霊力のある娘を花嫁として差し出す。
 そんな、虫唾が走るような盟約を月城の間に結んでいる、狐のアヤカシ。
 彼も、霊力のあるこの身が欲しくて仕方ないのだろう。自分のことなど、美味しそうな餌としか見ていないのだろう。
 ずっと、そう思っていた。
 だが……

(どうしてそんな、悲しそうな顔をしてるのよ)

 こんな風に逃げ出したのだから、怒っているだろうと思っていた。
 なのになぜ、こんな表情をしているのか。自分が傷つけてしまったのか。罪悪感が、僅かに胸に灯る。
 たが、すぐにそれを振り払う。

「餌を捕まえることができて、よかったわね」
「えっ……?」
「あなたが欲しがってた、霊力のある人間っていう餌があるのよ。喜びなさいよ」

 皮肉たっぷりに悪態をつく。わざと怒らせるようなことを言う。
 一度逃げ出した上に、頬まで引っぱたいたのだ。今更しおらしくする気は無い。

 どんな顔をしていようと、所詮は霊力を求めるだけのアヤカシ。自分たちの欲望のため全てを奪った月城のやつらと同類だ。
 その本性を暴いてやろうとする。これで怒って殺されるのなら本望だ。

 しかし、詩は困った顔をする。

「えっと……とりあえず、ごめん」
「とりあえずって、何を……うわっ!」

 困惑する紬を、詩は問答無用で抱え上げる。
 暴れる紬だが、体をがっしりと掴む詩の力は強く、少しも抜け出せそうになかった。

「とにかく、いつまでもここにいるわけにはいかない。話ならちゃんと聞くから、今は大人しくしてて」

 そう言うと、詩は紬を抱えたまま走り出す。
 紬は大人しくする気などなかったが、一度走り出したら、怒鳴ることも暴れることもできなくなった。
 走る速度が、尋常でなく早いのだ。
 すごい勢いで街の中を進んでいき、見える景色が目まぐるしく変わっていく。

「絶対に落とさないから安心して」

 詩はそう言いながら、速度を落とすことなく駆けていく。
 そして間もなく、街の奥にあるひとつの家、いや屋敷の前へとたどり着いた。
 月城の家もかなりの大きさだったが、こちらも決して負けてはいない。
 その中に、詩は紬を抱えたまま入っていく。
 するとすぐに、奥から何体ものアヤカシがやってきた。
 身なりからして、どうやらこの家の使用人のようだ。

「詩様!? 花嫁様を迎えに行かれたのではなかったのですか?」
「いや、花嫁様はそこにいるだろう」
「では供の者たちは? 置いてきたのですか?」

 皆、二人の様子に目を丸くしている。
 まさか花嫁が途中で逃げ出し、一人で捕まえて来たとは想像もできないだろう。

「ちょっと色々あったからね。一緒に行ってたみんなにも、ちゃんと伝えておかないとな。誰か使いに行って、屋敷に戻れって伝えてくれる?」
「は、はい。かしこまりました」

 使用人たちは戸惑いながらも頷くと、すぐに何人かが使いに走る。
 それから詩は、紬を抱えたまま奥の部屋へと入っていく。
 そこでようやく、床に下ろされた。

「バタバタしてごめんね。よかったら、お茶を持ってこさせるけど……」
「いらない」

 まだ詩が言い終わらないうちに、ハッキリと断る。
 態度が悪いのは百も承知だが、好かれようなどとは思っていない。

 だがそれでも、茶を進めた時の気遣うような顔。それを断った時の困ったような顔を見ると、つい困惑してしまう。

 彼にとって自分は餌みたいなもののはずなのに、どうしてこんな表情を向けるものなのだろうか。
 そう思っていると、突然詩が頭を下げてきた、

「まずは、逃げ出すくらい、死んでもいいって思うくらい、苦しい思いをさせてごめん。けど、俺の話を聞いてほしい」
「な、なによ」

 話すことなど何も無い。本当なら、すぐにそう言いたかった。
 だがこうして頭まで下げれれると、どうにも調子が狂う。
 こうまでしているのに、話すら聞かず断るのは悪いのではないか。そんな気持ちが湧いてくる。

