街の中へと走り出したものの、紬も簡単に逃げ切れるとは思っていない。
御札による目くらましで怯んだアヤカシたちも、きっとすぐに追いかけてくるだろう。
それまでに、少しでも遠くに逃げなければ。
とはいえ花嫁衣裳なんてものは、とにかく走りにくい。
まともに追いかけっこなどしようものなら、きっとすぐに捕まってしまうだろう。
ならばと、すぐに横に続く道へと曲がる。それからすぐに、また横の道を曲がる。
一度道を曲がれば、ほんの僅かだが追っ手の視界から消える。そこからまたすぐに曲がれば、さらに見つかりにくくなる。
ずっと考え続けてきた、逃げるための方法だ。
だが、それも時間の問題だろう。
どんなに頑張っても、相手は多勢。しかもここはアヤカシの世界で、逃げるたところで落ち着ける場所などあるわけがない。
いや。例え人間の世界に帰れたとしても、そこに紬の居場所はない。こうなった以上もう月城の家には戻れず、戻りたくもない。
しかし紬は、それでも逃げ出した。
逃げた先に幸せなどないというのは、わかっているにも関わらずだ。
どのくらい走り続けただろう。
いつの間にか大きな通りからはすっかり外れ、細く寂れた場所へと来ていた。
そこで、道を歩いていた誰かにぶつかる。
「うわっ!」
相手の方が遥かに大柄だったため、紬だけが派手に弾き飛ばされ、地面に倒れる。
痛みをこらえ、倒れたまま相手を見上げると、そこにいたのは、着物を着た熊だった。言うまでもなくアヤカシだ。
「なんだ、急にぶつかってきて。気をつけねえか!」
この熊、かなり気性が荒いようで、すぐに紬を怒鳴りつける。
しかもその周りには、仲間と思われるアヤカシが何人もいて、彼らもまた面白そうに声をあげていた。
ぶつかったのは自分の不注意とはいえ、まるで不良かチンピラのような反応だ。
するとそのうち、何人かが怪訝な顔をし始める。
「ん? こいつ、妙な匂いがするぞ。まさか、人間じゃないだろうな?」
「そんなわけないだろ。いや、だが見た目もまるっきり人間そのものだな。どうなってるんだ?」
ここはアヤカシの世界。紬のような例外を除けば、人間など滅多にいないのだろう。
興味深げにジロジロと見られ、体が震える。
こんな風にアヤカシから不躾な視線を浴びせられることは、実は子供の頃にはよくあった。
人間の世界にも僅かだがアヤカシはいて、そいつらにとって自分たちの姿が見える人間は、面白く思えたようだ。
紬がアヤカシを見る力を持っているとわかったとたん、寄ってきて、脅かし、怖がるのを見て楽しむ。そんなことが何度もあった。
叫び出しそうな恐怖を抑えながら、紬は自分の手を見る。
そこには、真っ赤な組紐が巻かれていた。
この組紐も、さっきの御札と同じように、月城家に伝わるアヤカシから身を守るための道具のひとつだ。
目の前にいるアヤカシたちは、気づいていない。紬が、いかに大きな霊力を持っているかを。
もし気づいていたなら、きっと騒ぎはもっと大きくなっていただろう。アヤカシにとって、大きな霊力というのはそれほどまでに魅力的なのだ。
それをさせないのが、この組紐の効果だ。 アヤカシは、まるで匂いを嗅ぐように本能で人間の霊力を感じ取る。だがこの組紐を巻いている限り、霊力を隠すことができる。
逆を言えば、この組紐がなくなれば、今以上に危険なことになるだろう。紬の真の霊力を感じ取ったアヤカシたちは、その瞬間、喰らおうと襲ってくるかもしれない。
今の紬の命は、この組紐ひとつで守られていると言ってよかった。
しかし────
(やっと、この時がきた)
そう、紬は心の中で呟く。
それから、震える手で、そんな命綱ともいえる組紐を握る。
(怖くなんてない。ずっと、こうなる時を待ってたんだから)
次の瞬間、紬は組紐の結び目を解いた。
「な、なんだ……」
そのとたん、アヤカシたちの様子が変わった。
最初は、何が起きたのかわからないといった感じで戸惑う。
だがすぐに、目がギラギラと光りだした。
「この人間、ずいぶんと美味そうだな」
ひとりがそう言ったかと思うと、他の者たちが大きく頷く。
かと思うと、さらに別の者が、紬の肩を乱暴に掴んだ。
「─────っ!」
痛みで小さく声をあげるが、アヤカシたちの凶行は終わらない。
あっという間に地面に押し倒され、四肢を押さえつけられる。
これが例えば、詩のような強い力を持ったアヤカシなら、ここまで我を忘れることはなかっただろう。
弱いアヤカシほど、強い霊力に我を忘れ、理性を壊される。
霊力という餌を前に、今やこのアヤカシたちは、完全に食欲に取り憑かれていた。
きっと自分は、このまま食われるのだろう。
そう確信する紬だが、そんなことは最初からわかっていた。わかっていて、こんなことをしたのだ。
(いいわ。このまま、私を殺しなさい)
結婚相手の元から逃げ出した後、名も無きアヤカシに食われ、果てる。
それが、紬の考えていた計画だった。
