深い青色の夜空を、白い月が静かに見下ろしていた。東京上空は、無数の光の粒で描かれた巨大な回路図のようだ。高速道路を流れる車のテールランプが赤い線となり、ビルの窓から漏れる明かりが黄色の点となって、都市という名の生命体の神経網を可視化している。地上では、微かな振動が絶えず続いていた。遠くで響く電車の走行音、車のエンジン音、そして眠りについた人々の寝息が、一つの巨大なアンサンブルを奏でる。視点は、その混沌とした都会の絨毯の上を滑るように移動し、やがて郊外の静かな一角に建つ、一軒の古びた建物へと吸い込まれていく。
その建物は、「黄昏の丘」という名の老人ホームだった。かつては高級住宅街の一角を占めていた洋館を改築したもので、クリーム色の壁は長年の風雨に晒され、ところどころ剥がれ落ちている。しかし、手入れされた庭には、色とりどりの季節の花々が植えられ、僅かながらも生命の息吹を感じさせた。夜の闇に包まれた庭園からは、昼間の賑わいが嘘のように静まり返り、風に乗って、ほんのりと土と草の匂いが運ばれてくる。
老人ホームの最上階。そこは、特別室として扱われる、広々とした一室だった。窓からは、都会の遠い光がぼんやりと見え、まるで宇宙に浮かぶ星々のようだ。部屋の中は、薄暗い照明が灯され、古い木の家具が静かに並んでいる。その中央に置かれた、年代物のアンティークソファ。そこに、彼は座っていた。
彼の名は、ゼウス。
正確には、かつて「ゼウス」と呼ばれた存在、と表現すべきだろう。彼は、もはや神話に登場する全能の神の姿ではなかった。白髪交じりの短く刈り込んだ髪、皺の刻まれた顔、そして深く窪んだ眼窩。肉体は衰え、一見すれば、ごく普通の老人に見えた。しかし、その瞳だけは違った。深い深い紺碧の色をした瞳は、遥か彼方の宇宙の真理を見通すかのような、鋭い光を宿していた。その視線は、常に何かを──見えない敵、終わらない戦いを──追い求めているかのようだった。
「……また、始まったか」
ゼウスは、膝の上に置かれた古びた将棋盤をじっと見つめていた。駒は、一つ残らず盤上に並べられている。飛車、角、金、銀、桂馬、香車、そして歩兵。しかし、相手の駒は、どこにもない。彼は、常に「見えない敵」と戦い続けていた。それは、過去の栄光か、あるいは終わらない自己との対話か。指先が、無意識のうちに「歩」の駒に触れる。冷たく、硬質な木の感触が、彼の指先に伝わる。
彼の脳内では、絶え間なく戦場の光景がフラッシュバックしていた。雷鳴が轟き、稲妻が大地を切り裂く。神々と巨人族の激しい衝突。血と炎の匂い、そして敗者の絶叫。彼は、数千年にわたる戦いの記憶に囚われていた。老人ホームの静かな空間は、彼にとって、嵐の前の静けさでしかなかった。五感は、常に過敏に研ぎ澄まされ、聴覚は遠くの車のクラクションを、視覚は窓の外の微かな光の揺らぎを、まるで敵の接近を知らせる信号のように捉えていた。
「この布陣……甘いな」
ゼウスは、独りごちた。彼の脳裏には、無数の戦術が瞬時に構築され、破壊されていく。それは、彼が長い時間をかけて培ってきた、戦略思考の究極の形だった。かつては、世界を支配し、運命を操った彼の力が、今やこの小さな将棋盤の上に集約されている。この老人ホームという、彼の「戦場」で。
部屋の隅に置かれた小さなテーブルの上には、読みかけの哲学書が置かれていた。開かれたページには、ニーチェの言葉が印字されている。「人間的な、あまりに人間的な」。ゼウスは、その言葉を理解しようと努めた。神として生きてきた彼にとって、「人間的な」という概念は、理解しがたいものだった。弱さ、矛盾、そして有限性。それらは、彼が忌み嫌い、超越しようとしてきたものだった。
