僕は、人生初の家出をすることにした。

 近頃は暑くて夜も中々眠れないし、それでも朝にはいつも通りに起こされる。
 今日は用事があったから仕方ないけれど、寝不足の炎天下なんてそれだけで疲れてしまう中、僕の不満はどんどん積み重なって行ったのだ。

「ねえ、かき氷の旗あるよ! ソフトクリームも! 食べてこうよ!」
「それご飯じゃないでしょ。お昼食べてからね」

 朝からすごく暑かったから、一緒に出掛けたお母さんもその提案に否定はしなかった。
 僕はわくわくして、ソフトクリームとかき氷どっちにしようか真剣に考えながら、隣のお店で先にお昼ごはんを食べることにする。
 そのお店はデザートにアイスをつけられたし安かったけれど、それを伝えると「あとでさっきの食べるんでしょ」と言われたのでそれもちゃんと我慢した。
 嫌いな野菜もちゃんと食べたし、早くしなさいと急かされたから急いだのに。

 それなのに。ごはんを食べてお店を出ると、お母さんはかき氷とソフトクリームの店とは反対の方へと歩き出す。

「え?」
「ちょっとそこのお店見てくね」
「かき氷は!?」

 引き留めて声をかけるのに、お母さんは無視をして他のお店に向かってしまうのだ。
 御伽町に昔からある古びたデパートの店内は炎天下よりはましだったけれど、婦人服売場はつまらないし、埃っぽいお店の中だと目も痒い。居心地は悪かったけど、それより何より僕の頭はかき氷やソフトクリーム、冷たくて美味しいものでいっぱいだった。
 早く見終われと思ったのに、お母さんは結局全フロアを見て回る。
 僕はその後をふらふらとついて歩くしかできなかった。こうなるとお母さんは長いし、僕の言うことなんてちっとも聞いてくれないのだ。

 二階に行くと小さなレストランがあって、ガラスケースの中にクリームソーダやパンケーキの食品サンプルがあるのを見つけ、僕はついそちらに向かってしまう。

「クリームソーダ、パフェ、パンケーキ、あんみつ……」

 何度も何度も呪文みたいに繰り返しても、お母さんはやっぱり無視をする。
 今日だけじゃない。最近お母さんは僕の言葉をよく無視するし、問いかけてもしばらく答えてくれないことが増えた。

「……もう、お母さんは見てたいなら見てていいよ。その間僕だけ行ってくる」
「え、ダメ」

 こういう時ばかりは返事が早い。
 僕はすっかり不貞腐れて、数分ごとに用事の時間までもう残り少ないことを伝える。
 結局スイーツは二軒とも寄れないまま、僕は暑さと足の痛みに眉を寄せながらお母さんの後をついて回る。
 用事が終わったら、最後に寄る買い出し先でクレープがあると聞いていたから、それに望みを託した。

 それなのに。用事を終えて、また長いお買い物に付き添って、その後ようやく立ち寄れたクレープ屋さんは、閉まっていた。僕は絶望に肩を落とす。

「そんな……」
「クレープ屋さんがやってなかったのは私のせいじゃないでしょ」
「……ここだけじゃなくて、かき氷もクリームソーダも無視したのはお母さんじゃん!」
「時間がなかったでしょ」
「時間ないのはお母さんがずっと服見てるからでしょ!? その間僕ひとりで食べて待ってるって言ったじゃん!」
「朝陽だけなんてずるいでしょ」
「はあ!? ……もういい、僕座ってる」

 何一つ願いが叶うことなく、この悔しさが何も伝わらない悲しさに、僕はすっかり歩く気力もなくなった。
 絆創膏を貼った足を引きずって、更にお買い物を続けるお母さんの後をついて回る元気もなくて、休憩コーナーの椅子に座って待つことにする。

 このお店はお買い物レシートを持って二階のゲームセンターに行くと、クレーンゲームがタダで一回できる。
 お母さんにもそれを待つことを伝え、僕は一人ぼんやりとする。それだけを楽しみに、更に一時間も待った。

