「おい! 何やってんだ! こんな時間に、うろちょろするな!」
怒鳴り声と共に部屋に入ってきたのは、老人ホームの夜間警備員、というよりは、ここでは「ケアワーカー」と呼ばれるべき人物だった。しかし、彼の風貌は、とてもケアワーカーには見えなかった。年齢は六十代半ば。白髪交じりの髪は乱れ、顔には疲労と苛立ちが刻まれている。制服はしわくちゃで、その体からは、微かにタバコの匂いがした。
彼の名は、田中。かつては、この東京の地下を縦横無尽に走り回る、ベテラン電車の運転手だった。しかし、定年退職後、年金だけでは生活が苦しく、この老人ホームでアルバイトとして働くことになったのだ。しかし、彼の心は、未だ都会の喧騒の中で、電車のレールの上を走り続けていた。
田中は、ゼウスと沙羅を見て、舌打ちをした。彼の脳内では、常に不規則な音と、遅延のアナウンスが響いているかのようだ。人生の「終着点」である老人ホームでの仕事は、彼にとって、何よりも「苛立ち」以外の何物でもなかった。
「橘さん! またあんたか! 規則は守ってもらわねえと困るんだよ!」
田中は、沙羅に詰め寄った。彼の鼻腔には、沙羅がつけていた古びた香水の匂いが、一瞬だけかすかに触れた。それは、彼が若い頃に見た、銀幕の女優の華やかな残像と重なり、彼の心の苛立ちをさらに増幅させた。
沙羅は、田中の怒鳴り声にも怯むことなく、むしろ挑戦的な視線を返した。
「規則? 規則なんて、人間が作ったものじゃない。私の本能に従うのが、人間としての規則よ」
彼女の言葉は、田中にとって、最も耳に痛いものだった。彼は、人生のほとんどを「規則」に縛られて生きてきた。時刻表通りに電車を動かし、信号を守り、安全運行を第一に考える。それが彼の「規範」だった。しかし、その規範が、彼の人生に一体何をもたらしたというのか。残されたのは、疲労と、満たされない心だけだった。
「本能だかなんだか知らねえが、ここは老人ホームなんだよ! あんたも、神様だか知らねえが、将棋ばっかりやってねえで、たまには飯でも食え!」
田中は、今度はゼウスに八つ当たりするように言った。彼の脳内では、常に「遅延」という二文字がちらついていた。人生の全てが、まるで遅延する電車のように感じられた。彼は、この老人ホームで、自分が「引退」したことを受け入れられずにいた。彼は、今でも電車の運転席に座り、レバーを握りしめている夢を見る。あの轟音、あの加速感、あのスピード感。それは、彼の唯一の「生きがい」だった。
ゼウスは、田中の言葉に、眉をひそめた。彼のプライドが、かすかに傷つけられた。
「私は、戦っているのだ。人間には理解できぬ、深遠なる戦いを」
ゼウスは、将棋盤を指差した。しかし、田中は、その言葉に耳を傾けることなく、ただただ苛立ちを募らせていた。
「戦い? ふざけんな! 寝ぼけてんのか! 大体、あんたみたいな爺さんが、何と戦うってんだよ! 見てみろ、このホームの壁のペンキが剥がれてんだよ! そっちのほうがよっぽど現実の戦いだろうが!」
田中の言葉は、老人ホームの現実を突きつけた。老朽化、人手不足、そして、そこに生きる人々の「諦め」。それは、彼が最も見たくない現実だった。
部屋の空気が、凍りつくように冷たくなった。三人の間には、それぞれの「現実」と「幻想」がぶつかり合い、火花を散らしているかのようだった。しかし、その衝突の中に、微かな「共通点」が生まれつつあることに、彼らはまだ気づいていなかった。それは、この老人ホームという、閉鎖された空間の中で、それぞれが抱える「満たされない欲望」だった。
外の空は、少しだけ白み始めていた。都会の光が、遠くで点滅している。
