五月も下旬になり、中間テストもなんとか乗り切った。今日は学校で用事があったから一人で下校している。啓と皐月は親に呼び出されたため先に帰宅した。皐月は社長令嬢だからこういうことはたまにある。お偉いさんの会食やらパーティやらがあるらしい。俺も一度くらいは言ってみたいものだ。
 家の玄関へ入ると、母親が駆け寄ってきた。
「おかえり、ちょっと、今から皐月さんちへいくから荷物を置いてきて」
「ああ、うん、でもどうして」
「いいから、早く」
 母親の顔は明らかに動揺していて顔色を失っている。何もわからないが言われたとおりに自分の部屋に荷物を置いてまた玄関まで戻る。
「行くよ」
 俺の腕を引っ張る母親の声には冷ややかな音を帯びているようだ。
 皐月の家のリビングには、俺の父親、皐月の両親、家政婦さんらしき人、啓がいた。皐月の両親の前に机を挟んで啓が座っている。俺の父親は皐月の両親の横に座っている。誰も何も言わない。啓は首を垂れている。いかにも沈痛な空気が流れ、音を立てるのも躊躇する。俺はこの光景を見て即座に理解した。俺と啓との関係がバレてしまったのだと。
「連れてきました」
 母親は悲しげな、でも冷たい響きの声を発した。そして、俺の父親の横に腰かけた。皐月の父親は能面のような真顔で、怒鳴るでもなく静かに「そこにかけなさい」と啓の隣の椅子を指した。
「はい」
 俺が隣に座っても啓はこちらに一瞥もくれない。下を向いているためやわらかな黒髪が垂れ、どんな顔をしているのかもわからない。
「啓と隼太くんが付き合っているというのは本当か?」
 俺に微笑みながら話しかけてくれる皐月の父親はもういない。視界の端に見える俺の両親も険しい顔をしている。俺はどう答えたらいいのかわからなくて、黙ってしまった。どこまでバレているのかわからない。
「うちの家政婦が、君たちが公共の場で不純な行為をしているところを見たと言っている」
 しまった、あの時駅で見られていたのだ。誰も知り合いがいないと思っていたのに。どうして、どうして。ここまで証拠を突き付けられてしまったら、肯定するしかない。
「・・・・・・はい」
「どうしてそうなった」
「・・・・・・好きだからです」
 そう言うと、皐月の父親の瞳が燃え上がるように見えた。必死に怒りを抑えているのがわかる。
「私たちは・・・・・・君と家族同然に過ごしてきた。そして、皐月の想い人にふさわしいとも思っていた」
「わかっています。一条家の皆さんが俺のことを実の息子のように接してくれたことはありがたく思っています。でも、俺は啓のことが好きになってしまいました」
 目の前にいる人の顔が怖くて見られない。机に視線を固定したまま気持ちを吐き出す。
「そうか。でも、啓にはここをやめてもらう」
「え?」
「うちに同性愛者はいらない。同性愛者がいると知られて取引先からの評判が落ちたら困る。君だってお父さんの立場を危うくはしたくないだろう。それに、離れればわかるはずだ。同性愛は一時の勘違いだと」
 これまで無反応だった啓が膝に乗せた手を握りしめる。こういわれることがどれほど屈辱的か、俺と啓が一番よくわかっている。俺だって心臓が痛くなるほど脈打っている。この場に誰もいなかったらすぐにでも泣き出したい。唇を血が出そうになるくらいにかみしめる。
「啓は治らないと言ったからな。この家からは出て行ってもらう」
「そうですか」
 この男に何を言ってもわかってもらえそうにない。か細い相槌しか出てこない。
「今日はもう帰ってくれ」
 そう言うと、
「本当に申し訳ございませんでした」
 と両親が口を揃えて頭を下げた。なんでこんなことで俺の両親が謝らなくてはいけないんだ。俺は親のように謝る気になれなくて、立ち上がり部屋から出て行こうとする。
「隼太くん、帰る前に皐月に会って少し話をしてほしい。大分落ち込んでいるんだ」
 その部屋をでてから、俺は皐月の部屋に向かった。皐月は俺たちのことを聞いてどんな顔をしているんだろう。皐月は同性愛に対して嫌悪感を持っている様子はなかったから、軽蔑の顔ではないと思う。扉をノックするが返事はない。
「入るよ」
 声をかけても返事がないので思い切って開けてみる。皐月はベッドに突っ伏していた。緩慢な動きでこちらに振り向く。乱れた髪の合間から見える瞳は充血していた。頬にも涙の通り道が刻まれている。いつもの溌溂とした面影はなく、別人みたいだ。俺のことを嫌いになっただろうか。
