アヤカシと人間。二つの世界を繋ぐお堂の前に立つ詩は、麓の町に続く道を名残惜しそうに眺めていた。
このままアヤカシの世界に帰って、紬とはもう会わない。そして紬は、親子一緒に幸せに暮らす。
それが、詩の思い描く未来だった。
にもかかわらず、お堂に入りアヤカシの世界に帰ることが、なかなかできないでいた。
「未練たらたらだな」
実を言うと、今までのように紬と一緒に暮らしていけたらとも考えた。子どものころからずっと思い続けてきて、再び会うために必死で頑張ってきたのだ。この思いは、そう簡単に消えるものではない。
それでもこの選択をしたのは、それが紬の幸せになると思ったから。それに、彼女に対する罪悪感があったからだ。勝手に記憶を奪ったという罪悪感が。
元々は、良かれと思ってやったこと。自分のことなど忘れて、新しい場所で平和に暮らしていけたらと思った。
だがその結果、連れていかれた月城家では、地獄のような日々が待っていた。
もしあの時記憶を消したりせず、なにか別の方法を考えていれば、そんなことは起きなかったかもしれない。
そんな自分が、これからも一緒にいたいなど、そんなこと思っていいはずがない。
昔のことを全部隠し通せたら。そんな下衆なことだって考え、なかなか真実を話せなかったが、これ以上嘘をつくことはどうしてもできなかった。
そうして、一番いいと思ったのがこのやり方だった。
きっとこれが、紬が最も幸せになれる選択なのだろう。
「いい加減、そろそろ帰らないとな」
心残りを全て吐き出すように、大きくため息をつく。それからようやく、お堂の扉に手をかける。
「さようなら、紬。どうか、幸せになって」
最後の最後。もう一度振り返り、届くはずのない言葉を送る。
しかしそこで、道の向こうから足音が聞こえてきた。こちらに向かって駆けてくる足音が。
目を向けると、道の向こうから、こちらに向かって走ってくるの者が見えた。紬だ。
「紬? なんで?」
なぜ彼女がここにいるのかわからず、思わずその場で固まる。
その間も、紬は勢いを緩めることなく駆けてくる。
そしてその勢いのまま、詩にぶつかってきた。
「うわっ!」
いつもなら、受け止めるくらい簡単にできただろう。
だが今は、何が起きたかわからず、揃ってその場に倒れ込む。
「────っ! このバカ!」
倒れた詩の上にのしかかりながら、紬は怒った顔で、泣きそうな声で叫んだ。
「なんで、あんな手紙だけ残していこうとするのよ!」
おかしいな。
それが、詩が真っ先に思ったことだった。
紬が幸せになるためにはどうすればいいか考え、こうすることを選んだはずなのに、今の彼女は全く幸せそうには見えなかった。
「なんでって、お母さんと一緒に暮らした方が、きっと幸せになれると思ったから……」
「バカ!」
この短い間に、二度もバカと言われてしまった。
だがそれも仕方がない。紬からすると、詩のしていることは、大バカ以外の何物でもなかった。
「どうして、また一人で勝手に決めるのよ! こんなの、私の記憶を消した時と、何も変わらないじゃない!」
あの時も詩は、こうすることが紬の幸せになると思い、記憶を消した。
その後彼女が辿った運命を思うと、その選択が間違いだったのは明らかだが、問題なのはそこではない。詩が、一人で勝手に全部決めたことだ。
「私の幸せなら、なんの相談もなく勝手に決めないでよ! 私がどうしたいのか、ちゃんと聞いてよ! あの時ごめんって謝ったの、嘘だったの!」
今のこと、かつてのこと、その二つをまとめた怒りを、詩にぶつける。
もしかすると、こうすることが本当に最善なのかもしれない。
しかし、自分で選ぶのと勝手に決められるのでは、全く違う。
それを聞いて、詩はようやく、本当にようやく、ハッとしたような顔をする。
「ご、ごめん」
「あなたって本当に、人の気持ちがわからないのね」
アヤカシの世界に帰る前に紬がやってこれたことに、詩は感謝すべきだろう。
