時は少し戻って。
 詩は、紬に気づかれぬようそっと部屋を抜け出し、夜風に当たっていた。
 さっきまですぐ隣で寝ていた紬の姿が、今も頭から離れない。

「まいったな。今夜は寝つけそうにない」

 今日一日、当主である沙紀への目通りや彼女の仕掛けた試合など、疲れることはたくさんあった。
 だがどんなに疲れていても、紬の無防備に眠る姿を見ると、緊張して眠気は一向にやってこなかった。

 布団を離してはいたものの、手を伸ばせばすぐに届く距離。触れるどころか、抱き寄せひとつになることだって想像した。
 もっとも、想像しただけで実行する気はない。正直なところそういう欲はあるし、理性が揺らぎそうになることもある。だがそれ以上に、彼女を大事にしたいという気持ちの方が強かった。

「いつか、思っていること全部伝えられたらいいいんだけどな」

 いくら好きだ好きだと言っても、紬にそれが届いてないのはわかっている。
 彼女からしたら、自分はほんの少し前に初めてあった相手。そんな奴から何を言われても疑わしいというのもわかる。
 どうしてこんなにも想っているのか。その理由を打ち明けようと思ったのも、一度や二度ではない。
 だが、どう告げればいいのか、そもそも告げる資格があるのかわからないでいた。

「そろそろ部屋に戻るか」

 迷いを振り払うように、大きく首を横に振る。
 どうすればいいかは、またじっくり考えればいい。そう思いながら部屋の近くまで戻ったところで、異変に気づいた。
 部屋の戸が開いていたのだ。
 自分が出ていった時には、確かに閉めたはずなのに。

「紬……?」

 小さな声で名を呼び、部屋の中に入る。
 だが、紬の姿はどこにもなかった。

 不用意に出歩かないよう注意はしていたはずだし、理由なく抜け出すとは思えない。

「まさか……」

 嫌な予感が湧いてくる。
 自から出ていったのではないとすると、誰かに連れ出されたのか。
 ここには、そんな企みを立てそうな者は大勢いる。

 もちろん、詩もこうなることを警戒していなかったわけではない。
 部屋から離れていたといっても、ほんの少しの時間で、距離もそう離れていなかった。
 紬を乱暴に連れ去ろうと物音を立てていたなら、すぐに気づいただろう。

 だが、実際にこうして紬はいなくなっている。
 よほど手際がよかったのか、思いもよらない手を使ったのか。
 その答えは、事前に古空が呪印を仕込み幻術をかけたからなのだが、今の詩にそれを知るすべは無い。
 それに今一番大事なのは、どうやって攫われたかでなく、どこに連れていかれたかだ。

 幸いなことに、それを探る手立てはある。
 ここに来る前渡した、自分の妖力を込めた簪が見当たらない。恐らく、今も紬が持っているのだろう。
 目を閉じ、神経を集中させる。自分の妖力を大量に込めたものなら、ある程度離れていても存在を感じ取ることができる。
 まだそこまで遠くに行っていないのなら、きっとわかるはず。そう信じ、辺りに漂う力の流れを感じ取る。

「────見つけた。あっちか」

 一度見つけると、それからの行動は早かった。
 力を感じた方に向かって、一目散に駆け出す。
 相手が何者かわからない以上、用心のため味方になってくれる者を呼んだ方がいいのかもしれない。
 だが今は、そんな時間すらも惜しかった。

 そうして屋敷を抜け出し、ほんの少し離れた道の先で、見つける。
 配下のアヤカシを連れて歩く、古空の姿を。そして、その腕の中で眠る紬の姿を。

「紬!」

 古空たちの前まで、一気に駆け抜ける。
 そして、怒りの形相で叫ぶ。

「古空、どういうつもりだ。紬に何をした!」

 怒号が響き、古空の周りの奴らが、一斉に身構える。
 だが古空は、少しも動じた様子がなかった。

「決まっているだろう。これだけの霊力を持った人間を目の前にして、欲しがらないアヤカシがいるものか。半分人間の君には、そんなこともわからないのかい?」
「知っているさ。だが、俺がそんな真似を許すと思うか? ここにいる全員、焼き殺されても文句はないな」

 詩は低い声で凄むと、彼の後ろから生えている尻尾が、スルスルと伸び始める。
 そしてその先端は、狐火へと変わっていった。

「君と戦うのは、花嫁から霊力をいただいた後の方がよかったんだけどね。だがこっちも危ない橋を渡る以上、覚悟はある。お前たち、詩を始末するぞ。さっきの試合と違って、奴は一人だ」

 古空の言葉を受け、配下のアヤカシたちがそれぞれ武器をとり、詩の周りを囲む。
 皆無言のまま構えるが、それもほんの僅かな時間だった。
 一人が動いたのをきっかけに、全員が一斉に、詩に向かって攻撃を仕掛けてきた。
 数の上では、詩が圧倒的に不利。だが、戦いは数だけで決まるものではない。

「無駄だ!」
「ぎゃぁっ!」

 アヤカシたちの振るう剣は詩には届かず、近づいた者は狐火に包まれ、その身を焼かれる。
 元々詩は、強さで次期当主の地位を掴み取ったのだ。たとえ数で圧倒されていたとしても、簡単にやられることはない。

 その様子を見て、古空はギリリと奥歯を噛み締める。

「相変わらず、厄介な奴だな」

 まともに戦えば、確実に勝てる保証はどこにもない。
 だからこそ、今まで直接戦うことを避けていたのだ。

 それに、ここはまだ、玉藻の本家のすぐ近く。
 もしも本家の者たちがこれに気づいてやってきたら、この計画も失敗に終わるだろう。
 そうなる前に、なんとかしなくてはならない。
 だが、彼にはまだ切り札があった。

「動くな! 花嫁がどうなってもいいのか!」

 叫ぶ古空。その手には刀が握られ、紬に向かって突きつけられていた。