「ずっと黙っていてごめん。きっと皐月のお父さんに知られたら怒られると思っていたから」
「ちょっと前から気づいてた。二人の接し方が前とは違うってこと。でも勇気がなくて聞けなかった。付き合ってると言われるのが怖かった」
「本当にごめん。皐月だけには言っておけばよかった」
「そんなのは嫌。それはどういうつもりなの」
 皐月の目から涙があふれてくる。
「どうして今私が泣いているかわかってるの」
「それは・・・・・・俺が啓と付き合っていることがショックだったから」
「違う」
 すすり泣きはやがて嗚咽に変わる。部屋中に皐月の声がこもり他には何も聞こえない。この家に俺と皐月しか存在しないみたいだ。
「隼太のことが好きだからよ」
 泣きはらした瞳でこちらを見つめてくる。
「ねえ、最後にこれだけ聞かせて。今後私のことを好きになる可能性はある? それか、一瞬でも私のことを好きだった?」
「・・・・・・皐月のことは友達としてずっと好きだよ・・・・・・ごめん」
「・・・・・・そう、じゃあ帰って」
 ほんのわずかに口角を上げていった。苦しそうな笑みだった。その言葉通り、俺は皐月の部屋をあとにして玄関で待つ両親と一緒に帰った。
 帰宅してから、両親は何と言っていいのかわからない様子で沈黙している。先に口を開いたのは父親だった。
「どんなに遅くなってもいいから、一条さんに謝ってきなさい」
「何も悪くないのに、なんで」
「啓と付き合っていたことを謝りなさい」
「啓が男だから?」
「違う、使用人と黙って交際したからだ」
 俺の父親はあくまで同性愛のことは責めない。頭に血は昇るけれど、父の言い分がわからないわけではない。親しい人の家の使用人に手を出した。信用がなくなるのも無理はない。
「しかも、皐月さんという隼太を想う人がいるんだから」
「でも、俺の意思もあるし、それに皐月が俺を好きだってことは今日初めて知った」
「・・・・・・本当か?」
「うん」
 父親は、一条家にいた時の険しい顔から一変、不思議そうな顔をした。
「今日初めて? 今まで気づかなかったのか?」
「ああ、うん。父さんは知ってたの?」
「皐月さん、お前への好意バレバレだったよ。まさか気づいてなかったなんて」
 父はまさか、と言いながら目を丸くする。少し腹が立つ。言葉にされていないのに知る由なんてないだろう。
「そんなの、言わなきゃわかんないよ」
「そうか・・・・・・それも、そうだよな。とにかく、落ち着いたら謝りに行きなさい」
「・・・・・・はい」
 父親との口約束を終え、母親が用意してくれた夕飯を無言で食べる。その後も気まずくてそそくさと自室に戻った。風呂に入る気力もない。
 机の上に置いてあったスマホを手に取って電源を入れる。啓の言葉がききたくて、「ごめん」と送ってみるが、既読はつかない。皐月の父は啓を解雇すると言っていた。もう、会えないのだろうか。さっき見たうなだれる姿が最後に見る啓の姿なのか。別れるなら笑顔でさよならを告げたかった。
 トーク画面をスクロールして、過去のやり取りを意味もなく目で追う。他人行儀だったころから、今の口調への変化がはっきりと見て取れる。傷ついた心がほんの少しだけ和らぐ。写真を撮られるのを嫌がった啓を隠し撮りした写真も見返す。ほとんどが横顔か後ろ姿だけれど、一緒に出かけた思い出が鮮明に浮かび上がってくる。そこで見た啓の笑顔も。
 気づくと夜中になっていた。扉を開け廊下を覗いても真っ暗で、部屋の灯りで照らされた足元しか見えない。寝ている両親を起したくないし面倒くさいので今日の風呂は完全に諦めた。部屋の中に戻って部屋着に着替える。そのままベッドに入ってまたスマホを眺める。いつまでたっても啓とのトーク画面に変化は訪れない。皐月の父からの言葉、啓の姿、皐月、今日の出来事を思い出すと目から涙が零れてくる。ぼやけて画面が見えない。疲れがたまっていたのだろう、涙を一頻り流したらいつの間にか眠りについていた。

 翌朝、待てども待てども啓が皐月の家から出てくることはなく、皐月は使用人に送迎されて登校した。俺も一人寂しく登校する。啓はやはり学校にも来ていなかった。一条家から追い出された後ということか。授業中に空いた席に意識が向いてしまう。そこにいるはずの人を思い出してしまう。
