紬が目を覚ました時、酷く気分が悪かった。これは、見ていた夢のせいだろう。
 さらに、なんとも言えない頭の重みもあった。とても長い時間寝た後にある、独特の感覚だ。
 そんなにもぐっすり寝ていたのだろうか。辺りを見回すと、布団のすぐ側にある棚に、漫画やゲームが入っている。
 いつも寝ている、詩の屋敷にある自分の部屋だ。

「なんで? 私、玉藻の本家に行ったはずなのに。それで、古空ってやつに拐われて、それから……詩はどうなったのよ!」

 何があったか思い出そうとするが、覚えているのは、古空と詩が戦っているところまで。それ以降はさっぱりだ。
 ただ、あの時の詩のケガを思うと、心配になってくる。

「だ、大丈夫よね」

 不安な気持ちを抑えながら部屋を出ると、軽いめまいが起き、わずかにふらつく。
 するとそこに、ちょうど見知った使用人のアヤカシが通りかかった。

「紬様、目覚めたのですか!? 詩様、紬様が目覚めました! 詩様ーっ!」

 あまりに大声で叫ぶものだから、頭がさらにクラクラする。
 それから、ドカドカと激しい足音を立てて詩がやってきた。

「紬、気がついた? 体の調子はどう? まる一日寝てたんだけど、痛いとか苦しいとかない?」
「とりあえず、うるさいから声を小さくしてくれない」

 心配しているのはわかるが、これでは余計に調子が悪くなりそうだ。
 
「あなたこそ大丈夫なの? 古空ってやつにだいぶやられてたけど」
「俺なら平気。古空は倒したし、こうして無事に本家から戻ってこれたからね。それに、あれくらいの荒事は慣れてるから」
「あんなのに慣れてるっていうのもどうなのよ」

 あの時詩は、何度も殴られ蹴られ、最後は刀で斬られようとしていた。
 もしかすると、死んでいたかもしれないのだ。

「迷惑かけてごめん。あんなにやられたの、私のせいよね」

 あの時詩は、決して反撃しようとせず、一方的にやられていた。
 それが、自分を人質にとられていたせいだというのは、紬にもわかる。
 自分が捕まったせいで、危険な目にあわせてしまった。申しわけない気持ちが込み上げてくるが、詩は少しも責めることなく、ニコリと笑った。

「そんなことより紬、助けてくれてありがとう」
「えっ?」
「俺の妖力を込めた簪で、古空を攻撃しただろ。あれがなかったら、やられてたかもしれない」
「あれはただ、自分が助かるためにやったことだから……」

 謝らなければならないのにお礼を言われるなど、これではあべこべだ。
 実はあの時、詩が斬られそうになるのを見て咄嗟に体が動いたのだが、わざわざそれを言うのは恥ずかしかった。

(私も言わなきゃ。助けてくれて、ありがとうって)

 本当なら、詩より先に自分が言うべきこと。
 なんとか言葉にしようと口を開くが、それより一瞬早く、詩が言う。

「それにしても、どうやってあの時目を覚ましたんの? 幻術にかかっていたら、普通は勝手に起きることなんてないのに」

 それは、純粋な疑問だった。
 紬は高い霊力を持ってはいるが、訓練もなしに幻術に対抗できるものではない。古空もそう思っていたからこそ、油断していたのだろう。
 なぜあの時目を覚ましたのか。詩はどれだけ考えてもわからなかった。

「────っ!」

 するとそれを聞いたとたん、紬の顔が曇る。
 さっきまでと比べても、ずっと固く険しい表情を浮かべた。

「紬……?」

 それを見て、詩も何か不穏なものを感じとったのだろう。
 心配そうに紬の名を呼ぶが、彼女はそれを無視して、さっきの疑問の答えを告げる。

「そんなの決まってるじゃない。あなたも言ってたでしょ。幻術ってのは、心の底から幻だって思えば解くことができるって」
「そりゃそうだけど、普通はそんなことできないよ。いったい、どんな術をかけられたの?」

 そんな理由で解けたと言っても、詩は到底納得できない。
 例え幻や夢でも、目の前にあるものを完全に嘘だと思うのは、簡単なことではない。

 それに、気になることがもうひとつ。
 話せば話すほど、紬の表情が、どんどん暗くなっていくのだ。

「夢を見せられたのよ。お母さんの夢を」
「お母さん?」
「そう。月城の家に引き取られる前に、一緒に暮らしていたお母さん。それが目の前に現れて、私を迎えに来たって言ってくれた。大好きって言って、抱きしめてくれた」

 なぜだろう。紬の語る夢の内容は、紛れもなく幸せなもののはず。
 にも関わらず、彼女の表情は暗いままだ。

「大丈夫? 辛いなら、無理して言わなくていいから」

 いったい何が紬をこんなにさせているのかはわからない。だがこんな顔をさせるくらいなら、この話はやめにした方がいいのではないか。
 だが紬は、堰を切ったように言い放つ。

「平気よ。こんなの、いつものことだから」
「いつもって……」
「いつか、お母さんが迎えに来てくれる。そんなの、月城に引き取られてから何度も想像したわ。けどその度に、そんなことあるわけないって思い知らされた。だから今更そんな夢を見たって、すぐに嘘だってわかるのよ」

 夢の中で母と出会えて、抱きしめられて、最初は嬉しかった。だがそれから、すぐにズキリとした痛みが走った。
 自分には、こんな幸せなどやってこない。月城の家に連れていかれてから何年もの間、幾度となく思い知らされた。その度に、何度絶望したかわからない。
 すっかり紬の心に刻まれたその思いは、幻術で見せた夢や幻よりも、ずっと強いものになっていた。

「あんな夢で騙せるわけないのに、バカみたい」

 言って、くしゃりと顔を歪める。
 夢が幸せであればあるほど、胸の奥から、痛みが込み上げてきた。
 目が覚めてからも、その痛みはずっと残っていた。

 一方、それを聞いた詩も、穏やかではいられない。
 そのおかげで、紬は幻術から抜け出すことができた。しかしだからといって、とても良かったと言えるものではない。
 今も苦しそうにしている紬を見て、いても立ってもいられなくなる。

「だったら、会いに行かない? 紬のお母さんに」
「えっ……?」

 そんなことを言われるとは思わなかったのだろう。目を丸くする紬に向かって、さらに言う。

「前に言っただろう。行こうと思えば、人間の世界にだって行けるって。紬のお母さんの住んでるところに行くことだってできるんだよ」

 紬に、笑顔になってほしかった。
 母親と会えなかった日々を取り戻すことはできない。だが、再び会うことならできる。そうすることで、心にできた傷を少しでも埋めることができたら。そう思って言った。
 だが…………

「やめて!」

 今までよりさらに顔を歪めながら、紬は叫んだ。

「会っても無駄よ。言ったでしょ、あんな夢みたいなこと、あるわけないって。だってお母さんは、私のことなんて嫌っているから。それだけのことを、私はしたんだから」

 震える声でそう告げた時、紬の頬を一筋の涙が伝った。