14話
「いらっしゃいませ!」
明るい声が教室に響く。エプロン姿の凛月は、来店したお客さんににこりと微笑んで頭を下げた。
文化祭当日、朝から教室の中は大賑わいだった。メニューを書いた黒板アートの前では写真を撮る人が絶えず、窓際のフォトスポットでは制服姿のクラスメイトたちが次々にポーズをとっている。
そんな中、メイクをして接客をしている凛月は注目の的だった。
「え、あの子、男の子だよね?」
「やば……めちゃくちゃ可愛いんだけど……」
小声で囁く声が、カップを運ぶ凛月の耳にも届く。恥ずかしさでいっぱいだった。
凛月は深呼吸して、接客を続ける。
メイクした自分を別人だと思うことはやめようと決めた。これは紛れもなく凛月自身なのだから、自信を持って振る舞うことにしたのだ。
ふと視線を横に向けると、カウンターの奥にいる一ノ瀬の姿が目に入った。
いつもの無造作ヘアは、今日はしっかりとオールバックにまとめられている。肌と眉毛はきちんと整えられ、目元には薄くシャドウが入っている。
ドリンクを注ぐ仕草ひとつ取っても、様になりすぎている。女子たちに「ご注文の品です」と微笑むと、数人が顔を赤くしていた。
……ずるいな、あれ。
凛月の心は一瞬不安になる。
今朝、一ノ瀬にメイクをしてもらった。
一ノ瀬は早朝の誰もいない時間を指定してきた。
気持ちはわかるが、あからさまだなと思わず笑ってしまった。だが、2人きりになりたいのは凛月も同じであるので何も言える立場ではない。
「よし、じゃあ目閉じて」
指先が触れる。もう心臓が飛び出そうになることはない。
ファンデーション、アイライン、チーク。どれもいつもと変わらない道具なのに、一ノ瀬にやってもらうだけで特別な気がした。
「はい、できた」
鏡を見た自分は、やっぱり可愛かった。
ふと、隣を見ると一ノ瀬は自身にも下地を塗っていた。
「一ノ瀬もメイクするの?」
「ああ、せっかくだし、ちょっとだけ」
髪をオールバックにまとめて、軽く眉を整え、ベースメイクを施していく。仕上がった彼の顔は、まるでモデルのように整っていた。
「……なにそれ、めっちゃかっこいいじゃん」
「驚いた?」
そう言って一ノ瀬は笑った。
――そんなにかっこよかったら、他の人が好きになっちゃうかも
言おうか迷った言葉をそっと胸にしまう。
たしかに一ノ瀬はかっこいい。他にもそう思っている人はたくさんいるだろう。でも――。
先日の公園での出来事を凛月は思い起こす。
――凛月、好き
ふと頭の中に一ノ瀬の声が再生される。
まずいまずい、凛月はカップを持ち直して、背筋を伸ばした。
――一ノ瀬が好きなのは俺で、俺も一ノ瀬が好き。
その事実はしっかりと凛月の胸に刻まれていた。
頬が自然とゆるむのを自覚しながら、次のお客さんへと足を運ぶ。
「ねえ、君」
飲み終えたカップを持っていた男子学生が、凛月の腕にそっと触れた。
凛月が振り返ると、なぜか相手は照れくさそうに笑っていた。
「ありがとう。すごく美味しかった」
「そう言ってもらえると嬉しいです。ありがとうございました!」
凛月は、自然な笑顔でぺこりと頭を下げた。
すると、男子は一瞬ためらったのち、ポケットから折りたたまれた小さなメモを取り出し、そっと凛月の手に押しつけた。
「これ、よかったら……」
「え? あ……」
あっという間に背中を向けて走っていく男子を呆然と見送った凛月の手元には、電話番号と名前が書かれた紙が残った。
なにこれ。戸惑いながらも、接客中に無碍に断るわけにもいかず、ポケットへと押し込んだその瞬間だった。
「今番号渡したよね?」
「ずるくない? 俺も渡していい?」
最初の一人を皮切りに、周囲の視線が集まり始めた。視線に混ざって、こそこそとヒソヒソ話す声が聞こえてくる。
「男子ばっかりずるい! ねえ、私も!」
「え、俺だって!」
