「おはようございます。また会えましたね」
「……? おはよう、ございます」
いつも通りの駅のホーム。通勤ラッシュの電車待ちで、たまたま隣に並んだ黒いスーツ姿の眼鏡の男性。
そんな風に自然に挨拶されたので反射的に返してしまったけれど、よくよく見てもその男性は見知らぬ顔だった。
わたしもその人も、どこにでもありふれた特徴のない顔だ。
人違い、別の部署の人、はたまた取引先の人。コンビニ店員や美容室、学生時代の同級生。色んな可能性を考えるけれど、思い出すことが出来ない。
「……」
「……」
挨拶以降、お互い無言で笑顔を返すのみで、それ以外は特に会話もなかったので正直助かった。こちらが一方的に忘れているなんて、気まず過ぎる。
やがて予定時刻に電車がやって来て、そのままそのスーツ姿の男性は、同じような服装をした人波の中に紛れて消えていった。
*******
そんな朝の出来事を、仕事に忙殺されてすっかり忘れていたお昼休み。
スマホに届いていたメッセージに返信をしつつ、今日は社食にしようか外でランチにしようか悩んでいるところで、ふと予測変換に出てきた単語に、先月新しく出来たお店のことを思い出す。
会社の近所に出来た、有名店。御伽町初出店だからと、同僚達が次々行ってきた報告をしていたのは、記憶に新しい。
わたしも前々から気になってはいたけれど、飲食店というのは開店当初は混雑するものだ。少し空いた頃に行こうと思っていたのを、すっかり忘れていた。
そして一度思い浮かんだら、それしか考えられない。わたしのお昼はこれで決まりだ。
早速制服にカーディガンを羽織って、お気に入りの赤い鞄に財布やスマホ等の最低限を入れて職場を出る。
お昼休みは短い。もう混んでいないといいな、なんて、仕事の邪魔にならない秒針の静かな腕時計で時間を確認しながら、横断歩道の信号待ちをしている時だった。
ふと、たまたま隣に並んだ人から、声をかけられる。
「こんにちは。また会えましたね」
「……へ?」
何の変哲もない挨拶。けれどデジャブを感じるその台詞に、わたしは一瞬固まって、恐る恐る顔を上げる。
隣に立っていたのは、今朝と同じ、特に特徴のない顔立ちをした、黒いスーツ姿の眼鏡の男性だった。
「……え、あ……どうも……?」
「向こうの通りに出来た店、オムライスが美味しいらしいですよ」
「は……?」
さすがに今朝に続いて二度目の遭遇ともなると、思い出せない申し訳なさよりも、戸惑いの方が勝る。
これが少女漫画なら、いわゆる『運命の出会い』だとかなのだろうけれど。現実的に考えて、タイミングやら行動範囲やらの被りに若干の恐怖すら感じてしまう。
それに、男が独り言のように口にした店は、わたしが今しがた行こうとした場所だった。
不安や恐怖とは裏腹に、やはり男性は会話を続けることなく、信号が変わるなり笑顔のみ残してさっさと行ってしまった。
その背が人混みに紛れて見えなくなっても、わたしはその場で立ち尽くしてしまう。
「誰なの、あれ……」
とりあえずスマホの連絡先一覧を確認したり、必死に頭の中の引き出しを手当たり次第に開けるけれど、やっぱりその男性のことは思い出せなかった。
*******
「え……それ、冬歌のストーカーとかじゃなく?」
仕事を終えて、今日は従姉妹の音彩との食事だった。
結局、昼はもし男が先回りしていたらと思うとそのまま外食する気になれず、コンビニおにぎりで済ませてしまった。その分余計にお酒が美味しく感じる。
「まさかぁ。ストーカーならもっとこう、隠れて何かするとか、逆にぐいぐい来るとかしない? 挨拶だけって……」
「……ストーカーには、いろんな人が居るから……」
