1話

「凛月くんって、ほんと優しいよね」
 
 そう言われるのは、これで何度目だろう。
 放課後の教室。ざわざわと雑音が響く中、貸したノートをクラスの女子から返された。何気ないお礼の言葉に添えられたそれ。

「そうかな?」

 顔に笑顔を貼り付けながらノートを鞄にしまって、心の中でひとつ息を吐く。
 またか、と思っている自分がそこにいた。
 優しいねって、言われ慣れてる。小さな頃から、ずっとそう言われて育ってきたから。

「それでさ、凛月くん今日このあと暇だったりする? 実は文化祭の買い出し頼まれてて……」

 期待するような眼差し、こういうとき望まれている言葉は――。

「いいよ、手伝うよ」
「本当? 助かるー!」

 彼女はパッと顔を明るくさせた。凛月は曖昧に笑みを浮かべる。
 ふと、少し離れた位置から別の女子の声が耳に入った。

「ねえ、一ノ瀬くんは? このあと買い出し手伝ってほしいんだけど」
「は? なんで俺?」

 一ノ瀬颯太。無口で無愛想、いつもひとりでいるタイプ。凛月も数えられるくらいしか話したことがない。

「いや、買い出し人足りなくてさ。凛月くんにもお願いしたんだけど……」
「じゃあ足りてんじゃん」

 あっさりとした口調。ためらいも気遣いもなく、一ノ瀬はそのまま教室を出ていこうとする。
 周りの女子が苦笑いを浮かべて小声で「感じ悪っ」とつぶやいたのが聞こえた。

 ――いいな。
 凛月は、そんなふうに思ってしまった自分に、少しだけ驚く。
 言いたいことを言えること。断ることをためらわないこと。自分には、どうしても苦手な内容だった。

「ねえ」

 ふいに、背中に声をかけられる。
 振り向くと、出て行ったはずの一ノ瀬がまだ教室の出入り口に立っていた。
 こちらを見ている表情は乏しい。でも、視線だけはなぜか鋭くて、まっすぐと刺さってきた。

「おまえ、ああいうの、ちゃんと断れないの?」
「……え?」

 思わず聞き返す。どうやら先ほどの会話を聞かれていたらしい。答えずにいると、一ノ瀬は小さく鼻を鳴らした。

「優しいって言われるの、そんなに嬉しい?」

 何も言えなかった。代わりに心の奥が、きゅっと小さく縮んだ。

「おまえらもさ、佐野のこと、都合よく頼るのやめたら?」
 
 一ノ瀬はそう言い放ち、女子たちを一瞥してから教室を出ていった。
 残された彼女らは一瞬、ばつが悪そうに顔を見合わせる。

「べ、別にそういうつもりじゃ……」
「ね、凛月くんも嫌だったらちゃんと言うよね?」

 困ったように眉を下げて、誰かが口を開く。

「うん」

 凛月が答えると、彼女たちはほっとしたように微笑んだ。
 そして、何事もなかったかのようにまたおしゃべりを再開する。止まっていた流れが、再び当たり前のように動き出す。

「じゃあ、買い出し行こー!」
「凛月くん、ありがとね!」
「ほんと頼りになる〜!」

 あとは、荷物持ちとしてついていくだけ。
 水面に浮かぶ落ち葉のように、身を任せて生きていく。

 ――波風立てずに穏便に。

 それは、凛月の座右の銘だった。
 争ったり抗ったりせず、周りが望むままに過ごしていれば凛月を取り巻く世界は平和なのだ。

 小学三年のとき、両親が離婚した。
 凛月と、六つ下の弟の千秋は母親と暮らすことになった。
 母は土日問わず夜遅くまで働いた。家にいる時間は減っていった。

「凛月、あんたは優しい男になりなさい」

 母はよく、お酒を飲みながらそう凛月に言った。彼女にとって父は優しくない男だったらしい。
 
 昔、一度だけ、母のお願いを断ったことがあった。
 仕事続きで疲れ切った母が、凛月に「夕飯の買い物をしてきて」と言ったとき。その日はどうしても気分が乗らなくて、悪いと思いながらも凛月は「今日は無理だよ」と言ってしまった。

 母は、何も言わなかった。

 けれど、口をへの字に結び、わかりやすく凛月を無視した。
 その夜、リビングのテーブルに置かれた晩酌の空き缶が、いつもよりずっと多かったことを今でも覚えている。

 翌朝、顔を合わせたとき、母はぽつりと呟いた。

「あんたも、やっぱりあの人と同じなんだね。そうよね、同じ血が流れてるんだから」

 その言葉が、凛月の胸に鋭く刺さった。
 言い返すことも、謝ることもできなかった。ただ、小さく頷いてその場をやり過ごした。

 それからは、誰も傷つけないように、刺激しないように過ごすと決めた。だって傷つくのは自分だから。
 自分が優しくいれば、何も壊れない。
 波風を立てなければ、家族も、生活も、崩れずに済む。

