四
「最近、一人で勉強すること増えたね。私とはやっぱ居心地悪い?」
啓の喫茶店へ逸る気持ちを抑える平日の放課後、皐月が唐突に聞いてきた。啓の喫茶店に行ってから、適当な勉強しかしていない。また親に怒られるのはごめんだけれど、皐月と勉強できるほど心は落ち着いていない。あともう一度だけあの喫茶店に行ってから、これからのことを考えよう。
「そんなことないよ。だけど、たまには一人でやんないとずっと皐月に頼ってばかりになっちゃうし」
それらしい理由を考えて口に出してみる。皐月はそれ以上は詮索せず、ふーん、とだけ言って次の話題に変わった。
やっと土曜日になった。最後に一言でもいいから啓の本心を聞いてお別れがしたい。笑顔の別れじゃなくてもいいから、ちゃんと。
閉店間際の喫茶店の前にたどり着いた。店の前で、啓が出てくるのを待つ。
数分したら、扉が開いた。
「あれ、もう閉店ですよ」
他の店員さんだった。俺に話しかけながら札を「CLOSE」に裏返す。
「いえ、待ち合わせしているだけで。迷惑でしたらどきます」
「大丈夫ですよ。寒かったら中はいります?」
「すぐ来るのでいいです」
「そうですか」
俺を怪しむことなく彼は中に戻っていった。そのさらに五分後、啓がでてきた。俺を見てすぐに駅方面へ向かって走り出す。
「ちょっと待って、啓!」
俺も地面を蹴って駆け出す。運動が得意な啓は俺よりずっと速い。そこそこ人がいるのにすり抜けるように走っていく。追いつけずに駅まで来てしまった。啓は一つ前の電車にぎりぎり間に合わず、息を切らして膝に手をついている。
「追い、つ、いた。お願いだから、俺の話を聞いて」
ここまできたらもう逃げられない。そっと啓の腕を掴む。今度は優しく包み込むように。痛くしないように。
「やめてくれ」
「嫌だ」
「もう振り回されたくない」
こちらを振り返る啓の瞳が潤んでいる。切れ長の目に弱弱しい色を含んでいる。
「隼太は俺といない方が幸せになれるんだからもう会いに来ないで。俺の前に現れて俺を苦しめないで」
「なんだよそれ」
「女性と家庭を持った方が世間体に縛られず生きていける」
啓とのかみ合わなさにイライラしてくる。啓がそんなこと考えているはずがない。俺を好きだと言った啓が。
「皐月の父親に言われたんだろう。自分の気持ちに従え」
「俺も・・・・・・平穏に生きるならそれがいいと思った」
がっかりした。誰かに反対されることなんて承知の上で啓と付き合っていた。それなのに、君はそこまで弱気なのか?
「じゃあそれを無視して付き合うほど俺のこと好きじゃないってことか」
「それは・・・・・・。うん、啓の将来の幸せがあるならいい」
「ふざけんなよ。俺が好きなのは啓なんだから、啓以外と幸せになる未来なんてない! 啓はどうなんだよ!」
大声でまくし立てる。周りの目はどうでもいい。啓の瞳をじっと見つめる。自分の視界もぼやけてくる。
「好きに決まってるだろ! でも、」
「隼太くん」
背筋が凍った。後ろから低く鋭い声が投げかけられた。振り返らなくてもわかる。幼少期から聞いてきた声だ。啓の顔からはみるみる色が失せ、口を半開きにしたまま絶句している。
「言ったはずだろう。もう彼とは会わないと。君には裏切ってほしくなかったな」
口調は優しいのに、ぞくりと冷や汗が出る。やっと気持ちを伝えられたのに、伝えてくれたのに。
「いえ、あの」
「丁度電車が来たようだ。そこの君はもう帰るところだろう。隼太くんは私の車で送ろう」
啓のことはもう名前で呼ばない。啓に話しかける声は冬の風より冷たい。皐月の父は啓を一瞥して、俺の腕を強引に引っ張っていく。
「ちょっと待ってください、俺は、」
声を出すと、黙れとでも言うように俺を掴む力を強める。「い、痛い」と言っても無視してずんずんと進んでいく。駅員に事情を話して改札から出してもらった。今日くらいは啓と話してお互いの気持ちを確かめたかったのに。
車に乗っても無言のままで、重い空気が流れる。
「どうして・・・・・・俺たちの居場所がわかったんですか」
「知っていたわけじゃない、たまたま通りかかって二人を見つけたんだ」
無言の重圧に抗ってやっと絞り出した疑問に、即座に返答される。偶然見つかるとは運に見放されたものだな。車中は静かな怒りが充満して苦しい。運転手も真顔で目的地を目指している。
最後に見た啓の顔は皐月の父に絶句する様子だけだ。引っ張られているときは気が動転して振り向くことすらしなかった。できなかった。啓の笑顔が見れるはずもないから。
「隼太くんは我が社の大事な取引相手である九条くんの息子という自覚がないのか? そして私の娘の婿候補だということが」