でなければ、今度こそ紬は、詩のことを許さなかったかもしれない。
「でも、それじゃあ紬はこれからどうするの? せっかく、お母さんとまた一緒に暮らせるチャンスなんだよ」
「それは……」
今まで勢いよく叫んでいた紬も、言葉に詰まる。
正直なところ、それはまだ、全く考えていなかった。
このまま何もかも勝手に決められ、詩と離れるのは嫌だ。そんな思いだけでここまで来ていた。
志織と一緒に暮らしたいという気持ちに間違いは無い。
だが、詩ともう会えないかもしれないと思った時に感じた気持ちも、無視するのは嫌だった。
そこまで考えたところで、出した言葉がこれだ。
「…………賭け、終わってない」
「えっ?」
「一年一緒に暮らして、その間にあなたを好きになるかどうか。その賭け、まだ全然終わってない」
それは、花嫁として詩と初めて対峙した時に交わした約束。
一年以内に、紬が詩のことを好きになるか。詩が、紬の心を射止められるかどうか。
もしもそれが叶わなければ、紬は人間の世界に帰る。そして、もしも叶ったのなら、その時本当の夫婦になる。そういう賭けだった。
「絶対に私を振り向かせるって、自信満々に言ったじゃない。それとも、もう私のことは愛想尽きた?」
「そんなことない!」
紬の問いに、詩はつい本音を漏らす。
紬の幸せのためと思いあれこれ考えたが、身勝手なことを言うのが許されるのなら、今も変わらず、紬を振り向かせたかった。偽りではない、本当の夫婦になりたかった。
「じゃあ、賭けを続けるってこと? 紬は、本当にそれでいいの?」
そうであるなら、詩にとっては喜ばしいことではある。だがそれでは、今までと変わらない。
果たしてそれでいいのかと、どうしても考えてしまう。
「もしかして、俺のことを好きになって、本当の夫婦になっていいと思ったとか──」
「違うわよ!」
淡い期待を込めて言った言葉が、一瞬で否定される。これには詩も、苦笑するしかなかった。
「ただ、あなたの言い出した賭けがどうなるか、最後まで見届けたいの。その……私が本当に、あなたのことを好きになれるかどうか、知りたいの」
自分が誰かを好きになることも、誰かに好かれることも、絶対にない。ずっと、そう思っていた。
だが詩は、こんな自分でも好きでいてくれる人がいるのだと、教えてくれた。からのおかげで、誰かに愛される自分というのを、受け入れることができた。
なら自分だって、誰かを好きになることがあるかもしれない。詩に恋することがあるかもしれない。その答えを知りたかった。
そして、最後にもうひとつ。
「それにね、このままあなたに会えなくなると思うと、なんだかモヤモヤして、胸が痛くなって、嫌な気持ちになったの。これって絶対、中途半端に終わっちゃうせいだと思うの。だから、そんな嫌な気持ちをなんとかしたいのよ」
詩からの手紙を読んでから今まで、ずっと続いていた、不思議な感覚。
それを伝えると、なぜか詩は、大きく目を見開いた。
「紬、それって、もしかして……」
「なによ?」
詩は、それ以上は何も言わない。ただ、どういうわけか顔に朱色が差し込み、喜んでいるように見えた。
いったいどうしてそんな反応をするのか。こっちはずっと、この変な感覚のせいで調子が狂っているというのに。
「ねえ。いったいどうしたのよ?」
「いや、なんでもない。それより、それじゃあ紬は、今まで通り賭けを続けるってことでいい?」
「だから、さっきからそう言ってるでしょ」
自分が彼のことを好きになるのか。その答えを知りたい。
などと思ったら、胸の中の奥が、またザワザワと落ち着かなくなる。
今度は、詩と会えなくなるというわけでもないのに、本当によくわからない感覚だ。
そんな紬を見て、詩は満面の笑みを浮かべて、宣言する。
「絶対、俺のことを好きにしてみせるから」
初めて賭けの取り決めをした時も、同じことを言っていた。
