三
年末は特に何もなく、例年と変わらない年越しを過ごした。啓に連絡はしていない。どうせ返事は来ないから。
新学期になるとすぐにテストが待っているので、俺は冬休みの間に勉強しておくことにした。
前に啓を見かけたカフェに向っている。自転車をこいでいると、乾いて冷たい空気が顔に突き刺さる。両手は、啓にもらった手袋に保護されていて温かい。
カフェはこの前と同じような佇まいで、ドアから光が漏れている。ドアを開けると、生暖かい空気が外に漂い出てきた。凍てつく空気にさらされた俺にとって、ほっとするような温かさだ。店に入ると、五十代くらいの店員がいらっしゃいませと低い声で囁いた。店内には、まばらだが年齢、性別を問わず客がいる。ボックス席が空いていたので、外がよく見える席に座った。
「注文が決まりましたらこちらのボタンでお呼びください」
そっとメニューとお冷を置かれた。自転車できたため少しのどが渇いているが、寒いので水には手を付けづらい。メニューを開いてみると、お手ごろな価格のドリンクやフードがあった。皐月と一緒に行ったところより安くてありがたい。俺の行きつけになりそうだ。
温かい紅茶とチーズケーキを頼んだ。待っている間、窓を眺めてみても啓らしき人は現れない。それもそのはず、啓があの時ここにいたのがたまたまだったら会えるわけがない。注文した商品が届いたのを機に諦めて、本来の目的としていた勉強にとりかかる。
この店も皐月と行ったところと同じく、丁度いい雑音が流れていて勉強がはかどる。勉強の合間に食べるチーズケーキもそこらのチェーン店よりずっとおいしい。気づいたら夕方の四時になっていた。周りを見渡すと、来た時と同様にまばらに客がいるだけだった。俺が入店した時に居た客もまだ滞在しており、店員は暇そうに新聞を読んでいる。静かな中でドアが開いた。冷えた空気が店内の眠気を誘う温かさを中和した。
「お疲れ様です」
絶対に忘れることのない声が聞こえてきた。読んでいた教科書から目を上げると、啓がいた。ここの席はドアから遠いために啓はこちらに気づかない。久しぶりに見た啓の姿に驚いて硬直していると、啓は店の奥に入っていってしまった。
啓がいた、啓がいた。最後に会った時と少しも変わらない啓がいた。店の奥に入るということはここでバイトしているということだ。啓にテーブルまで来てもらえるように何かを注文しよう。もう一杯紅茶を頼むために、ボタンを押した。啓はまだ準備が終わってないのか、さっきの店員が注文をとりに来る。仕方がないのでそのまま注文した。数分待つと、啓が紅茶を乗せたお盆を手にフロアに出てくるのが見えた。何もせず見ていたら待ち伏せかと思われそうだから、勉強をしているふりをした。
「お待たせいたしました、紅茶です。ごゆっくり」
「啓?」
なるべく今気づいたかのように啓を見る。でも、はやる気持ちが抑えきれずに啓の腕を掴みそうになっていた。
「・・・・・・ごゆっくりどうぞ」
啓は一瞬目を見開いたが、俺と会話をする意思がないというようにピシャリと言って引き返していく。啓に拒絶されたのは初めてだった。本心ではないんだろうと思いながらも、心臓をギュッと掴まれたように苦しかった。もう一度注文をする気にもなれない。
その後は、残りの紅茶を飲んでからすぐに帰った。レジももちろんおじさんの店員だった。
頭が真っ白になって、夢中で自転車を漕いだ。啓とまた会えた。けど、無造作に腕を振り解かれた。嬉しさと悲しさが渦巻いて、うまく呼吸ができない。
次の週末、懲りずにまた行くことにした。啓のシフトが入っていることを願って。
「いらっしゃいませ」
同じ店員が同じように迎えてくれた。彼の悠然とした態度から見るに、店主なのだろう。今度は厨房が見やすい席に座る。覗いてみると、手際よくコーヒーを入れている啓がいた。注文するためにベルを押すと、来たのは店主。前と同じようなものを頼む。その後品物を持ってくるのも、店主だった。啓は俺が来たことに気づいたのか。こちらにくるのを意図的に避けているように感じる。休日の夕方だというのに、店内はあまり混雑していない。先週と変わらずまばらに客がいるだけだ。
今日は、閉店まで待ってバイト終わりの啓と話をしようと計画している。啓とどう話したら無視されないかと考え込んでしまって勉強が全く頭に入らない。
「お客さん、もう閉店ですんでそろそろお会計してもらってよろしいですかね」
隣の席を片付けていた店主が話しかけてきた。あたりを見ると客は誰もいなくなり、外も暗くなっている。気づかない間に夜になっていた。
「ああ、すみません。すぐ帰ります」
そう言って勉強道具をしまい、お金を支払った。店を出ると、空は闇で覆われていた。歩道の街灯が俺の影を作っている。啓が出てくるのを近くのバス停で待つことにした。夜になっても相変わらずこの道は混んでいる。空は真っ暗なのに、あちらこちらにあるお店からの電気が眩しい。しばらく待っていると、視界の端にある喫茶店の扉が開いた。急いで立ち上がって啓を追いかける。
