「お客さん、よんで」
「わたしを、よんで」

 薄暗く静かな店内に響く、弾むような少女の声。その声を皮切りに「よんで」「呼んで」と幾重にも重なる声に、この店の店主たるは私は、やれやれと重たい腰を上げる。

「ああ、そうですねぇ……そろそろ開店しましょうか」
「はやく、よんで!」

 舌足らずな少女やしわがれた老婆、元気な少年や憂いを帯びた青年、性別不明の不思議な声色。
 数多の声に応じて、古びた扉の内側から鍵を開け、硝子越しに外から見える木の板の『オープン』と書かれた方を表に向ける。そうして私は今日も、店を開けた。


*******


 開店から四時間後。本日最初のお客様は、黒髪の真面目そうな青年だった。片目を患っているのか眼帯をしていて痛々しい。まだ大学生くらいだろうか、彼のような若者が、真っ昼間からこんな所に来るのは珍しかった。
 御伽町の外れにある寂れた商店街の、裏道を通り更に端。立地の悪さから人通りは少なく、日当たりも悪く家賃も安い、看板も錆びだらけの一見空き家のようにも見える、古びたこの小さな建物。
 若い新規客が訪れるには、些かハードルも高いだろう。

 そのお客様は、ぎいと音の鳴る重い扉を開けて中に入るなり、一瞬目を見開き圧倒されたように辺りを見回す。
 初めてのお客様に商品の説明をすべきか、何も言わずに先ずはお客様自身で選ぶのを待つべきか。
 しばし悩んで、店員から下手に声を掛けて萎縮されても困るので、私は奥まった場所から少し様子を見ることにした。
 お客様は、ややあって薄暗く狭い通路を歩き出す。
 そして品定めするように、綺麗に並んだうちの商品達をじっくりと眺めた。まるで芸術鑑賞のように、時間を掛けて。
 しかし、やがて気になるものがあったのか、ぴたりとその足を止める。

「わたしを!」「僕を!」「私達を!」

 お客様の前の商品達は途端に色めき立って、我先にと声を上げ始める。せっかくお行儀良くしていたのに、これでは台無しだ。
 けれどお客様は、そんな声には顔色一つ変えることなく、迷いなく選んだそれに手を伸ばした。


「お買い上げありがとうございます、こちらの商品は大変古いので、あちこち脆くなっております。気をつけてお取り扱いください」
「ありがとうございます! ……ずっと探したんですけど、まさかこんな所で出会えるなんて……あっ、こんな所、なんて失礼でしたね、すみません……」
「ふふ、構いませんよ。実際古い店ですし……ですが、よろしければこれからも御贔屓ください」
「はい! また必ず来ます!」

 お客様はずっと探していたという商品と出会えたようで、大切そうに抱き締めては、満足気に頭を下げる。
 この様子だと、もう『彼女』が手放されることはないだろう。
 お客様は、余程感動したのだろうか、何度も振り返っては私に会釈して、店を出ていった。

 しかし、良かった良かったと一段落する前に、無人となった店内からは、再び商品達の声が聞こえる。

「よんで! はやく!」
「まったく、お客様は呼んだとてすぐに来るものではないのですよ……」

 催促の声に肩を竦めつつも、私は次の来客があるまで掃除でもしようと店の奥へと向かう。
 その途中、再びぎいと鈍い音が響いた。本日二人目のお客様だ。
 今度のお客様は、御近所に住む常連様。品が良くお化粧もお召し物にも拘っていて、旦那様からの贈り物だという桜のかんざしがよく似合う白髪の女性だった。背筋も伸びていて実際の年齢より幾分若く見えるが、足があまり良くないようで杖をつきながらも毎週通ってくれている。

「いらっしゃいませ、都成(となり)様」
「あら、こんにちは、店主さん。今日はいい天気ねぇ」
「おや、そうなのですか? 生憎本日は外に出ておりませんので」
「もう、だめよぉ? あなたまだ若いんだから、ちゃんとお日様の光を浴びないと、身体に良くないわ」
「……ふふ、都成様は日の光を浴びているから変わらずお元気なのですね」
「あらやだ、そう見える? 近頃またあちこち痛くてねぇ……」

 こちらのお客様、都成様は、いつも商品選びの前に私と話をする。大した話題も持たない私と飽きずに語らうくらいには、世間話がお好きなようだ。
 昨年旦那様に先立たれ老齢でのお一人暮らし、退屈な日々の彩りなのだろう。
 かつてご夫婦で集められていたうちの商品も、そんな彼女の生活の彩りの一部だ。

「近頃は暖かくなってきたから、お庭で過ごすことも多いのよ。花壇を見ながら、椅子に座ってね……こちらで迎えた子達とも、お外で過ごせたらいいのだけど……」
「劣化の原因にもなるので、日の光はあまりよろしくはないですね……ですが都成様がお迎えになった以上、私がとやかく言う権利はありませんので……ご自身のご判断で扱われて下さい」
「……いいえ、やめておくわ。せっかくこちらで大切にされていた子達ですもの」
「左様でございますか……ありがとうございます、あなたのような方に迎えられて、皆とても幸せですね」
「ふふ、そうだといいわね。……あのね、一人であの家に暮らすのは広すぎるから、近々アパートにでも引っ越そうと思っているの。だから近頃断捨離をしているんだけど……こちらでお迎えした子はみんな連れていくわ。私にとっては、もう大切な家族ですもの」
「おや、そうでしたか……しかしお引っ越しされるとなると、これまでのように通っていただくのは難しくなりますね」
「あら、引っ越した後も、変わらず遊びに来ますからね。腰が曲がっても、ボケたとしても、きっとこの店に通うわ」
「本当ですか? それはよかったです。私も……皆も喜びます」
「まあ……ふふっ」