「すみません、これ!」
次々に差し出されるメモ。凛月は困惑しながらも、笑顔を絶やさず受け取り続けるしかなかった。
いや、なんで俺なんかの連絡先欲しいのだろうか。
意味がわからない。わからないけれど、相手に失礼なことはできない。笑顔でお礼を言って、紙を受け取って。
そのうち、ポケットがパンパンになっていた。
「凛月くん、休憩入っていいよー!」
その声に、凛月は心底ほっとした。早くこの場から逃げねばならない。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
エプロンを外したところで、不意に空気がざわついたのを感じた。
「え、誰あの人……めっちゃおしゃれじゃない?」
「モデルとか? 先生じゃないよね?」
周囲の視線が入り口付近に立つ、ひとりの来訪者に集中していた。
紺色のジャケットに、すらりとした黒のスラックス。緩くウェーブのかかった髪を軽くかき上げ、淡く整えられた顔に柔らかな微笑みを浮かべている。
湊さんだ。
凛月は目を見開いた。まさか、本当に来るなんて。
「凛月くん!」
軽やかな声に、周囲の数人がざわめいた。名前を呼ばれた凛月は、逃げるように早足で湊のもとへ向かった。
そのまま、廊下の方に彼を押し出す。湊のビジュアルはあまりにも目立ちすぎる。
「本当に来たんですね……」
「だって、君の晴れ姿、見たいって言ったでしょ?」
ウィンク混じりにそう言って、湊はそっと凛月の髪に触れる。
「似合ってるね……あ、これ、お土産。差し入れのクッキー。あとでみんなで食べてね」
さらりとした所作で差し出される紙袋。その余裕ある振る舞いに、年上らしさを感じる。
「ありがとうございます」
お礼を言って紙袋を受け取ると、湊の視線は教室の中を見つめていた。
つられるように振り返ると、カウンターの奥からじっとこちらを見ている一ノ瀬の姿があった。
一ノ瀬にも紹介しなきゃ、そう思った瞬間、彼がカウンターを出てこちらへ歩いてくる。
ちょうどよかった、そう思って声をかけようとしたそのとき。
「誰ですか?」
火花が散る、というのはきっとこういう瞬間だ。
一ノ瀬の眼差しは鋭く、まるで睨みつけるかのようだった。
対する湊は、薄い笑みを崩さないまま余裕の視線で受け止めている。
あ、マズい。何か誤解してる。
凛月は慌てて口を開きかけたが、説明するために用意した言葉が頭の中で渋滞していた。
ネットで知り合った年上の美容学生と言ったら、一ノ瀬が余計に警戒しそうで、結局声にならない。
逡巡する凛月を横目に、湊が肩をすくめる。
「初めまして、一ノ瀬くん。思ってたとおりイケメンだ」
「……俺の名前、どこで聞いたんですか」
刺さるような声音。だが湊は悪びれもせず、にっこりと口角を上げた。
「凛月くんがね、しょっちゅう君の話をするんだ。メイクが上手で、誰より信頼してるって」
一ノ瀬の眉間がぴくりと動く。
「そうなんすか。で、あなたは?」
「湊。都内の美容専門学校に通ってる。moon――じゃなくて凛月くんとは、コスメの話が高じての知り合いかな」
湊はわざとらしく凛月の肩に手を置いた。指先が軽く触れただけなのに、一ノ瀬の視線がそこで釘付けになる。
「離してください」
低く落ちる一ノ瀬の声に、湊は面白がるように手を引いた。
「ごめんごめん。嫉妬深いタイプ?」
「み、湊さん……!」
凛月の焦りをよそに、一ノ瀬がすっと凛月の手首を取った。
「凛月、行くぞ」
凛月が返事を返す間もなく、そのまま引っ張られる。
「ちょ、ちょっと待っ──」
「いいから」
一ノ瀬は振り向きもせず歩を早める。背後から湊の朗らかな声が追ってきた。
「行ってらっしゃい。あとでクッキーの感想聞かせてね、凛月くん」
楽しげに手を振る湊。
彼の余裕たっぷりの笑顔を見ながら、凛月は慌ただしく教室を後にした。