だが、その時は困惑しながら聞き流していたその言葉が、今は深く心に突き刺さったような気がした。
このままアヤカシの世界に帰って、紬とはもう会わない。そして紬は、親子一緒に幸せに暮らす。
それが、詩の思い描く未来だった。
にもかかわらず、お堂に入りアヤカシの世界に帰ることが、なかなかできないでいた。
「未練たらたらだな」
実を言うと、今までのように紬と一緒に暮らしていけたらとも考えた。子どものころからずっと思い続けてきて、再び会うために必死で頑張ってきたのだ。この思いは、そう簡単に消えるものではない。
それでもこの選択をしたのは、それが紬の幸せになると思ったから。それに、彼女に対する罪悪感があったからだ。勝手に記憶を奪ったという罪悪感が。
元々は、良かれと思ってやったこと。自分のことなど忘れて、新しい場所で平和に暮らしていけたらと思った。
だがその結果、連れていかれた月城家では、地獄のような日々が待っていた。
もしあの時記憶を消したりせず、なにか別の方法を考えていれば、そんなことは起きなかったかもしれない。
そんな自分が、これからも一緒にいたいなど、そんなこと思っていいはずがない。
昔のことを全部隠し通せたら。そんな下衆なことだって考え、なかなか真実を話せなかったが、これ以上嘘をつくことはどうしてもできなかった。
そうして、一番いいと思ったのがこのやり方だった。
きっとこれが、紬が最も幸せになれる選択なのだろう。
「いい加減、そろそろ帰らないとな」
心残りを全て吐き出すように、大きくため息をつく。それからようやく、お堂の扉に手をかける。
「さようなら、紬。どうか、幸せになって」
最後の最後。もう一度振り返り、届くはずのない言葉を送る。
しかしそこで、道の向こうから足音が聞こえてきた。こちらに向かって駆けてくる足音が。
目を向けると、道の向こうから、こちらに向かって走ってくるの者が見えた。紬だ。
「紬? なんで?」
なぜ彼女がここにいるのかわからず、思わずその場で固まる。
その間も、紬は勢いを緩めることなく駆けてくる。
そしてその勢いのまま、詩にぶつかってきた。
「うわっ!」
いつもなら、受け止めるくらい簡単にできただろう。
だが今は、何が起きたかわからず、揃ってその場に倒れ込む。
「────っ! このバカ!」
倒れた詩の上にのしかかりながら、紬は怒った顔で、泣きそうな声で叫んだ。
「なんで、あんな手紙だけ残していこうとするのよ!」
おかしいな。
それが、詩が真っ先に思ったことだった。
紬が幸せになるためにはどうすればいいか考え、こうすることを選んだはずなのに、今の彼女は全く幸せそうには見えなかった。
「なんでって、お母さんと一緒に暮らした方が、きっと幸せになれると思ったから……」
「バカ!」
この短い間に、二度もバカと言われてしまった。
だがそれも仕方がない。紬からすると、詩のしていることは、大バカ以外の何物でもなかった。
「どうして、また一人で勝手に決めるのよ! こんなの、私の記憶を消した時と、何も変わらないじゃない!」
あの時も詩は、こうすることが紬の幸せになると思い、記憶を消した。
その後彼女が辿った運命を思うと、その選択が間違いだったのは明らかだが、問題なのはそこではない。詩が、一人で勝手に全部決めたことだ。
「私の幸せなら、なんの相談もなく勝手に決めないでよ! 私がどうしたいのか、ちゃんと聞いてよ! あの時ごめんって謝ったの、嘘だったの!」
今のこと、かつてのこと、その二つをまとめた怒りを、詩にぶつける。
もしかすると、こうすることが本当に最善なのかもしれない。
しかし、自分で選ぶのと勝手に決められるのでは、全く違う。
それを聞いて、詩はようやく、本当にようやく、ハッとしたような顔をする。
「ご、ごめん」
「あなたって本当に、人の気持ちがわからないのね」
アヤカシの世界に帰る前に紬がやってこれたことに、詩は感謝すべきだろう。
でなければ、今度こそ紬は、詩のことを許さなかったかもしれない。
