突きつけられた刃を少しでも動かせばどうなるか。想像しただけで震えてくる。

 すると、その様子を見ていた沙紀が、つまらなさそうな声をあげる。

「なんじゃ。人質とは姑息な手を使うの」
「何を言いますか。どんな手段であれ、相手を蹴落とし、生き残った者の勝ちでしょう」
「たしかに。とはいえ、せっかくこうして競い合いの場を設けたのじゃ。その最中に余計なことをされるのは面白くないのう」
「それは失礼。ですがあなたの不興を買ったとしても、確実に詩を仕留められるのなら、その方が得かもしれませんよ」
「なるほど。その考えにも一理ある」

 紬にとっては命の危機だというのに、まるで世間話のように語る二人。
 今更アヤカシに人間と同じ倫理観を求めはしないが、改めてゾッとする。

 だがそこで、沙紀は袖で口を隠しながら、クククと笑った。

「じゃがな。その目論見、うまくいくかの。せっかく手に入れた嫁をこんな場所で放っておくような間抜けなら、とっくに出し抜かれておるわ」
「と、言いますと?」

 疑問を口にする古空だが、沙紀はそれには答えない。いや、答える必要などなかったのだろう。

 古空の首に、ヒヤリと冷たいものが当たる。
 いつの間にか、彼が紬に対してそうしているように、古空の首にも、後ろから刀が押し当てられていた。
 そして、その刀を手にしているのは詩だ。

「紬に何をしている?」

 突きつけた刀よりもさらに冷たい声で、詩は言う。
 それを見て、紬は目を白黒させていた。

「な、なんで? 詩ならあそこに……」

 詩は、戦いの真っ最中のはず。
 現に、中庭の中央に目を向けると、そこでは今も、もう一人の詩が戦っている。

 と思いきや、突如その姿がぐにゃりと歪む。
 蜃気楼のように揺らめいたかと思うと、だんだんと形が朧げになっていき、完全に消え失せた。

「あれも、俺の幻術のひとつだよ。俺が戦ってる間、誰かが紬に手出ししないよう見張っていたんだ。そんな奴がいたら、すぐに切り捨てるつもりでね」

 荒々しくはないが、明らかに怒気を孕んだ声で、詩は言う。
 古空の返答次第では、本当にこのまま斬ってもおかしくなさそうだ。

「おいおい。本気で怒ることはないだろう。こっちは冗談でやっただけだよ」
「刃を突きつけるのが、冗談だとでも?」
「ああ、刃ね。これのことかい?」

 そこまで話したところで、古空が持っていた脇差が、みるみるうちに形を変えていく。
 これも幻術なのだろう。さっきまで脇差だったそれは、あっという間にただの短い木の枝になっていた。

「これでわかってくれたかな? それとも、ちょっとしたいたずらに本気になって、このまま僕とやり合うかい?」

 それを聞いても、詩はしばらくの間、古空に刀を突きつけたまま睨み続ける。
 その後、ようやく刀が彼の首から離れた。

「次に同じことをしたら、迷わず斬る」
「おお、それは怖い。そんなことにならないよう、さっさと退散させてもらうか」

 突然、古空の姿が揺らめく。
 ついさっき、中庭の真ん中で戦っていた詩が消えたように、今度は古空の体が幻のように消えてしまった。

 幻術だ。こう何度も見せられては、紬もわかる。
 助かったんだ。そう思ったとたん、全身の力が抜けた。

「紬、大丈夫?」

 へたり込みそうになったところを、詩が支える。
 心配そうに顔を覗き込むが、紬はとっさに目を逸らした。

「だ、大丈夫。ちょっと脅かされただけだから。それより、勝負を放っておいていいの?」

 今はまだ勝負の最中のはず。
 と思ったのだが、中庭の真ん中では、既に詩の仲間がほとんどの相手を倒していて、残っているのは一人だけ。
 そしてその一人も、たった今打ち倒された。実にあっさりとした決着だ。

「何か話してたようだったけど、変なこと言われてない?」
「えっ…………ええと、あなたのお母さんの話を、ちょっとだけ。その……人間だったのよね」
「そっか。母さんのこと、聞いたんだ。その通り。母さんは人間で、俺が人間の文化に興味を持ったのも、それが理由のひとつ」
「それと……お父さんが、そのせいで冷遇されたって」
「まあね。って言っても、本人たちはあまり気にしてなかったみたいだけどね」

 特に動揺した様子もなく、聞かれたことに答えていく詩。
 だが、ひとつだけ、どうしても聞けないことがあった。

(そのお父さんとお母さんが間違ってなかったって証明するために、私が必要なんじゃないの?)

 ついさっき、古空から言われたことが頭をよぎる。
 これは、全て彼が勝手に言っていたこと。紬の気を引くため、デタラメを言っただけかもしれない。
 されを今すぐ詩に聞いて確かめたかった。
 なのに、できなかった。

「そう……」

 それだけ呟き、また目を逸らす。
 知るのが怖かった。
 詩が自分と結婚したのが、そんな理由だったとしたら。
 そう思うと、体が震えた。

(何を考えてるんだろう。詩の言う好きが信用できないのなんて、今さらなのに)

 今まで詩から好きと言われる度、何度言い聞かせただろう。
 自分のことを本気で好きになる者など、いるわけがない。そんなこと、今まで嫌というほど思い知ってきた。
 何か別の目的があると考えた方が、よほど納得がいくのだ。
 なのに、どうしてこんなにも怖いのだろう。

(これじゃまるで、詩に本気で好かれたいって思ってるみたいじゃない)

 まさか、そんなはずがない。
 好きという気持ち。誰かに好かれたいという思い。そんなものは、とっくになくしたはずなのだ。

「さて。見ての通り、この勝負は詩の勝ちということでよいかの。今からでも挑もうという奴がいれば歓迎するぞ」

 沙紀が辺りを見回しそう言うが、名乗り出る者は誰もいない。
 これにより詩が正式に勝者となったが、紬はそれを、どこか遠い目で見ていた。