それから週に一、二回は啓と共に時間を過ごすようになった。
 啓と遊び始めて数週間、六月の下旬ごろに部屋で勉強をしていると、父親が訪ねてきた。話があるから夕食後に部屋に来てくれと言われた。声色はいたって普通だったが、怒っているときの髭を触る癖が出ていたからきっと怒られるんだろう。こういうとき、どうして夕食を一旦挟むんだ。緊張して食が進まないからやめてほしい。俺の父親は普段温和で、いけないことをしたときはきちんと怒るというお手本みたいな人だ。たまにこうやって部屋に招かれて注意を受けることもある。最近は少なくなってきていたのだけれど。いつも通りノックは三回。
「どうぞ」
「今日はどんなご用事でしょうか」
「適当に座って」
「はい」
 平素は敬語なんて使わないが、怒られるとわかっていて悪態をつくのはどう考えても悪手だ。できるだけ気に障らないような話し方を心がける。適当に座れと言われたもののおそらく怒られるので床に正座した。
「最近一条さんのとこの使用人と仲良くしているみたいじゃないか」
「はい、たまに話に出しますが遊びに行ったりしてます」
 ここまで聞いても話の筋が見えなくて父親が何に腹を立てているのかわからない。表情を窺うけれども怒っている風でもなくいたって普通の真顔をしている。
「それで最近の小テストを見せてもらったんだが」
 完全に忘れていた。最近啓と遊ぶことが多くて、放課後の勉強時間が以前より取れていないこと、俺が通う学校は金銭的にも学力的にも背伸びしていること。だとしたらわかることはひとつ。勉強時間を削ったら成績が悪くなる。友達ができたことに浮かれていてテストの結果を気にしていなかった。母親はそういうのを目ざとく見つけるから、父親にもすぐ言っただろう。これは怒られても仕方のないことだ。
「友人と遊ぶのもいいが、勉強もおろそかにしないようにしなさい。今度の期末テストでいい点を持ってきてくれればいい」
 意外と早く解放された。きっと俺が友達に執心することなんてなかったから、そこは気遣ってくれているんだろう。この気遣いを無駄にしないためにも次の定期テストのために頑張らなければならない。
 期末テストに向けて勉強をするからしばらく遊べないと啓に言うと、《わかった》という端的な返事が返ってきた。俺は友達と遊びたいときに遊べない寂しさを初めて味わう。今までは勉強を疎かにしてまで遊びたいと思う友達は居なかった。


 期末テスト最後の科目が終わり、電源を切っていたスマホを立ち上げる。真昼間に連絡をよこす人はいないと思っていたが、ロック画面が表示されたと同時にラインの通知音が鳴る。テストは終わっていても通知が鳴るのは少し恥ずかしい。
《今日の帰りにご飯行こう》
 テストが終わった瞬間に連絡してくるなんて啓もよっぽど俺と出かけたかったんじゃないかと嬉しくなる。しかし見当違いだったら恥ずかしいのでその考えを脳内から追い払う。俺の返事は言うまでもない。
 今日のお誘いにはもう一人含まれていたようで、啓と皐月と俺で啓が行ってみたいというチェーン店に向っている。三人で並ぶと通行人の邪魔になると言い、啓は俺と皐月の後ろを歩いている。久しぶりの会合なのに皐月がいると男友達だけの会話にはなりにくい。勿論皐月の前では自然体でいられはするが、俺にとってはもう啓との友情には代えがたいものになっていた。啓が行きたかったお店とは、カフェだった。俺も聞いたことがある、量がかなり多い商品を出すお店だ。
啓の食べ物の好き嫌いは聞いたことはないけれど好きなものはきっと甘いものだろう。お昼として食べに来ているのに、啓はメニューのデザート欄を開いている。
「私はランチプレートにする」
 皐月が指さしたのは具沢山のサンドウィッチ。俺は迷った末にカツサンドにした。啓は、たまごサンドウィッチとパンケーキを選んだ。身長は高いがあまり健啖家には見えない。これまで共にした食事でも別に大食いには見えなかった。本当に彼が食べきれるのか、心配よりも好奇心が勝つ。周りを見ると、隣の席の人が大きなパンにかぶりついている。頼んだ後から食べきれるか不安になってきた。
