新生活を機に実家を出て始めた、念願の一人暮らし。
たくさんの内見を経て決めたこの御伽町のアパートは、家賃も立地も広さもすべてわたしの理想の条件を満たしていた。
しかし引っ越してから、ようやく気付いたことがある。
この家の壁は、とても薄い。隣の部屋の話し声も、いつもすぐ傍から聞こえてくる。
「今日の夕飯何にしようかな……」
「あたし、オムライス食べたいなぁ」
こんな風に、独り言にだってお構い無しに返事が来るのだ。
「……お米もないしな……」
「んー。……じゃあパスタでもいいかな」
完全に会話である。一人暮らしにも関わらず、こんな風に日々他者との会話が成立してしまっているのだ。
わたしはその隣人の声を無視して、冷蔵庫を漁った。期限の近いうどんの存在をすっかり忘れていたことに気付き、ぽつりと呟く。
「……よし、うどんにしよう」
「ああ、うどん期限やばいもんなぁ。和風の気分じゃないけど、仕方ないか」
いや、何で期限を知ってるんだ。というか、あんたに食わせる気は毛頭ない。
思わず突っ込みたくなったけれど、それをすると負けな気がした。
わたしの言葉に対するコメントが向こうから来ることはあれど、向こうの言葉に明確に返事をしたことはなかった。
何となく、これはコミュニケーション等ではなくあっちからの一方通行だと言い張っていたかった。わたしは断じて、この関係性を認めていないのだ。
「……あ、やばぁ。宿題終わってない!」
「……!」
うどんを食べ終え満腹感から一息吐いていると、ふと聞こえた慌て声。そういえばわたしも課題が残っていたなと思い出す。
隣からの声は、何となくわたしよりも年下の女の子のようだった。引っ越しの挨拶の時は留守だったため、結局顔も名前も知らないながら、彼女のお陰ではじめての一人暮らしの不安や孤独を感じる間もない。その点は良き隣人なのだろう。
けれどもまあ、まるで同じ部屋で生活する友達のように馴れ馴れしくわたしのプライベートに踏み込んでくるのだから、その辺りは勘弁して欲しかった。
さっきのうどんの賞味期限だってそうだ。これまでにも度々、似たようなことがあった。
偶然かもしれないけれど、いっそ本当に見えないだけでこの部屋で共同生活を送っているような気にさえなってくる。
「なんて、あほらし……」
ぼんやりと隣人の気配を感じながら課題を済ませ、布団に潜り電気を消すと、隣の声も聞こえなくなった。「おはよう」や「おやすみ」なんて挨拶はないけれど、何と無く同じ生活リズムで暮らす隣人。
雨の日には「洗濯物!」と叫び、ヤカンでお湯を沸かしたままつい動画に夢中になっていた時には「コーヒーと紅茶どっちにしようかなぁ」なんて声がする。
わたしは彼女の存在を、日を重ねるごとに強く感じるようになっていった。
そんな奇妙な関係が半年ほど続いた頃、わたしはある日、ポストに覚えのない郵便物が入っているのに気付いた。
なんの変哲もない茶封筒、けれど良く見ると、その宛先は隣の部屋番号だ。つまり、隣人宛の手紙だろう。
そこにある名前は『都成礼子』と、日頃の言動からあまりイメージのつかない少し古風なものだった。
今まで朧気だった輪郭が急に形を帯びたようで、わたしは何だか感慨に耽ってしまう。
「アヤコ? レイコ? あの子、こんな名前だったのか……いや、呼ぶこともないけど」
この手紙はそのままポストに入れ直せばいいとは思うものの、こんな切っ掛けでもなければ今さら訪ねることもないだろう。わたしは少し考えて、直接彼女に手渡すことにした。
「……生活リズムは似てるし、もう居るかな」
そっと壁に耳を当てると、隣からは嬉しそうな鼻唄が聞こえた。何かいいことでもあったのだろうか。
彼女が在宅だと確認して、わたしはほんの少しの緊張と、わくわくした感覚で隣の部屋の前に向かった。