「あ……そっか、音彩もストーカーに悩んでるんだっけ……。んー、でもわたし、音彩みたく手紙貰ったりとかしてないしな……あっちもスーツだったし、通勤時間も昼休みも偶々被ってただけだって。ほら、会社近いのかもだし」
心配そうな顔をしてくれる音彩に、わたしはへらりと笑みを返す。お酒の力を借りて誰かに伝えることで、この何とも言えないもやもやとした気持ちも、一人で抱え込まなくていいのだと何と無く安心できた。
「うーん……そういうもの、なの? わたしはオフィス街の方はあまり行かないからよくわからないけど……まあ何にせよ、二度あることは三度あるって言うし、次またその人に会ったら、何か対処を考えよう」
「ん……そうだね。でもまあ、我ながら大袈裟だったかも。聞いてくれてありがとう、音彩」
「ううん、話してくれてありがとう」
大したことじゃない。偶然に過ぎない、今日の話題のひとつ。
自分で自分に言い聞かせるようにすることで、本当にそうなる気がした。
それからしばらく飲み食いし、話題も仕事の愚痴に趣味の話と尽きることはなかった。
昼に行こうとした店のランチより、きっと美味しい。わたしのアレルギーに配慮してくれたお店選び。あの男のように一方的ではない会話のキャッチボール。明日のことを気にしなくていい週末の美味しいお酒。
そして気付くと、既にラストオーダーの時間。すっかり夜も遅くなってしまった。
店を出て、少しひんやりとする夜の空気は、ほろ酔いの身には心地好い。
男の件を心配してくれた音彩は、わたしの最寄り駅までわざわざ送ってくれた。
「音彩、送ってくれてありがとう。遅くなっちゃったし、気を付けて帰ってね」
「うん、冬歌も、ストーカー出てきたらすぐに通報するんだよ!」
「あはは、わかった。それじゃあ、またね」
「うん、また連絡するね!」
やっぱり『また』は再会の言葉だ。今朝のあの男の「また会えましたね」は適切じゃない。
やがて音彩の乗った電車を見送って、わたしは駅の改札を出る。駅から家までは徒歩十分程だ。ぼんやりと歩きながら、楽しかった記憶を反芻した。
夜遅くの住宅街は、他に通行人も居ない。わたしは鼻歌まじりに平坦な道をふらふらと歩く。
そしてアパートが見えてきた頃、不意に向かいから歩いてくる人影に気付いて慌てて鼻歌を止めると、それと同時に向こうから、今日何度目かの声がした。
「こんばんは、また会えましたね」
「……え」
暗闇に浮かぶ、黒いスーツ。
朝の通勤時とも、昼休みとも違う。ルーティンに囚われない行動で、日付も変わりそうな遅い時間に、こんな場所で日に三度目の再会。
わたしは思わず、挨拶に応えることなく背を向けて駆け出した。これはどう考えても、偶然の域を越えている。
「あ……、待……っ!」
後方から男の声が聞こえたけれど、幸いにして走って追ってくる足音はない。けれど、このまま男の居た家の方面にも帰れなかった。
わたしは走った。物凄く走った。
立ち止まることも振り返ることもなく大通りまで駆けて、ようやく車と人通りのある場所に出る。
男とは大分距離も取った、彼がストーカーだったとして、人目のある場所ならひとまずは大丈夫なはずだ。
「どうしよ……とりあえず、音彩に連絡……」
驚きと恐怖から酔いはすっかりさめたはずなのに、動揺からか、安心からか、走りすぎた疲れからか、スマホを鞄から出しきる前に、震えた足が縺れる。
「あ……!」
ぐらりと揺らいだ世界、手から滑り落ちたスマホ、地面に擦れて掌と膝に走る痛み。
「いっ、たぁ……」
掌を確認しようとして、不意に目に留まった腕時計。秒針のかちかちという音が、何かのカウントダウンのようにやけに大きく聞こえる。
あと数秒で日付が変わる。ああ、何だか散々な一日だった。
