まるでマッチ売りの少女だ。
手紙を読みながら、食べたいと願った彼女の料理の味が口いっぱいに広がった時、僕は思わずそう思った。
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同棲している婚約者の花鶏優絵に胃袋を掴まれている僕にとって、長期出張はまさに死活問題だった。
今時電話やメッセージアプリを用いて連絡を取ることは容易で、僕たちの関係に物理的な距離なんてあまり関係ないものだと思っていた。
しかしながら、料理ばかりはそうはいかない。海を隔てたこの距離では、どうあがいても彼女の出来立ての手料理を口にすることは叶わないのだ。
「もしもし、初斗くん? そっちはどう? ご飯ちゃんと食べれてる?」
「もう三日連続コンビニ飯……もう既に飽きた。御伽町に帰りたい……」
「ダメよ、ちゃんとご飯炊くくらいしないと。一人暮らしの時使ってた炊飯器持たせたわよね?」
「いや、自分で作っても味気ないんだよな……優絵の飯が恋しい……」
「うーん、ならしかたない……。もう少し待っててね」
「……?」
毎晩恒例となった、寝る前の数分間の通話の時間。しばらく優絵の手料理が食べられないことを嘆いた僕に対し、彼女は困ったように、しかし嬉しさを滲ませた響きでそう呟く。
もしかするとこちらまで来て料理でも作ってくれるのかと思ったが、その数日後、届いたのは一通の手紙だった。彼女はわざわざ、手書きのレシピを郵便で送ってくれたのだ。
「手書きの手紙なんて久しぶりに受け取ったな……」
「ふふ、たまにはいいでしょ。どう? びっくりした? 愛情たっぷりの優絵ちゃん特製レシピ。これならわたしの味になること間違いなしよ!」
「おう、びっくりした。……はは、ありがとうな。まあ、今度時間のある時にでも試してみるよ」
通話を終えて改めて確認した手紙には、毎日連絡しているにもかかわらず僕の健康や生活を心配する文言が並び、手書きの丸文字の温かみに彼女の愛情を感じた。
同封されたレシピも印刷ではなくすべて手書きで、要所を太字にする等きちんと料理初心者の僕向けだった。
そしておそらく、王道のものからアレンジされた部分がわかりやすく色を変えて書かれていて、便箋の端にはイラストや模様まで描かれている。美大を出ている現役イラストレーターの彼女だけあり、とても繊細で美しい色使いだ。一目でこのレシピは彼女のこだわりが詰め込まれたものであることが伺えた。
「時間かかっただろうな、これ書くの……。ええと、このレシピは卵焼きか。優絵のは美味いんだよなぁ、甘さと塩味のバランスが絶妙で……、……ん?」
レシピの文字を目で追いながら、すぐにでも食べたいなとぼんやり思った時だった。不意に、口の中いっぱいに今しがた願った卵焼きの味がふわりと広がったのだ。
「……!?」
最初は、何かの勘違いかと思った。もしくは食べたいと願うあまり想像力が働いて味覚が錯覚を起こしているのかと、自分の想像力の豊かさに驚くと同時に、どれだけ彼女の味を恋しがっているのかと笑ってしまった。
「ん……?」
けれど不思議なことに、やがて味だけではなく柔らかな歯触りも感じるようになり、手紙を閉じる頃にはお腹さえも満たされた気分になったのだ。
「はは……まるで、マッチ売りの少女だな……」
空腹のあまり擦った売り物のマッチの火にご馳走や愛する家族の幻を見た、哀れな少女。
手紙を介して食べたいと願った彼女の料理の味が口いっぱいに広がった時、僕は思わずそう思った。
このレシピには、マッチの火よりも強い幻覚を引き起こす魔法がかかっているのかもしれない。
「……なんてな。気のせいだろ」
しかし、その後も定期的に優絵から送られてくるレシピを読む度に、その不思議な現象は起きた。
わざわざ料理をしなくても、レシピを読むだけで優絵の料理がいつでもお腹いっぱい食べられる。
そんな魔法に魅了された僕は、いつしか毎食彼女のレシピで賄うようになっていった。
「それでね、今日病院で……」