「待って、啓。話がしたい」
今日掴んだ腕は振り払われない。けれど、こちらを向きそうな気配もない。逃がすまいと手に力をこめる。
「い、痛いです。話なら駅前の公園でしましょう」
「あ、ご、ごめん」
思ったよりも力が入っていたらしく、啓の腕から手を離すとうっすら赤くなっていた。それから啓は振り向きもせず公園を目指している。俺はその背中を追う。話しかけてはいけないような雰囲気だった。
公園に入って初めて、啓が振り返った。何の感情もない真顔だった。啓が何を考えているのかわからない。寒空の下、二人してベンチに腰を下ろす。
「話って、なんですか」
堅苦しい敬語で、啓と出会った当時を思い出す。当時と言っても去年の話なのに。たった一年でこんなにも関係性が変化している。
「啓、と会えたことが嬉しくて、話してみたくて。今までのことを全部俺のせいにしていいから、あの日以降のことを話してほしい」
「話すって言っても、想像通りですよ。一条さんのところの仕事をやめて、高校も転校して、そこの喫茶店でバイトしてるだけです」
抑揚のない声で淡々と、国語の授業で音読させられているみたいに語る。事の成り行きはだいたい予想がついていた。俺が知りたいのは、その間啓がどれほど苦しい思いをしたかを教えてほしかった。公共の場でキスなんかした俺のせいだと苛んでほしかった。
「皐月のお父さんに何か言われた?」
「それも予想がつくでしょう。ただ、普通ではない、と言われただけです。傷ついてはいないです」
隣に座っているから、顔が見えない。自分から横を向く勇気もない。視界には寒そうに犬の散歩をする人だけが映っている。公園内には他に誰もいない。当たり前だ。この寒さの中、夜の公園で遊ぼうなどという暑がりはいない。
「俺は苦しかった」
「それはそういう言葉に慣れていないからですよ。俺は昔から嫌悪の声を聞いてきたから今は何とも思いません。それだけです」
「でも、」
「話は終わりですか? もう寒いので今日は帰りましょう」
白い息を吐きながら啓が立ち上がる。俺がおい、とか待って、とか話しかけるのをよそに駅に向かって歩き出している。
「また、喫茶店に行ってもいい?」
「・・・・・・ご遠慮ください」
そう言ってすたすたと駅に入っていった。
話すことができた歓喜と、他人行儀な態度への悲嘆が混ざり合って、苦い。もう半年前には戻れないんだということが現実として押し寄せてくる。
年末は特に何もなく、例年と変わらない年越しを過ごした。啓に連絡はしていない。どうせ返事は来ないから。
新学期になるとすぐにテストが待っているので、俺は冬休みの間に勉強しておくことにした。
前に啓を見かけたカフェに向っている。自転車をこいでいると、乾いて冷たい空気が顔に突き刺さる。両手は、啓にもらった手袋に保護されていて温かい。
カフェはこの前と同じような佇まいで、ドアから光が漏れている。ドアを開けると、生暖かい空気が外に漂い出てきた。凍てつく空気にさらされた俺にとって、ほっとするような温かさだ。店に入ると、五十代くらいの店員がいらっしゃいませと低い声で囁いた。店内には、まばらだが年齢、性別を問わず客がいる。ボックス席が空いていたので、外がよく見える席に座った。
「注文が決まりましたらこちらのボタンでお呼びください」
そっとメニューとお冷を置かれた。自転車できたため少しのどが渇いているが、寒いので水には手を付けづらい。メニューを開いてみると、お手ごろな価格のドリンクやフードがあった。皐月と一緒に行ったところより安くてありがたい。俺の行きつけになりそうだ。
温かい紅茶とチーズケーキを頼んだ。待っている間、窓を眺めてみても啓らしき人は現れない。それもそのはず、啓があの時ここにいたのがたまたまだったら会えるわけがない。注文した商品が届いたのを機に諦めて、本来の目的としていた勉強にとりかかる。
この店も皐月と行ったところと同じく、丁度いい雑音が流れていて勉強がはかどる。勉強の合間に食べるチーズケーキもそこらのチェーン店よりずっとおいしい。気づいたら夕方の四時になっていた。周りを見渡すと、来た時と同様にまばらに客がいるだけだった。俺が入店した時に居た客もまだ滞在しており、店員は暇そうに新聞を読んでいる。静かな中でドアが開いた。冷えた空気が店内の眠気を誘う温かさを中和した。
「お疲れ様です」
絶対に忘れることのない声が聞こえてきた。読んでいた教科書から目を上げると、啓がいた。ここの席はドアから遠いために啓はこちらに気づかない。久しぶりに見た啓の姿に驚いて硬直していると、啓は店の奥に入っていってしまった。
啓がいた、啓がいた。最後に会った時と少しも変わらない啓がいた。店の奥に入るということはここでバイトしているということだ。啓にテーブルまで来てもらえるように何かを注文しよう。もう一杯紅茶を頼むために、ボタンを押した。啓はまだ準備が終わってないのか、さっきの店員が注文をとりに来る。仕方がないのでそのまま注文した。数分待つと、啓が紅茶を乗せたお盆を手にフロアに出てくるのが見えた。何もせず見ていたら待ち伏せかと思われそうだから、勉強をしているふりをした。