何しろ、半年間壁越しに存在を認識していて、これがはじめての対面なのだ。
彼女はどんな子だろう。きっと明るくてふわふわの長い髪をした、背の低い小犬のような子だ。長い間勝手にイメージしていた姿形が浮かぶ。
彼女は突然の訪問に驚くだろうけれど、きっと楽しそうに笑って、壁越しに交わすやりとりと変わらずわたしに声をかけてくれる。
わたしはその時はじめて彼女に返事をして、会話するのだ。
そんな想像をしながらも、世紀の瞬間とばかりに恐る恐るチャイムを鳴らすと、ややあって鍵を開ける音がした。
「……あら、どちら様?」
「え? あ、えっと、はじめまして。隣の家の者です。郵便物……間違えてうちに入ってたので……」
「そうだったの。わざわざありがとうね」
わたしを出迎えたのは、想像した同年代の女の子ではなく、白い髪を桜のかんざしで品良く留めた、和装のおばあさんだった。
少し面食らいながらも、彼女はおばあさんと二人暮らしなのかと思い直す。
けれどもし二人暮らしだとして、今まで鮮明に響いていた彼女の声のように、この人の声を聞いたことがないのはおかしかった。
「……あの、すみません。お宅に、わたしと同い年くらいの女の子、居ませんか?」
「え……?」
手紙の宛名は、どうやらこのおばあさんのものらしい。確認して受け取り、扉を閉めようとした都成さんの顔は、わたしの問いに怪訝そうにしかめられる。
それはそうだ、初対面の玄関先で家族構成を聞くなんて、何かのセールスや勧誘と思われても仕方ない。
「あ、いえ……壁、薄いじゃないですか。たまに、女の子の声がしたものですから」
たまにどころか、彼女は毎日わたしに対して何かしらの声掛けをしてくるのだ。もしこの狭い部屋に二人で暮らしているなら、この人にもその声が聞こえているはずだった。
わたしは彼女の相変わらずマイペースな言動にうっかりリアクションしそうになったり、返事をしそうになって、何とか咳払いで誤魔化したり独り言に変換したりして、半年間の攻防は続いていた。
それを知らないと言うのなら、このおばあさんは何者なのか。
強盗が住人になりすますケースもあると聞くし、最初にはじめましてと言ってしまったから、隣人の顔を知らないのはばれている。幾らでも誤魔化せるのだ。
「……? あら、変ねぇ。このアパートの壁、結構分厚いし、防音でしょう?」
「えっ?」
しかしその返しに、今度はわたしが顔をしかめる番だった。そんなはずはない。あんなにも鮮明に会話出来るのだから、壁は紙同然の薄さだろう。
けれど、ふと気付く。そういえば、彼女の声以外、生活音は聞こえなかった。それに、わたしの住む部屋は角部屋ではない。けれど反対隣の生活音や声は、何一つ聞こえたことがなかった。
「あ、れ……?」
「私、もう夫に先立たれてからずっとここに一人で住んでるけれど、他所様のお家の音は聞こえたことないわね」
「そう、でしたか……失礼しました」
戸惑いながらも、わたしはそれ以上追及することも出来ず、部屋に戻るしかなかった。
少し考えてからわたしは改めて部屋の壁に耳を当てる。
相変わらず楽しそうに鼻唄を歌う、彼女の声だ。やっぱり、隣に居るのだ。あの人は嘘をついていたに違いない。
けれどふと思い立ち、わたしは反対隣の壁にも耳を当てる。隣は確か、小さい子の居るシングルマザーだ。なのに、そちらからは子供の声や遊ぶ音は、何も聞こえなかった。今までそのことを、気にしたこともなかった。
「なんで……?」
いっそのこと、わたしと都成さんの家の間だけ、壁が薄いのだろうか。
わたしは躊躇いがちに、彼女の歌声の聞こえる壁の方……人の大きさくらいに一部の壁紙が違う部分を、軽くノックしてみる。
「はぁい、入ってまーす」
いつも通りの彼女の明るい声が、すぐ近くから聞こえた。