 結局、三人とも完食することはできた。ただし夕飯はあまり食べられそうにないという条件付きで。お腹をさすると明らかに山ができている。二人もそうだったらしく、お互いにお腹をさするジェスチャーをして笑った。
 帰りは、行きよりも話が弾んだ。さっきは啓が皐月に対してもう少し他人行儀だった気がする。一条家ではそう言いつけられているのかもしれない。きっと放課後に遊んだりしているときが本来の啓なのだ。こうして三人で過ごしていると、啓も昔からの幼馴染のような気がしてくる。
 家に帰ってくつろいでいると啓からのメッセージがきた。
《今日は久しぶりに遊ぶことができて楽しかった。夏休みは二人でどこか遊びに行きたい》
 皐月には悪いが、こう言われて俺は小躍りしそうになった。皐月は口数が多く話も上手いので俺と啓はほとんど聞き役に徹する。そのため、啓と話すことが極端に少ない。皐月のことは勿論嫌いではないが、俺は最近できた親友と話したいと思ってしまっていた。だからこそ、二人きりで遊ぶという提案に乗らない選択肢はない。なんとかして二人で予定を擦り合わせ、夏休みが始まってすぐの七月三十一日に会うことになった。目的地はいつも通り啓が行ってみたい場所だ。二人で遊ぶことに大喜びした俺だが、行く場所を聞いたときはちょっと尻込みしてしまった。でも、啓とならどこへでも行きたい。


 じりじりと肌を焼くような日差しが地球を照らしている。日焼け止めとキャップで対策をしていても明日にはこんがり焼けていそうだ。隣の家から出てきた啓が、じわりと吹き出る汗を拭きながら近寄ってきた。
「おはよう。いい天気でよかった」
「おはよう。じゃあ行くか、夢の国へ」
 灼熱の中歩いた後の電車は快適だ。啓が行きたいという遊園地までは、電車で一時間ほどかけて行く。最初、遊園地へ行くと聞いて意外だった。よく考えれば、すぐにわかることだ。啓は小さい頃から厳しく育てられてデパートにも行ったことがなかったのだから、遊園地なんて以ての外だ。あまり混んでいない電車の中で隣に佇む横顔を見て、楽しみにしているのかなと推量する。
 夏休みということもあり遊園地は大繁盛している。元気いっぱいの子どもが視界に入ってきては消えていく。啓は家族や学生だらけの空気に臆することもなく歩き出す。
「あれ、乗ろう」
 啓が最初に指名したのはメリーゴーランド。行ったことがないからこそのチョイスで思わず笑ってしまいそうになる。朝イチでメリーゴーランドに乗りにくる人は少数派で、俺たち以外の客は誰かを待って暇を持て余しているような人たちだ。注意喚起が流れた後に、動き出した。俺と啓は隣り合わせの白馬に乗っている。遊園地の中では刺激の少ない遊具だが、啓はこちらを向いて口角を上げている。この前の笑顔よりもよっぽど自然な笑みが現れ、それを見て俺も笑う。愉快な音楽一曲分の周回は意外と長かった。啓は下りると一目散にどこかに向っていく。俺の記憶だと彼が向っている方向はお化け屋敷だ。何も聞かず一緒に歩いていくと、突き当りにお化け屋敷が見えた。
「次は、お化け屋敷でいい?」
「怖いものすきなの?」
「わからない。試しに行く」
 理由にいちいち笑っていたら今日は笑いっぱなしになるだろうな。行ったことないから、理由はそうに決まっているのに、選択が面白くて反射的に聞いてしまう。啓にとったらお化け屋敷なんてつまらないんじゃないかと思ってしまう。ずっと勉強や鍛錬をしてきた人にはきっとお化けなんて概念は教え込まれていないだろう。だから暗いところはお化けが出そうで怖いという考えすらないのではないか。それに啓が怖がっている顔を想像できない。最初よりは表情が見えるようになったが、マイナスな感情が現れた表情はまだ見たことがない。
 お化け屋敷の中は、外とは打って変わってひんやりとした空気が流れている。避暑地としても丁度いい。入ったところからすでにおどろおどろしい効果音が聞こえてくる。啓は物珍しそうに首を巡らせている。受付まではずんずんと進んだものの、初めて入る場所ということもあり先頭は俺に任せてきた。不気味な音の合間に、後ろにいる啓の息遣いだけが聞こえてくる。一本道なので啓の表情は振り向かないと確認できない。
「ひっ」
