ヤギだった。朝起きてリビングに居たのは、一匹の白い仔ヤギだった。
「……? っ……!?」
人間心底驚くと咄嗟に悲鳴なんぞ上げられないもので、寝起きとは思えない激しい心臓の音とヤギの咀嚼音だけが、静かな室内に響き渡る。
そう、咀嚼音。ヤギは先程から家主である俺にお構いなしに、何やら紙を貪って……
「あっ!?」
そこら辺に溜まりっぱなしのチラシや新聞は、まあ食われてもいい。何なら捨てる手間も省ける。
けれどそいつの口からはみ出していたのは、よりによって見覚えのあるカラフルな花柄の便箋だった。
「待て待て待て……っ!」
その瞬間、部屋の中に見知らぬ動物が居る恐怖や混乱よりも、焦りが勝った。俺は慌ててヤギに駆け寄り、そのモゴモゴと動く口許から食われかけの手紙を奪い取る。
「これはメッ! 食べ物じゃないから!」
「メ~?」
「そう! メッ!」
思わずヤギと会話してしまいながら、端っこがふやけてしまった手紙を確認する。
どうやら濡れたのは便箋の絵柄のみで、文字は無事なようだった。俺は深く溜め息を吐き、その場に座り込む。
「ったく、なんなんだ、一体……」
「でも、これが一番美味しいのに~……」
「……は?」
すぐ隣で、ヤギがしゃべった。恐る恐る視線を向けると、ヤギは名残惜しそうに俺の持つ手紙へと涎を垂らしている。
「あのー、もう一口だけ、いただけません?」
「……、いや……その前に、いろいろ説明を頼む」
寝起きの回らない頭は、自力で状況に付いていくのも、ツッコミをするのも放棄した。
*******
「あー……つまり、おまえは『手紙を食べるヤギ』って概念から生まれた存在ってことか?」
「そうなんですよー、ほら『ヤギと言えばお手紙食べちゃうよね~』っていう大多数からの共通認識? ミーム化するっていうか……ボクはそんな感じのふわっとした概念から生まれた存在なんです。すごいでしょう!」
「俄に信じがたいが……実際目の前に居るもんな。概念だから人語もしゃべるし不法侵入も可能ってわけか……」
「えへ……おしゃべりできて壁抜けも出来てあらゆる世界に行けるヤギ界一賢いユキちゃんだなんてそんなぁ。文月さんってば褒め上手!」
「そんな前向きに褒めてねぇから照れんな。……つうかどうやって入ってきたのかと思ったら壁抜けしてきたのかよ、本当に何でもありじゃねぇか」
やけにマイペースなユキというヤギの説明で、何となく状況を理解した。
古今東西、逸話が広まって共通の認識からより鮮明に形を帯びる存在は、よくあるだろう。鬼だとか天狗だとか口裂け女だとか。それが実際に実態を得て目の前に現れた、それだけの話だ。
そんな訳のわからない存在でも、本物の野生のヤギが部屋に居るよりはまだマシに思えるのだから、俺も中々疲れているのかも知れない。
近頃あまり眠れていなかったのに、ようやく力尽きて気絶するように眠れた日の朝に限ってこれだ。ソファーに凭れながら、とりあえずその辺にあった新聞を食うヤギを見詰める。
「はあ……それで、おまえは何でここに?」
「あ、それはですねー、お仕事しようとしたら、こちらのお宅から美味しそうなお手紙の気配を察知しまして。そちらのお花のお手紙なんですけど~」
「おまえ仕事とかあんの……って、これはダメだ! というか、今も新聞食ってるし、紙なら何でもいいだろ!?」
「ちっちっち、甘いですよ文月さん。ボクはお手紙を食べるヤギさんなのです。つまりお手紙が主食。新聞やチラシは食前のサラダみたいなもので、味気ないんですよ~」
「いや、知らんけど……サラダならヘルシーでいいだろ、草食動物なら草食っとけよ」
「それヤギ差別です~。一口くらいくださいよー」
緩やかながら押しの強いヤギに手紙を奪われそうになり、俺は手を伸ばしたり身体の下に隠したりして攻防戦を繰り広げる。
しかしやがて押し負けそうになり、俺は思わず大声を出した。
「だーっ、もう! ダメだって言ってんだろ! 何でこれに拘る? その辺にダイレクトメールだとかあっただろ、手紙ならそれでいいじゃねぇか!」
「他にも美味しそうなのはありましたよ? でも……この家で一番美味しいお手紙は、絶対それなんですよ~」
「味なんか知るか! これはっ、……綴理がくれた最後の手紙なんだ、だから、おまえにはやれない……」
必死に守ろうとしたこれは、入院中妻が病室で書いた、俺への最後の手紙だった。
