四
次の月からは忙しかった。体育祭の準備と定期テストの勉強が重なるからだ。
啓と俺は得意分野と苦手分野が真逆でお互いに補完し合えるとわかり、俺の家で勉強を進めた。皐月は専用の家庭教師がいるから自然と二人きりになる。勉強しているとき、部屋には誰も入ってこないけれど、啓が俺に触れてくることはない。手にも触れてこなかった。休憩するたびに心臓を跳ねさせていた自分は触られることを期待していたのだろうか。それとも、また急に触られやしないかという緊張だったのだろうか。啓が帰った後に毎回煩悶してしまう。ずっと友達でいたいと思っていた人をこれほど意識してしまうのは、俺の心が変わってしまった証拠なのだろうか。勉強会をしていく中で、休憩時間に啓が自分自身について話してくれる時があった。啓の生い立ちとか、一条家での過ごし方とか。一番印象に残っているのは、啓の恋愛事情について。
「俺は小さい頃から女の子より男の子が好きだったんだ。幼稚園の頃に一回男の子に告白して、『気持ち悪い』って言われてから、男が男を好きなのは変なんだって気づいた。でも、小学校や中学校で女の子を好きになろうとしても無理だった。それに幼稚園で告白したことが広まって、いじめられはしなかったけどあまり人に近づかれなくなった。でも隼太は俺の気持ちを知っても気味悪がらずに一緒にいてくれている。隼太が俺のことを好きになってくれたら嬉しいけど、今でも十分嬉しい」
その独白に対して、俺は何も言えなかった。ただ、俺も啓と出会えてよかったということしか、思い浮かばなかった。
啓に倣って、俺も少しずつではあるが自分のことについて話すようになった。語るほどでもない俺の人生を、啓はしっかりと相槌を打って聞いてくれる。文字通り、肝胆相照らす仲になっていった。
俺の心が決定的に変化したことに気づいたのは、三か月後の約束をした日から二か月ほど経ったとき。次の授業が音楽だったので、俺は教室を移動していた。辺りを見回すと雑踏の中に啓の顔が見える。いつも通り挨拶をしようと後ろから忍び寄ったら、啓は皐月ではない女子生徒と会話をしていた。流石に知らない人との会話を中断させることには気が引けて、歩みを止めた。諦めて音楽室に向おうとすると、啓が笑い声を発するのが聞こえてきた。咄嗟に振り向くと、啓は笑顔になっていて、その笑い声がちゃんと啓から出ていたことがわかる。隣の女子も笑っている。啓は俺の前で微笑むことはあっても、笑い声は聞いたことがない。俺は啓の思わず笑っているようなあの表情を引き出せたことがない。啓が俺の知らない人のように思えた。それと同時に、啓にあの顔をさせた彼女が猛烈に羨ましくなった。音楽室に着いて授業が始まっても、二人の笑っている顔が俺の脳裏に焼き付いていて離れない。羨ましさが煮えたぎり、やがて憎しみになっていると気づいているのに認めたくなかった。そんなの、もう俺が啓を好きみたいじゃないか。授業が終わり、誰もいないトイレで「好き」と口に出してみると自分の中で煮込まれた感情が全身から抜けていくような気がした。まだ自分でも信じられない。
《今日の放課後、二人きりで会える?》
夏休み明けから、放課後に二人で遊びに行くことはたまにあったが、要件も伝えずに会いたいというのはこれが初めてだ。すぐに既読がついて、
《うん。どこに行くの?》
《学校の裏門から行ける北公園がいい》
《わかった。四時には行けると思う》
と簡単なやりとりをする。俺の気持ちを話そうと思ってすぐ行動に出たのはいいが、誘った後から緊張してきた。これまで啓が幾度となく俺に思いを伝えてきたっていうのに、何を心配しているんだ。学校で見かけた女子だってどうせ何かの委員会とか手伝いだったに違いない。啓は処世術に長けていてあれは愛想笑いだったんだ。考えてもどうしようもないことを考えながら、公園の木の下で啓を待っている。この間まで残暑が厳しかったのに、今はもう上着が必要なくらいの秋風が吹いている。だんだん強くなってきた風に目を細めていると、小走りでやってくる影が見えた。
「遅れてごめん、こんなところに呼び出してどうしたの。これからカフェにでも行くの?」
「いや、今日は話があって」
「・・・・・・そう」
啓は明らかに動揺を露わにした。目も合わない。おそらく俺の無表情な顔で何かを察したらしい。口を噤んでじっと下を見ている。
「俺、さ、啓が」
たった二文字を言うだけなのに言葉に詰まってしまう。心臓の音が全身で響いている気がする。啓はこんな気持ちになりながらいつも俺に好きだと言っていたのか。今になってやっとわかる。俺が押し黙っていても啓は急かさず視線を俺のお腹らへんに固定している。
「啓が、好きです。まだ俺のことを好きだったら正式に付き合ってほしい」
一気に言った。啓は、ぽかんと口を開けたままこちらを見た。ほぼ吐息で構成された「え」という言葉が発される。