 ガタッという音とともに啓の悲鳴らしきものが発せられた。持っていた懐中電灯の光を啓に向けると、啓の腕が隙間から伸びた手に掴まれていた。その手は数秒でスッと消えていったが、啓の引き攣った顔は直ぐには直らなかった。啓は驚かないというより本当に純粋な反応を示すんだな。啓が、進もう、といったのでまた歩を進める。内装は結構よくできていて、ボロくて怖い家というのが再現されている。和室とホラーの相性は最高だ。磨りガラスに赤い手形がどんどんと音を立てて現れたときは流石に驚いた。啓も声は出さなかったものの、俺の服の裾を少し引っ張っている。いつも涼しそうな表情でいる啓が俺を頼りにしていると思うとなんとなくいい気分になる。
 真っ暗な迷路から外に出ると明暗差で目がちかちかする。いつもと違う啓が見れてテンションが上がっていたのでニヤニヤしながら尋ねた。
「怖かった?」
「・・・・・・うん、まあ」
 反応を濁しているけれどばればれだ。先ほどよりしおらしくなっている気がする。そして、この話はもう終わりだとでも言うように、「そろそろお昼たべよう」と切り出してきた。お化け屋敷のすぐ近くにはかわいらしい雰囲気のレストランがあった。それに目を止めた啓は「あれ」と指さして歩き始める。
 まだ十二時になっていないからかレストランはそこまで混んでおらず、すぐに二人席に通された。周りを見ると皆こんがり焼けたハンバーグを食べている。机上のメニューにもでかでかと載っていたので看板メニューなのだろう。俺たちもそれを頼んだ。料理を待っている間、啓が話しかけてきた。
「皐月さんって、小さい頃どんな感じだった?」
 意外な質問だった。てっきり幼い皐月も知っているのかと思っていた。今まで啓と何度も遊んでいるけれど皐月の話がでたのはほとんど初めてだ。啓はただの雑談だとでもいうような様子だ。
「啓は会ったことないの?」
「何度かは。でもよく覚えていません」
「そっか。今とそんなに変わらない気がする。誰とでも仲が良くて、物怖じしない。一緒にいて居心地はよかったかな」
 そうですか、と平生と変わらない平坦な声で相槌を打たれる。話している間にハンバーグが来て、そっちに視線が注がれている。
「啓は皐月と一緒に過ごしてみてどう?」
 さっそくハンバーグを口に含んでいた啓はこっちを向いて丁寧に咀嚼し、飲み込んでから口を開いた。
「いい人です。俺にも友達のように接してくれて。でも、友達が多いのは本人が努力してるからだと思う」
 啓は遠いところを見るような眼差しになった。
「そうだったのか、知らなかった。たとえばどんな?」
「・・・・・・言っていいのかわからないけど、まあ隼太ならいいか。コミュニケーション術の本を読んだり、あとはみんなが好きだって言ってたものを調べたりとか」
「どうりで。やたら話が合うと思った。じゃあ居心地がいいのは皐月の努力の賜物だったってわけか」
「でも・・・・・・皐月も隼太と一緒にいるときは気が抜けるって言ってた」
「ならよかった。ずっと気が張ってるのは苦しいからな」
 会話はそこで途切れた。皐月の努力を知らなかった。
ただただデミグラスソースと肉の旨味が口に広がっていき腹を満足させる。ハンバーグを食べ終えセットのデザートが運ばれてきたころ、啓が口を開いた。
「皐月さんが許婚って本当?」
 質問内容も急だった。しかし啓の顔はいたって真面目で、何やら決心した様子も窺える。この質問に何をそんなに真剣になっているのだろう。
「まあ、両親たちの中ではそういう認識なのかな」
 曖昧な答えになってしまった。今ここで皐月に関して何かを言って、相手の親に伝わることもなくはない。啓だったら何も言わないとはわかっているのに、保険をかけずにいられなかった。皐月のことは嫌いじゃなくむしろ好きな部類ではあるが、恋愛感情を持っているかと聞かれたらイエスとは答えられない。それにこんな時代に許婚という考え方が残っている方が変だ。この本心がすぐ言えたらよかったのに、隠してしまった。
「皐月さんのことは好きではないの?」
「友達としては、まあまあ好きかな」
 これは本心だ。でも、啓のことは皐月と同じくらい、いやそれ以上にいい友達だと思っている。どうしてこのような疑問を呈されたのかはわからないが、おそらく一条家の父親か誰かから差し向けられたんだろう。で、断れなくて結局不自然なまでの質問をしたと。この話の後は何事もなかったかのように他の雑談に興じた。デザートは甘いホイップの乗ったコーヒーゼリーだった。