治る見込みのない病と懸命に闘い、自分が誰よりも辛く苦しいはずなのにそんな素振りも見せなかった綴理。
彼女は家で一人過ごす俺を案じて、簡単な料理のレシピや自分が居なくなってからのことを少しずつメモに残してくれた。
何度縁起でもないからやめてくれと言っても聞かず、彼女は見舞いに行く度に細やかな手書きのメモを俺に寄越した。
その文字は日に日に震えが強くなっていき、見るのが辛くそのまま上着のポケットにしまったこともある。
「……」
彼女が亡くなってからは、溜まりっぱなしの新聞やチラシはどう捨てたらいいのかもわからないし、夜眠るのさえままならない。タバコの本数は増えるし、彼女の筆跡のレシピを見ると涙が込み上げて、料理のひとつも完成させられない。
こんなダメな男を最後まで想ってくれた最愛の妻は、先月天国へと旅立った。
彼女の最後の手紙は、それまでのメモ用紙とは違ってきちんとした便箋と封筒に綴られていて、鍵付きの引き出しの奥にしまわれていたのを荷物の片付けの時に見付けた。
退院したら見に行きたいと言っていた花畑のような鮮やかな絵柄の手紙は、彼女の遺書にして、最後の恋文だった。
「綴理はこんな俺を……最後まで想ってくれた。それなのに、俺はあいつが心配した通り、一人じゃまともに暮らせてない……何一つ、あいつの想いに報いれてない……」
「文月さん……」
「あいつだって、今頃天国で怒ってるだろうな……。いや、怒ってるならまだいい。こんな奴に貴重な最後の時間を使ったって、後悔してるかもしれない……」
綴理はいつだって、弱音を吐いたりしなかった。それは決して、彼女が強いからじゃない。俺が頼りなかったからだ。
情けなさと悔しさ、苦しさと恋しさが混ざり合い、震える手で握った手紙に涙が落ちる。じわりと文字が滲んだが、一度溢れると止めることは出来なかった。
「文月さん……お手紙は、そこにこめられた想いが強ければ強いほど美味しいんです。さっき味見したそのお手紙は、ボクが出会った中で一番深い『愛』の味がしました」
「……愛の味?」
「とっても濃くて、甘みがあって味わい深くて、でもちょっぴり苦くて……あ、涙みたいなしょっぱさもありますね。複雑で、でもいつまでも食べていたくなるくらい美味しくて……一食みするだけで心の奥からじゅわって溢れるような、幸せな味」
「この手紙から、そんな味が……?」
「はいっ。きっと綴理さんも、そんな気持ちでお手紙を書いたんですね……心配とか怒るとか、お別れが悲しいとか、そういうのもたくさんあるんですけど……何より愛する人を想いながら、傍に居られて幸せだって」
「しあ、わせ……? 綴理が……?」
「はい。お手紙の味は、嘘をつきません! 綴理さんの傍に居たあなたが、誰よりわかってるんじゃないですか?」
涙で滲む目で、手紙を彩る花の絵を見下ろす。いつか花畑に行こうと交わした約束は、天国でも有効だろうか。
「……はは。そうだな……綴理の幸せに恥じない生き方、しないとな。いつか向こうに行った時、あいつに合わせる顔がない」
この胡散臭いヤギのお陰で、一人で抱え込んだ気持ちが少し晴れた気がする。改めて礼を言おうと、袖口で涙を拭った時だった。ヤギがモゴモゴとした口から、新聞とは違う紙の欠片を吐き出す。
「はいっ、天国の綴理さんからのお手紙も、確かそんな感じのことを……」
「……は?」
「いやあ、つい美味しそうで食べちゃって、ご用事忘れちゃったんですけど……たぶんそんな感じのお手紙でした!」
そういえばこいつは、仕事をしに来たと言っていた。あらゆる世界に行けるとも。
床に吐き出された紙の欠片は、あの手紙と同じ花柄。それを拾い上げて、思わず絶句する。
「おまえ……まじか……」
「……メ~?」
「今更とぼけるな!?」
ふやけた紙の切れ端に、懐かしい筆跡で綴られた『愛』の一文字だけが辛うじて読み取れた。それを見て、思わず破顔する。
「……ったく。とんだ郵便屋だな、おまえ……届けるべきもんを食うとか、食いしん坊過ぎんだろ……」
「はいっ、でも想いは確かにお届けしましたよ!」
この先精一杯生き抜いて、いつか天国に居る彼女と再会した時には、約束の花畑を見に行こう。
そして、この欠片となってしまった手紙の用事は何だったのか彼女に直接聞いてみようと、食いしん坊のヤギに感謝の手紙を食わせながら、心に誓ったのだった。