「返事は?」
告白した後でじわじわと恥ずかしさが湧きだす。一刻も早くこの場を去りたい気持ちを抑えて、啓に尋ねた。
「お、俺で、いいの?」
「もちろん」
「本当に?」
「うん」
「もう一回言って」
「・・・・・・啓のことが、好きです」
もう俺はキャパオーバーだった。でも、どうしても啓には思いを伝えたかった。俺が啓に応えるごとに上がる口角は、今日学校で見たものよりぎこちない。俺にとって啓の笑顔はこうなんだ。啓の笑顔にほっとしていると、啓の瞳から雫が落ちた。
「えっ?」
「う、嬉しくて」
啓が泣いている姿を見るのは初めてだ。顔をくしゃくしゃにして笑いながら、手で涙を拭っている。身長は啓の方が高いのに、今だけは幼く見える。俺はなんと声をかけていいのかわからない。
「ぜひよろしくお願いします」
「こっ、こちらこそ」
最初にすべき恋人らしい振る舞いとは一体どういうものだろうと考えても答えは出ず、とりあえずそっと抱き寄せてみることにした。啓は抵抗せず俺の背中に手を回す。俺より背が高いので抱き寄せると不格好になった。啓の温もりで気持ちが穏やかになり、心地いい。
「どうして三か月経つ前に決断をしたの」
公園からの帰り路、先に口を開いたのは啓だった。俺が告白したんだからその答えはわかりきっているはずなのに確かめるように聞いてくる。随分待たせてしまったのだから仕方ない。
「だって、もう気づいちゃったから」
「何に?」
「・・・・・・啓が、好きだってことに」
一度告白したとしても、相手に好意を伝えることには慣れない。顔が熱を持つのがわかる。
「どうして。今までずっと友達でいたそうだったのに」
「ばれてたんだ。でも、俺の気持ちは少しずつ変わってたんだよ。今日だって、学校で女の子と楽しそうにしてるの見て、羨ましくなったっていうか」
「嫉妬?」
俺をからかうような声色で尋ねられる。啓が冗談っぽく話すのは珍しい。これは恋人の特権ということだろうか。
「まぁ、そう」
「ただ日直で提出物運んでただけ。俺の愛想笑いに騙されてしまうなんて、隼太もまだまだです」
「だって前に見せてもらった作り笑顔は下手だったから」
「皐月さんに鍛錬してもらったんだ」
思った通りあの笑みは本物ではなかった。今啓は俺の隣で俺しかわからない微小な笑みをたたえている。
今日の別れ際はなんとなく離れがたかった。隣の家なのに。
次の月からは忙しかった。体育祭の準備と定期テストの勉強が重なるからだ。
啓と俺は得意分野と苦手分野が真逆でお互いに補完し合えるとわかり、俺の家で勉強を進めた。皐月は専用の家庭教師がいるから自然と二人きりになる。勉強しているとき、部屋には誰も入ってこないけれど、啓が俺に触れてくることはない。手にも触れてこなかった。休憩するたびに心臓を跳ねさせていた自分は触られることを期待していたのだろうか。それとも、また急に触られやしないかという緊張だったのだろうか。啓が帰った後に毎回煩悶してしまう。ずっと友達でいたいと思っていた人をこれほど意識してしまうのは、俺の心が変わってしまった証拠なのだろうか。勉強会をしていく中で、休憩時間に啓が自分自身について話してくれる時があった。啓の生い立ちとか、一条家での過ごし方とか。一番印象に残っているのは、啓の恋愛事情について。
「俺は小さい頃から女の子より男の子が好きだったんだ。幼稚園の頃に一回男の子に告白して、『気持ち悪い』って言われてから、男が男を好きなのは変なんだって気づいた。でも、小学校や中学校で女の子を好きになろうとしても無理だった。それに幼稚園で告白したことが広まって、いじめられはしなかったけどあまり人に近づかれなくなった。でも隼太は俺の気持ちを知っても気味悪がらずに一緒にいてくれている。隼太が俺のことを好きになってくれたら嬉しいけど、今でも十分嬉しい」
その独白に対して、俺は何も言えなかった。ただ、俺も啓と出会えてよかったということしか、思い浮かばなかった。
啓に倣って、俺も少しずつではあるが自分のことについて話すようになった。語るほどでもない俺の人生を、啓はしっかりと相槌を打って聞いてくれる。文字通り、肝胆相照らす仲になっていった。
