そういえば、詩はここに泊まったらどうかと言ってはいたが、いつ迎えにくるかは、何も相談していなかった。
 そういうことを手紙に書いて届けたのだろうか。そう思ったが、それなら直接訪ねてくればいい。わざわざ手紙を届ける理由など、思い当たらなかった。

「なんなの、いったい?」

 とりあえず読んでみればわかるだろうと、封を開けて目を通す。
 その瞬間、紬の顔色が変わった。
 中に入っていた手紙。その内容というのがこれだ。

 紬へ。

 お母さんとは、ちゃんと話せた?
 長い間会えなかったから、いきなり前と同じようになるのは無理かもしれない。けどお母さんは間違いなく紬のことを思っているし、紬だってお母さんのことが大好きなんだから、きっとうまくいくよ。
 だから、思ったんだ。紬は、俺と一緒にアヤカシの世界にいるより、このままお母さんと暮らす方が幸せだって。
 というわけで、俺は潔く身を引いて、アヤカシの世界に帰ることにするね。
 この手紙と一緒に、紬の霊力を隠す道具を入れておく。それを使えば、もうアヤカシに怯えることもなく普通に暮らせるようになるから。
 だからどうか、幸せになって。俺も、紬が幸せに暮らしていけるよう、いつも祈ってるから。

 詩より。

「…………なんなのよ、これ」

 手紙を読んだ紬は、呆然としながら呟く。これは紛れもなく、別れの手紙だ。

(もう、会わないつもりなの? その方が、私が幸せになれるから?)

 あまりに突然で、一方的。急にこんなことを告げられても、頭が全然ついていかない。
 だがもしかすると、詩は最初から、こうするとを決めていたのかもしれない。
 人間の世界に連れてきて、消していた記憶を取り戻させ、志織と合わせる。その全てが、ここに繋がっているように思えた。

「紬……?」

 よほど深刻な顔をしていたのだろう。志織が心配そうに覗き込む。
 紬は少し迷ったが、手紙をそのまま渡して見せる。一人で受け止めるには、まだ心の整理がついていなかった。
 志織もそれを読み、顔色が変わる。けれど彼女は、紬ほどは動揺せずにすんだようだ。
 何度か深呼吸をし、それから、真剣な顔で言う。

「ねえ、紬。紬は、これからも私と一緒に暮らしたい?」
「えっ?」
「私は、もちろんそうしたい。離れていた分の時間を取り戻すことはできないかもしれない。だけど、これから一緒の時間を作っていくことはできるし、そうしたいと思ってる」
「お母さん……」

 それは、とても嬉しい言葉だった。紬も、はっきり伝えてはいないものの、再会してからずっと思っていた。
 また、昔みたいに一緒に暮らしたいと。

 なのに、なぜだろう。
 嬉しいのは間違いないのに、このままそれを受け入れても、どこか納得できないような気がした。
 そんな紬の心情を察したように、志織は続ける。

「紬はどうなの? まだ信じられないけど、あの人、詩さんと結婚したのよね? 離れても平気なの?」
「えっと、それは……」

 結婚と言われて、紬は困ってしまう。
 昨夜のうちに詩のことは少し話していたのだが、名ばかりの結婚であることは、何も告げていない。今そんな話をしても、余計な心配をかけるだけだと思ったからだ。

 愛情も何もない結婚。離れてもどうということはない。そのはずなのだ。
 なのに、どうしてだろう。

(なんで、こんなに苦しくなるのよ?)