 レストランを出た後、マップに載っているアトラクションはほとんど制覇した。今は休憩するために大きな噴水のベンチに座っている。啓が買ってきてくれた生絞りの果物ジュースが夏の日差しに焼かれた体に染みわたる。日も傾いてきているのに、暑さは衰えることを知らない。
「次で最後にしようか。どこがいい?」
「じゃあ・・・・・・あそこ」
 啓が指さしたのは遊園地で言えば定番の場所だった。俺は無言で頷き、歩き始めた啓の背中に付いていく。今日一日をめいいっぱい楽しんでもう帰るところであろう家族やカップルたちとすれ違う。斜め前を歩く啓の両手はお土産袋で手がふさがっている。今日が啓にとっていい思い出になっているといいな。
 目的地のアトラクションはあまり混んでいなかった。子供連れの人が多いため暗くなり始める時間帯で帰る人が結構いるのだと予想する。順番は直ぐに回ってきた。キャストさんに誘導され乗り込むとゴンドラが揺れる。ほとんど成人の男性二人が乗っても落ちないことが不思議だ。最後に乗ったのはいつだったろうか、きっと自分も成長したから大丈夫だ。目の前に座る啓は、どんどん小さくなっていく街をキョロキョロと見回してまるで子供みたい。俺の視線は啓と自分の足元を行き来している。
「見てよ、すごい、夕日が綺麗」
 啓越しに下の景色が見えるだけでも足がすくむ。視界の端に米粒みたいな家々が映る。とうとう目を瞑ってしまった。やっぱり観覧車だけは断ればよかった。まぶたの裏で自分の選択に後悔していると、冷たいものが手に触れた。恐る恐る目を開けると自分の手が白くて大きい手に握られている。
「怖い? 大丈夫?」
 啓の手はひんやりしているのに、温かい。こういうとき啓は何よりもまず心配してくれる人なのだ。大丈夫と答えると、彼は安心したように息をついた。大きな手に包まれていると落ち着く。意を決して顔を横に向けると、夕日に照らされた美しい街並みが見える。怖いことには変わりないが、高いところからの景色も悪くはないと思った。
 数分の空中旅行を終えると啓は開口一番謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、高所恐怖症って知ってたら誘わなかった」
 啓は下を向き、眉間に皺を寄せている。そんな顔をされたらこちらの方が申し訳なくなってくる。怖かったけれど、啓と景色を見て綺麗だと思ったのは事実だ。
「謝らないで、俺だって嫌なら断ればよかったんだし。久しぶりに乗るから大丈夫かなって思ったんだけど、ちょっとまだ駄目だっただけだ。だから謝らないで」
 俺がそう言ってもまた謝るから、言いようのない空気が流れる。啓は相当心優しい人なんだろう。今までできたどんな友達よりも人を大切にしているように感じる。
「俺、今日すごい楽しかった。啓はどう?」
「俺も楽しかった。ありがとう」
 そう口に出してからやっと微細に口角を動かした。その後もぽつりぽつりと会話を交わし、徐々に元の空気を取り戻していった。
最近の啓は、俺が一つの質問をしたら二言三言自分から話してくれるようになった。会話の断片から啓という人間を知っていくことは、見たことのないパズルのピースをはめていくような未知の感覚だ。このピースを集めていく過程が俺にとっては日々の小さな幸せになっている。
 家に着くころにはもう七時半を回っていた。街灯の灯りに照らされながら名残惜しく家までの距離を詰める。
「今日は本当にありがとう。最初は男二人で遊園地なんかって思ってたけど、啓といると全部が楽しい。こんな友達、啓以外にもう一生会えそうにないな」
 後から考えると我ながら恥ずかしすぎて頭を抱えそうになる言葉だ。浮かれた気分に任せて言ってしまた。
「・・・・・・うん。俺も隼太と行けて嬉しかった、ありがとう。じゃあまた」
「夏休み中も遊ぼうな」
 別れ際の啓はいつも以上に大人しく感じた。一日遊んだ疲れがでているのだろうか。俺も荷物と一緒に疲れを背負って家の扉を開けた。台所からいい匂いがする。今日の夕飯はカレーみたいだ。