次に紬が気がついた時、彼女は何も無い真っ暗な空間に立っていた。
 本当に何もなく、闇が無限に続いているようだ。

「ここ、どこ?」

 こんな場所、どう考えても普通ではない。今すぐ逃げ出したいが、どこへ行けばいいかもわからない。
 もしかすると、ずっとこんな暗闇の世界をさまようのではないか。そんな不安が頭をよぎる。

 だがその時、突然目の前に、パッと複数の人影が出現する。
 それを見て、紬は目を見開いた。

「なんで? どうしてあなたたちがここにいるの?」

 現れたのは、常貞や寧々、紅葉といった、月城家の者たちだった。
 しかし彼らは、紬が声を挙げてもなんの反応もない。さらにそこに、新たにもう一人現れた。

「これって、私?」

 現れたのは、紬自身。正しく言うなら、今より僅かに幼い頃の彼女だった。
 そんなかつての紬に向かって、常貞たち月城家の面々は、口々に罵詈雑言をぶつけていた。

「────っ!」

 それを見て思い出す。これは、自分が実際に体験したことだ。
 こんな風に酷い言葉をぶつけられたことが、何度あっただろう。
 それだけではない。彼らが一度姿を消したかと思うと、次はさらに幼い姿の紬が現れる。
 同時に、それまで真っ暗だった景色が、みるみるうちに変わっていく。気がつけば、紬は蔵の中にいた。常貞たちに、躾と称され何度も閉じ込められた場所だ。
 そんな蔵の戸を、幼い紬は泣きながら何度も叩いていた。出してと叫びながら、何度も何度も。
 それからまた景色が変わり、かつての自分の姿をいくつも見せられる。そのほとんどが月城家での地獄のような日々であり、見る度に胸の奥がズキズキと痛む。

 もうこんなもの見たくない。そう思い、目をそらそうとした時だった。

「紬────紬────」
「紬────紬────」

 どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえてくる。ひとつは、幼い男の子の声。もうひとつは、優しい雰囲気の女性の声だ。
 そしてまたも景色が変わる。今度は、月城の家でもその周辺でもない。のどかな田舎の風景だった。

「ここって……」

 ここもまた、今までと同じように記憶にある場所だ。
 ただしその記憶は、今まで見てきたどれよりも古い。ここは、紬が月城の家で暮ら前に過ごしていた場所だった。
 離れて以来、訪れたことは一度もない。だがこうして目にすると、当時の記憶が蘇ってくる。

 ここでの思い出も、全てが良いものだったわけではない。
 だが月城の家とここでは、決定的に違うものがあった。ここには大切な人が、大好きな人がいた。

「紬────紬────」
「紬────紬────」

 また、さっきの声が聞こえてくる。
 男の子の声は、誰のものなのかわからない。ずっと昔に聞いたことがあるような気がするが、頭にモヤがかかったみたいになっていて、思い出せない。
 だが女性の方は、誰だかわかった。いや、最初に聞こえた時からわかっていた。

 そんな紬の心に反応するように、目の前に新たな人影が現れる。

 それは、一人の女性。さっきから聞こえていた声の主だ。彼女は目に涙を浮かべていて、だが同時に笑っていた。紬に向かって、これ以上ないくらいの笑顔を向けていた。

「紬、会いたかった。あなたとまた会える日を、ずっと待っていたのよ」

 対して紬は、目を白黒させながら、一言発するのがやっとだ。

「お、お母さん──?」

 離れ離れになって、どれくらい経つだろう。月城家に引き取られてから今まで、一度も会ったことはない。もう二度と会えないと思っていた。
 そんな母が、目の前にいる。

 どうしてここに?
 そんな疑問を口にするより早く、彼女は紬を抱きしめ、言う。

「ごめんなさい。本当は、ずっとあなたを迎えに行きたかった。一緒に暮らしたかった」

 その瞬間、どうしてここにいるのかという疑問が、紬の中から消えた。
 それよりも、また会えたことが、母が会えたのを喜んでくれていることが、どうしようもなく嬉しかった。