「話したければ、勝手に話せば」

 相手が狐なだけに、化かされているのではないか。
 そんな警戒心を抱きつつ、それでも一応、詩の言葉に耳を傾ける。

「その前に聞きたいんだけど、紬は、俺が霊力目当てに紬を欲しがってると思ってる?」
「当たり前でしょ。アヤカシに嫁入りするっていうのは、そういうことなんだから」

 月城の先祖が残した記述にはそう書いてあり、常貞や寧々からも、同じことを言われ続けてきた。
 先程街で出会ったアヤカシたちも、紬の霊力を感じとったとたん、食おうとしてきた。
 これで違うと言われても、到底信じられない。

「それは半分本当で、半分嘘」
「半分?」
「あっ、いや……八割くらい本当かな。ううん。本当だったって言った方がいいかも」
「どういうことよ?」

 八割も本当だというなら、やはりろくなものではないだろう。
 とはいえ、これではわからないことだらけだ。

「最初に月城家と盟約を結んだ当時の玉藻家の当主だけど、元々は人間と交流を持ちたかったらしいよ。その思いを子孫にも伝えるため、百年に一度嫁入りさせるって約束を取り付けた。それと引き換えに、人間の世界で悪事を働くアヤカシがいたら、退治するって約束もつけてね」
「なら、アヤカシへの嫁入りは生贄みたいなものだってのは、嘘なの?」
「だったら良かったんだけどね。それから百年後。次に月城の家から花嫁を娶った玉藻の当主は、花嫁の霊力だけが目当てだった。餌みたいなものとしか考えていなかった」
「なによそれ」

 いったいどうしたら、そこまで極端に変わるのか。
 顔を顰めた紬を見て、詩は申し訳なさそうに話を続けた。

「最初に決めた盟約で、花嫁を娶るのは、その時の玉藻家の当主か、その後継者って決まってたんだ。けど玉藻家の当主ってのは、血筋でも思想でもなく、力で決まる。一族の中で一番力のある者が当主になるんだ。そうして当主になった奴が、人間と交流を持ちたがっているとは限らない」
「人間のことを、餌としか見てない奴が、当主になることだってあるわけね」
「うん。と言うか、歴代の当主のほとんどは、だいたいそんな感じ」

 紬にとっては、非常に不愉快な話だ。
 やはり、妖怪の花嫁とは生贄のようなもの。
 最初の一人は知らないが、これでは月城の家に伝えられてきたのとほとんど変わらない。

 だが落胆する紬に向かって、詩はさらに言う。

「けどね。俺は、最初の一人みたいに、もっと人間と歩み寄りたいと思ってるよ。もちろん、俺と一緒になる人は、幸せになってほしいから、望んで俺の妻になってほしい。それが、俺の望む結婚だよ」
「──っ!」

 真っ直ぐに見つめられ、紬の中になんとも言えない気恥ずかしさが湧いてくる。
 これまで、生贄として捧げられるだけとしか思っていなかった結婚。その相手から、こんなことを言われても、どう受け止めていいのかまるでわからない。

「れ、霊力が目当てじゃないなら、私じゃなくてもいいでしょ。アヤカシはアヤカシ同士で結婚すればいいじゃない」
「言っただろ。俺は、もっと人間と歩み寄りたいって」
「そのために、私と結婚しようって言うの?」

 紬の言葉に、詩はそこで一度話すのをやめ、そっと紬の頬に手を触れる。
 グッと近くに寄ってきた顔がほんのり微笑むのを見て、思わずたじろぐ。

「それもある。けどね、俺は他の誰でもなく、紬と一緒になりたい。俺が紬を好きになって、紬にも、俺を好きになってもらって、幸せな家族になっていきたいんだ。ダメかな?」
「家族……」

 ドクンと、紬の胸が大きく高鳴る。
 優しそうに語りかける詩の姿を見ると、思わず絆され、頷いてしまうかもしれない。
 そのくらい、彼の表情は優しく美しいものだった。

 だが…………

「や、やめて……」

 か細く震える声が、紬の口から零れる。

「そんなこと、できるわけない」

 そう言った紬の顔は、詩とは対照的に、驚くほどに青ざめていた。
 まるで凍えるように、全身を小刻みに震わせていた。