと、凛月は素直に腰を下ろした。
一ノ瀬は慣れた手つきでポーチを開け、道具を取り出していく。
「今日は目元、明るめの色にするね」
そう言って、一ノ瀬がそっと瞼に触れる。
自然と目を閉じると、指先がまつ毛にふれる感触があった。
「……くすぐったいんだけど」
「いやー、まつ毛長いなって」
一ノ瀬がくすりと笑う声が近くで響く。
下地のチューブを手に取り、指先でなじませ、パフが頬をやさしく撫でる。
「本当に、慣れてるよね。妹で練習してたんだっけ?」
「うん。でも……凛月は全然違う」
「違う?」
「肌も表情も。毎日、微妙に変わる。だから面白い」
それがメイクする側としての興味だとわかっていても、妙にどきりとする。
「……俺、そんなに変わってる?」
「変わってるっていうか、見てて飽きない。昨日より、今日の方が好きかも」
軽く言われたその一言に、凛月は思わず視線を逸らした。
恥ずかしげもなくそんなことを言うこの男に、まっすぐ惹かれている自分を自覚してしまう。
「よし、できた。目、開けて」
一ノ瀬が鏡を差し出す。
凛月はそっと目を開け、鏡の中の自分と対面する。
昨日よりもまつ毛がしっかりと上がり、アイラインが自然に目の形を引き締めていた。
それでいて、チークやリップの色味が柔らかく、どこか儚げな印象を与えている。
「……すごいね、本当に。全然違う人みたい」
「でも、ちゃんと凛月だよ。かわいいのも、綺麗なのも」
「ありがとう、一ノ瀬」
凛月は、そっと鏡を一ノ瀬に返す。
「あ、凛月」
「ん?」
「今日さ、文化祭後夜祭が始まる前教室で待ってて」
「……わかった」
昨日、一ノ瀬は話があると言っていた。きっとそのことだろう。凛月は頷いた。
「おはよー!」
「二人とも早いね」
「佐野、今日もかわいいな〜!」
にぎやかな声とともに、クラスメイトたちが次々と教室に入ってくる。
その空気に自然と会話が流れていく中、ふと横を見ると、一ノ瀬はもう別のクラスメイトと笑顔で話していた。
その様子を見ながら、凛月も着替えようと服をもって裏に入る。
今日もがんばろう、凛月は小さく息を吐いた。
ちょうど準備が一段落し、クラス全体が落ち着いた頃だった。
教室の扉が、ノックもなく勢いよく開かれ、視線が一斉にそちらへ向く。
「ごめん。一ノ瀬くん、いる?」
現れたのは、「生徒会」と書かれた腕章をつけた女子生徒。
黒髪をきりりと結び上げ、制服のスカートのラインもぴしりと整っている。
さっぱりした雰囲気に整った顔立ち。自然と教室の空気が引き締まった。
「えっ、東雲さんじゃん……」
「めっちゃ美人……生徒会の中でも有名な人だよね?」
「てか、なんで一ノ瀬くんを?」
ざわつき始める教室。
東雲と呼ばれたその女子はまっすぐ一ノ瀬のもとへ向かい、短く言葉を交わした。
一ノ瀬は軽く頷いてエプロンを外し、何事もなかったように彼女と一緒に教室を出ていった。
「えっ……なにあれ」
「ていうか、そういえばあの二人って中学一緒だったよね?」
「あー、聞いたことある!なんか付き合ってたって噂も……」
そんな声が、背後から漏れ聞こえてきた。
凛月は、手に持っていたトレーを拭く手を、無意識に止めていた。
しばらくして一ノ瀬は戻ってきた。
表情は普段通りで、何事もなかったかのように作業に加わっている。
ふと、凛月と目があう。しかし、一ノ瀬はなんでもないよ、というように微笑むだけだった。
凛月の胸の奥は、なぜかざわついたままだった。
〇
昼過ぎ、凛月は頼まれた資材の補充のため、購買へ向かう廊下を歩いていた。
何気なく中庭へ視線を向けたとき、その足が止まった。
ベンチに、一ノ瀬と東雲の姿があった。さっき呼びに来ていた生徒会の女子だ。