俺の心が決定的に変化したことに気づいたのは、三か月後の約束をした日から二か月ほど経ったとき。次の授業が音楽だったので、俺は教室を移動していた。辺りを見回すと雑踏の中に啓の顔が見える。いつも通り挨拶をしようと後ろから忍び寄ったら、啓は皐月ではない女子生徒と会話をしていた。流石に知らない人との会話を中断させることには気が引けて、歩みを止めた。諦めて音楽室に向おうとすると、啓が笑い声を発するのが聞こえてきた。咄嗟に振り向くと、啓は笑顔になっていて、その笑い声がちゃんと啓から出ていたことがわかる。隣の女子も笑っている。啓は俺の前で微笑むことはあっても、笑い声は聞いたことがない。俺は啓の思わず笑っているようなあの表情を引き出せたことがない。啓が俺の知らない人のように思えた。それと同時に、啓にあの顔をさせた彼女が猛烈に羨ましくなった。音楽室に着いて授業が始まっても、二人の笑っている顔が俺の脳裏に焼き付いていて離れない。羨ましさが煮えたぎり、やがて憎しみになっていると気づいているのに認めたくなかった。そんなの、もう俺が啓を好きみたいじゃないか。授業が終わり、誰もいないトイレで「好き」と口に出してみると自分の中で煮込まれた感情が全身から抜けていくような気がした。まだ自分でも信じられない。
《今日の放課後、二人きりで会える?》
夏休み明けから、放課後に二人で遊びに行くことはたまにあったが、要件も伝えずに会いたいというのはこれが初めてだ。すぐに既読がついて、
《うん。どこに行くの?》
《学校の裏門から行ける北公園がいい》
《わかった。四時には行けると思う》
と簡単なやりとりをする。俺の気持ちを話そうと思ってすぐ行動に出たのはいいが、誘った後から緊張してきた。これまで啓が幾度となく俺に思いを伝えてきたっていうのに、何を心配しているんだ。学校で見かけた女子だってどうせ何かの委員会とか手伝いだったに違いない。啓は処世術に長けていてあれは愛想笑いだったんだ。考えてもどうしようもないことを考えながら、公園の木の下で啓を待っている。この間まで残暑が厳しかったのに、今はもう上着が必要なくらいの秋風が吹いている。だんだん強くなってきた風に目を細めていると、小走りでやってくる影が見えた。
「遅れてごめん、こんなところに呼び出してどうしたの。これからカフェにでも行くの?」
「いや、今日は話があって」
「・・・・・・そう」
啓は明らかに動揺を露わにした。目も合わない。おそらく俺の無表情な顔で何かを察したらしい。口を噤んでじっと下を見ている。
「俺、さ、啓が」
たった二文字を言うだけなのに言葉に詰まってしまう。心臓の音が全身で響いている気がする。啓はこんな気持ちになりながらいつも俺に好きだと言っていたのか。今になってやっとわかる。俺が押し黙っていても啓は急かさず視線を俺のお腹らへんに固定している。
「啓が、好きです。まだ俺のことを好きだったら正式に付き合ってほしい」
一気に言った。啓は、ぽかんと口を開けたままこちらを見た。ほぼ吐息で構成された「え」という言葉が発される。
「返事は?」
告白した後でじわじわと恥ずかしさが湧きだす。一刻も早くこの場を去りたい気持ちを抑えて、啓に尋ねた。
「お、俺で、いいの?」
「もちろん」
「本当に?」
「うん」
「もう一回言って」
「・・・・・・啓のことが、好きです」
もう俺はキャパオーバーだった。でも、どうしても啓には思いを伝えたかった。俺が啓に応えるごとに上がる口角は、今日学校で見たものよりぎこちない。俺にとって啓の笑顔はこうなんだ。啓の笑顔にほっとしていると、啓の瞳から雫が落ちた。
「えっ?」
「う、嬉しくて」
啓が泣いている姿を見るのは初めてだ。顔をくしゃくしゃにして笑いながら、手で涙を拭っている。身長は啓の方が高いのに、今だけは幼く見える。俺はなんと声をかけていいのかわからない。
「ぜひよろしくお願いします」
「こっ、こちらこそ」
最初にすべき恋人らしい振る舞いとは一体どういうものだろうと考えても答えは出ず、とりあえずそっと抱き寄せてみることにした。啓は抵抗せず俺の背中に手を回す。俺より背が高いので抱き寄せると不格好になった。啓の温もりで気持ちが穏やかになり、心地いい。
「どうして三か月経つ前に決断をしたの」
公園からの帰り路、先に口を開いたのは啓だった。俺が告白したんだからその答えはわかりきっているはずなのに確かめるように聞いてくる。随分待たせてしまったのだから仕方ない。
「だって、もう気づいちゃったから」
「何に?」
「・・・・・・啓が、好きだってことに」
一度告白したとしても、相手に好意を伝えることには慣れない。顔が熱を持つのがわかる。
「どうして。今までずっと友達でいたそうだったのに」
「ばれてたんだ。でも、俺の気持ちは少しずつ変わってたんだよ。今日だって、学校で女の子と楽しそうにしてるの見て、羨ましくなったっていうか」
「嫉妬?」
俺をからかうような声色で尋ねられる。啓が冗談っぽく話すのは珍しい。これは恋人の特権ということだろうか。
「まぁ、そう」
「ただ日直で提出物運んでただけ。俺の愛想笑いに騙されてしまうなんて、隼太もまだまだです」
「だって前に見せてもらった作り笑顔は下手だったから」
「皐月さんに鍛錬してもらったんだ」
思った通りあの笑みは本物ではなかった。今啓は俺の隣で俺しかわからない微小な笑みをたたえている。
今日の別れ際はなんとなく離れがたかった。隣の家なのに。