「いらっしゃいませ!」
明るい声が教室に響く。エプロン姿の凛月は、来店したお客さんににこりと微笑んで頭を下げた。
文化祭当日、朝から教室の中は大賑わいだった。メニューを書いた黒板アートの前では写真を撮る人が絶えず、窓際のフォトスポットでは制服姿のクラスメイトたちが次々にポーズをとっている。
そんな中、メイクをして接客をしている凛月は注目の的だった。
「え、あの子、男の子だよね?」
「やば……めちゃくちゃ可愛いんだけど……」
小声で囁く声が、カップを運ぶ凛月の耳にも届く。恥ずかしさでいっぱいだった。
凛月は深呼吸して、接客を続ける。
メイクした自分を別人だと思うことはやめようと決めた。これは紛れもなく凛月自身なのだから、自信を持って振る舞うことにしたのだ。
ふと視線を横に向けると、カウンターの奥にいる一ノ瀬の姿が目に入った。
いつもの無造作ヘアは、今日はしっかりとオールバックにまとめられている。肌と眉毛はきちんと整えられ、目元には薄くシャドウが入っている。
ドリンクを注ぐ仕草ひとつ取っても、様になりすぎている。女子たちに「ご注文の品です」と微笑むと、数人が顔を赤くしていた。
……ずるいな、あれ。
凛月の心は一瞬不安になる。
今朝、一ノ瀬にメイクをしてもらった。
一ノ瀬は早朝の誰もいない時間を指定してきた。
気持ちはわかるが、あからさまだなと思わず笑ってしまった。だが、2人きりになりたいのは凛月も同じであるので何も言える立場ではない。
「よし、じゃあ目閉じて」
指先が触れる。もう心臓が飛び出そうになることはない。
ファンデーション、アイライン、チーク。どれもいつもと変わらない道具なのに、一ノ瀬にやってもらうだけで特別な気がした。
「はい、できた」
鏡を見た自分は、やっぱり可愛かった。
ふと、隣を見ると一ノ瀬は自身にも下地を塗っていた。
「一ノ瀬もメイクするの?」
「ああ、せっかくだし、ちょっとだけ」
髪をオールバックにまとめて、軽く眉を整え、ベースメイクを施していく。仕上がった彼の顔は、まるでモデルのように整っていた。
「……なにそれ、めっちゃかっこいいじゃん」
「驚いた?」
そう言って一ノ瀬は笑った。
――そんなにかっこよかったら、他の人が好きになっちゃうかも
言おうか迷った言葉をそっと胸にしまう。
たしかに一ノ瀬はかっこいい。他にもそう思っている人はたくさんいるだろう。でも――。
先日の公園での出来事を凛月は思い起こす。
――凛月、好き
ふと頭の中に一ノ瀬の声が再生される。
まずいまずい、凛月はカップを持ち直して、背筋を伸ばした。
――一ノ瀬が好きなのは俺で、俺も一ノ瀬が好き。
その事実はしっかりと凛月の胸に刻まれていた。
頬が自然とゆるむのを自覚しながら、次のお客さんへと足を運ぶ。
「ねえ、君」
飲み終えたカップを持っていた男子学生が、凛月の腕にそっと触れた。
凛月が振り返ると、なぜか相手は照れくさそうに笑っていた。
「ありがとう。すごく美味しかった」
「そう言ってもらえると嬉しいです。ありがとうございました!」
凛月は、自然な笑顔でぺこりと頭を下げた。
すると、男子は一瞬ためらったのち、ポケットから折りたたまれた小さなメモを取り出し、そっと凛月の手に押しつけた。
「これ、よかったら……」
「え? あ……」
あっという間に背中を向けて走っていく男子を呆然と見送った凛月の手元には、電話番号と名前が書かれた紙が残った。
なにこれ。戸惑いながらも、接客中に無碍に断るわけにもいかず、ポケットへと押し込んだその瞬間だった。
「今番号渡したよね?」
「ずるくない? 俺も渡していい?」
最初の一人を皮切りに、周囲の視線が集まり始めた。視線に混ざって、こそこそとヒソヒソ話す声が聞こえてくる。
「男子ばっかりずるい! ねえ、私も!」
「え、俺だって!」