「……? っ……!?」
人間心底驚くと咄嗟に悲鳴なんぞ上げられないもので、寝起きとは思えない激しい心臓の音とヤギの咀嚼音だけが、静かな室内に響き渡る。
そう、咀嚼音。ヤギは先程から家主である俺にお構いなしに、何やら紙を貪って……
「あっ!?」
そこら辺に溜まりっぱなしのチラシや新聞は、まあ食われてもいい。何なら捨てる手間も省ける。
けれどそいつの口からはみ出していたのは、よりによって見覚えのあるカラフルな花柄の便箋だった。
「待て待て待て……っ!」
その瞬間、部屋の中に見知らぬ動物が居る恐怖や混乱よりも、焦りが勝った。俺は慌ててヤギに駆け寄り、そのモゴモゴと動く口許から食われかけの手紙を奪い取る。
「これはメッ! 食べ物じゃないから!」
「メ~?」
「そう! メッ!」
思わずヤギと会話してしまいながら、端っこがふやけてしまった手紙を確認する。
どうやら濡れたのは便箋の絵柄のみで、文字は無事なようだった。俺は深く溜め息を吐き、その場に座り込む。
「ったく、なんなんだ、一体……」
「でも、これが一番美味しいのに~……」
「……は?」
すぐ隣で、ヤギがしゃべった。恐る恐る視線を向けると、ヤギは名残惜しそうに俺の持つ手紙へと涎を垂らしている。
「あのー、もう一口だけ、いただけません?」
「……、いや……その前に、いろいろ説明を頼む」
寝起きの回らない頭は、自力で状況に付いていくのも、ツッコミをするのも放棄した。
*******
「あー……つまり、おまえは『手紙を食べるヤギ』って概念から生まれた存在ってことか?」
「そうなんですよー、ほら『ヤギと言えばお手紙食べちゃうよね~』っていう大多数からの共通認識? ミーム化するっていうか……ボクはそんな感じのふわっとした概念から生まれた存在なんです。すごいでしょう!」
「俄に信じがたいが……実際目の前に居るもんな。概念だから人語もしゃべるし不法侵入も可能ってわけか……」
「えへ……おしゃべりできて壁抜けも出来てあらゆる世界に行けるヤギ界一賢いユキちゃんだなんてそんなぁ。文月さんってば褒め上手!」
「そんな前向きに褒めてねぇから照れんな。……つうかどうやって入ってきたのかと思ったら壁抜けしてきたのかよ、本当に何でもありじゃねぇか」
やけにマイペースなユキというヤギの説明で、何となく状況を理解した。
古今東西、逸話が広まって共通の認識からより鮮明に形を帯びる存在は、よくあるだろう。鬼だとか天狗だとか口裂け女だとか。それが実際に実態を得て目の前に現れた、それだけの話だ。
そんな訳のわからない存在でも、本物の野生のヤギが部屋に居るよりはまだマシに思えるのだから、俺も中々疲れているのかも知れない。
近頃あまり眠れていなかったのに、ようやく力尽きて気絶するように眠れた日の朝に限ってこれだ。ソファーに凭れながら、とりあえずその辺にあった新聞を食うヤギを見詰める。
「はあ……それで、おまえは何でここに?」
「あ、それはですねー、お仕事しようとしたら、こちらのお宅から美味しそうなお手紙の気配を察知しまして。そちらのお花のお手紙なんですけど~」
「おまえ仕事とかあんの……って、これはダメだ! というか、今も新聞食ってるし、紙なら何でもいいだろ!?」
「ちっちっち、甘いですよ文月さん。ボクはお手紙を食べるヤギさんなのです。つまりお手紙が主食。新聞やチラシは食前のサラダみたいなもので、味気ないんですよ~」
「いや、知らんけど……サラダならヘルシーでいいだろ、草食動物なら草食っとけよ」
「それヤギ差別です~。一口くらいくださいよー」
緩やかながら押しの強いヤギに手紙を奪われそうになり、俺は手を伸ばしたり身体の下に隠したりして攻防戦を繰り広げる。
しかしやがて押し負けそうになり、俺は思わず大声を出した。
「だーっ、もう! ダメだって言ってんだろ! 何でこれに拘る? その辺にダイレクトメールだとかあっただろ、手紙ならそれでいいじゃねぇか!」
「他にも美味しそうなのはありましたよ? でも……この家で一番美味しいお手紙は、絶対それなんですよ~」
「味なんか知るか! これはっ、……綴理がくれた最後の手紙なんだ、だから、おまえにはやれない……」
必死に守ろうとしたこれは、入院中妻が病室で書いた、俺への最後の手紙だった。