「なあ優絵、それより次はあれが食いたい。アヒージョだっけ。それからクリームシチューと、すき焼きと、あとは……」
「……ねえ、初斗くん。最近電話しても、食べたいレシピの要求しかしないわね」
「え?」
「初斗くんが料理に目覚めてくれて嬉しいし、たくさん食べてくれるのも安心だけど……レシピなんて調べたらいくらでも出てくるわ。シチューもすき焼きも、市販のルーとか原液が売ってるし……」
「いや、優絵の書いたのじゃないとダメなんだよ」
「でも……」
「……うるさいな、いいから送れよ!」
思わず声を荒げてしまい、はっとした時には電話は既に切れていた。彼女を怖がらせたかもしれないと、後悔が襲う。
「あー……今のはまずった。これでもうレシピ送ってくれなくなったらどうしよう……いやでも、最初にはじめたのはあいつなのに……」
ぐるぐると考えながら、無意識に手を伸ばしたのはデザートのレシピをまとめたファイルだった。
ストレスを感じた時には甘いものがいい。しかもレシピ産の幻ならば、カロリーも気にすることなくいくらでも食べられるのだ。
動揺を落ち着けるように僕は次々と紙を捲り、卵にこだわったプリンやシナモン抜きのアップルパイ、チョコチップたっぷりのクッキーの味で腹を満たしていく。
「全部僕好みではあるけど、デザートのバリエーションも足りないな……ったく、優絵のやつ手抜きやがって」
ふと、レシピのみまとめたはずの紙の束の中に、彼女がくれた最初の手紙が紛れているのに気付いた。
それは僕を気遣う、愛情のこもった丸文字の愛らしい手紙。これを読んだ時、まるで彼女が傍に居る気がして温かな気持ちになれたはずなのに。近頃は、添えられた手紙には目を通すこともなくレシピにばかり夢中になっていた。
「あ……優、絵……」
どうして忘れていたのだろう。いつしか優絵への愛情と料理への執着がごちゃ混ぜになって、逆転してしまっていた。
そのことに気付いた瞬間、思わず手紙以外のレシピを床に落とす。
今すぐ彼女に会いたい。会って謝って、レシピのもたらす幻ではなく本物の優絵の料理が食べたい。愛する優絵の料理だからこの胸を満たすのだと伝えたい。僕は、そう強く願ってしまった。
「う……っ!?」
その瞬間口に広がった、鉄のような独特の風味と、しょっぱいような脂っこいような生臭く不思議な味。僕は訳がわからずトイレに駆け込む。
胃の奥から込み上げる不快感に思わず吐き出すと、どこか懐かしい長い髪の毛が喉に絡まり、何度も噎せた。
僕は混乱と苦しさの中その意味を理解し、嗚咽を漏らしながら逃げ出すように廊下の床に倒れる。
僕が願ったのは、優絵の料理。しかしこれは彼女が作ったものではなく、彼女を料理の材料として使ったものだ。
繰り返し込み上げる吐き気と目の前が真っ暗になる感覚に、意識が遠退くのを感じた。
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「……嘉良初斗さん、三十歳。目立つ外傷は転倒時についたと思われる頭部の傷。床に残った血痕と傷口の形も一致しています」
「そうか、事件性はなさそうだな」
「はい、検死の結果胃の内容物が空っぽで、もう長い間何も食べていなかったものと思われます」
「……だが、部屋には大量のレシピが落ちていただろう? 手書きの、絵だとかも描いて凝ったやつ」
「ええ、最後の通話履歴から、彼と婚約関係にあった花鶏優絵さんに話を伺ったんですが……毎日レシピを要求されるからてっきり自炊しているものとばかり思っていたと……。婚約者を心配して、あんなに凝ったレシピを送ってたのに、こんなのあんまりですよね……。それに彼女、嘉良さんの子を妊娠していたんですよ。これからって時に……」
「ああ、腹に子を宿した女と、腹の中身のない男か……。この仏さん、吐くもんも胃液しかなかったろうに、こんなに苦しそうな顔をして……」
「本当に……何か、壮絶というか……最期に怖い幻覚でも見てたんですかねぇ」