 今日一日皐月が話しかけてくることはなかった。昨日の今日で顔を合わせて話すのが気まずいと思っているのはお互い様か。でも、皐月は昨日のことをおくびにも出さない。
 次の日のホームルームで、やっと啓の話題がでた。きっとクラスメイトも気にはしていただろう。去年は皆勤賞で皐月とともに過ごしていた執事のような人が急に来なくなったのだから。啓は転校したと、それだけを伝えられた。クラスは少しざわつくくらいで、俺や皐月に話を聞きに来る人も少数だった。

 一週間も経てば、啓の名前を聞くこともなくなった。対照的に、俺の心の中ではどんどん黒い穴が広がっていく。啓と離れて、行動パターンががらりと変化した。放課後はどこにもよらず、休日は家で過ごす。啓の顔が、言葉が、仕草が恋しい。日を追うごとに現実だった啓が薄れていく。
 一週間と少し経った日、父から「そろそろ行ってみたらどうだ」と言われた。俺の心も大分落ち着いてきたころ合いだった。覚悟はしていたし、御詫びも用意している。連絡をして、家に行く。チャイムを押すと、皐月の母親が出迎えてくれた。彼女はどういう顔をしたらいいかわからないみたいな表情をしている。リビングに入ると、皐月の父親が真顔で座っていた。
「この度は申し訳ありませんでした。私の軽率な態度をお許しください」
 そう言って御詫びの菓子折りを丁重に差し出す。
「まあ・・・・・・若気の至りということにする。私も怒ってはいない。君が正しい道に戻ってくれればいいんだ」
「・・・・・・正しい道、と言いますと」
「普通に育って、普通に恋愛をしてくれればいいんだ」
 ああ、この人は俺の気持ちを全く分かっていないんだ。俺と啓の苦しみを知らないんだ。きっと「普通」という言葉の刃で啓を傷つけたんだ。
「俺をどう罵ってもいいですが、啓や他の同性愛者のことを悪く言うのは控えてくれますか」
「・・・・・・どうした?」
 反論したことに虚を突かれ、彼の顔が険しくなった。
「心の中でどう思うかは自由ですけど、それを口に出すのをやめてください」
「君は謝りに来たんじゃないのか」
「はい、あなたの大切な使用人に勝手に手を出したことをです。同性と関係を持ったことにではないです」
「な、」
「皐月と少し話して帰ります」
 これ以上はだめだ。この人とこれ以上話してしまったらまた怒りを買ってしまう。もう買っていると思うが。早口でまくし立てた後廊下に出て、皐月の部屋に向かう。
「入っていい?」
「・・・・・・うん」
 入ると、机に向かって勉強をしていた。ノートに綺麗に書かれた数式が見える。皐月は俺と違って辛い中でも勉強を頑張っていたんだ。またしても皐月の強さを思い知る。
「本当に、申し訳なかった」
「いーよ、私にはもう謝らなくて」
 この前泣きながら訴えてきた時とは違って軽い口調だ。涙を溜めた瞳はそこにはなく、澄んだ眼がこちらを見つめるだけ。
「この前も言ったけど・・・・・・皐月が俺を好きだなんて知らなかった」
「一週間泣いたらすっきりしたよ。私を好きになることはないんでしょう? だったらこの気持ちは捨てられるようになるまでしまっておくよ」
「君に言われなければずっと知らないままだった」
「それはそうだろうね。あんなにみんなにバレバレなのに気づかないんだもん」
 わざとらしく頬を膨らませる。
「い、言わなきゃわかんないよ」
「わかってるよ、隼太には言わなきゃ伝わんないってこと。その勇気があったのは啓だったわけだ」
 気丈に振舞っているが、皐月の瞳には陰りがさした。啓を失った今なら、皐月の気持ちがわかるつもりだ。俺はこんなに脆く砕かれているのに、皐月は学校で平生のように笑顔を振りまく。彼女は強いのだ。
「でも・・・・・・やっぱ辛いなー。しばらくは隼太のこと好きよ。なるべくしまっておくけど、それは許してね」
「うん」
 彼女の真剣な眼差しに応える。しばらく視線が交わり、やがて皐月はふふっと笑い声を出す。
「本当はさ、なんとなく気づいてたんだ。二人のこと」
「え? い、いつから」
「多分、啓が告白した時から。私がリビングで待ってた時あったでしょう」
 あの時の光景が鮮明に思い出される。啓との話が終わった後、皐月はテレビを見たまま俺と挨拶を交わした。その時の皐月の顔は見ていない。君はテレビの方を向きながらどんな顔をしていたんだ?
