「嘘じゃないわ!」
そんな高らかな声が教室に木霊する。しかしながら、小学四年生にして彼女の発する言葉の大半は嘘だった。
春に転校して来て早々『城ヶ崎麗華』だなんて華美で仰々しい名前のせいで、クラスメイトからは勝手にお嬢様だと思われた。そのイメージを壊さぬようにと振る舞う内に、少女はあれこれ取り繕い過ぎてしまったのだ。
夏休み明け、久しぶりの再会と思い出話に盛り上がる教室で、不意に聞こえた「空き地で一人ぼんやりとしている麗華を見た」というクラスメイトの男子、御影廣光の言葉に、彼女はまた一つ嘘を重ねた。
「空き地になんて居る訳ないじゃない。その日は家族でハワイ旅行に行ってたのよ、嘘じゃないわ」
「えー、そうなの? でもあれ、絶対麗華ちゃんだと思ったのに……」
「違うったら! 何なら思い出話だって聞かせてあげる!」
よりによって、密かに憧れていた廣光に嘘を見破られそうになる。何とも心臓に悪いシチュエーションを打破しようと声高らかに宣言するタイミングで、ちょうど朝のチャイムが鳴った。
各々席に戻り、担任の先生の登場にざわめきが収まる。久しぶりの出欠確認を行うと、やはり麗華の名前だけがやけに目立つ気がした。
そこから始業式だの宿題の提出だの新学期特有の慌ただしさで、結局彼女の旅行の話は有耶無耶になった。
「良かった……」
本当は、話せる思い出なんてなかった。事実彼女は空き地でぼんやりしていたし、片親で家計も苦しく、海外旅行なんて生まれてこの方行ったことがなかったのだ。
嘘を続けるために更に嘘を重ねるのは、少女にとってとても大変で苦しいものだった。
騙し続ける罪悪感はもちろんあったし、夜布団に入ると嘘がバレた時を想像して心臓が締め付けられるような心地がした。
設定を忘れないようにとノートに書き留めることもあったし、偽り続けることで、自分で自分を見失いそうになることもあった。
それでも、今更事実を口にするのは恐ろしく、加えてこれまで嘘で積み重ねてきた彼女のプライドが許さなかったのである。
それに嘘をつき続ける間だけは、彼女は貧しく寂しい少女ではなく、立派な豪邸に優しい両親の居る理想のお嬢様の城ヶ崎麗華で居られたのだ。
そのまま新学期初日は何事もなく過ぎ、今日はもう嘘をつかなくて済むと安堵したのも束の間。
帰り際、普段あまり話すことのない廣光から「旅行の話、明日聞かせてね」と笑顔で言われてしまったものだから、麗華は頷くより他になかった。
「どうしよう。明日までに、何か思出話を考えなくちゃ……」
咄嗟にハワイと嘯いたものの、彼女にはハワイの知識があまりなかった。精々海のある南の島という認識だ。けれど語るのなら、どう考えてもそれだけでは足りない。
図書館で調べようかと思い立ち、いつもの帰宅ルートを逸れる。目撃情報の出た空き地を迂回して、麗華が普段通らない中道をしばらく進むと、その先にこじんまりとした一軒の古びた駄菓子屋を見付けた。
「……御伽堂? こんなお店、あったかしら?」
不思議に思いつつも、ついふらふらと足がそちらに向いてしまう。安価にお菓子が買える駄菓子屋は、麗華にとってとても魅力的な場所だった。
躊躇いがちに足を踏み入れた店の中は、少し埃っぽくて薄暗い。けれど色とりどりの駄菓子が視界いっぱいに並んでいて、すぐに目を奪われる。
そして店の奥には優しそうな老婆が一人、座布団の上に背を丸めて座っていた。
「おやまあ、いらっしゃい。お嬢さんは初めてだねぇ……今日から学校かい、夏休みは楽しかった?」
「……えっ!? あ……」
店の置物のようだとさえ思った老婆から不意に嗄れた声で尋ねられ、思わずびくりとする。
そして麗華はいつものように嘘を返そうとして、すぐにこの場ではその必要がないことに気付いた。少しだけ口籠った後、ぽつぽつと素直な言葉を紡ぐ。
「……ううん。夏休み、どこにも行けなかったの。空き地とか、図書館とか、それくらい」
「おや、そうなのかい?」
「うん……本当は、旅行に行きたかった。嘘で話すハワイなんかじゃなくていいの……お母さんと、おばあちゃんの田舎にでもいいから、あたし、家族と過ごす楽しい思い出が欲しかったわ……」
麗華はつい本音を吐露する。学校でも家でも吐き出せなかった想いが、何故かこの空間でなら言える気がした。建物の古い木の香りが、久しく会っていない祖母に似た懐かしさを感じさせるからだろうか。
震える声で紡がれる願いを聞く老婆は、のそりと座布団から立ち上がる。腰がまんまるに曲がって猫のようだ。
ゆっくりと近付いてきた老婆はしわくちゃの手で麗華の頭を優しく撫でて、ややあって近くの棚から小瓶に入った一粒の飴を取り出した。
「そうかい、そうかい。寂しかったねぇ。どれ、それなら『ソライロの飴』をお食べ」
「そらいろの、あめ?」
「ああ。そうしたら、お嬢さんの望む夏の思い出が頭の中に広がるよ」
「……?」
優しい声に促され、麗華は差し出された飴玉を受け取る。ころんとした小粒の飴は、名前の通り空の色をしていた。