 それなのに。お母さんが戻ってきたのはバス時間の十分前。
 ゲームコーナーでレシートと引き換えにクレーンゲームをするには、取れそうな景品や欲しい景品を吟味してから遊ぶ台を決めて、店員さんに声をかけてレシートを確認して貰って、先に決めた台まで店員さんを連れていって一回分遊べるための操作して貰わないといけない。

「ねえ、もう時間ないじゃん!」
「これでも全然見て回れてないんだよ。それに、ゲームなんて五分もあればパッと終わるでしょ」

 僕は何にも見れてないし食べれてない。それでもお母さんには、そんなの関係ないようだった。

「ゲームだって、いろいろ決めたりしないとなのに!」
「店員さん居るでしょ、早く声かけな」

 手順を必死に説明しても理解して貰えないし、そもそもじっくり台を選ぶのだってゲームの楽しみの一つなのに。遊べるチャンスだって一度だけなのに。
 バスまでの時間は数分しかなくて、ゲームセンターの入口近くの台を軽く見てるだけで急かされて、店員さんも見つからないし、見つけたとしてもどの台で遊ぶのか決めるどころか全部見る余裕さえない。

 ずっとずっと我慢させられて、全部全部諦めたのに。最後の細やかな楽しみさえこんな風にされて、僕はもう限界だった。こんなのあんまりだ。

「……もういい、帰る!」
「は? なんでキレられないといけないの。早く決めればいいでしょ」
「もういい!!」

 僕はお母さんの鞄にレシートを投げ入れて、足早にバス停に向かう。今日は荷物持ちもするもんか。
 もう嫌だ。早く家に帰って、お金を持って、僕ひとりでクリームソーダもソフトクリームも今日諦めた全部を食べるんだ。そのまま家に帰らずに旅をして、家出するんだ。

 帰り道でそう宣言したけれど、お母さんはあまり本気にしていないのかいつものようにほとんど聞いていないのか「あ、そう」とだけ返事をした。


*******


 家に帰ると、僕は家出の支度をする。シャワーを浴びて、汗だくの服を着替えて、お財布や大好きなぬいぐるみ、必要な荷物を大きな鞄に詰め込んだ。すっかり重たくなってしまったけれど、これで長旅だってできるはずだ。通帳だとかも持っていこうと思ったけれど、落としたら困ると渡してくれなかった。

「朝陽、雨降るから傘持ってきな」
「……持った」
「夜は寒いからね」
「……上着も持った」
「いってらっしゃい」

 家出するって伝えても、大荷物を持っていても、いつも通りの調子で見送るお母さん。僕が怒ってるのも、悲しんでるのも、何にも伝わっていない。
 思えば僕が学校に行かなくなってから返事がないことも多いし、会話が噛み合わないことも増えた。僕の言葉や気持ちはどれだけ伝わっているのかもわからない。

 昼間あれだけ暑かったのに、外に出ると既に雨が降っていた。僕の代わりに泣いてくれているのかもしれない。
 僕は入れたばかりの折りたたみ傘を開いて、家を出る。玄関の閉まる音が後ろから聞こえて、大きく一歩踏み出した。
 予定も行く先も何も決めずふらふらと夜に外に出るのは初めてで、ちょっとした冒険気分だった。

「……雨なのに暑い」

 痛む足も、変わらず蒸し暑い気温も、降りしきる雨も、濡れた靴も、僕の気持ちをどんよりとさせる。
 唯一の希望だった近所のクリームソーダのあるお店も、あと三十分で閉まってしまう。

 僕は今日食べ損ねたいろんなものを想像しながら、あてもなく歩く。
 大きなクリームソーダのしゅわしゅわプールに、食べても食べてもなくならないぐるぐるソフトクリーム。頭が痛くならないふわふわのでっかいかき氷に、てっぺんが見えないくらい積み重なったパンケーキ。
 遊べなかったクレーンゲームは、夜通し遊べたらいいのに。なんたって今夜は帰らないのだ。時間はいくらでもある。

 じめじめの空気と悲しい気持ちをかき消すように幸せな空想をしながら歩いていると、ふと、知らぬ間に一軒の店に辿り着いた。
 喫茶店かレストランだろうか。白くて綺麗なお城のような立派な建物には『カケラ堂』という柔らかな手書きの看板がかかっている。
 少しだけ開いている窓からは甘くて美味しそうな匂いがして、僕はつい、ふらふらとそちらに向かう。