怒鳴り声と共に部屋に入ってきたのは、老人ホームの夜間警備員、というよりは、ここでは「ケアワーカー」と呼ばれるべき人物だった。しかし、彼の風貌は、とてもケアワーカーには見えなかった。年齢は六十代半ば。白髪交じりの髪は乱れ、顔には疲労と苛立ちが刻まれている。制服はしわくちゃで、その体からは、微かにタバコの匂いがした。
彼の名は、田中。かつては、この東京の地下を縦横無尽に走り回る、ベテラン電車の運転手だった。しかし、定年退職後、年金だけでは生活が苦しく、この老人ホームでアルバイトとして働くことになったのだ。しかし、彼の心は、未だ都会の喧騒の中で、電車のレールの上を走り続けていた。
田中は、ゼウスと沙羅を見て、舌打ちをした。彼の脳内では、常に不規則な音と、遅延のアナウンスが響いているかのようだ。人生の「終着点」である老人ホームでの仕事は、彼にとって、何よりも「苛立ち」以外の何物でもなかった。
「橘さん! またあんたか! 規則は守ってもらわねえと困るんだよ!」
田中は、沙羅に詰め寄った。彼の鼻腔には、沙羅がつけていた古びた香水の匂いが、一瞬だけかすかに触れた。それは、彼が若い頃に見た、銀幕の女優の華やかな残像と重なり、彼の心の苛立ちをさらに増幅させた。
沙羅は、田中の怒鳴り声にも怯むことなく、むしろ挑戦的な視線を返した。
「規則? 規則なんて、人間が作ったものじゃない。私の本能に従うのが、人間としての規則よ」
彼女の言葉は、田中にとって、最も耳に痛いものだった。彼は、人生のほとんどを「規則」に縛られて生きてきた。時刻表通りに電車を動かし、信号を守り、安全運行を第一に考える。それが彼の「規範」だった。しかし、その規範が、彼の人生に一体何をもたらしたというのか。残されたのは、疲労と、満たされない心だけだった。
「本能だかなんだか知らねえが、ここは老人ホームなんだよ! あんたも、神様だか知らねえが、将棋ばっかりやってねえで、たまには飯でも食え!」
田中は、今度はゼウスに八つ当たりするように言った。彼の脳内では、常に「遅延」という二文字がちらついていた。人生の全てが、まるで遅延する電車のように感じられた。彼は、この老人ホームで、自分が「引退」したことを受け入れられずにいた。彼は、今でも電車の運転席に座り、レバーを握りしめている夢を見る。あの轟音、あの加速感、あのスピード感。それは、彼の唯一の「生きがい」だった。
ゼウスは、田中の言葉に、眉をひそめた。彼のプライドが、かすかに傷つけられた。
「私は、戦っているのだ。人間には理解できぬ、深遠なる戦いを」
ゼウスは、将棋盤を指差した。しかし、田中は、その言葉に耳を傾けることなく、ただただ苛立ちを募らせていた。
「戦い? ふざけんな! 寝ぼけてんのか! 大体、あんたみたいな爺さんが、何と戦うってんだよ! 見てみろ、このホームの壁のペンキが剥がれてんだよ! そっちのほうがよっぽど現実の戦いだろうが!」
田中の言葉は、老人ホームの現実を突きつけた。老朽化、人手不足、そして、そこに生きる人々の「諦め」。それは、彼が最も見たくない現実だった。
部屋の空気が、凍りつくように冷たくなった。三人の間には、それぞれの「現実」と「幻想」がぶつかり合い、火花を散らしているかのようだった。しかし、その衝突の中に、微かな「共通点」が生まれつつあることに、彼らはまだ気づいていなかった。それは、この老人ホームという、閉鎖された空間の中で、それぞれが抱える「満たされない欲望」だった。
外の空は、少しだけ白み始めていた。都会の光が、遠くで点滅している。