「お待たせいたしました、紅茶です。ごゆっくり」
「啓?」
なるべく今気づいたかのように啓を見る。でも、はやる気持ちが抑えきれずに啓の腕を掴みそうになっていた。
「・・・・・・ごゆっくりどうぞ」
啓は一瞬目を見開いたが、俺と会話をする意思がないというようにピシャリと言って引き返していく。啓に拒絶されたのは初めてだった。本心ではないんだろうと思いながらも、心臓をギュッと掴まれたように苦しかった。もう一度注文をする気にもなれない。
その後は、残りの紅茶を飲んでからすぐに帰った。レジももちろんおじさんの店員だった。
頭が真っ白になって、夢中で自転車を漕いだ。啓とまた会えた。けど、無造作に腕を振り解かれた。嬉しさと悲しさが渦巻いて、うまく呼吸ができない。
次の週末、懲りずにまた行くことにした。啓のシフトが入っていることを願って。
「いらっしゃいませ」
同じ店員が同じように迎えてくれた。彼の悠然とした態度から見るに、店主なのだろう。今度は厨房が見やすい席に座る。覗いてみると、手際よくコーヒーを入れている啓がいた。注文するためにベルを押すと、来たのは店主。前と同じようなものを頼む。その後品物を持ってくるのも、店主だった。啓は俺が来たことに気づいたのか。こちらにくるのを意図的に避けているように感じる。休日の夕方だというのに、店内はあまり混雑していない。先週と変わらずまばらに客がいるだけだ。
今日は、閉店まで待ってバイト終わりの啓と話をしようと計画している。啓とどう話したら無視されないかと考え込んでしまって勉強が全く頭に入らない。
「お客さん、もう閉店ですんでそろそろお会計してもらってよろしいですかね」
隣の席を片付けていた店主が話しかけてきた。あたりを見ると客は誰もいなくなり、外も暗くなっている。気づかない間に夜になっていた。
「ああ、すみません。すぐ帰ります」
そう言って勉強道具をしまい、お金を支払った。店を出ると、空は闇で覆われていた。歩道の街灯が俺の影を作っている。啓が出てくるのを近くのバス停で待つことにした。夜になっても相変わらずこの道は混んでいる。空は真っ暗なのに、あちらこちらにあるお店からの電気が眩しい。しばらく待っていると、視界の端にある喫茶店の扉が開いた。急いで立ち上がって啓を追いかける。
「待って、啓。話がしたい」
今日掴んだ腕は振り払われない。けれど、こちらを向きそうな気配もない。逃がすまいと手に力をこめる。
「い、痛いです。話なら駅前の公園でしましょう」
「あ、ご、ごめん」
思ったよりも力が入っていたらしく、啓の腕から手を離すとうっすら赤くなっていた。それから啓は振り向きもせず公園を目指している。俺はその背中を追う。話しかけてはいけないような雰囲気だった。
公園に入って初めて、啓が振り返った。何の感情もない真顔だった。啓が何を考えているのかわからない。寒空の下、二人してベンチに腰を下ろす。
「話って、なんですか」
堅苦しい敬語で、啓と出会った当時を思い出す。当時と言っても去年の話なのに。たった一年でこんなにも関係性が変化している。
「啓、と会えたことが嬉しくて、話してみたくて。今までのことを全部俺のせいにしていいから、あの日以降のことを話してほしい」
「話すって言っても、想像通りですよ。一条さんのところの仕事をやめて、高校も転校して、そこの喫茶店でバイトしてるだけです」
抑揚のない声で淡々と、国語の授業で音読させられているみたいに語る。事の成り行きはだいたい予想がついていた。俺が知りたいのは、その間啓がどれほど苦しい思いをしたかを教えてほしかった。公共の場でキスなんかした俺のせいだと苛んでほしかった。
「皐月のお父さんに何か言われた?」
「それも予想がつくでしょう。ただ、普通ではない、と言われただけです。傷ついてはいないです」
隣に座っているから、顔が見えない。自分から横を向く勇気もない。視界には寒そうに犬の散歩をする人だけが映っている。公園内には他に誰もいない。当たり前だ。この寒さの中、夜の公園で遊ぼうなどという暑がりはいない。
「俺は苦しかった」
「それはそういう言葉に慣れていないからですよ。俺は昔から嫌悪の声を聞いてきたから今は何とも思いません。それだけです」
「でも、」
「話は終わりですか? もう寒いので今日は帰りましょう」
白い息を吐きながら啓が立ち上がる。俺がおい、とか待って、とか話しかけるのをよそに駅に向かって歩き出している。
「また、喫茶店に行ってもいい?」
「・・・・・・ご遠慮ください」
そう言ってすたすたと駅に入っていった。
話すことができた歓喜と、他人行儀な態度への悲嘆が混ざり合って、苦い。もう半年前には戻れないんだということが現実として押し寄せてくる。