「いらっしゃいませ」

 深々と頭を下げ出迎えてくれた店員さんは、きちっとした燕尾服姿。しかし首から上には可愛らしいくまの被り物をしていた。
 何かのイベントだろうか。一瞬面食らったけれど、可愛らしいその姿に思わず笑みが浮かぶ。

「あ、えっと……甘い匂いがして……ここ、何屋さんですか?」
「ふふ、何でもございますよ。そうですね、今ですとクリームソーダもかき氷もソフトクリームも……あとはパンケーキもパフェもあんみつもクレープもご用意しております」
「えっ、本当!?」

 今まで食べたいと想像してきたものを次々羅列され、さっきまで土砂降りのどんより気分だった心も晴れやかになった。

「あ、でも……僕あんまりお金なくて……」
「ああ、うちはお金はいただきません」
「えっ?」
「その代わり、お客さまがご満足された暁には『あるもの』をいただきたいのです」
「あるもの、って……?」

 よくわからない提案に、なんとなく嫌な予感がする。被り物の向こうの目が、確かに僕を捉えるのがわかった。僕は思わず息を飲む。

「それは……」
「それは?」
「食べてからのお楽しみです」
「全然楽しみじゃないよ!? こわいやつじゃん!」

 むしろ不安が増すばかりだ。その誘惑に乗るか、外に飛び出してまたあてもなく雨の中を歩くか。
 家に帰るなんて選択肢はなくて、僕は目の前のくまと扉の向こうのすっかり暗い外を見比べる。

「おやめになりますか?」
「……、……い、いただきます」

 僕は誘惑に勝てなかった。


*******


「わあっ、クリームソーダのプール……には足りないけど、水槽?」

 くまの店員さんに連れられて店の奥へと進むと、通された部屋には大人が一人入れるくらいの大きな金魚鉢があって、そこにはしゅわしゅわのクリームソーダがなみなみ注がれていた。
 予想以上の迫力と綺麗さに、僕はそっとガラスの容器に触れる。ひんやりとした感触が心地好い。

「どうぞ心行くまでお召し上がりください」
「えっ、いいの? いただきます!」

 僕は立て掛けられた小さな梯子を上って、クリームソーダの上に行く。
 上に乗ったアイスクリームもたっぷりで、大きなお玉で掬ってもちっとも減らない。その下のメロンソーダは甘くて冷たくて、飲むと時折氷がからんと音を立てた。

「おいしい……!」
「それは良かったです。実はクリームソーダの底にはとびきりの隠し味がありまして……よろしければ覗いてみてください」
「……? わっ!?」

 勧められるまま覗き込もうとして、バランスを崩す。そして僕は、クリームソーダの水槽に落っこちた。
 溺れてしまうと慌てるけれど、ふと冷たくて甘い液体に全身包み込まれると、昼間の暑さや悲しみが少しずつ癒される心地がした。

 僕はそのまま水槽の中を揺蕩う金魚みたいに、クリームソーダの中に浮かぶ。炭酸の泡のお陰か、不思議と苦しくはなかった。

 くまの店員さんに言われた通り、底の方へと潜りより濃い緑の部分へと手を伸ばす。これが隠し味だろうか。
 その中に、氷とは違う丸くて透明なビー玉みたいなキラキラを見つける。僕はクレーンゲームみたいにそれを掴んで、口に運んだ。

「……!」

 不意に、胸の中に溜め込んでいたもやもやが、メロンソーダのしゅわしゅわのように泡となって溢れだす。

 そうだ。学校に行かなくなって、僕は幸せになれるはずだった。
 もう嫌な子と会わなくて済むし、苦手な勉強は無理しなくていいし、机にかじりついてなきゃいけなかった時間にスマホゲームだって出来たし、夜更かししても起こられない。毎日が日曜日みたいで、心はすっきりしたはずだった。
 重たくて仕方なかった荷物を置いて、どこにでも行けるような気がした。
 お布団の中でくしゃくしゃになっていた消えちゃいたいなって気持ちも、どこかに投げられる気がした。

