「あら、まだ起きてらっしゃったの?」
声の主は、かつて「銀幕の女王」と呼ばれた女優、橘沙羅だった。年齢は八十代後半。白い髪は美しく結い上げられ、顔には深い皺が刻まれているが、その表情には、未だかつての華やかさの残り香が感じられた。彼女は、豪華なシルクのガウンを身につけ、足元はフワフワの室内用スリッパ。その手には、何も持っていない。
沙羅は、部屋の中央に立つと、鼻腔を大きく広げた。何かを嗅ぎ分けるかのように、深呼吸を繰り返す。
「……やっぱり、匂わないわね」
彼女の言葉には、落胆の色が混じっていた。その瞳は、何かを求めて彷徨っている。それは、過去の栄光でもなく、名声でもない。もっと、動物的な、根源的な「何か」だった。
沙羅は、美食家だった。世界中の高級料理を食べ尽くし、舌の肥えた彼女は、引退後もその食への情熱を失っていなかった。しかし、この老人ホームの食事は、彼女にとって「我慢」以外の何物でもなかった。栄養バランスを重視した、薄味の食事。肉は、脂肪分の少ない鶏肉か、魚ばかり。彼女が本当に求めているのは、違う。
「肉……赤身の、血の滴るような肉が食べたいわ」
彼女は、口の中でそう呟いた。その言葉は、喉の奥から絞り出すような、切実な響きを帯びていた。記憶の中には、かつて出演した映画の打ち上げで食べた、豪快なステーキの味が鮮明に蘇る。ジュージューと音を立てる鉄板の上で、肉汁が弾け、香ばしい匂いが空間を満たしていた。あの味、あの匂い、あの食感。それは、彼女の記憶の中で、最も甘美な「芸術」だった。
沙羅は、ゼウスのほうを見た。彼の傍らには将棋盤。彼女は、そこに興味を示すことなく、ただただ、自らの飢えを満たすものを求めている。
「あなたも、お腹が空いていらっしゃるんでしょう? このホームの食事は、まるで紙くずのようだわ。味気なくて、乾燥している。栄養があるのは分かるけど、魂が満たされない」
彼女の言葉は、演技ではなく、彼女の本心から発せられたものだった。彼女は、かつては豪華な食事に囲まれて生きてきた。だが、今は、その食事が、まるで「飢餓」の苦痛を呼び起こすかのように、彼女の心を苛んでいた。
ゼウスは、将棋盤から目を離し、沙羅に視線を向けた。彼の瞳には、わずかな困惑の色が浮かんでいた。彼は、人間の「欲望」というものが理解できなかった。神である彼にとって、食とは、エネルギーを摂取する行為に過ぎなかったからだ。
「飢え、ですか。それは、生きるための本能でしょう。しかし、あなたは何故、そこまで特定のものを求めるのですか?」
ゼウスの問いは、純粋な疑問だった。彼は、人間の複雑な感情の機微を、未だ理解しきれていなかった。
沙羅は、ふっと笑った。それは、かつて銀幕で観客を魅了した、妖艶な笑みだった。
「本能よ。人間が人間であるための本能。あなたには分からないでしょうね。だって、あなたは『神』だったんでしょう?」
彼女の言葉は、ゼウスの心の奥底に、小さな氷の粒を落とした。そう、彼は神だった。だが、今は違う。彼の全能性は失われ、肉体は限りなく人間に近づいている。そのことが、彼にとって最大の屈辱であり、終わらない戦いだった。
沙羅は、部屋の窓に近づき、夜空を見上げた。月が、ぼんやりと輝いている。
「ねえ、あなた。このホームから抜け出して、美味しいお肉を食べに行きましょうよ。きっと、この街のどこかに、まだ本物の味が残っているはずよ」
彼女の言葉は、無邪気な子供の誘いのように聞こえたが、その瞳の奥には、確固たる決意が宿っていた。彼女は、この退屈な老人ホームから「脱出」し、再び「生」を実感することを望んでいた。
そのとき、部屋のドアが、乱暴に開かれた。