「でも、それじゃあ紬はこれからどうするの? せっかく、お母さんとまた一緒に暮らせるチャンスなんだよ」
「それは……」
今まで勢いよく叫んでいた紬も、言葉に詰まる。
正直なところ、それはまだ、全く考えていなかった。
このまま何もかも勝手に決められ、詩と離れるのは嫌だ。そんな思いだけでここまで来ていた。
志織と一緒に暮らしたいという気持ちに間違いは無い。
だが、詩ともう会えないかもしれないと思った時に感じた気持ちも、無視するのは嫌だった。
そこまで考えたところで、出した言葉がこれだ。
「…………賭け、終わってない」
「えっ?」
「一年一緒に暮らして、その間にあなたを好きになるかどうか。その賭け、まだ全然終わってない」
それは、花嫁として詩と初めて対峙した時に交わした約束。
一年以内に、紬が詩のことを好きになるか。詩が、紬の心を射止められるかどうか。
もしもそれが叶わなければ、紬は人間の世界に帰る。そして、もしも叶ったのなら、その時本当の夫婦になる。そういう賭けだった。
「絶対に私を振り向かせるって、自信満々に言ったじゃない。それとも、もう私のことは愛想尽きた?」
「そんなことない!」
紬の問いに、詩はつい本音を漏らす。
紬の幸せのためと思いあれこれ考えたが、身勝手なことを言うのが許されるのなら、今も変わらず、紬を振り向かせたかった。偽りではない、本当の夫婦になりたかった。
「じゃあ、賭けを続けるってこと? 紬は、本当にそれでいいの?」
そうであるなら、詩にとっては喜ばしいことではある。だがそれでは、今までと変わらない。
果たしてそれでいいのかと、どうしても考えてしまう。
「もしかして、俺のことを好きになって、本当の夫婦になっていいと思ったとか──」
「違うわよ!」
淡い期待を込めて言った言葉が、一瞬で否定される。これには詩も、苦笑するしかなかった。
「ただ、あなたの言い出した賭けがどうなるか、最後まで見届けたいの。その……私が本当に、あなたのことを好きになれるかどうか、知りたいの」
自分が誰かを好きになることも、誰かに好かれることも、絶対にない。ずっと、そう思っていた。
だが詩は、こんな自分でも好きでいてくれる人がいるのだと、教えてくれた。からのおかげで、誰かに愛される自分というのを、受け入れることができた。
なら自分だって、誰かを好きになることがあるかもしれない。詩に恋することがあるかもしれない。その答えを知りたかった。
そして、最後にもうひとつ。
「それにね、このままあなたに会えなくなると思うと、なんだかモヤモヤして、胸が痛くなって、嫌な気持ちになったの。これって絶対、中途半端に終わっちゃうせいだと思うの。だから、そんな嫌な気持ちをなんとかしたいのよ」
詩からの手紙を読んでから今まで、ずっと続いていた、不思議な感覚。
それを伝えると、なぜか詩は、大きく目を見開いた。
「紬、それって、もしかして……」
「なによ?」
詩は、それ以上は何も言わない。ただ、どういうわけか顔に朱色が差し込み、喜んでいるように見えた。
いったいどうしてそんな反応をするのか。こっちはずっと、この変な感覚のせいで調子が狂っているというのに。
「ねえ。いったいどうしたのよ?」
「いや、なんでもない。それより、それじゃあ紬は、今まで通り賭けを続けるってことでいい?」
「だから、さっきからそう言ってるでしょ」
自分が彼のことを好きになるのか。その答えを知りたい。
などと思ったら、胸の中の奥が、またザワザワと落ち着かなくなる。
今度は、詩と会えなくなるというわけでもないのに、本当によくわからない感覚だ。
そんな紬を見て、詩は満面の笑みを浮かべて、宣言する。
「絶対、俺のことを好きにしてみせるから」
初めて賭けの取り決めをした時も、同じことを言っていた。
だが、その時は困惑しながら聞き流していたその言葉が、今は深く心に突き刺さったような気がした。