 でも、実際そうなってみて、どこか漠然とした不安があったんだ。

 他の子みたいに頑張れなくて、何もしないでずっと家に居る僕。
 一人息子で将来お母さんを支えなきゃいけないのに、目の前のことからさえ逃げ出した僕。
 先のことを見て見ぬふりして、今に甘えていたくて、それなのに焦る気持ちで全部が嫌で仕方ない僕。
 一度逃げる選択肢を得たことで、我慢を強いられ続け願いが何も叶わないことに耐えられなくなった僕。
 そんな僕の言葉を全然聞かなくなって、会話さえよく噛み合わなくなったお母さん。

 いろんな不満や不安がどんどん積み重なって、何もかも思い通りにいかなくて、些細なきっかけでついに炭酸の泡みたいに弾けてしまったのだ。

「想いの泡が弾けるクリームソーダは如何でしたか?」
「え……?」

 気付くと僕は金魚鉢の外側に居て、あれ程あったクリームソーダは跡形もなく消えていた。服も髪も濡れていないし、ガラスの内側も透明で綺麗だ。
 そしてふと、胸の中にはずのあったぐちゃぐちゃの気持ちがやけにすっきりしていることに気付く。

「……どうなってるの?」
「では、お次はクレープを心行くまでお召し上がりください」
「え、この人も僕の言うこと何も聞いてくれない……」

 混乱している内に次に案内されたのは、お布団みたいに大きなクレープのある部屋。

「わ!?」

 甘さと仄かな温かさの残るクレープの香りに吸い寄せられるまま、僕は何も考えられずクレープに飛び込む。

 ふわふわクレープに寝転がりながら、僕はそのままかぶりつく。柔らかな生地に包まれた溶けかけの生クリームと甘いフルーツ。ふりかけられたカラフルなチョコスプレーにテンションが上がった。

「おいしい……いくらでも食べられそう」
「それは良かったです。実はクレープの中にもとびきりの隠し味がありまして……よろしければ覗いてみてください」
「……わあ!」

 促されるままクレープをそっと捲ってみる。そこには目に見える部分よりたくさんのフルーツが包まれていて、生クリームを纏っていてもひとつひとつが鮮やかだった。
 その中に、先程クリームソーダの中で見つけた透明なビー玉みたいなキラキラが埋もれているのに気付いた。恐る恐る、僕はそれを口に含む。

 すると再び、不思議な感覚がした。
 眠気のようなふわふわとした感覚に抗えず、僕はクレープの布団に沈む。温かくて柔らかな甘い微睡みの中、僕は小さい頃の夢を見た。

 何も不安なこともなく、当たり前のようにお父さんとお母さんと三人で暮らしていた頃の夢。
 まだ意地悪な子やどうしようもない苦しみに出会う前の、穏やかな日々。
 世の中の理不尽や嫌なものを知る前の、目の前のものすべてが新鮮で楽しかった頃。

 いつまでもこうしていたい。ずっとこの優しい夢に浸っていたい。そんな気持ちにさせられる。

「……心を包み込むクレープは如何でしたか?」
「あ……」

 けれど気付くと僕はクレープの布団の外に居て、固い床の感触にぱちりと目を開く。
 くまの店員さんは、白い手袋をした掌を差し出して僕を起こしてくれた。
 そしてふと、ここしばらく漠然とした不安にかられて忘れていた穏やかな気持ちを思い出す。

「……せっかく休めるんだから、もっと心の底から休まないと意味ないな……」

 クリームソーダ同様大きなクレープはもうなくて、名残惜しさを感じつつも、懐かしい安らぎに胸が満たされる。

 そしてその後も、くまの店員さんに案内されるまま僕は夢のようなスイーツの部屋を巡った。

 何段も積み重ねられた特大パンケーキの山に登りながら、かつての辛かった日々を思い出し、ぐるぐるの冷たいソフトクリームの渦に巻き込まれて、ぐちゃぐちゃな感情に振り回される苦しみを再確認した。
 そしてクリームあんみつの透き通った寒天の中にやりたかったことをたくさん夢見て、溶けないかき氷は自由自在に好きな色のシロップで彩った。