二人は他愛ない様子で言葉を交わしている。けれど、その距離がどこか親密に見えた。
――何を話してるんだろう。
生徒会としての用件だったのか、それとも、もっと個人的な――。
そんな考えが頭をよぎり、凛月は思わずベンチの裏手側に足を向けていた。
校舎内の壁に身を寄せ、窓越しにそっと耳を澄ます。
「……一ノ瀬って、まだあの子のこと、好きなの?」
東雲の声だった。ほんの少し、震えているように聞こえる。
「……うん。たぶん、ずっと好きなんだと思う」
一ノ瀬の低く静かな声が返ってくる。その言葉に、凛月の心臓が跳ねた。
「もし、その人とうまくいってないなら……私、まだ諦めてないから。いつだって付き合えるよ」
「……ごめん」
はっきりとした声。
そしてそのまま、彼は続ける。
「一年前にも言ったけど。俺には、他に好きな人がいるんだ」
そこまで聞いたとき、凛月はこれ以上その場にいられなくなった。
音を立てぬように、ゆっくりとその場を離れる。
――他に好きな人がいる。
それは、自分のことを指しているのだろうか。
けれど、一年前という、その言葉が引っかかる。
一年前、自分と一ノ瀬はまだ知り合っていない。
ならば、一ノ瀬がずっと好きだと言った『その人』は、自分じゃないのか?
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
吐き出した息は、知らず震えていた。
気持ちを落ち着けるように、凛月は購買へと歩き出した。
文化祭2日目の朝。
窓から射し込む朝日が、カーテン越しに淡く部屋を照らしていた。
凛月は制服に袖を通しながら、心のどこかでそわそわと落ち着かない気持ちを抱えていた。
今日も、一ノ瀬にメイクをしてもらう。
昨日の朝と同じ流れなのに、なぜか少しだけそわそわとする。
制服の襟元を整え、リップクリームをひと塗り。
支度を終えた凛月は、早めに家を出た。
〇
「おはよう、凛月」
昇降口の隅。
人の少ない朝の空気の中、一ノ瀬が先に待っていた。
「おはよう。今日もよろしく」
二人で並んで教室までの階段を上がる。
「昨日より、ちょっとだけ仕上がり攻めてみようと思ってて」
教室に入り、いつもの席を指さすと、凛月は素直に腰を下ろした。
一ノ瀬は慣れた手つきでポーチを開け、道具を取り出していく。
「今日は目元、明るめの色にするね」
そう言って、一ノ瀬がそっと瞼に触れる。
自然と目を閉じると、指先がまつ毛にふれる感触があった。
「……くすぐったいんだけど」
「いやー、まつ毛長いなって」
一ノ瀬がくすりと笑う声が近くで響く。
下地のチューブを手に取り、指先でなじませ、パフが頬をやさしく撫でる。
「本当に、慣れてるよね。妹で練習してたんだっけ?」
「うん。でも……凛月は全然違う」
「違う?」
「肌も表情も。毎日、微妙に変わる。だから面白い」
それがメイクする側としての興味だとわかっていても、妙にどきりとする。
「……俺、そんなに変わってる?」
「変わってるっていうか、見てて飽きない。昨日より、今日の方が好きかも」
軽く言われたその一言に、凛月は思わず視線を逸らした。
恥ずかしげもなくそんなことを言うこの男に、まっすぐ惹かれている自分を自覚してしまう。
「よし、できた。目、開けて」
一ノ瀬が鏡を差し出す。
凛月はそっと目を開け、鏡の中の自分と対面する。
昨日よりもまつ毛がしっかりと上がり、アイラインが自然に目の形を引き締めていた。
それでいて、チークやリップの色味が柔らかく、どこか儚げな印象を与えている。
「……すごいね、本当に。全然違う人みたい」
「でも、ちゃんと凛月だよ。かわいいのも、綺麗なのも」
「ありがとう、一ノ瀬」
凛月は、そっと鏡を一ノ瀬に返す。