しかし、この老人ホームで、彼は初めて「人間」として生きることを強いられていた。彼の力は失われ、記憶は曖昧になり、肉体は衰える一方だ。それは、彼にとって、最も残酷な「戦い」なのかもしれない。自分の存在意義、そして過去の栄光との訣別。
そのとき、部屋のドアが、ノックもなしに開かれた。
その建物は、「黄昏の丘」という名の老人ホームだった。かつては高級住宅街の一角を占めていた洋館を改築したもので、クリーム色の壁は長年の風雨に晒され、ところどころ剥がれ落ちている。しかし、手入れされた庭には、色とりどりの季節の花々が植えられ、僅かながらも生命の息吹を感じさせた。夜の闇に包まれた庭園からは、昼間の賑わいが嘘のように静まり返り、風に乗って、ほんのりと土と草の匂いが運ばれてくる。
老人ホームの最上階。そこは、特別室として扱われる、広々とした一室だった。窓からは、都会の遠い光がぼんやりと見え、まるで宇宙に浮かぶ星々のようだ。部屋の中は、薄暗い照明が灯され、古い木の家具が静かに並んでいる。その中央に置かれた、年代物のアンティークソファ。そこに、彼は座っていた。
彼の名は、ゼウス。
正確には、かつて「ゼウス」と呼ばれた存在、と表現すべきだろう。彼は、もはや神話に登場する全能の神の姿ではなかった。白髪交じりの短く刈り込んだ髪、皺の刻まれた顔、そして深く窪んだ眼窩。肉体は衰え、一見すれば、ごく普通の老人に見えた。しかし、その瞳だけは違った。深い深い紺碧の色をした瞳は、遥か彼方の宇宙の真理を見通すかのような、鋭い光を宿していた。その視線は、常に何かを──見えない敵、終わらない戦いを──追い求めているかのようだった。
「……また、始まったか」
ゼウスは、膝の上に置かれた古びた将棋盤をじっと見つめていた。駒は、一つ残らず盤上に並べられている。飛車、角、金、銀、桂馬、香車、そして歩兵。しかし、相手の駒は、どこにもない。彼は、常に「見えない敵」と戦い続けていた。それは、過去の栄光か、あるいは終わらない自己との対話か。指先が、無意識のうちに「歩」の駒に触れる。冷たく、硬質な木の感触が、彼の指先に伝わる。
彼の脳内では、絶え間なく戦場の光景がフラッシュバックしていた。雷鳴が轟き、稲妻が大地を切り裂く。神々と巨人族の激しい衝突。血と炎の匂い、そして敗者の絶叫。彼は、数千年にわたる戦いの記憶に囚われていた。老人ホームの静かな空間は、彼にとって、嵐の前の静けさでしかなかった。五感は、常に過敏に研ぎ澄まされ、聴覚は遠くの車のクラクションを、視覚は窓の外の微かな光の揺らぎを、まるで敵の接近を知らせる信号のように捉えていた。
「この布陣……甘いな」
ゼウスは、独りごちた。彼の脳裏には、無数の戦術が瞬時に構築され、破壊されていく。それは、彼が長い時間をかけて培ってきた、戦略思考の究極の形だった。かつては、世界を支配し、運命を操った彼の力が、今やこの小さな将棋盤の上に集約されている。この老人ホームという、彼の「戦場」で。
部屋の隅に置かれた小さなテーブルの上には、読みかけの哲学書が置かれていた。開かれたページには、ニーチェの言葉が印字されている。「人間的な、あまりに人間的な」。ゼウスは、その言葉を理解しようと努めた。神として生きてきた彼にとって、「人間的な」という概念は、理解しがたいものだった。弱さ、矛盾、そして有限性。それらは、彼が忌み嫌い、超越しようとしてきたものだった。
しかし、この老人ホームで、彼は初めて「人間」として生きることを強いられていた。彼の力は失われ、記憶は曖昧になり、肉体は衰える一方だ。それは、彼にとって、最も残酷な「戦い」なのかもしれない。自分の存在意義、そして過去の栄光との訣別。
そのとき、部屋のドアが、ノックもなしに開かれた。