「……もうお腹いっぱい!」
「ふふ、ご満足いたただけたようで何よりです」

 不思議なスイーツたちを堪能して、お腹も心も落ち着いた。わたあめのソファーに座りながら久しぶりに心底満たされた心地でいると、くまの店員さんは被り物の下で微笑む。

「お客さまがご満足されたようなので、お約束通り『あるもの』をいただきたいのですが」
「え、あ……。……その、あるものって?」

 すっかり忘れていた。恐る恐る視線を向けると、くまの店員さんはキラキラの器を持っていて、それを僕に差し出す。
 中を覗き込むと、そこに入っていたのは僕が今まで食べてきた『隠し味』のビー玉みたいな球体だった。

「こちらの隠し味、実は人間の心の欠片で出来ておりまして」
「え」
「効果は素晴らしかったでしょう? お料理と混ぜて召し上がることで身体の奥まで染み渡り、満たされた心の欠片でお客さまの心も満たされ、辛かった心の欠片で過去を見つめ直すことができる」
「じゃあ……もしかして、お代って……」

 人間の心。それをこんなに食べてしまったのだ。僕の命ごと奪われてもおかしくない。
 満たされた気持ちが一転、恐怖に染まる。わたあめのソファーから転げ落ちて逃げようとすると、くまの店員さんは緩く首を振った。

「お客さま。どうか今のその満たされた心……覚えておいてください」
「え……?」
「そして将来払いで構いません。より心を豊かにして、いつか誰かに分け与える余裕が出来た時、欠片を回収させていただきます」
「心の、余裕……?」
「ええ。……それから、辛さや苦しさが心の許容量を勝ってしまった時には、そちらを回収することも可能ですよ。今回も少しばかりそうさせていただきましたので」
「へ、いつの間に……?」
「クリームソーダの泡と共に回収させていただきました」
「一番最初から!?」

 あれだけぐるぐるしていた心がすっきりしたのは、その影響なのだろうか。
 不思議なことばかりで、頭が追い付かない。それでも確かに満たされた心と軽くなった気がする身体に、僕は満面の笑みを浮かべる。

「僕、きっと幸せな心を支払いに来るよ。それを食べた人が、もっともっと幸せになれるように!」
「……ええ。またのご利用、お待ちしております」

 深々とくまの頭を下げる店員さんに見送られ、僕は店を後にする。
 気付けば外は朝になっていて、雨はすっかり上がっていた。代わりに昨日よりも暑い日差しが降り注ぐけれど、空よりも晴れ渡った心はへこたれない。
 僕は荷物に入れたままだったお気に入りのくまのぬいぐるみを抱き締めながら、痛みを忘れた足で家に帰った。

「ただいまー……」
「朝陽!? どこ行ってたの!? 探したんだから!」
「えっ?」

 昨日いつものように送り出してくれたお母さんが、血相を変えて出迎えてくる。

「……僕、家出するって、旅するって言ったじゃない」
「え、あ……そう、だった?」
「……」

 そういえば、家出を決心したくらい苦しかった気持ちが、もうあまり上手く思い出せない。心の欠片を回収された分、自分の中からそれに伴う記憶や感情が少しずつなくなってしまったのだろうか。

「……ねえ、お母さん。もしかして、くまの店員さんがいるお店、行ったことある?」
「あ、そうだ。昨日モンブラン買ったの、食べよっか」
「……」

 近頃僕の言葉を無視することが多くなったのも、会話が噛み合わないことが多いのも、もしかしたら、お母さんの心の辛さや苦しさがあのお店に回収されているからなのかもしれない。
 だとしたら、僕と居ることで、お母さんの心からは何かが溢れ落ちてしまうのかもしれない。
 そんな風に思ってしまうけれど、僕はくまのぬいぐるみを抱き締めながら、改めて決意する。

「ねえ、お母さん……僕、幸せな心の欠片、お店に返したら今度はお母さんにも分けてあげるからね」
「……? 何の話?」
「こっちの話」
「ふうん? モンブラン、食べる?」
「うん!」

 お布団みたいに大きくなくても、山みたいに高くなくてもいい。掌サイズのモンブランをふたりで半分こにして食べながら、僕はまた少し、心が満たされるのを感じた。