ゼウスの語りが終わると、佐藤施設長は、次の語り手を募った。部屋には、まだゼウスの物語の余韻が漂っており、誰もがその余韻に浸っているかのようだった。その中で、沙羅がゆっくりと手を挙げた。彼女の顔には、決意と、微かな興奮が入り混じった表情が浮かんでいた。

「では、次は、橘沙羅さんにお願いしましょう!」

佐藤施設長の声に、沙羅は優雅な足取りで部屋の中央へと向かった。彼女は、ゼウスが座っていた椅子にゆっくりと腰を下ろした。柔らかなガウンが、彼女の動きに合わせてふわりと揺れる。彼女の視線は、部屋の奥を見つめていた。まるで、そこにかつて立っていた舞台の幻影が見えているかのようだ。

「私の人生は、映画そのものだったわ。輝かしい成功、熱狂的な喝采、そして、深い孤独……」

沙羅は、低い、しかし響きのある声で語り始めた。その声は、かつて数百万人の観客を魅了した、プロの女優の声だった。部屋の空気は、一瞬にして、舞台の緊張感に包まれた。

「私は、幼い頃から、常に『完璧な自分』を演じることを求められてきたわ。美しい顔、完璧なスタイル、そして、感情豊かな演技。全てが、私という人間を構成する要素だった。しかし、その完璧な仮面の下で、私は常に、ある『飢え』を抱えていたの」

沙羅の言葉は、彼女自身の内面へと深く切り込んでいく。集まった人々は、彼女の言葉に耳を傾け、その物語に引き込まれていく。

「それは、食への飽くなき欲望だったわ。特に、肉。血の滴るような赤身の肉。私の人生で最も幸せな瞬間は、舞台を終え、熱狂的な観客の拍手を聞きながら、裏でこっそり食べる、焼きたてのステーキだった。肉汁が口の中に広がり、脳を刺激する。あの味覚の記憶は、私にとって、最高の『麻薬』だったの」

彼女の言葉には、生々しいまでの「食への情熱」が宿っていた。老いた肉体の中に、未だ燃え盛る欲望の炎。

田中は、沙羅の言葉に、思わず唾を飲み込んだ。彼の脳裏には、かつて食べた、コンビニの唐揚げ弁当の味が蘇った。決して高級なものではなかったが、仕事終わりに食べるそれは、彼にとって至福の味だった。

ゼウスは、沙羅の言葉を、興味深く聞いていた。彼には理解できなかった人間の「欲望」というものが、彼女の言葉を通じて、具体的な形を帯びていく。それは、彼が知らなかった「人間的な感情」の一端だった。

「私の女優としてのキャリアは、成功の連続だったわ。でも、その成功の裏で、私は常に、自分を『偽っている』という感覚を抱えていた。スクリーンの中の私は、確かに輝いていたけれど、それは、私が『演じた』私であって、本当の私ではなかった」

沙羅の声には、微かな悲しみが混じっていた。

「私の周りには、常にたくさんの人がいたわ。ファン、共演者、監督、スタッフ。でも、誰も、私が本当に何を求めているのかを知ろうとはしなかった。彼らは、私が『演じる』沙羅を愛したけれど、私が『人間』としての沙羅を理解しようとはしなかった」

彼女の言葉は、深い孤独感を漂わせていた。煌びやかな世界の裏側にある、人間の普遍的な孤独。

「そして、私は歳を取り、肉体は衰え、舞台から降りた。この老人ホームに来て、私の『飢え』は、さらに強くなったわ。ここでは、私が本当に食べたいものは、決して手に入らない。薄味の食事、栄養バランスだけを重視した食卓。それは、私にとって、魂の飢餓でしかなかった」

沙羅は、そこで言葉を切った。彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。それは、女優としての涙ではなく、一人の人間としての、純粋な悲しみの涙だった。

「でもね、今日、あなた方の話を聞いて、私、気づいたの。私の『飢え』は、単なる食欲だけではない。それは、人生における『本物』を求める、私自身の魂の叫びだったのね」

彼女の言葉は、まるで霧が晴れるかのように、部屋の空気を浄化していく。

「私は、今でも舞台に立ちたいと願っているわ。たとえ、それがこの老人ホームのレクリエーションルームであっても。そして、私が本当に求めるものを、この肉体で、この舌で、味わいたい。それが、私が残された人生で、唯一求めている『本物の体験』なのよ」

沙羅は、そこで物語を終えた。部屋の中は、深い感動に包まれていた。誰もが、彼女の言葉に、自らの人生の「飢え」や「本物への渇望」を重ね合わせていた。

佐藤施設長は、再びゆっくりと拍手をした。そして、彼女の目を見て、深く頷いた。

「橘さん。素晴らしい物語を、ありがとうございます。あなたの言葉は、私たちに、生きる上で本当に大切なものとは何かを、改めて考えさせてくれました」

沙羅は、椅子から立ち上がると、ゼウスのほうを見た。彼女の瞳には、新たな決意の光が宿っていた。彼女は、もはや過去の栄光を求めるだけではなかった。残された人生で、「本物の体験」を追求することを誓ったのだ。

田中は、腕を組みながら、複雑な表情をしていた。彼の脳裏には、「飢え」という言葉がこだましていた。彼自身もまた、長年、何かに飢えていたのかもしれない。それは、電車の轟音だけでは満たされない、心の奥底にある「何か」だった。

部屋の外は、完全に明るくなっていた。朝の光が、カーテンの隙間から差し込み、部屋の中に温かい色を添えている。コーヒーの香りが、微かに漂ってくる。老人ホームの朝が、新たな物語の始まりを告げていた。