静寂が、部屋を包み込んだ。それは、張り詰めた糸のような、脆い静寂だった。ゼウスは将棋盤に、沙羅は窓の外の月に、田中は自分の足元に、それぞれ視線を落としていた。彼らの心の中では、言葉にならない感情が渦巻いていた。戦い、飢え、そして苛立ち。三つの異なる感情が、奇妙な形で共鳴し始めている。
そのとき、部屋の隅に置かれた、古びたラジオから、微かに音楽が流れ始めた。それは、かつて流行した、古いジャズのスタンダードナンバーだった。トランペットの切ない音色と、ピアノの流れるような旋律が、夜明け前の静かな空間に溶け込んでいく。その音は、彼らの心の奥底に、忘れかけていた記憶の扉を叩く。
ゼウスの脳裏には、遥か昔、オリンポス山で催された祝宴の光景が蘇る。神々が酒を酌み交わし、音楽と踊りに興じる。それは、戦いとは異なる、平和と享楽の時間だった。彼が忘却の彼方に追いやっていた、幸福の記憶。
沙羅の耳には、かつて出演したミュージカルの舞台裏で聞いた、オーケストラのチューニングの音が聞こえるかのようだった。スポットライトの熱、観客の拍手、そして舞台を彩る音楽。それは、彼女の人生そのものだった。彼女の五感は、あの頃の興奮を鮮明に思い出していた。
田中は、電車の車窓から見た、雨上がりの街並みを思い出した。しっとりと濡れたアスファルトに、街灯の光が反射し、幻想的な光景が広がっていた。その時、車内で流れていたBGMが、まさにこのジャズのメロディだった。あの頃の彼は、ただひたすらに電車を動かすことに集中し、景色を楽しむ余裕などなかった。しかし、今、この老人ホームで、彼は初めて、その音楽が持つ「意味」を感じ取っていた。
音楽は、三人の間に横たわる、見えない壁を少しずつ溶かし始めていた。それは、言葉や論理では説明できない、感情の共有だった。
やがて、ラジオの音楽が終わり、静かなアナウンスが流れた。
「……本日、午前六時より、当老人ホームのレクリエーションルームにて、特別企画が開催されます。題して、『思い出を語る会』。皆様の人生の物語を、どうぞお聞かせください」
アナウンスが終わると、再び静寂が戻った。しかし、その静寂は、もはや先ほどの張り詰めたものではなかった。どこか温かく、そして微かな期待を孕んでいる。
沙羅が、最初に口を開いた。
「思い出……ね。私には、語るべき物語がたくさんあるわ。あなたがたには、想像もつかないような、華やかで、そして悲しい物語が」
彼女の瞳は、遠い昔を懐かしむように、微かな光を宿していた。
田中は、鼻を鳴らした。
「思い出なんてねえよ。俺の人生は、時刻表とレールの錆びた匂いだけだ。語るべきもんがあるとするなら、遅延で怒鳴られた客の顔ぐらいだな」
彼の言葉には、自嘲めいた響きが混じっていたが、その表情には、ほんの少しの興味が浮かんでいた。
ゼウスは、将棋盤から顔を上げた。彼の脳内では、未だ戦場の光景がフラッシュバックしていたが、その中に、ほんの僅かながら、別の「物語」の断片が混じり始めている。
「物語……か。私は、数千年にわたる戦いの歴史を、誰かに語ったことはなかった。だが……」
彼の言葉が途切れた。彼の脳裏には、レクリエーションルームという、彼にとって未知の「戦場」のイメージが浮かんだ。そこで、彼は何を語るべきなのか。誰と戦うべきなのか。
そのとき、部屋の窓から、朝日が差し込んできた。薄いオレンジ色の光が、部屋の隅々まで行き渡り、古い家具や将棋盤、そして三人の顔を優しく照らす。温かい光が、肌に触れる。それは、夜の冷たさとは異なる、生命の始まりを告げる光だった。