たくさんの内見を経て決めたこの御伽町のアパートは、家賃も立地も広さもすべてわたしの理想の条件を満たしていた。
しかし引っ越してから、ようやく気付いたことがある。
この家の壁は、とても薄い。隣の部屋の話し声も、いつもすぐ傍から聞こえてくる。
「今日の夕飯何にしようかな……」
「あたし、オムライス食べたいなぁ」
こんな風に、独り言にだってお構い無しに返事が来るのだ。
「……お米もないしな……」
「んー。……じゃあパスタでもいいかな」
完全に会話である。一人暮らしにも関わらず、こんな風に日々他者との会話が成立してしまっているのだ。
わたしはその隣人の声を無視して、冷蔵庫を漁った。期限の近いうどんの存在をすっかり忘れていたことに気付き、ぽつりと呟く。
「……よし、うどんにしよう」
「ああ、うどん期限やばいもんなぁ。和風の気分じゃないけど、仕方ないか」
いや、何で期限を知ってるんだ。というか、あんたに食わせる気は毛頭ない。
思わず突っ込みたくなったけれど、それをすると負けな気がした。
わたしの言葉に対するコメントが向こうから来ることはあれど、向こうの言葉に明確に返事をしたことはなかった。
何となく、これはコミュニケーション等ではなくあっちからの一方通行だと言い張っていたかった。わたしは断じて、この関係性を認めていないのだ。
「……あ、やばぁ。宿題終わってない!」
「……!」
うどんを食べ終え満腹感から一息吐いていると、ふと聞こえた慌て声。そういえばわたしも課題が残っていたなと思い出す。
隣からの声は、何となくわたしよりも年下の女の子のようだった。引っ越しの挨拶の時は留守だったため、結局顔も名前も知らないながら、彼女のお陰ではじめての一人暮らしの不安や孤独を感じる間もない。その点は良き隣人なのだろう。
けれどもまあ、まるで同じ部屋で生活する友達のように馴れ馴れしくわたしのプライベートに踏み込んでくるのだから、その辺りは勘弁して欲しかった。
さっきのうどんの賞味期限だってそうだ。これまでにも度々、似たようなことがあった。
偶然かもしれないけれど、いっそ本当に見えないだけでこの部屋で共同生活を送っているような気にさえなってくる。
「なんて、あほらし……」
ぼんやりと隣人の気配を感じながら課題を済ませ、布団に潜り電気を消すと、隣の声も聞こえなくなった。「おはよう」や「おやすみ」なんて挨拶はないけれど、何と無く同じ生活リズムで暮らす隣人。
雨の日には「洗濯物!」と叫び、ヤカンでお湯を沸かしたままつい動画に夢中になっていた時には「コーヒーと紅茶どっちにしようかなぁ」なんて声がする。
わたしは彼女の存在を、日を重ねるごとに強く感じるようになっていった。
そんな奇妙な関係が半年ほど続いた頃、わたしはある日、ポストに覚えのない郵便物が入っているのに気付いた。
なんの変哲もない茶封筒、けれど良く見ると、その宛先は隣の部屋番号だ。つまり、隣人宛の手紙だろう。
そこにある名前は『都成礼子』と、日頃の言動からあまりイメージのつかない少し古風なものだった。
今まで朧気だった輪郭が急に形を帯びたようで、わたしは何だか感慨に耽ってしまう。
「アヤコ? レイコ? あの子、こんな名前だったのか……いや、呼ぶこともないけど」
この手紙はそのままポストに入れ直せばいいとは思うものの、こんな切っ掛けでもなければ今さら訪ねることもないだろう。わたしは少し考えて、直接彼女に手渡すことにした。
「……生活リズムは似てるし、もう居るかな」
そっと壁に耳を当てると、隣からは嬉しそうな鼻唄が聞こえた。何かいいことでもあったのだろうか。
彼女が在宅だと確認して、わたしはほんの少しの緊張と、わくわくした感覚で隣の部屋の前に向かった。