「すみません、これ!」
次々に差し出されるメモ。凛月は困惑しながらも、笑顔を絶やさず受け取り続けるしかなかった。
いや、なんで俺なんかの連絡先欲しいのだろうか。
意味がわからない。わからないけれど、相手に失礼なことはできない。笑顔でお礼を言って、紙を受け取って。
そのうち、ポケットがパンパンになっていた。
「凛月くん、休憩入っていいよー!」
その声に、凛月は心底ほっとした。早くこの場から逃げねばならない。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
エプロンを外したところで、不意に空気がざわついたのを感じた。
「え、誰あの人……めっちゃおしゃれじゃない?」
「モデルとか? 先生じゃないよね?」
周囲の視線が入り口付近に立つ、ひとりの来訪者に集中していた。
紺色のジャケットに、すらりとした黒のスラックス。緩くウェーブのかかった髪を軽くかき上げ、淡く整えられた顔に柔らかな微笑みを浮かべている。
湊さんだ。
凛月は目を見開いた。まさか、本当に来るなんて。
「凛月くん!」
軽やかな声に、周囲の数人がざわめいた。名前を呼ばれた凛月は、逃げるように早足で湊のもとへ向かった。
そのまま、廊下の方に彼を押し出す。湊のビジュアルはあまりにも目立ちすぎる。
「本当に来たんですね……」
「だって、君の晴れ姿、見たいって言ったでしょ?」
ウィンク混じりにそう言って、湊はそっと凛月の髪に触れる。
「似合ってるね……あ、これ、お土産。差し入れのクッキー。あとでみんなで食べてね」
さらりとした所作で差し出される紙袋。その余裕ある振る舞いに、年上らしさを感じる。
「ありがとうございます」
お礼を言って紙袋を受け取ると、湊の視線は教室の中を見つめていた。
つられるように振り返ると、カウンターの奥からじっとこちらを見ている一ノ瀬の姿があった。
一ノ瀬にも紹介しなきゃ、そう思った瞬間、彼がカウンターを出てこちらへ歩いてくる。
ちょうどよかった、そう思って声をかけようとしたそのとき。
「誰ですか?」
火花が散る、というのはきっとこういう瞬間だ。
一ノ瀬の眼差しは鋭く、まるで睨みつけるかのようだった。
対する湊は、薄い笑みを崩さないまま余裕の視線で受け止めている。
あ、マズい。何か誤解してる。
凛月は慌てて口を開きかけたが、説明するために用意した言葉が頭の中で渋滞していた。
ネットで知り合った年上の美容学生と言ったら、一ノ瀬が余計に警戒しそうで、結局声にならない。
逡巡する凛月を横目に、湊が肩をすくめる。
「初めまして、一ノ瀬くん。思ってたとおりイケメンだ」
「……俺の名前、どこで聞いたんですか」
刺さるような声音。だが湊は悪びれもせず、にっこりと口角を上げた。
「凛月くんがね、しょっちゅう君の話をするんだ。メイクが上手で、誰より信頼してるって」
一ノ瀬の眉間がぴくりと動く。
「そうなんすか。で、あなたは?」
「湊。都内の美容専門学校に通ってる。moon――じゃなくて凛月くんとは、コスメの話が高じての知り合いかな」
湊はわざとらしく凛月の肩に手を置いた。指先が軽く触れただけなのに、一ノ瀬の視線がそこで釘付けになる。
「離してください」
低く落ちる一ノ瀬の声に、湊は面白がるように手を引いた。
「ごめんごめん。嫉妬深いタイプ?」
「み、湊さん……!」
凛月の焦りをよそに、一ノ瀬がすっと凛月の手首を取った。
「凛月、行くぞ」
凛月が返事を返す間もなく、そのまま引っ張られる。
「ちょ、ちょっと待っ──」
「いいから」
一ノ瀬は振り向きもせず歩を早める。背後から湊の朗らかな声が追ってきた。
「行ってらっしゃい。あとでクッキーの感想聞かせてね、凛月くん」
楽しげに手を振る湊。
彼の余裕たっぷりの笑顔を見ながら、凛月は慌ただしく教室を後にした。