 そうしてしばらく、最近あったことや前回購入された商品の感想等、とりとめのない話をしながら、潮折様はのんびりと商品を眺める。
 その際の横顔は、少女のように好奇心や楽しみでいっぱいだ。老眼鏡越しに目を輝かせながら、彼女はいつも直感で商品を選ばれる。
 それをわかっているからか、彼女が選んでいる間は商品達もいつになく静かだ。

「……今日はこちらをいただくわ」
「いつもありがとうございます、こちらは私もお勧めです、きっと気に入られますよ」
「あら、それは楽しみだわ! 来週は引っ越しの準備で忙しいのだけど……合間を見てまた来るわね」
「はい、お待ちしておりますね」

 抱えた商品分の重さを感じさせない、来た時よりも心なしか軽やかな足取りで、杖の音と共に潮折様は店を後にした。


*******


 次いで日も暮れかけた頃、三人目のお客様が来店された。
 どうやら彼は、買いに来たのではなく、売りに来たのだろう。格闘技でもやっていそうな屈強な体躯の男性だったが、その両手には大きな段ボールを重たそうに抱えていた。

「すみません、ここって、買い取りもしてますか?」
「いらっしゃいませ。ええ、物によっては引き取れない場合もございますが……まずはお品物の方を確認させていただきますね。しばし店内でお待ち下さい」

 お客様は普段こういった店には来ないのか、物珍しそうに周囲を見回す。
 私は段ボールの中に詰められていた古くあまり状態のよろしくない品を確認しながら、どんな風に扱われていたのかと思わず小さな溜め息を吐く。

「失礼ですが、こちらはすべてお客様の……?」
「いや、来週父親が施設に入ることになったから……荷物整理に」
「さようでございますか……確かに、全て施設に連れて、という訳にもいきませんしね」

 持ち込んだ品とそう変わらない商品達を眺めながら、お客様は眉を下げて切なそうに微笑む。

「連れて……はは、そうですね……昔はこいつらを我が子のように大切にしてたようなんですけど、認知症で……突然怒って、乱暴に扱うことも増えたので」
「なるほど……大切なものを大切に出来なくなったとなれば、きっと本来のお父様も悲しみますしね」
「はい……思い出もあるし手放すのは惜しいけど、その分また他の誰かに大切にして貰えたらなって」

 査定を済ませて、段ボールいっぱいの思い出の品を、幾ばくかの金銭と交換する。値の付かなかった品も出来れば引き取って欲しいと言われ、了承した。

「……いつか、お父様の大切な思い出の詰まった品は、また誰かの大切なものとなりましょう」
「そうだといいです……今度は、最後まで大切に扱ってくれる人の元に行けると良いんですけど」
「ええ、それが私の仕事です。お任せください」
「ありがとうございます……また落ち着いたら来ます。……だから、その……今度は、俺の大切な思い出になりそうなものを、店主さんが見繕ってくれますか?」
「はい、もちろんでございます。お待ちしておりますね」

 お客様は空になった段ボールを畳んで小脇に抱え、一瞬手離した彼等と別れを惜しむように視線を向けた後、頭を下げて店を後にした。


*******


 その後閉店時刻まで、新しいお客様は来なかった。
 今日は三人、いつもこんな感じだ。商売としてはやってられないが、ほとんど趣味のような生業なので気にしない。
 扉の内側から鍵を掛けて、ガラス越しに見えるよう掛けられた小さな木の板を、『クローズ』側に裏返す。
 その文字もすっかり日に焼け掠れて、色も褪せて読みにくい。やはり日光は、木やインクにとっては大敵だ。
 最後に店内の橙色の強すぎない灯りを落として、本日の営業は終了する。

「よんで!」
「本日は店じまいです」

 商品達の期待の声は、閉店後も変わらない。けれどしばし闇に馴染めば、彼等も眠ったように静かになるのだ。
 長い時間を掛けて学んだのだろうか。灯りがなくては、彼等は人に見て貰えない。その辺りはきちんと理解しているようだった。
 また外が明るくなる頃には、差し込むその僅かな光に期待して、また「よんで、よんで」と私にしか聞こえない声を上げるのだろうが。

「よんで」「呼んで」「読んで」と。

 所狭しと犇めく店の本棚から聞こえる声の主は、その本の主人公の想いなのか、それとも作者の承認欲求か。はたまたかつての持ち主の愛書自慢なのか。もしかすると長年愛された本の付喪神なのかもしれないが、詳しいことはわからない。
 何しろ客ではなく店主の私には、商品である彼等の「よんで」という必死のアピールしか聞こえないのだ。
 古くなるまで人に愛されて、色んな来歴を持って転々とし、ここに辿り着いた物語達。
 読まれて初めて存在意義を全うする彼等を、新たな読み手の元に送り出すのが、私の仕事だ。

「――……本日はお買い上げ、誠にありがとうございます。こちらには流れ流れて辿り着いた、お客様の運命の一冊がきっとございます。……またのご来店、一同、心よりお待ち申し上げております」

 暗がりの中、読んで欲しくて呼んでいる古本達の声を聞きながら、今日もまた、埃と古紙の香りを閉じ込めたこの古書店は一日の営業を終えた。