「お母さん、ただいま。……ほら、美来もおばあちゃんにご挨拶して」
「おばあちゃん、こんにちは!」
「あらあら、二人ともいらっしゃい。……ふふ、みらちゃんは前に来た時よりも大きくなった気がするねぇ」
「ほんと!? わたし、鏡で見てくる!」
古い畳とお線香の匂いがするおばあちゃんの家には、大きな鏡台があった。なんでも、おばあちゃんの嫁入り道具で、もう何十年も現役らしい。
古めかしいというよりは、アンティーク調のお洒落な木彫りのデザインの、立派な鏡。お母さんも、小さな頃からこの鏡がお気に入りだったのだと言う。
まだ小学生になったばかりだったわたしも、例に漏れずその鏡台が大のお気に入りだった。
駄菓子屋さんをしているおばあちゃんの家にはお菓子はたくさんあるけども、ゲームも本もなくて退屈だった。けれどあの素敵な鏡を覗き込めば、それだけで何だか少し大人になれた気がして、とても気分がよかったのだ。
「ふふ、もう小学生のお姉さんだもんね! これからもっともっと大きくなるんだ」
鏡台の前に立って、背丈の確認ついでに髪に結んだお気に入りのリボンを眺めている時だった。
開けっぱなしだった障子の隙間から風が吹いて、わたしの髪が波のように揺れる。その拍子に、リボンが解けて畳の上に落ちてしまった。
「あっ」
また風が吹いて飛ばされる前にと、わたしは急いでリボンを拾おうとする。
ふと、一瞬俯いた間に、視界の端で鏡が水溜まりのように小さく揺らいだ気がした。
「え……?」
すぐに顔を上げると、鏡には本来映るはずのリボンが解けて長い髪を乱したわたし……ではなく、ボブヘアーに紺色のセーラー服を着た、知らないお姉さんが映っていた。
「……ひ!?」
ものすごく驚いて、わたしは思い切り尻餅をつく。
いつの間にか知らない人が部屋に入ってきたのかと、思わず後ろを振り向いたけれど、そこには畳の部屋が広がるのみだった。
「なに……これ、どうなってるの……? 鏡なのに、ここに居ない人が映るなんて……」
正面の鏡に向き直るけれど、セーラー服のお姉さんはすぐ目の前で痛がるわたしには気付かないようだ。
朝の身支度みたいに、鏡を覗くような仕草で、可愛らしい紫のヘアピンが付いた髪を指先で直している。
「……もしかして、鏡の中の世界に居るの……?」
わたしの言葉にも返事はない。お姉さんは少しの間、わたしがいつも鏡の前でするみたいに、顔を動かしたりスカートをひるがえしたりして、色んな角度から身だしなみをチェックしていた。
そして、この状況を上手く理解出来ない内に、再び鏡が水面に小石を落としたように揺らいで、彼女はそのまま居なくなってしまった。
「……何だったの、あれ……」
しばらく呆けた後、ようやく立ち上がったわたしは鏡台の裏のほんの少しの隙間を覗いたり、冷たい鏡面にぺったりと頬をくっつけてみる。
けれどもう、表面が揺らぐこともなければ目の前のわたしの姿しか映さない、何の変哲もないいつもの鏡に戻っていた。
「おばあちゃん、おばあちゃん! 今鏡の中にね、知らない女の子が居たの!」
「おやまあ、そうかい。よかったねぇ」
はっとしたわたしは部屋を出て、靴下で滑りながら廊下を曲がり、おばあちゃんの元へ走って行った。
持ち主のおばあちゃんなら、何か知っているかもしれない。けれどおばあちゃんは炬燵でお茶を飲みながら、随分とのんびりした様子だ。
隣のキッチンから聞こえたお母さんの声も「危ないから走るんじゃありません!」なんて、わたしの行動をたしなめるだけで、全然話を聞いてくれない。
「本当なんだよ! 向こうは、わたしのこと見えてないみたいだったけど……」
「うんうん。ほら、みらちゃん、そこは寒いだろう、こっちへおいで」
「う、ん……」
おばあちゃんに手招きされるまま炬燵に潜り込むと、わたしの好きなざらめの付いたお煎餅を始めとするたくさんのお菓子を渡される。
一応話を聞いてはくれるものの、この驚きを一切分かち合ってくれないおばあちゃん。
あまりの反応の悪さに、夢か作り話だと思われているのではと、わたしはお煎餅を齧りながら懸命に説明した。
「えっとね、その子はセーラー服を着てて、紫のヘアピンをつけててね、髪の毛はわたしより短くて……」
「ほう……その女の子は、元気そうだったかい?」