「きれい……」
指で摘まみ光に翳したり覗き込んだりしてしばらく見惚れた後、何の印字もない透明のフィルムをはがし、その中の夏の青空と海の境界線に似た色の飴を頬張る。
すると一瞬にして、口一杯にしゅわしゅわと甘く爽やかな夏の味が広がった。こんな味の物を食べるのは初めてだった。
「美味しい……!」
「それは良かった。楽しい夏を味わうんだよ」
ころころと舌で転がす内、ふと不思議な感覚がして、麗華は目を見開く。頭の中に、先程あれだけ考えても思い浮かばなかったハワイ旅行の思い出が次々と溢れ出したのだ。
「え……うそ、なんで!?」
「楽しい思い出が出来たかい?」
「ええ……凄いわ! 夏の海って、見下ろす空って、実際に見るととっても綺麗なのね……」
実際に海外に行ったことはない。それでも、太陽の反射する波の煌めきも、飛行機が浮上する圧力も、空から見下ろす白い夏の雲も、目を閉じるとまるで先程体験したのことのようにはっきりと浮かぶのだ。
「このお店はねぇ、お嬢さんみたいに寂しい想いを抱えた子が来るんだよ。今お嬢さんが食べたのは、『ソライロの飴』さ。空が夏の記憶を分けてくれるんだ」
「夏の記憶……? じゃあ、秋とか冬もあるの?」
小粒の飴はすぐに溶けてなくなって、口の中には夏の余韻が残り、やがて消える。けれど一度溢れた頭の中の夏の記憶は、そのまま消えることはなかった。
「そうさねぇ、他にも色んなお菓子があるけど……お嬢さんの小さい頭の中には、無理に思い出は詰め込みすぎない方がいい。これだけにしておきなさい」
「どうして? あたし、もっと思い出が欲しいわ! 思い出さえあれば、嘘つきじゃなくなるもの!」
人並みの思い出が欲しいという寂しさと、それを誤魔化し嘘をつく辛さ。その両方がお菓子で一つで解決出来るのなら、彼女にとってそれ以上のことはなかった。
魔法のような体験、目の前の奇跡の塊、願いの成就。興奮する彼女に対して、老婆は顔をしかめて首を振る。
「あんまりたくさん詰め込むとねぇ、パンクしてどれが本当かわからなくなってしまうよ。……ちゃんと空けておいて、これから本物の素敵な思い出を入れられた方がいいだろう?」
「……でも、……。わかったわ」
老婆の説得を受け、麗華は渋々頷いた。
本物の素敵な思い出なんて、作れる保証はない。だってこれまでもなかったから、嘘を塗り固めるしかなかったのだ。
先程までの高揚した様子から一転、落ち込む麗華に、老婆は店の入り口近くを指差す。
「あの辺りのお菓子は普通のだからね、持っておいき。ただし、そっちの棚のはいけないよ」
「はぁい……」
そう言って老婆は袋を一つ持たせてくれた。その中に、好きなだけ普通のお菓子を詰め込んでいく。
カラフルなチョコレートに、可愛いグミに、定番のガム、普段は買わないような大きな袋のスナック菓子に、綺麗なキャンディ。それだけでも、普段なら大層嬉しかっただろう。
しかし麗華は、既に魔法のような奇跡の体験をしてしまったのだ。
欲に目が眩み、老婆の忠告を無視して、ポケットにこっそりと「いけない」と言われた棚のお菓子を詰め込んだ。
*****
「麗華、冬休み、久しぶりにおばあちゃんの所に行こうか! 夏休みは無理だったけど、お母さんやっと連休取れたから……」
「……? 何言ってるのお母さん。おばあちゃんの所なら、先週も行ったじゃない。一緒にイタリア旅行もしたし」
「え……?」
「それより、この間食べた本場のカヌレ、また食べたいわ。明日フランスに行きましょう?」
「……麗華?」
彼女のポケットから魔法が減る度、頭の中には嘘の記憶が増えていった。
そして彼女の中ではそれが事実で、それ故あまりにも堂々と語るものだから、以前のように嘘がバレないようにと辻褄合わせの判断も出来なくなっていき、しまいにはクラスのみんなからも、『嘘つき』と呼ばれるようになっていた。
「まーた嘘つき麗華が嘘ついてるよ。懲りないよなぁ」
「嘘じゃないわ! 本当よ!」
クラスの男子にからかわれようと、麗華は怯むことなく主張する。
何しろ嘘をついている自覚もないのだ。以前のような罪悪感もなく、彼女は何故わかってくれないのかと憤った。
「はいはい、良かったな。……行こうぜ廣光。お前優しいし、笑って聞いてたらまたあの嘘つきに騙されちまうぞ!」
「う、ん……ごめんね麗華ちゃん、僕、そろそろ行くよ」
「えっ、廣光くん……待って!」
向けられた背中に伸ばした手が空を切る。一人残された放課後の教室で、麗華は頭の中いっぱいの記憶の中、一番鮮烈な事実を叫んだ。
「……嘘じゃないわ! 魔法の駄菓子屋さんだって、本当にあるんだから! ソライロの飴だって、ちゃんとあったんだから……!」
けれど彼女が本当のことを言ったとしても、もう誰も信じることはない。
そして事実も嘘となり、その後彼女があの駄菓子屋に辿り着くことは、二度と出来なかった。