何しろ、半年間壁越しに存在を認識していて、これがはじめての対面なのだ。
彼女はどんな子だろう。きっと明るくてふわふわの長い髪をした、背の低い小犬のような子だ。長い間勝手にイメージしていた姿形が浮かぶ。
彼女は突然の訪問に驚くだろうけれど、きっと楽しそうに笑って、壁越しに交わすやりとりと変わらずわたしに声をかけてくれる。
わたしはその時はじめて彼女に返事をして、会話するのだ。
そんな想像をしながらも、世紀の瞬間とばかりに恐る恐るチャイムを鳴らすと、ややあって鍵を開ける音がした。
「……あら、どちら様?」
「え? あ、えっと、はじめまして。隣の家の者です。郵便物……間違えてうちに入ってたので……」
「そうだったの。わざわざありがとうね」
わたしを出迎えたのは、想像した同年代の女の子ではなく、白い髪を桜のかんざしで品良く留めた、和装のおばあさんだった。
少し面食らいながらも、彼女はおばあさんと二人暮らしなのかと思い直す。
けれどもし二人暮らしだとして、今まで鮮明に響いていた彼女の声のように、この人の声を聞いたことがないのはおかしかった。
「……あの、すみません。お宅に、わたしと同い年くらいの女の子、居ませんか?」
「え……?」
手紙の宛名は、どうやらこのおばあさんのものらしい。確認して受け取り、扉を閉めようとした都成さんの顔は、わたしの問いに怪訝そうにしかめられる。
それはそうだ、初対面の玄関先で家族構成を聞くなんて、何かのセールスや勧誘と思われても仕方ない。
「あ、いえ……壁、薄いじゃないですか。たまに、女の子の声がしたものですから」
たまにどころか、彼女は毎日わたしに対して何かしらの声掛けをしてくるのだ。もしこの狭い部屋に二人で暮らしているなら、この人にもその声が聞こえているはずだった。
わたしは彼女の相変わらずマイペースな言動にうっかりリアクションしそうになったり、返事をしそうになって、何とか咳払いで誤魔化したり独り言に変換したりして、半年間の攻防は続いていた。
それを知らないと言うのなら、このおばあさんは何者なのか。
強盗が住人になりすますケースもあると聞くし、最初にはじめましてと言ってしまったから、隣人の顔を知らないのはばれている。幾らでも誤魔化せるのだ。
「……? あら、変ねぇ。このアパートの壁、結構分厚いし、防音でしょう?」
「えっ?」
しかしその返しに、今度はわたしが顔をしかめる番だった。そんなはずはない。あんなにも鮮明に会話出来るのだから、壁は紙同然の薄さだろう。
けれど、ふと気付く。そういえば、彼女の声以外、生活音は聞こえなかった。それに、わたしの住む部屋は角部屋ではない。けれど反対隣の生活音や声は、何一つ聞こえたことがなかった。
「あ、れ……?」
「私、もう夫に先立たれてからずっとここに一人で住んでるけれど、他所様のお家の音は聞こえたことないわね」
「そう、でしたか……失礼しました」
戸惑いながらも、わたしはそれ以上追及することも出来ず、部屋に戻るしかなかった。
少し考えてからわたしは改めて部屋の壁に耳を当てる。
相変わらず楽しそうに鼻唄を歌う、彼女の声だ。やっぱり、隣に居るのだ。あの人は嘘をついていたに違いない。
けれどふと思い立ち、わたしは反対隣の壁にも耳を当てる。隣は確か、小さい子の居るシングルマザーだ。なのに、そちらからは子供の声や遊ぶ音は、何も聞こえなかった。今までそのことを、気にしたこともなかった。
「なんで……?」
いっそのこと、わたしと都成さんの家の間だけ、壁が薄いのだろうか。
わたしは躊躇いがちに、彼女の歌声の聞こえる壁の方……人の大きさくらいに一部の壁紙が違う部分を、軽くノックしてみる。
「はぁい、入ってまーす」
いつも通りの彼女の明るい声が、すぐ近くから聞こえた。