そう思った瞬間、深夜に響くブレーキ音に、そのまま全てかき消された。
*******
「若い女の子だって?」
「酔っぱらいの歩きスマホらしいわよ、危ないわね……」
「うわ、血の量やば……」
深夜にも関わらず集まる野次馬の囁き声をBGMに、事故現場には警察や救急車が到着したようだった。
人混みの向こうに一瞬見えた、道路の端に投げ出された見覚えのある赤い鞄を、警察が拾う。
あれは冬歌さんのだ。そして、野次馬の話を聞く限り、きっともう助からない。
僕は眼鏡を押し上げて、溜め息を吐きながら、元来た人通りの少ない暗い道へと踵返す。
「日付、もう変わる頃だと思ったんだけどな……。やっぱり、今回もダメだったか……」
僕は月に一度、不思議な夢を見る。『その日亡くなる人の夢』だ。
今回の夢の登場人物は、隣町に住む木崎冬歌さん。彼女とは、今日が初対面だった。
けれどその夢は詳細で、死に至るまでの一日のスケジュールだけではなく、職場や住所、家族構成やら交遊関係まで、まるで夢の中で、その人になったようにさえ感じるのだ。
だから目が覚めると、その人を見ず知らずの他人とは思えずに、どうにか死の運命から救いたくなってしまう。
「冬歌さん……」
彼女は今朝、電車を待っている最中足元に落ちているハンカチに気付き、拾おうと屈んだ瞬間人とぶつかってホームに転落。そのまま運悪くやって来た電車に轢かれる。
それを阻止するために、僕は隣に並び挨拶をして、その数秒間意識を下に向けさせないようにした。
それを回避したとして、昼になればランチで訪れた店でメニューに書かれた隠し味の表記に気付かずに、アレルギーの蟹を口にしてしまう。そして呼吸困難を引き起こし死に至る。
それを阻止するために、別メニューを然り気無くすすめようとしたけれど、彼女は店に行くことすらやめたようだった。
そしてそれを回避したとしても、夜、従姉妹との食事を終えての帰宅時に、アパートの前で本物のストーカーと鉢合わせて刺し殺される。
それを阻止するために、帰り道で立ち塞がり日付が変わるまでの数分間だけ何とか足止めしようとしたけれど、あろうことか逃げられてしまった。
そして、この結果だ。たった数分だと油断して、このパターンは予期できなかった。
死の機会は、日付が変わるまで何度でも訪れる。回避後のパターンも夢の中で予習出来たけれど、それは目覚めるまでの短い時間限定だ。
あまり積極的に行動しては夢が大幅変わってしまって対処しきれないし、かと言って直接伝えることはしない。
アドバイスをしても変な人に思われるのは明白で、胡散臭いと感じる相手の言葉なんて聞くはずもないのは、今までのパターンで学習済みだ。
直接の接触としては、精々挨拶するなり一言かけるのが限度だった。
こんな能力があっても、目の前の死がわかっていても、僕は予習内容を変えない程度に先回りして、見守るくらいしか出来ない。
それがとても悔しかったし、夢を見る度、そして終わりまでのタイムリミットが明確な状態で再会する度、自分の一部が死んでいくような感覚だった。
「はあ……」
無力感に苛まれながら自宅に帰り着くと、ちょうどポケットに入れたスマホが震えた。
職場からの着信に、聞かずとも内容が予想出来て、僕は思わず眉を寄せる。
「もしもし、夢見です。ああ、はい。わかりました……では」
予想通りの電話を切り、僕は黒いスーツを脱ぎ捨てる。シャワーで涙と汗を流したら、代わりに同じ色味の喪服に着替え、すぐに指定された場所へと向かった。
「……木崎様、この度は御愁傷様です。ご連絡いただきました御伽葬儀社の者です」
そして僕は再び、今度は冷たくなった彼女に、何度目かの挨拶をするのだ。
「……、……また会えましたね、冬歌さん」