「どちらにも関係ないはずです。企業の上役の息子が同性を好きになってはいけないということはないし、結婚も私と皐月との問題です。私は今のところ皐月と結婚するつもりはありません」
きっぱりと自分の考えを言う。こうなったら真正面からぶつかるしかない。
「いろいろな人と取引するなら印象が重要だろう。それに皐月は君に対して好意を持っている。その気持ちを蔑ろにするのか? 隼太くんも少なからず皐月に好印象を抱いているだろう」
男女が結婚するのが当たり前という価値観。自分が正しいと疑わない人の目だ。俺を犯罪の道から救おうとするかのような必死さ。今の状況で彼に認めてもらうことは不可能だ。
「一条さんの期待を裏切ることになってしまったことは謝ります。でも、俺にも曲げられない気持ちがあります」
丁度家に着いた。今後この車に乗ることはないんだろうなと思いながらドアを開ける。
「気持ちに整理がつくまで会わない方がいいですね」
「ちょっと待て」
肩を強く引かれるが、振り払って外に駆け出す。どこかから帰ってきたらしい皐月が目を丸くしてこちらを見ている。「ごめん」と囁いて車を飛び出した。
冷静に話していたつもりだったのに、外に出た途端心臓がどくどくと脈打つのを感じる。なんとか家にたどり着くと、連絡を貰っていたらしい母が心配そうにでてきた。俺の一番の敵は自分自身の家族ではなく皐月の父親だ。母は、俺が啓と付き合っていると知った時から、同性愛者について書かれた本や話を聞いて知ろうとしてくれている。最初は勿論動揺していたし、皐月との結婚を望んでいたから落胆もしていた。でも今では周りで一番の理解者だ。父も同性愛に対しての偏見はない。けれど、自分のせいで一条グループとの契約が切れてしまうことを恐れる保守的な人なのだ。だから一条さんに何も言えないでいる。それでも俺は父を批判はしない。俺だって父の立場だったら悩む。「仕事中の一条さんはすごく素敵な方なんだがな」父は最近そう言うことが増えた。
心配する母を宥めて夜の支度を済ませる。父親にも連絡がいっていたらしく、帰宅後に少し心配された。
「最近、一人で勉強すること増えたね。私とはやっぱ居心地悪い?」
啓の喫茶店へ逸る気持ちを抑える平日の放課後、皐月が唐突に聞いてきた。啓の喫茶店に行ってから、適当な勉強しかしていない。また親に怒られるのはごめんだけれど、皐月と勉強できるほど心は落ち着いていない。あともう一度だけあの喫茶店に行ってから、これからのことを考えよう。
「そんなことないよ。だけど、たまには一人でやんないとずっと皐月に頼ってばかりになっちゃうし」
それらしい理由を考えて口に出してみる。皐月はそれ以上は詮索せず、ふーん、とだけ言って次の話題に変わった。
やっと土曜日になった。最後に一言でもいいから啓の本心を聞いてお別れがしたい。笑顔の別れじゃなくてもいいから、ちゃんと。
閉店間際の喫茶店の前にたどり着いた。店の前で、啓が出てくるのを待つ。
数分したら、扉が開いた。
「あれ、もう閉店ですよ」
他の店員さんだった。俺に話しかけながら札を「CLOSE」に裏返す。
「いえ、待ち合わせしているだけで。迷惑でしたらどきます」
「大丈夫ですよ。寒かったら中はいります?」
「すぐ来るのでいいです」
「そうですか」
俺を怪しむことなく彼は中に戻っていった。そのさらに五分後、啓がでてきた。俺を見てすぐに駅方面へ向かって走り出す。
「ちょっと待って、啓!」
俺も地面を蹴って駆け出す。運動が得意な啓は俺よりずっと速い。そこそこ人がいるのにすり抜けるように走っていく。追いつけずに駅まで来てしまった。啓は一つ前の電車にぎりぎり間に合わず、息を切らして膝に手をついている。
「追い、つ、いた。お願いだから、俺の話を聞いて」
ここまできたらもう逃げられない。そっと啓の腕を掴む。今度は優しく包み込むように。痛くしないように。
「やめてくれ」
「嫌だ」
「もう振り回されたくない」
こちらを振り返る啓の瞳が潤んでいる。切れ長の目に弱弱しい色を含んでいる。
「隼太は俺といない方が幸せになれるんだからもう会いに来ないで。俺の前に現れて俺を苦しめないで」
「なんだよそれ」
「女性と家庭を持った方が世間体に縛られず生きていける」
啓とのかみ合わなさにイライラしてくる。啓がそんなこと考えているはずがない。俺を好きだと言った啓が。
「皐月の父親に言われたんだろう。自分の気持ちに従え」
「俺も・・・・・・平穏に生きるならそれがいいと思った」
がっかりした。誰かに反対されることなんて承知の上で啓と付き合っていた。それなのに、君はそこまで弱気なのか?