 もう会えないかもしれない。そう思うと、胸が痛くなる。
 自分の中にある気持ちがわからず、何も答えられない。
 そんな紬に向かって、志織はもうひとつ尋ねる。

「あの人は、いったいどんな人なの?」
「…………わからない」

 今度は、戸惑いながらも、すぐに答えることができた。
 考えるのを放棄したわけではない。詩がどんなやつなのか、今どれだけ考えても、本当にわからないのだ。

 詩のことなど、知らないことだらけだ。
 花嫁として迎え入れられてから今まで、まだ間もない。
 子供の頃、何度も会って一緒に遊んていたのを思い出しはしたが、それにしたって昔の話だ。

 それに何より、詩のことを知ろうとしなかった。愛情などない形だけの夫婦になった相手のことなど、知る必要がないと思っていた。

(もっと、知ろうとしておけばよかったのかな? そうしていたら、胸が痛む理由も、わかったかもしれないのに)

 そんな思いが頭をよぎる。
 だが、今さらどうしようもないことだ。後悔しても、過ぎたことは変えられない。いくら彼のことを知りたいと思っても、今すぐどうにかすることなどできやしない。

 だがそれでも、詩がどんなやつなのか、ひとつだけ、たったひとつだけ、言えることがあった。

「お母さん。私、ずっとお母さんに嫌われてるんじゃないかって思ってた」
「えっ……!?」

 今までの話の流れを断ち切るように、唐突に出た言葉。だが、決して志織を傷つけようとして言ったわけではない。

「お母さんだけじゃない。私って、昔から変なやつで、たくさん騒ぎを起こしていたでしょ。そんなやつ、誰からも嫌われて当然だし、好きになってくれる人なんて、どこにもいないって思ってた」

 小さい頃、学校では気味の悪いやつだと言われ、友だちなんて一人もできなかった。詩と一緒に遊んだ記憶も、封印され、ずっと忘れていた。
 そして月城家での日々が、事ある毎に罵られ、否定され続けた日々が、そんな思いを決定づけた。
 他の誰でもない、紬自身ですら、自分が嫌われるのはどうしようもないことなのだと思うようになっていた。

「でも、詩は言ってくれたの。私のことが好きだって」

 初めてそう言われた時は、本気になどしなかった。ふざけて言っているとしか思えなかった。

 だが、それから何度も好きと言われた。
 花嫁として迎え入れることを、どれだけ楽しみにしていたか聞かされた。
 玉藻の本家で、なぜ霊力を吸わないのかと責められた時は、決してそんなことはしないと言い放った。古空に捕まった時は、ボロボロになりながら助けてくれた。
 封じられた記憶を取り戻した時、ずっと前から思い続けていてくれたことを知った。再び会うため、頑張り続けていたことを知った。

 その全てを否定することなど、できなかった。したくなかった。

「詩がどんなやつなのか、まだ全然わからない。けど、これだけは言える。私がどれだけ自分なんかって思っても、自分のことが嫌いでも、詩は私のを好きでいてくれた。私を好きな人はちゃんといるんだって、教えてくれた」

 詩がいなければ、こうして志織と会う勇気も出せなかった。誰かに好かれている自分を受け入れるなど、絶対にできなかった。

 そんな詩と、こんな形で会えなくなるのは嫌だった。

「ねえ、お母さん。私、お母さんに一緒に暮らしたいって言われて、すごく嬉しかった。私も、お母さんと一緒に暮らせたら、とても幸せだと思う。でも……」

 そこまで言って、言葉につまる。
 一緒に暮らしたくないわけではない。もしかしたら、これからそういう未来を選ぶことになるかもしれない。
 だが、その答えを出すのはまだ早い。その前に、やらなければならないことがあった。

「わかってる。わかってるから。だから今は、紬のやりたいことをやって」
「…………うん。ありがとう」

 うまく言葉にできない思いを汲み取るように、背中を押してもらえた。
 ならあとは、行動に移すだけだ。

「私、詩と話をしてくる」

 そう言うと、素早く着替えて、家の外に飛び出していく。
 向かう先は、アヤカシの世界からこちらに来た時に通った、あのお堂だ。

 この手紙が、いつ届けられたかはわからない。もしかすると、詩はとっくにあのお堂を通って、アヤカシの世界に帰っているかもしれない。もしそうなら、追いつくことはできないだろう。
 だが、まだどうなっているかはわからない。

 きっと追いつくはず。そう信じて、紬は急いだ。