窓をしっかりと閉めているのにも関わらず、短い命を全うするかのように大きな蝉の鳴き声が聞こえてくる。八月に入ると一気に気温が上がり、ほぼ毎日猛暑日と言われている。冷房をつけていても、外を見るだけで暑くなってくるような気がする。
今日のメッセージにも啓からの返信がない。この前出かけた時は楽しそうだったのに。俺が何か粗相をしてしまったのだろうか。啓との会話画面を眺めるが、何か変化があるわけでもない。それから家を出るまで、既読はつかないままだった。
遊園地に二人で出かけた後すぐに俺は家族と旅行に行き、啓も実家に帰省していたためにあまり連絡を取らなかった。家に帰ってきても、数回やり取りをするくらいだ。何度目かのメッセージで、どこかに遊びに行かないかと誘った。そこから一切返事がない。一条家は忙しいからと自分に言い聞かせていたが、流石に二週間連絡が来ないのはおかしい。試しに皐月の様子を窺ってみたら、すぐに返事が返ってきた。それなりに忙しいけれど啓も元気だということも添えられている。それならどうして俺には何も言ってくれないのか。家族の前では平静を装っているけれど、毎日寝る直前にはそればかり考えている。皐月に言おうかとも考えたが、急に仲が悪くなったと思われるのも嫌だから今のところは黙っている。追加で啓に何通かメッセージを送った。しかし送るたびに束縛が激しい恋人みたいなんじゃないかという疑問が過ってしまう。こんな気持ちのままどんどん八月が溶けてゆく。だから、最後と決めて、もう一度メッセージを送った。
《一度話がしたい。明日、一条の家へ行く》
 既読はつかなかったけれど、どうでもいい。無理にでも啓の話が聞きたい。

 翌日、皐月の家の呼び鈴を鳴らすと、皐月が出迎えてくれた。
「おはよう、どうしたの」
「今日は、ちょっと啓に話があって」
 啓の名を口にすると、皐月の笑顔が微妙に歪むように見えた。その顔がどんな感情を表しているのかわからない。高校生になるまでは皐月と遊んでいたのに、最近は啓とばかり会っていたから仕方ないのかもしれない。完全に俺の中での優先度は啓が上回ってしまっている。許婚のように育てられてきたのにこんな態度をされては嫌な顔をするのも無理もない。
「じゃあ、呼んでくるよ」
「待って、伝えないで、俺を啓の部屋に連れていって」
 少し非常識ではあるけれど、啓に逃げられずに話をする方法はこれしかなかった。俺の本気さが伝わるように皐月の瞳を真っ直ぐ見つめる。彼女は戸惑いつつも承諾してくれた。皐月の家には久しぶりに来たが以前と変わらず綺麗なままで、家政婦さんが住み込みの家は流石だなと感心する。啓と話すことに不安になってきたせいか、余計なことを考えてしまう。そういえば、皐月の家に来たことはあっても啓の部屋に行ったことはなかった。本当に俺は啓の断片的なことしか知らないんだな。皐月は二階の奥まった一室で足を止めた。
「ここだよ」
 啓ときちんと話すのは久しぶりで、緊張する。というより、嫌いになったから会いたくないと言われるのが怖い、という方が正しいかもしれない。皐月は返事をしない俺を見て眉を顰めながら「呼ぶよ?」ともう一度声をかけてくる。ああ、とか、おう、とか返事とは言えない曖昧な声で応えると、彼女は目の前の扉を軽く二回叩いた。
「啓、隼太が来たよ」
 数秒待っても、物音ひとつしない。やっぱりここまで来てもだめか。眉を八の字にした皐月が振り返って肩を竦める。俺も困ったような顔をするしかない。
「話を聞きたいだけだから、頼むよ啓」
 しばらくの無言に耐えられなくなった頃、扉が小さく開いた。いつもの真顔が張り付いた顔を覗かせている。皐月は、用は済んだとばかりに踵を返していく。沈黙を守る啓に、中で話そうよ、とボールを投げるが帰ってくるのは扉が開く音のみ。理由はわからないけれどきっと嫌われてしまったんだな。啓は自分の座った場所の隣に座布団を置き、俺に座るように促した。それに従って座布団の上に正座する。
「俺、なにかしたんだったら謝るよ、だから、俺を避けてる理由を教えて」
「・・・・・・言えない」
 ここまで来たのにしらを切れるのはなぜなんだ。隣に座ったから当たり前だが、啓はどこを見るともなく前を向いている。意地でもこちらを向かないという意志が伝わってくる。
「それは、どうして言えないの? 俺のせいなんだったら言ったら直すよ」
「隼太のせいじゃないし、直せない」
 余計気になる情報を出される。最初のころはこの言葉足らずな話し方をスルーできていたけれど、今は無性に腹が立つ。どんなことでもいいから、言ってほしい。言葉で伝えてほしい。
「どんなことでもいいから、言ってよ」
「でも、」
「直せないことでもいいから、言って」
 自分の言葉にどんどん嫌な響きが込められていく。嫌われたくないと思っていたのに、相手の煮え切らなさに気が短くなる。