啓介の脳裏には、ある「予感」が芽生えていた。この老人ホームで、この三人が出会うことは、単なる偶然ではない。彼らの間に、何かが起こる。そして、それは、この老人ホーム、ひいては彼らが生きる世界に、新たな「物語」を生み出すことになるだろう。
そのとき、部屋の隅に置かれた、古びたラジオから、微かに音楽が流れ始めた。それは、かつて流行した、古いジャズのスタンダードナンバーだった。トランペットの切ない音色と、ピアノの流れるような旋律が、夜明け前の静かな空間に溶け込んでいく。その音は、彼らの心の奥底に、忘れかけていた記憶の扉を叩く。
ゼウスの脳裏には、遥か昔、オリンポス山で催された祝宴の光景が蘇る。神々が酒を酌み交わし、音楽と踊りに興じる。それは、戦いとは異なる、平和と享楽の時間だった。彼が忘却の彼方に追いやっていた、幸福の記憶。
沙羅の耳には、かつて出演したミュージカルの舞台裏で聞いた、オーケストラのチューニングの音が聞こえるかのようだった。スポットライトの熱、観客の拍手、そして舞台を彩る音楽。それは、彼女の人生そのものだった。彼女の五感は、あの頃の興奮を鮮明に思い出していた。
田中は、電車の車窓から見た、雨上がりの街並みを思い出した。しっとりと濡れたアスファルトに、街灯の光が反射し、幻想的な光景が広がっていた。その時、車内で流れていたBGMが、まさにこのジャズのメロディだった。あの頃の彼は、ただひたすらに電車を動かすことに集中し、景色を楽しむ余裕などなかった。しかし、今、この老人ホームで、彼は初めて、その音楽が持つ「意味」を感じ取っていた。
音楽は、三人の間に横たわる、見えない壁を少しずつ溶かし始めていた。それは、言葉や論理では説明できない、感情の共有だった。
やがて、ラジオの音楽が終わり、静かなアナウンスが流れた。
「……本日、午前六時より、当老人ホームのレクリエーションルームにて、特別企画が開催されます。題して、『思い出を語る会』。皆様の人生の物語を、どうぞお聞かせください」
アナウンスが終わると、再び静寂が戻った。しかし、その静寂は、もはや先ほどの張り詰めたものではなかった。どこか温かく、そして微かな期待を孕んでいる。
沙羅が、最初に口を開いた。
「思い出……ね。私には、語るべき物語がたくさんあるわ。あなたがたには、想像もつかないような、華やかで、そして悲しい物語が」
彼女の瞳は、遠い昔を懐かしむように、微かな光を宿していた。
田中は、鼻を鳴らした。
「思い出なんてねえよ。俺の人生は、時刻表とレールの錆びた匂いだけだ。語るべきもんがあるとするなら、遅延で怒鳴られた客の顔ぐらいだな」
彼の言葉には、自嘲めいた響きが混じっていたが、その表情には、ほんの少しの興味が浮かんでいた。
ゼウスは、将棋盤から顔を上げた。彼の脳内では、未だ戦場の光景がフラッシュバックしていたが、その中に、ほんの僅かながら、別の「物語」の断片が混じり始めている。
「物語……か。私は、数千年にわたる戦いの歴史を、誰かに語ったことはなかった。だが……」
彼の言葉が途切れた。彼の脳裏には、レクリエーションルームという、彼にとって未知の「戦場」のイメージが浮かんだ。そこで、彼は何を語るべきなのか。誰と戦うべきなのか。
そのとき、部屋の窓から、朝日が差し込んできた。薄いオレンジ色の光が、部屋の隅々まで行き渡り、古い家具や将棋盤、そして三人の顔を優しく照らす。温かい光が、肌に触れる。それは、夜の冷たさとは異なる、生命の始まりを告げる光だった。
啓介の脳裏には、ある「予感」が芽生えていた。この老人ホームで、この三人が出会うことは、単なる偶然ではない。彼らの間に、何かが起こる。そして、それは、この老人ホーム、ひいては彼らが生きる世界に、新たな「物語」を生み出すことになるだろう。