「じゃあそれを無視して付き合うほど俺のこと好きじゃないってことか」
「それは・・・・・・。うん、啓の将来の幸せがあるならいい」
「ふざけんなよ。俺が好きなのは啓なんだから、啓以外と幸せになる未来なんてない! 啓はどうなんだよ!」
大声でまくし立てる。周りの目はどうでもいい。啓の瞳をじっと見つめる。自分の視界もぼやけてくる。
「好きに決まってるだろ! でも、」
「隼太くん」
背筋が凍った。後ろから低く鋭い声が投げかけられた。振り返らなくてもわかる。幼少期から聞いてきた声だ。啓の顔からはみるみる色が失せ、口を半開きにしたまま絶句している。
「言ったはずだろう。もう彼とは会わないと。君には裏切ってほしくなかったな」
口調は優しいのに、ぞくりと冷や汗が出る。やっと気持ちを伝えられたのに、伝えてくれたのに。
「いえ、あの」
「丁度電車が来たようだ。そこの君はもう帰るところだろう。隼太くんは私の車で送ろう」
啓のことはもう名前で呼ばない。啓に話しかける声は冬の風より冷たい。皐月の父は啓を一瞥して、俺の腕を強引に引っ張っていく。
「ちょっと待ってください、俺は、」
声を出すと、黙れとでも言うように俺を掴む力を強める。「い、痛い」と言っても無視してずんずんと進んでいく。駅員に事情を話して改札から出してもらった。今日くらいは啓と話してお互いの気持ちを確かめたかったのに。
車に乗っても無言のままで、重い空気が流れる。
「どうして・・・・・・俺たちの居場所がわかったんですか」
「知っていたわけじゃない、たまたま通りかかって二人を見つけたんだ」
無言の重圧に抗ってやっと絞り出した疑問に、即座に返答される。偶然見つかるとは運に見放されたものだな。車中は静かな怒りが充満して苦しい。運転手も真顔で目的地を目指している。
最後に見た啓の顔は皐月の父に絶句する様子だけだ。引っ張られているときは気が動転して振り向くことすらしなかった。できなかった。啓の笑顔が見れるはずもないから。
「隼太くんは我が社の大事な取引相手である九条くんの息子という自覚がないのか? そして私の娘の婿候補だということが」
「どちらにも関係ないはずです。企業の上役の息子が同性を好きになってはいけないということはないし、結婚も私と皐月との問題です。私は今のところ皐月と結婚するつもりはありません」
きっぱりと自分の考えを言う。こうなったら真正面からぶつかるしかない。
「いろいろな人と取引するなら印象が重要だろう。それに皐月は君に対して好意を持っている。その気持ちを蔑ろにするのか? 隼太くんも少なからず皐月に好印象を抱いているだろう」
男女が結婚するのが当たり前という価値観。自分が正しいと疑わない人の目だ。俺を犯罪の道から救おうとするかのような必死さ。今の状況で彼に認めてもらうことは不可能だ。
「一条さんの期待を裏切ることになってしまったことは謝ります。でも、俺にも曲げられない気持ちがあります」
丁度家に着いた。今後この車に乗ることはないんだろうなと思いながらドアを開ける。
「気持ちに整理がつくまで会わない方がいいですね」
「ちょっと待て」
肩を強く引かれるが、振り払って外に駆け出す。どこかから帰ってきたらしい皐月が目を丸くしてこちらを見ている。「ごめん」と囁いて車を飛び出した。
冷静に話していたつもりだったのに、外に出た途端心臓がどくどくと脈打つのを感じる。なんとか家にたどり着くと、連絡を貰っていたらしい母が心配そうにでてきた。俺の一番の敵は自分自身の家族ではなく皐月の父親だ。母は、俺が啓と付き合っていると知った時から、同性愛者について書かれた本や話を聞いて知ろうとしてくれている。最初は勿論動揺していたし、皐月との結婚を望んでいたから落胆もしていた。でも今では周りで一番の理解者だ。父も同性愛に対しての偏見はない。けれど、自分のせいで一条グループとの契約が切れてしまうことを恐れる保守的な人なのだ。だから一条さんに何も言えないでいる。それでも俺は父を批判はしない。俺だって父の立場だったら悩む。「仕事中の一条さんはすごく素敵な方なんだがな」父は最近そう言うことが増えた。
心配する母を宥めて夜の支度を済ませる。父親にも連絡がいっていたらしく、帰宅後に少し心配された。