これこそが、月城家に対する復讐だった。
御札による目くらましで怯んだアヤカシたちも、きっとすぐに追いかけてくるだろう。
それまでに、少しでも遠くに逃げなければ。
とはいえ花嫁衣裳なんてものは、とにかく走りにくい。
まともに追いかけっこなどしようものなら、きっとすぐに捕まってしまうだろう。
ならばと、すぐに横に続く道へと曲がる。それからすぐに、また横の道を曲がる。
一度道を曲がれば、ほんの僅かだが追っ手の視界から消える。そこからまたすぐに曲がれば、さらに見つかりにくくなる。
ずっと考え続けてきた、逃げるための方法だ。
だが、それも時間の問題だろう。
どんなに頑張っても、相手は多勢。しかもここはアヤカシの世界で、逃げるたところで落ち着ける場所などあるわけがない。
いや。例え人間の世界に帰れたとしても、そこに紬の居場所はない。こうなった以上もう月城の家には戻れず、戻りたくもない。
しかし紬は、それでも逃げ出した。
逃げた先に幸せなどないというのは、わかっているにも関わらずだ。
どのくらい走り続けただろう。
いつの間にか大きな通りからはすっかり外れ、細く寂れた場所へと来ていた。
そこで、道を歩いていた誰かにぶつかる。
「うわっ!」
相手の方が遥かに大柄だったため、紬だけが派手に弾き飛ばされ、地面に倒れる。
痛みをこらえ、倒れたまま相手を見上げると、そこにいたのは、着物を着た熊だった。言うまでもなくアヤカシだ。
「なんだ、急にぶつかってきて。気をつけねえか!」
この熊、かなり気性が荒いようで、すぐに紬を怒鳴りつける。
しかもその周りには、仲間と思われるアヤカシが何人もいて、彼らもまた面白そうに声をあげていた。
ぶつかったのは自分の不注意とはいえ、まるで不良かチンピラのような反応だ。
するとそのうち、何人かが怪訝な顔をし始める。
「ん? こいつ、妙な匂いがするぞ。まさか、人間じゃないだろうな?」
「そんなわけないだろ。いや、だが見た目もまるっきり人間そのものだな。どうなってるんだ?」
ここはアヤカシの世界。紬のような例外を除けば、人間など滅多にいないのだろう。
興味深げにジロジロと見られ、体が震える。
こんな風にアヤカシから不躾な視線を浴びせられることは、実は子供の頃にはよくあった。
人間の世界にも僅かだがアヤカシはいて、そいつらにとって自分たちの姿が見える人間は、面白く思えたようだ。
紬がアヤカシを見る力を持っているとわかったとたん、寄ってきて、脅かし、怖がるのを見て楽しむ。そんなことが何度もあった。
叫び出しそうな恐怖を抑えながら、紬は自分の手を見る。
そこには、真っ赤な組紐が巻かれていた。
この組紐も、さっきの御札と同じように、月城家に伝わるアヤカシから身を守るための道具のひとつだ。
目の前にいるアヤカシたちは、気づいていない。紬が、いかに大きな霊力を持っているかを。
もし気づいていたなら、きっと騒ぎはもっと大きくなっていただろう。アヤカシにとって、大きな霊力というのはそれほどまでに魅力的なのだ。
それをさせないのが、この組紐の効果だ。 アヤカシは、まるで匂いを嗅ぐように本能で人間の霊力を感じ取る。だがこの組紐を巻いている限り、霊力を隠すことができる。
逆を言えば、この組紐がなくなれば、今以上に危険なことになるだろう。紬の真の霊力を感じ取ったアヤカシたちは、その瞬間、喰らおうと襲ってくるかもしれない。
今の紬の命は、この組紐ひとつで守られていると言ってよかった。
しかし────
(やっと、この時がきた)
そう、紬は心の中で呟く。
それから、震える手で、そんな命綱ともいえる組紐を握る。
(怖くなんてない。ずっと、こうなる時を待ってたんだから)
次の瞬間、紬は組紐の結び目を解いた。
「な、なんだ……」
そのとたん、アヤカシたちの様子が変わった。
最初は、何が起きたのかわからないといった感じで戸惑う。
だがすぐに、目がギラギラと光りだした。
「この人間、ずいぶんと美味そうだな」
ひとりがそう言ったかと思うと、他の者たちが大きく頷く。
かと思うと、さらに別の者が、紬の肩を乱暴に掴んだ。
「─────っ!」
痛みで小さく声をあげるが、アヤカシたちの凶行は終わらない。
あっという間に地面に押し倒され、四肢を押さえつけられる。
これが例えば、詩のような強い力を持ったアヤカシなら、ここまで我を忘れることはなかっただろう。
弱いアヤカシほど、強い霊力に我を忘れ、理性を壊される。
霊力という餌を前に、今やこのアヤカシたちは、完全に食欲に取り憑かれていた。
きっと自分は、このまま食われるのだろう。
そう確信する紬だが、そんなことは最初からわかっていた。わかっていて、こんなことをしたのだ。
(いいわ。このまま、私を殺しなさい)
結婚相手の元から逃げ出した後、名も無きアヤカシに食われ、果てる。
それが、紬の考えていた計画だった。
これこそが、月城家に対する復讐だった。