⚪︎
 玄関の鍵を開けると、薄暗い部屋の空気が迎えた。
 ただいま、の声は出さない。誰も返してはくれないと知っているから。

 リビングのテーブルの上に、小さく畳まれた千円札と、メモ用紙が置かれていた。
 
《夕飯代。千秋の分もしっかりやるように。》
 
 母の文字。乱暴でも雑でもなく、むしろ几帳面な字。だからこそ冷たさが際立っているようにも見える。

「……しっかりやるように、ね」

 独り言のように呟いて、凛月は鞄を置くとすぐにキッチンへ向かった。

 冷蔵庫の中を覗いて、あるものでどうにかできそうなメニューを考える。
 卵、ウインナー、もやし、キャベツ。フライパンを取り出して、手際よく炒め始める。
 味付けは、千秋の好みに合わせて少し濃いめに。

「りつきー、まだー?」

 リビングから千秋の声が飛ぶ。テレビの音とゲームの効果音が混ざったような音がしている。

「もうちょっと。今盛ってるとこ」

 返事をしながら皿をテーブルに運ぶと、弟が椅子にどかっと腰を下ろした。
「また野菜入ってるじゃん」と文句を言いながら、箸をつける。

「ちゃんと食べなよ。明日も学校でしょ」
「わかってるし」

 拗ねたような口ぶり。でも、ちゃんと一口目を運んだのを見て、凛月は小さく息を吐いた。
 わかってる、弟はまだ小さいのだ。そして小さいなりに母があまり家にいないことに不満を抱えてる。
 だから甘え方が不器用で、苛立ちをぶつける相手が自分しかいない。そんなこと、全部わかってるのに。

 ……イラついてんのは、こっちだって同じだよ。

 そう言いかけて、言葉をぐっと飲み込んだ。
 優しい男になりなさい、って言われたんだ。
 ちゃんとやれって、書いてあったんだ。
 だから、今日も何も言わずに、ちゃんとやる。

 千秋が食べ終わるのを見ながら、凛月はご飯を口に運ぶ。
 味は悪くない、でも、温かくもなかった。
 ちらりと時計を見やる。時刻は19時30分を指していた。
 凛月は箸を進める手を少しだけ早めた。

 食器を洗い終えたころ、玄関のドアが開く音がした。母が帰ってきたのだ。

「おかえり。ご飯できてるよ」
「あー……今日はいいわ」

 疲れた顔のまま、母はソファに沈み込み、深いため息を吐いた。
 凛月はその様子をちらりと見てから、逃げるようにそっと席を立つ。

「……俺、勉強するから部屋戻るね」
「はいはい、ちゃんとやりなさいよ」

 この人はそれ以外に言うことはないのだろうか、そう心の片隅に思いながら凛月はリビングを出る。
 色々あったけど、今日も1日穏やかな流れのままここまでたどり着いた。
 階段を一段ずつ、ゆっくりと上がっていく。とん、とん。足音にあわせて、胸の中の澱んだものが少しずつ薄れていく。

 自室のドアを開けると、凛月は大きく息を吸って、吐いた。
 そして後ろ手に鍵をかける。カチリ、と小さな音がして、世界が切り替わる。

 今日は、試してみたいことがあった。

 カバンの奥から、小さな紙袋を取り出す。中には色付きのリップクリームが入っていた。
 先日SNSで見かけてから、ずっと気になっていたものだ。リップグロスのような艶感と、自然な発色。ひと目見た瞬間、これだと思った。

 凛月はクローゼットを開ける。
 服と服の隙間にそっと忍ばせてある、小さな真っ白いポーチ。
 その中には、下地、フェイスパウダー、アイシャドウ、チーク――時間をかけて、少しずつ揃えてきた、凛月だけの秘密が詰まっている。
 新しいリップをそっとポーチに加える。コトン、と小さな音がして、まるでずっと前からそこにあったかのように馴染んだ。

「……可愛い」

 凛月はそのまま床に座り、衣装ケースの上に鏡を置く。

「今日は、このリップに合う感じで……」

 下地とフェイスパウダーで軽く肌を整え、アイシャドウを指先で塗っていく。
 きらきらとしたラメが光を受けてきらめく。最近の凛月にとって、いちばんのお気に入りのコスメだった。