「やっぱりその時だったんだ。きっと、啓は私より先にあなたを手に入れようとしたのね」
 俺の驚愕した顔を見て、皐月はさらに追い打ちをかける。
「私より先にって」
「私のあなたへの好意に啓が気づいてないとでも思ってるの? クラスメイトのほとんどが気づくほどのものに」
 啓は知っていたのか。知った上で、皐月が告白しないのをいいことに先に思いを告げたのか。
「まあ、主人の想い人に告白するなんて啓も悩んだはず。その証拠に、あなたたちのことが知らされた日に啓が一番最初に謝ったのは私だった。泣いて謝ってたよ。啓の泣き顔なんて初めて見た」
 啓の泣き顔は俺たちが正式に付き合った時以来見ていない。しかもその時はうれし泣きだったから、悲痛に顔を歪める啓を想像したら心がチクリと痛む。
「そうだったんだ」
「最初はただ友達として仲良くなってると思って、あなたに信頼できる友達ができたことが嬉しかった。でも、頻繁に二人で遊びに行くようになって、遂には私に黙ってでかけるようになった。私は二人の関係を知ってしまうのが怖くて、聞けなかった。二人は友達だと自分に言い聞かせてた。ただただ啓が楽しそうにしているのを眺めて辛くなるしかなかった」
 微笑をたたえていた顔が苦痛に歪んでいく。今までの苦渋を吐き出して捨てて行くかのように、言葉を紡いでいる。自分の愛する人が、自分の一番近しい人とデートするのを黙って見ているのがどんなに辛いか、想像しかできないのに胸がギュッとする。
「皐月には、言っておくべきだった。ほんとうにごめん」
「だからいいよもう。私だって早く玉砕しとけばよかったんだからさ」
 自虐的な笑みを浮かべる。皐月が自分の辛さを押し殺しているように見えて、その言葉を素直に受け取ることができない。
「でもさあ、私のパパは逆に理解がなさすぎて酷い。働いてる時はかっこいいのにさ。あんなに古臭い価値観で啓を叱って。隼太とパパが口論するのはあんまり見たくない」
「でも、俺は理解してもらいたい。啓はどこに?」
「知らないの。あの夜のうちに出ていってしまったから、わからないの。パパも何も教えてくれないし。ごめんね、力になれなくて」
「謝るのはこっちのほうだよ。あんなにこの家を引っ掻き回したのに、まだ普通に話してくれてる」
「私がそうしたいの・・・・・・これからも、友達として接してくれる?」
「もちろん、それで皐月がいいのなら」
「じゃあ、お願い」
 今度は自然な笑みに見える。俺も皐月と話をして心が落ち着いた。皐月のことを恋愛的に好きにはなれないけれど、それでも君がいいのなら、一緒にいる。
 別れの挨拶を告げて、一条家を後にした。
すぐにとは言わない。いつか皐月の父親が、同性愛者が嫌いなままでも、俺と啓という存在を受け入れてくれたらいいなと思いながら。