そこで、なぜかわからないがふと思い出す。最後に遊んだ日、皐月が許婚というのが本当かという問いに曖昧だがイエスと言ったことを。この時代に許婚なんて馬鹿げていると思っていたけれど、啓は本気で受け取ったのか。そして、もしかしたら皐月が好きなんじゃないか。そりゃそうだ、こんな綺麗な人がずっと近くにいたらきっと好きになる。遠い親戚だとしても。俺はずっといすぎて友達以上の感情を持てない。しかし啓は俺が皐月を好きだと勘違いしたんじゃないか。だから、俺と皐月が一緒にいるのを見るのが辛い、とか。頭の中で勝手な推論が繰り広げられる。でもこの状況の打開策は、俺が切り出すしかない。
「もしかして、好きなのか?」
 その質問に、部屋に入って初めて啓がこちらを向いた。あたってる、のかもしれない。啓はこちらと目が合うとすぐにうつむく。身体を鍛えている割に白い肌を持つ顔が、朱に染まる様子がまっすぐ伸びる髪の隙間から見えた。
「俺は皐月のこと恋愛的には好きじゃないから結婚するつもりはないし、いいと思う。好きなら応援する」
「・・・・・・そうじゃない」
 か細い声で反論し、ゆっくりこちらを振り向く。ではさっきの赤面はなんだったんだ。どう見ても図星のようだった。違うと言うのなら、もう教えてほしい。教えて、と口に出すと
「嫌われるから」と表情も変えずに言う。俺には絶対そんな気持ちを抱かないと約束できる自信がある。この押し問答にも、疲弊してきた。
「嫌わないから、教えて」
「俺が、す、きなのは、」
 ほらやっぱり好きなんだ。続きが聞こえてこない。また沈黙が始まってしまった。正直、もう我慢はできない。催促しようと口を開くと消え入るような声が聞こえた。
「なんて?」
「あなたです」
 主語と動詞を聞き間違えただろうか。沈黙の時間が長くて文章が切れていたのかもしれない。え、というアホみたいな反応しかできない。
「気持ち悪いですよね、ごめんなさい」
 そのやたら早口な謝罪と赤い耳で、俺の認識した文章があっているのだとわかった。啓は、俺が好き。心の中で反芻しても飲み込み切れない。でも、啓はこういう時に絶対に嘘は言わない。
「それは、友情の延長線上の感情ってことはないの?」
「ない、俺は・・・・・・隼太と手もつなぎたいし、キ、キスもしたい」
 まさかこれほどまで啓に想われているとは知らなかった。俺は啓のことは好きだけれど、全て友情としての好意だった。今考えると、この間行った遊園地の時にはもう俺のことが好きだったんじゃないか。二人きりで遊園地に誘うなんてそうそうない。一番仲のいい友達ができて嬉しかったのに。俺の沈黙を啓はどう受け取っているだろうか。普段は無口の啓が口を開く。
「俺も、ずっと強い友情なんだと思ってた。けど、いつも隼太と話したくて仕方なくて、皐月さんと話しているのを見るのが辛くて、こんな気持ちになっちゃいけなくて、」
「なっちゃいけないって、どうして? そんなことはないよ」
「でも、気持ち悪いでしょ?」
 俺自身は男を好きになったことはないけれど、今この状況で啓に対する嫌悪感は全くと言っていいほどない。ただ、ずっとお互いを想い合う友達でありたかった、という思いだけ。
「気持ち悪くない」
「でも、もう会わない方がいい」
「どうして」
 眉間にしわを作り、悲痛に満ちた目で啓がこちらを見つめる。切れ長の目には、水が溜まっている。こんな顔にさせているのが自分だと思うと、やるせなかった。
「どうしてって、わかるでしょう。俺は宙ぶらりんのまま隼太と接していかなきゃいけないの? ・・・・・・今も早く振って欲しいと思ってる」
「振って」と口に出した時にさらに顔が歪められていく。
「待って、まだ俺が振るとは限らない」
 友達としてしか見ていないけれど、啓との結びつきがなくなってしまうのが怖くて、嘘をついてしまう。
「だって隼太は俺を友達としてしか見てないんだろ。それならもう答えはわかりきってる」
「三か月」
 啓の言葉を遮るように出た俺の声は、ひとりでに突っ走っていった。
「三か月間、また前みたいに遊ぶ」
「無理です」
「そうして、俺が啓のことを好きになったら付き合う。もし友達としてしか見られなかったら、もう会わない。これでどう?」
 こんなのは俺のエゴでしかない。啓とまた友達だったころに戻りたい、なんて浅はかで残酷な自分勝手の申し出。こんなことしてはいけないとはわかるけど、もう一度啓とやり直したかった。
「でも、俺は辛い」
「三か月で俺を全力で惚れさせにきて」
「何言ってるの」
「恋人みたいに接して。俺に啓を教えて」
 これが、わがままなことを言ったことへのせめてもの償いだ。接し方が変わっても、啓と一緒にいられることは変わらない。俺が啓を好きになるかどうかはまだわからないけれど、これを強いることが酷であることはわかるけれど、取り消せない。
「予定決まったら連絡するから」
 返事はされなかった。啓の部屋から出て、皐月に一声かけに行く。彼女はリビングでテレビを見ていた。
「もう話し合いは終わったの?」
「うん、入れてくれてありがとう、お邪魔しました」
「うん」
 いつもの調子で話しているのに、こちらを向いてくれない。テレビに夢中なのだろうか。
 帰ってから、啓に空いている日を添付したメッセージを送った。返事は思っていたよりも早く、日を跨がずに帰ってきた。
《八月三十日は行けると思います》
 この文面が目に入った時、俺はガッツポーズをしていた。母親にいぶかしむような眼で見られたが、どうでもいい。