始まりは、そう。音がうるさかったんだ。

 夜遅く、世界が静寂に包まれるはずの時間に、ゲーム実況でもしているのか口汚い言葉を吐き続ける薄い壁の向こうの隣人。

「……うるさい」

 朝早く、家の近くのごみ捨て場の前で屯して、大声で噂話を喋り続けるおばさんたちの笑い声。

「うるさい……」

 昼間の職場、仕事とは関係のない同僚の雑談、上司の怒声、部下の謝罪の声、鳴り止まない電話の音に、キーボードを叩く音。複数の声が混ざり合い、人の動きに合わせて響く様々な音。

「うるさい」

 家の中に居ても、家電の発する僅かな音が耐えられない。とにかく世界は雑音に溢れていて、それは僕の脳をすこぶる不快にさせた。

 休日に静けさを求め訪れた図書館ですら、比較的静か故にキッズコーナーの子供の声や読書中のページを捲る音、近くの人のマスク越しの呼吸音ですらやけに耳につく。

 そして、先程から本棚の向こうで聞こえるくすくすと笑う若い女達の声が、耳障りで仕方なかった。

「うるさい……!」
「……えっ、なにあれ、こわー……」
「やばくない? あっち行こ」
「……っ」

 思わず力任せに机を叩いてしまい、近くに居た人々は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
 ざわざわとした僕に向けられる視線や声に居たたまれなくなって、僕は図書館を飛び出した。

「……」

 いっそ力任せに耳を引きちぎれば、箸なりペンなりを突き立てて鼓膜に穴を空ければ、静寂を取り戻せるのではないか。
 そんな考えすら過るほど、僕の頭はすっかりおかしくなっていた。

 意識しすぎるせいか、以前なら気にならなかったような些細な物音にすら過敏になってしまったのだろう。

 世界の通常は僕にとって騒がしくて仕方なく、心休まる静寂なんて、もはや存在しえなかったのだ。


*****


「そんなに気になるなら、縁切り神社にでも行ってくれば?」
「……縁切り神社?」
「そう、御伽町にある……病とか人間関係とか、願えば何でも切ってくれるって、結構有名よ?」
「そんなのがあるのか……。千咲は行ったことあるのか?」
「ええ、先週友達の付き添いで。なんだか、参拝客もみんな鬼気迫る感じだったわ」
「へえ……」
「でも、友達いわく結構本気で効くらしいから、気を付けてね」

 恋人の千咲は、僕の悩みを大袈裟だと笑うことなく、いつも自分のことのように心配してくれていた。
 彼女は物静かで、控えめな品のある女性だった。傍に居ても動作音にストレスを感じない、稀有な存在だ。

 けれど壁を隔てた他人の生活音すら気になって仕方ない僕にとって、そんな彼女とさえ同棲なんて当然無理な話で、かれこれ四年間も泊まりすら出来ない交際止まりだ。

 もしもこの騒音から縁を切れたなら、随分待たせてしまっている彼女と添い遂げられるのかも知れない。
 彼女が以前テレビを見ながら行きたいと話していたパレットパークに連れていくことが出来るかもしれない。

 そんな期待を胸に僕は翌日仕事を休み、早速その神社を訪れることにした。


*****


 僕はしっかりと両耳に耳栓を詰め、人混みの騒音に耐えながら電車に乗り込む。片道三十分ほどで到着したその神社は、平日の朝だというのに随分と賑わっていた。

 遠方から来ている人も多いのだろう、キャリーバッグや大荷物を抱えたままの人々も居た。
 そして、他の参拝客も確かに相応の覚悟をもって訪れているようで、石段を登るその表情は皆一様に思い詰めた様子だ。何かと縁が切りたくて、藁にも縋る思いなのだろう。

「……どうか、この世界に蔓延るあらゆる騒がしい音と、縁を切ってください」

 僕の番が来て、奮発したお賽銭と共に切実に願いを口にすれば、何だか少し楽になった気がした。

 帰り道、行きは気になって仕方なかった電車内の騒音も、心なしかいつもより静かに感じる。
 心境の変化もあるかもしれないが、千咲が言っていた通り、早速ご利益があったのかも知れない。

「……ん?」

 しばらくして最寄り駅に降り立つと、上着のポケットに入れていたスマートフォンが震動しているのに気付く。

 この震動パターンは着信だ。車内の揺れで気付くのが遅れてしまったのかもしれない。
 慌てて確認すると、ディスプレイには千咲の名前が表示されていた。通話へ指をスライドさせ、スマホを耳に当てる。

「もしもし? どうしたんだ? 電話なんて珍しい」
「……」
「……? 千咲?」
「……、……」
「あっ、ごめん、耳栓してたの忘れてた。ちょっと待ってくれ」

 電話してきておきながら何も言わない彼女に違和感を覚えるものの、すぐに原因に気付き、僕は一旦電話を離して耳栓を外した。

 駅のホームはやはり騒がしい。けれど出てしまったからには、用件だけでも聞いておこう。普段連絡無精な彼女がわざわざ電話をして来たくらいなのだ、急ぎの用かもしれない。

 立ち止まり慌ててスマホを耳に当て直すと、受話器の向こうから彼女の声が聞こえた。

「ごめんね」
「……え?」

 突然の謝罪に、面食らう。何かあったのか。聞き出そうにも、やはり騒音が気になった。
 次の電車が来るというアナウンスが、すぐ近くのスピーカーから響く。

「千咲、ごめん、うるさくて聞き取れないんだ。一旦静かな場所に行くから、ちょっと待ってくれ」
「え? 何か言った? ハウリングが凄いわね……。あのね、私、謝りたくて。……先週友達と縁切り神社に行った時、私も、つい『あなたとの縁を切りたい』って、願ってしまったの……ダメね……関係が進まなくても、あなたが克服するまで待つのも、私が決めたことだったのに。なのに、ほんの少しだけ、辛くなっちゃったの……」

 通話状態のまま受話器を耳から離している間に、彼女も何かを言っていた気がするけれど、周りの騒音に紛れ僕には聞き取れなかった。

「でも、友達が縁を切りたかった相手、車に轢かれて亡くなったらしいのよ……だから改めて調べたら、願いの仕方によっては、叶え方が雑らしくて……。私も、後で願いを撤回しに行こうと思うの。やっぱり神頼みなんてダメよね。それから、二人の今後について話し合いましょう」

 人混みの間を何とか抜けながら、ふと保留音設定はあったかと確認しようとして、スマホの画面を見る。しかしその際、外してから手に握ったままだった耳栓の存在を失念していて、予想外の感触に僕は手を滑らせた。

「あ……っ!?」

 掌から一緒に滑り落ち転がる、スマホと耳栓。それを追いかけようとして、前のめりになった瞬間、誰かとぶつかりバランスを崩した。

 一瞬時が止まったような錯覚と、ふわりとした浮遊感。
 それからすぐに響いた、かつての騒音なんて非ではないほどの、劈くようなブレーキ音。鈍い音と、何かの千切れるような音。遅れてやってくる、数々の悲鳴。

「あら……もしもし? 変な音したけど、聞こえてる? 駅って、随分と騒がしいのね……あなたが騒音を嫌う理由、少しわかる気がするわ。……ええと、神社、あなたも今日行くって言ってたでしょう? だから、願い方には気を付けて……って、それだけ先に伝えたくて」

 やがて喧しくて仕方なかった僕の世界は、あんなにも焦がれた静寂に包まれる。

「それじゃあ、切るわ。……あなたの望む静かな世界、叶うといいわね」

 最期の瞬間、ホームに残されたスマホから、彼女の声だけが鮮明に聞こえた気がした。