声の主は、かつて「銀幕の女王」と呼ばれた女優、橘沙羅だった。年齢は八十代後半。白い髪は美しく結い上げられ、顔には深い皺が刻まれているが、その表情には、未だかつての華やかさの残り香が感じられた。彼女は、豪華なシルクのガウンを身につけ、足元はフワフワの室内用スリッパ。その手には、何も持っていない。
沙羅は、部屋の中央に立つと、鼻腔を大きく広げた。何かを嗅ぎ分けるかのように、深呼吸を繰り返す。
「……やっぱり、匂わないわね」
彼女の言葉には、落胆の色が混じっていた。その瞳は、何かを求めて彷徨っている。それは、過去の栄光でもなく、名声でもない。もっと、動物的な、根源的な「何か」だった。
沙羅は、美食家だった。世界中の高級料理を食べ尽くし、舌の肥えた彼女は、引退後もその食への情熱を失っていなかった。しかし、この老人ホームの食事は、彼女にとって「我慢」以外の何物でもなかった。栄養バランスを重視した、薄味の食事。肉は、脂肪分の少ない鶏肉か、魚ばかり。彼女が本当に求めているのは、違う。
「肉……赤身の、血の滴るような肉が食べたいわ」
彼女は、口の中でそう呟いた。その言葉は、喉の奥から絞り出すような、切実な響きを帯びていた。記憶の中には、かつて出演した映画の打ち上げで食べた、豪快なステーキの味が鮮明に蘇る。ジュージューと音を立てる鉄板の上で、肉汁が弾け、香ばしい匂いが空間を満たしていた。あの味、あの匂い、あの食感。それは、彼女の記憶の中で、最も甘美な「芸術」だった。
沙羅は、ゼウスのほうを見た。彼の傍らには将棋盤。彼女は、そこに興味を示すことなく、ただただ、自らの飢えを満たすものを求めている。
「あなたも、お腹が空いていらっしゃるんでしょう? このホームの食事は、まるで紙くずのようだわ。味気なくて、乾燥している。栄養があるのは分かるけど、魂が満たされない」
彼女の言葉は、演技ではなく、彼女の本心から発せられたものだった。彼女は、かつては豪華な食事に囲まれて生きてきた。だが、今は、その食事が、まるで「飢餓」の苦痛を呼び起こすかのように、彼女の心を苛んでいた。
ゼウスは、将棋盤から目を離し、沙羅に視線を向けた。彼の瞳には、わずかな困惑の色が浮かんでいた。彼は、人間の「欲望」というものが理解できなかった。神である彼にとって、食とは、エネルギーを摂取する行為に過ぎなかったからだ。
「飢え、ですか。それは、生きるための本能でしょう。しかし、あなたは何故、そこまで特定のものを求めるのですか?」
ゼウスの問いは、純粋な疑問だった。彼は、人間の複雑な感情の機微を、未だ理解しきれていなかった。
沙羅は、ふっと笑った。それは、かつて銀幕で観客を魅了した、妖艶な笑みだった。
「本能よ。人間が人間であるための本能。あなたには分からないでしょうね。だって、あなたは『神』だったんでしょう?」
彼女の言葉は、ゼウスの心の奥底に、小さな氷の粒を落とした。そう、彼は神だった。だが、今は違う。彼の全能性は失われ、肉体は限りなく人間に近づいている。そのことが、彼にとって最大の屈辱であり、終わらない戦いだった。
沙羅は、部屋の窓に近づき、夜空を見上げた。月が、ぼんやりと輝いている。
「ねえ、あなた。このホームから抜け出して、美味しいお肉を食べに行きましょうよ。きっと、この街のどこかに、まだ本物の味が残っているはずよ」
彼女の言葉は、無邪気な子供の誘いのように聞こえたが、その瞳の奥には、確固たる決意が宿っていた。彼女は、この退屈な老人ホームから「脱出」し、再び「生」を実感することを望んでいた。
そのとき、部屋のドアが、乱暴に開かれた。