「お母さん────お母さん────」

 それ以外の言葉を忘れたみたいに、ひたすらに呼び続けた。
 目から涙が溢れ、顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、紬もまた抱きしめる。まるで子どもに戻ったように甘える。

 父親の顔も知らない紬にとって、彼女はたった一人の家族だった。
 楽しいことがあった時は一緒に笑い、怖い目にあった時は慰めてくれる。そんな、単純で当たり前の幸せをくれた、紬にとって誰よりも大切で大好きな人だった。

「ずっと会えなくてごめんね。でも、これからはずっと一緒だから」
「ずっと、一緒?」
「ええ、そうよ。この世界なら、ずっと一緒にいられるわ。紬、大好きよ」

 自分たちのいるこの世界がなんなのか、紬にはわからない。
 だが、そんなものはどうでもいいと思った。
 ここなら、大好きな人と一緒にいられるのだ。なら、永遠にここにいた方がいいに決まっている。
 母の腕に包まれた紬は、間違いなく幸せだった。

 ズキリと、胸に大きな痛みが走る、その時までは。


      ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 自らの腕の中で眠る紬を、古空は笑いながら見つめていた。
 きっと今頃、幸せな夢を見ていることだろう。記憶と感情を探り、そこから本人の願っている理想の光景を夢として見せる。そんな幻術をかけたのだから。
 抜け出すとしたら、自分が術を解くか、これは夢や幻なのだと、心から思うしかない。
 だがそんなことは不可能だ。自分が術を解くなど有り得ないし、夢で見ている光景がどんなにおかしなものであったとしても、目の前に幸せがあるのなら、人はそれを疑うのを恐れる。この幸福が嘘であると、認めたい者ないない。
 故に、彼女は永遠に夢の世界に囚われることになる。これから先、自分が霊力を吸い取っても、なんの抵抗もできないだろう。

「君も満足だろう。永遠に幸せを感じていられるのだから」

 それから、やって来た配下のアヤカシたちを見渡す。
 いつの間にか、先ほど紬の行く手を塞いだ者たち以外にも、かなりの数が集まってきていた。

「さて。見ての通り、月城の花嫁を手に入れた。これがバレたら、ご当主も黙ってないだろう。当初の予定通り、これより我々は玉藻の家を出奔し、野に下る。しかし嘆くことはない。これは、我らの悲願を果たすための大きな一歩だ」

 その言葉に、配下のアヤカシたちが一斉に頷く。
 今ここで紬の霊力を吸い尽くしても、詩や沙希をしのぐだけの力を得られるかはわからない。
 だが、身を隠した先でゆっくり時間をかけて吸い取り続ければ、いずれそんな力を手に入れることができる。
 当主の座を奪うのは、それからでいい。

 紬を抱えたまま、そっと城の外へと抜け出す。
 この城には多数の警備がいて、本来なら簡単に抜け出せるものではないのだが、その警備の大元を任されているのが、他ならぬ古空だった。
 誰かに咎められることもなく、簡単に外に出ていく。

 上手くいく保証などどこにもない計画だった。無理と判断すれば次の機会を伺うつもりでいたが、上手くいった。そのことにほくそ笑む。

 しかし、その時だった。どこからか、激しい足音が聞こえてきた。

「ちっ。何もかも思い通りにはいかないか」

 小さく舌打ちをすると、足音のする方に向き直る。最初は小さかった足音が、だんだんと大きくなり、すごい勢いで近づいてきているのがわかる。
 そして、思っていた通りの相手が現れた。

「来たか。このまま気づかれずに出ていけたら、楽だったのだけどね」

 古空はもう一度舌打ちをすると、やって来た相手を、怒りの形相で自分を見る詩を、冷ややかな目目で睨み返した。