「あ、凛月」
「ん?」
「今日さ、文化祭後夜祭が始まる前教室で待ってて」
「……わかった」
昨日、一ノ瀬は話があると言っていた。きっとそのことだろう。凛月は頷いた。
「おはよー!」
「二人とも早いね」
「佐野、今日もかわいいな〜!」
にぎやかな声とともに、クラスメイトたちが次々と教室に入ってくる。
その空気に自然と会話が流れていく中、ふと横を見ると、一ノ瀬はもう別のクラスメイトと笑顔で話していた。
その様子を見ながら、凛月も着替えようと服をもって裏に入る。
今日もがんばろう、凛月は小さく息を吐いた。
ちょうど準備が一段落し、クラス全体が落ち着いた頃だった。
教室の扉が、ノックもなく勢いよく開かれ、視線が一斉にそちらへ向く。
「ごめん。一ノ瀬くん、いる?」
現れたのは、「生徒会」と書かれた腕章をつけた女子生徒。
黒髪をきりりと結び上げ、制服のスカートのラインもぴしりと整っている。
さっぱりした雰囲気に整った顔立ち。自然と教室の空気が引き締まった。
「えっ、東雲さんじゃん……」
「めっちゃ美人……生徒会の中でも有名な人だよね?」
「てか、なんで一ノ瀬くんを?」
ざわつき始める教室。
東雲と呼ばれたその女子はまっすぐ一ノ瀬のもとへ向かい、短く言葉を交わした。
一ノ瀬は軽く頷いてエプロンを外し、何事もなかったように彼女と一緒に教室を出ていった。
「えっ……なにあれ」
「ていうか、そういえばあの二人って中学一緒だったよね?」
「あー、聞いたことある!なんか付き合ってたって噂も……」
そんな声が、背後から漏れ聞こえてきた。
凛月は、手に持っていたトレーを拭く手を、無意識に止めていた。
しばらくして一ノ瀬は戻ってきた。
表情は普段通りで、何事もなかったかのように作業に加わっている。
ふと、凛月と目があう。しかし、一ノ瀬はなんでもないよ、というように微笑むだけだった。
凛月の胸の奥は、なぜかざわついたままだった。
〇
昼過ぎ、凛月は頼まれた資材の補充のため、購買へ向かう廊下を歩いていた。
何気なく中庭へ視線を向けたとき、その足が止まった。
ベンチに、一ノ瀬と東雲の姿があった。さっき呼びに来ていた生徒会の女子だ。
二人は他愛ない様子で言葉を交わしている。けれど、その距離がどこか親密に見えた。
――何を話してるんだろう。
生徒会としての用件だったのか、それとも、もっと個人的な――。
そんな考えが頭をよぎり、凛月は思わずベンチの裏手側に足を向けていた。
校舎内の壁に身を寄せ、窓越しにそっと耳を澄ます。
「……一ノ瀬って、まだあの子のこと、好きなの?」
東雲の声だった。ほんの少し、震えているように聞こえる。
「……うん。たぶん、ずっと好きなんだと思う」
一ノ瀬の低く静かな声が返ってくる。その言葉に、凛月の心臓が跳ねた。
「もし、その人とうまくいってないなら……私、まだ諦めてないから。いつだって付き合えるよ」
「……ごめん」
はっきりとした声。
そしてそのまま、彼は続ける。
「一年前にも言ったけど。俺には、他に好きな人がいるんだ」
そこまで聞いたとき、凛月はこれ以上その場にいられなくなった。
音を立てぬように、ゆっくりとその場を離れる。
――他に好きな人がいる。
それは、自分のことを指しているのだろうか。
けれど、一年前という、その言葉が引っかかる。
一年前、自分と一ノ瀬はまだ知り合っていない。
ならば、一ノ瀬がずっと好きだと言った『その人』は、自分じゃないのか?
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
吐き出した息は、知らず震えていた。
気持ちを落ち着けるように、凛月は購買へと歩き出した。