「……できた」

 最後に、買ったばかりのリップを塗る。つやっとした光沢がのって、顔全体がふっと華やぐ気がした。
 凛月は立ち上がり、クローゼットを漁る。
 女性ものの服はさすがに持っていない。けれど、ユニセックスに見える中性的なパーカーならある。
 フードを目深にかぶり、リップを持った手で顔の半分を隠す。
 スマホを構えて、シャッター音が小気味よく響いた。

「うん、いい感じ」

 軽く加工アプリで色味を調整し、そのままSNSを開く。

『この間買ったリップ、ようやく試せた!
つやつやした感じに合わせて、アイシャドウはラメを多めに』

 最後に使ったコスメの名前を添えて、投稿完了。
 スマホの画面を見つめながら、凛月は少しだけ息を吐いた。
 ここだけが、凛月の居場所だった。

 最初は、本当に些細なきっかけだった。
 買ったリップクリームが色付きだったのだ。それを塗ってみたら、なんとなく写真を撮りたくなった。そして軽い気持ちで加工してSNSに投稿した。

 「いいね」がついた。
 「可愛い」とコメントされた。

 ただそれだけのことなのに、胸の奥がふわっと熱くなった。
 どくん、どくんと心臓の音が早くなって――まるで、見つけてもらったような気がした。

 それは、いつもの自分じゃない。学校で優しいと言われる「凛月くん」でもなく、家庭でいい子でいようとする「お兄ちゃん」でもない。
 別に、女の子になりたいわけではない。ただいつもの自分じゃない自分になりたかった。
 性別さえも嘘をつき、作りあげた虚構の自分。でもなぜか、いちばん本当の自分であるように感じた。

 それから、凛月はメイクをするたびに写真を撮るようになった。
 そしてまた、「可愛い」と言われる。
 「そのメイク似合ってるね」「雰囲気好き」――そんな言葉が、小さな数字とともに積み重なっていく。
 それを見るたびに、心の中にあった空っぽの部分が、すこしずつ埋まっていくような気がした。
 おそらくこれが「承認欲求」と呼ばれるものなのだろう。自分はもしかしたら普通じゃないのかもしれない。
 わかっているのに、やめられなかった。

「ピロン」

スマホの画面に、通知のポップアップが表示される。

《スキマさんがいいねとコメントをしました》

 スキマさん。いつも反応をくれる、数少ないフォロワーのひとりだ。

『そのリップ、気になってたやつです!』

 凛月は指を動かして、すぐに返信を打った。

『新色が出たので、つい買っちゃいました。ツヤ感があって、おすすめです!』
『moonさんが言うなら間違いないですね! 明日探してきます!』

 『moon』。それが凛月のアカウント名。
 本当の名前を伏せて、もうひとりの自分として生きる、小さな仮の世界。
 ここでは、誰も「優しいね」なんて言わない。そのかわり、「可愛い」と言ってくれる。
 
「凛月! 早くお風呂入りなさい!」

 突然の声に、凛月は肩を跳ねさせた。
 時計を見れば、想像以上に時間が経っていた。

「はーい!」

 声を返しながら、手早くメイク落としを取り出す。
 コットンにクレンジングを含ませる。アイシャドウ、チーク、リップ。さっきまでの輝きが、少しずつ曖昧に溶けていく。
 この部屋を出た瞬間、自分はまたいつもの『凛月』に戻らなければならない。

「またね」

 凛月は鏡に向かってつぶやいた。

 湯上がりの洗面所で、凛月は髪をタオルで拭きながら、鏡の前に立った。
 映るのは、いつもの自分。メイクを落とした素顔は、どこか頼りなく見えた。

 ふと、放課後の教室が脳裏をよぎる。

 ――優しいって言われるの、そんなに嬉しい?

 一ノ瀬の、まっすぐな目。特別強い口調でもないのに、その言葉が刺さったのはあの目のせいだ。

 なんであんなふうに見るんだろ。
 別に気にしてるわけじゃない。ただ、妙に印象に残っていた。
 タオルを洗濯カゴに放り込み、部屋へ戻る。
 ベッドの端に腰を下ろし、スマホを手に取った。

 SNSを開くとちょうどスキマさんが投稿をしていた。
 新しく買ったらしい、ブルーのアイシャドウを載せていた。
 ブルーは凛月も試したことはない。使うのが難しそうな色味だと感じるカラーだ。
 いいねを押しつつ、そのままスキマさんのプロフィールを開く。

《コスメと日常の記録|気ままに更新中》

 本名も、顔も、年齢もわからない。どこにでもいそうな誰か。
 その、誰かに。自分は肯定してもらっている。

 スマホの画面を消し、ベッドに身を沈める。
 まぶたを閉じると、部屋の静けさがじんわりと広がっていった。