月城の家から逃げ出したことは、一度や二度ではなかった。
 だが、全て失敗した。すぐに追っ手がやって来ては捕まり、連れ戻される。何度やっても結果は同じだった。

 そしてそれは、月城を出てアヤカシの花嫁となってからも同じ。
 逃げてもすぐに捕まるだろうし、捕まらなかったところで、見知らぬ世界で生きる術などない。

 絶望した紬に残った感情。それは、怒りだった。
 家族から引き離し、酷い扱いを続けてきた月城家。
 そんなやつらのため犠牲になるのが、どうしても我慢ならなかった。

 だから、決意した。逃げるのが無理なら、せめて命をかけて恨みを晴らしてやろうと。
 その方法がこれだった。

「この人間、頭は俺がもらうぞ」
「待て、頭は俺だ。お前たちは別の所にしろ」
「なら、俺は心臓だ」

 紬を押さえつけたアヤカシたちは、誰がどこを食うかで揉めていた。

(どこでもいいから早くしてよ。どうせわたしは死ぬんだから)

 自分の命がかかっているというのに、心の中でそんなことを呟く。
 そうして思い浮かべるのは、あの玉藻詩という狐のアヤカシだ。

 こんなにもたくさんのアヤカシが我を忘れるほどに欲しがる、霊力のある人間。
 それを花嫁として迎えるというのは、彼にとってどれだけ喜ばしいことなのだろう。
 しかしその花嫁は、途中で逃げ出し、命を落とす。

 欲しかったものが手に入らないばかりか、代々続く盟約まで破られたのだ。当然、怒り狂うはずだ。
 その怒りは、そんなやつをよこした月城家に向けられるかもしれない。そんなことになったら、常貞たちはどれだけ慌てふためくだろう。

 しかしその頃には、もう自分は捕まる心配はない。あの世という、決して手の届かない場所へと逃げているのだから。

(これで、大嫌いなやつらへの恨みが晴らせる。自由になれる。ずっと待ってたこの時が、ついに来たんだ)

 やっと願いが叶う。誰かに利用されるだけだった運命から解放される。自由に生きられはしなかったが、自由に死ぬことはできるんだ。
 だからこれは、幸せなことなんだ。

 何度も何度も、心の中で呟く。
 だが彼女は気づいていない。自分の目に、いつの間にか涙が溜まってきていることに。

 涙が溢れて頬を伝う頃、アヤカシたちは、ようやくそれぞれがどこを食うか話をつけたようだ。
 まずは最初にぶつかった熊のアヤカシが、紬の頭めがけてかぶりつこうとする。
 その時だった。

「やめろ!」

 突然、その場の空気を震わせるような声が響く。
 同時に、紬を押さえつけていたアヤカシたちに向かって、炎が飛んできた。

「うわっ!」

 とたんに飛び退き、炎の飛んできた方向を見るアヤカシたち。
 紬も、地面に転がったまま、首だけ傾けてそちらを向く。
 そして、息を飲む。

「彼女に近づくな。指一本でも触れたら許さない!」

 そこにいたのは、狐面の男。詩だ。
 逃げ出した自分を追ってここまできた。そう悟った紬は、ぐっと歯を噛み締めた。

「なんだ? お前もこの人間を食おうってのか? あいにくだが、コイツは俺たちの獲物だ。痛い目見たくなかったら引っ込んでな」

 熊たちは、腕っ節に自信があるのか、それとも数が多いからか、すぐに脅すような言葉を喚き散らす。
 だが、詩は一切怯むことはなかった。

「食う……だって?」

 静かに、だが怒気を孕んだ声で言う。
 同時に、彼の後ろに生えていた長い尾が、さらに長く伸び始め、ゆっくりと紬や熊たちの方へ近づいていった。

「な、なんだ?」

 伸びた尾は円を描くように、何事かと身構える熊たちの周りを、ぐるりと囲み始める。
 そしてその途中から、尾の色が赤く変わり出す。
 まるで炎のような、いや、ようなではない。いつの間にか、尾は細長い炎へと姿を変え、熊たちの周囲を完全に取り囲んだ。
 さらに、それが二重三重にと重なる。まるで炎の檻だ。

「なっ……なぁっ…………!?」

 一人が、驚きと恐怖の入り交じった声をあげる。
 他の者も、できるだけ炎から逃げるように、円の中央へと身を寄せ合う。

「狐火だ。やろうと思えば、その子を残してお前たちだけ焼き殺すこともできるけど、どうする?」
「ひぃっ!」

 熊たちから悲鳴があがる。
 中にはまだ戦う気があるのか、身構えているものもいたが、それも長くは続かなかった。

「あ、あんたいったい何者だ!」
「玉藻の家の者。っていったらわかるかな。そしてその子は、俺の花嫁だ」
「なぁっ!? た、玉藻だと!」

 玉藻と聞いたとたん、構えをとっていたやつらも、一気に青ざめる。
 玉藻という家がどんなものなのか、紬は詳しいことを知らない。
 たが代々続く名家というものは、時に個人の力よりもずっと強力になる場合もあるというのは、月城家を見て嫌というほど知っていた。

 アヤカシの世界でも似たようなものなのか、熊たちにもう戦意は残っていなかった。
 詩が炎の檻を解いたとたん、彼らは一目散に逃げていった。

 そしてその場には、紬と詩の、二人だけが残る。

「紬!」

 未だ倒れたままの紬に向かって、駆け寄ってくる詩。

「大丈夫? ケガはない?」

 彼が来ていなければ、紬は間違いなく、さっきのアヤカシたちに食われていただろう。
 言わば、詩は命の恩人だ。
 だが紬には、感謝の気持ちなど僅かもなかった。
 そんなもの、抱けるはずがなかった。

「……どうして」

 詩が抱え起こす中、紬はポツリと呟く。
 アヤカシたちに食われそうになった時よりも、もっとたくさんの涙が、目から溢れる。

「えっ? どうしてって、何が──」
「どうして死なせてくれなかったのよ! このバカ!」

 涙声で叫び、肩で大きく息を切らす。

 死が怖くなかったわけではない。それでも、死ぬことが唯一の自由だと思っていた。
 だが、その結果がこれだ。

 花嫁と夫。そんなのは名ばかりの、生贄として捧げられる相手に、ずっと考えていた計画が阻止されてしまった。
 それが、どうしようもなく悔しかった。

「あなたに捧げられるために、自由も家族も、全部奪われた! なのに、どうして最後まで邪魔するのよ!」

 手を振りあげ、詩の頬をめがけて思い切り打ちつけようとする。

 相手はアヤカシ。しかも今見たような強大な力を持っている相手に、こんなことをしてどうにかなるとは思わない。
 それでも、怒りをぶつけずにはいられない。

 しかし、そんな紬の予想に反して、彼女の手は詩の頬へと叩きつけられる。
 その拍子に、それまでつけていた仮面が外れた。
 当然、その下にある顔が顕になる。

「えっ……?」

 初めて見る、詩の素顔。
 それを一言で表すなら、美しかった。

 まるで人形のように整った目鼻立ち。想像していたよりも、ずっと若く見える。
 アヤカシの歳のとり方がどうなっているのかは知らないが、外見だけでいえば、自分とそう変わらない。

 だが、紬が最も目を見張ったのはそこではなかった。

 自分を見つめる詩の表情は、酷く切なく、悲しげだった。