治る見込みのない病と懸命に闘い、自分が誰よりも辛く苦しいはずなのにそんな素振りも見せなかった綴理。
彼女は家で一人過ごす俺を案じて、簡単な料理のレシピや自分が居なくなってからのことを少しずつメモに残してくれた。
何度縁起でもないからやめてくれと言っても聞かず、彼女は見舞いに行く度に細やかな手書きのメモを俺に寄越した。
その文字は日に日に震えが強くなっていき、見るのが辛くそのまま上着のポケットにしまったこともある。
「……」
彼女が亡くなってからは、溜まりっぱなしの新聞やチラシはどう捨てたらいいのかもわからないし、夜眠るのさえままならない。タバコの本数は増えるし、彼女の筆跡のレシピを見ると涙が込み上げて、料理のひとつも完成させられない。
こんなダメな男を最後まで想ってくれた最愛の妻は、先月天国へと旅立った。
彼女の最後の手紙は、それまでのメモ用紙とは違ってきちんとした便箋と封筒に綴られていて、鍵付きの引き出しの奥にしまわれていたのを荷物の片付けの時に見付けた。
退院したら見に行きたいと言っていた花畑のような鮮やかな絵柄の手紙は、彼女の遺書にして、最後の恋文だった。
「綴理はこんな俺を……最後まで想ってくれた。それなのに、俺はあいつが心配した通り、一人じゃまともに暮らせてない……何一つ、あいつの想いに報いれてない……」
「文月さん……」
「あいつだって、今頃天国で怒ってるだろうな……。いや、怒ってるならまだいい。こんな奴に貴重な最後の時間を使ったって、後悔してるかもしれない……」
綴理はいつだって、弱音を吐いたりしなかった。それは決して、彼女が強いからじゃない。俺が頼りなかったからだ。
情けなさと悔しさ、苦しさと恋しさが混ざり合い、震える手で握った手紙に涙が落ちる。じわりと文字が滲んだが、一度溢れると止めることは出来なかった。
「文月さん……お手紙は、そこにこめられた想いが強ければ強いほど美味しいんです。さっき味見したそのお手紙は、ボクが出会った中で一番深い『愛』の味がしました」
「……愛の味?」
「とっても濃くて、甘みがあって味わい深くて、でもちょっぴり苦くて……あ、涙みたいなしょっぱさもありますね。複雑で、でもいつまでも食べていたくなるくらい美味しくて……一食みするだけで心の奥からじゅわって溢れるような、幸せな味」
「この手紙から、そんな味が……?」
「はいっ。きっと綴理さんも、そんな気持ちでお手紙を書いたんですね……心配とか怒るとか、お別れが悲しいとか、そういうのもたくさんあるんですけど……何より愛する人を想いながら、傍に居られて幸せだって」
「しあ、わせ……? 綴理が……?」
「はい。お手紙の味は、嘘をつきません! 綴理さんの傍に居たあなたが、誰よりわかってるんじゃないですか?」
涙で滲む目で、手紙を彩る花の絵を見下ろす。いつか花畑に行こうと交わした約束は、天国でも有効だろうか。
「……はは。そうだな……綴理の幸せに恥じない生き方、しないとな。いつか向こうに行った時、あいつに合わせる顔がない」
この胡散臭いヤギのお陰で、一人で抱え込んだ気持ちが少し晴れた気がする。改めて礼を言おうと、袖口で涙を拭った時だった。ヤギがモゴモゴとした口から、新聞とは違う紙の欠片を吐き出す。
「はいっ、天国の綴理さんからのお手紙も、確かそんな感じのことを……」
「……は?」
「いやあ、つい美味しそうで食べちゃって、ご用事忘れちゃったんですけど……たぶんそんな感じのお手紙でした!」
そういえばこいつは、仕事をしに来たと言っていた。あらゆる世界に行けるとも。
床に吐き出された紙の欠片は、あの手紙と同じ花柄。それを拾い上げて、思わず絶句する。
「おまえ……まじか……」
「……メ~?」
「今更とぼけるな!?」
ふやけた紙の切れ端に、懐かしい筆跡で綴られた『愛』の一文字だけが辛うじて読み取れた。それを見て、思わず破顔する。
「……ったく。とんだ郵便屋だな、おまえ……届けるべきもんを食うとか、食いしん坊過ぎんだろ……」
「はいっ、でも想いは確かにお届けしましたよ!」
この先精一杯生き抜いて、いつか天国に居る彼女と再会した時には、約束の花畑を見に行こう。
そして、この欠片となってしまった手紙の用事は何だったのか彼女に直接聞いてみようと、食いしん坊のヤギに感謝の手紙を食わせながら、心に誓ったのだった。