「え、うん……かわいい制服のスカート、ひらってしてた……。わたしも大きくなったら、ああいうの着たい」
予想外の問い掛けに戸惑うけれど、わたしは少し考えて頷く。
少なくとも、あの女の子は髪型や服装を気にするだけ元気ではある。それにどこからどう見ても、彼女は普通の女の子だった。
だからこそ、この驚きや興奮は幽霊に遭遇したような怖さよりも、他人の鏡の前に透明になって立っているような、そんな不思議な感覚だったのだ。
「そうかい、そうかい。よかったねぇ……おばあちゃんも、いつか会えるかねぇ」
「次あの女の子が映ったら、真っ先に呼ぶからね……!」
「ふふ、そうさねぇ。会えるのを楽しみにしているよ」
おばあちゃんの、理解しているのかしていないのかわからない、相変わらずのんびりとした受け答え。
わたしも段々と、自分の見たものが現実だったのか、そんなに慌てるほどのものなのだったのか、自信がなくなっていった。
「美来ー、お夕飯そろそろ出来るから、テーブル拭いておいて」
「はぁい」
「ところで、さっきは何を騒いでたの?」
「んー……なんでもない」
「そう? ならいいけど……あんまりおばあちゃんに迷惑掛けちゃダメよ」
「わかってるよ」
そうしてお母さんがキッチンから夕飯を運んで来る頃には、なんとなく現実味を失ってしまったその話題をわざわざ口にすることはなく、ざらめのお煎餅を食べすぎてお腹が空いていない言い訳をどうするかで、頭がいっぱいになっていた。
*******
「おばあちゃん、見て見て!」
「まあまあ、みらちゃん。大きくなったねぇ」
「えへへ、どう? 制服似合う?」
「ああ、よく似合うよ。もう立派なお姉さんだねぇ」
「ふふっ、なんたってもう中学生だからね!」
「あら。美来はまだまだ子供じゃない。この間だって、くまのぬいぐるみがないって大騒ぎして……」
「お母さん……!」
もう何年も前に、鏡の中に知らないお姉さんを見たことなんてすっかり忘れて、小学校を卒業したわたしは念願の中学生になった。
おばあちゃんにたっぷり褒めて貰った紺のセーラー服姿で、わたしはお気に入りの鏡台の前に立つ。
揺れるスカートと、制服のスカーフに合わせた紫のヘアピンと、短くした髪。どこからどう見ても、すっかりお姉さんだ。
昔は見上げていた鏡を覗き込みながら、風に少し乱れた髪を指先で整えていると、ふと、この光景に見覚えがある気がして手が止まる。
「あれ……?」
鏡の中のわたしと向き合うと、小学校に上がったばかりの頃、鏡の前で尻餅をついた遠い日の記憶がよみがえる。
「あの時鏡に映ってたお姉さんって……もしかして、中学生のわたしだったの……?」
間違いない。このセーラー服も、ヘアピンも、髪型も、あの日見たお姉さんの姿そのものだ。
驚きと、あの日の不思議な感覚の正体を理解した。
やっぱり、幽霊なんかじゃない。それどころか、いつか着たいと憧れた服に身を包むのは、わたし自身だったのだ。
「おばあちゃん、この鏡……!」
この鏡は、未来の光景を映している。
その新発見を慌てておばあちゃんに報告しに行こうとすると、不意に視界の端で、あの時と同じように鏡が水面のように揺れるのが見えた。
「……えっ」
わたしは駆け出そうとしたのを止め、鏡に向き直り様子を伺う。
そして、少ししてその波がすっと引くと、鏡の中にはまたもや見知らぬ女の人が立っていたのだ。
「……!」
清楚な薄化粧をして、ぴしっとしたスーツを着た女の人は、長い髪をひとつ結びにしている。そして、何か気合いを入れるように、両頬をぺちんと叩いていた。
やっぱりその女の人は、目の前のわたしには気付いていない。あの時と同じだ。
やがて再び鏡面が揺らいで、彼女もまたその波間に消えてしまった。
わたしはしばらく呆けたまま、今見た光景を思い返す。
お姉さんになったと喜んでいたけれど、中学生になったばかりのわたしとはやっぱり違う。どこからどう見ても、大人の女の人だった。
「今の人って……未来のわたし?」
お母さんにどこか似た顔立ちの、格好いい大人のお姉さん。将来の自分を垣間見て、わたしは何だか少しだけ、背筋が伸びる気持ちだった。
あの頃のように廊下を走ったりせず、わたしはおばあちゃんの居る部屋へと戻る。
「……ねえ、おばあちゃん。わたし、昔見たかわいいセーラー服のお姉さんになれたよ」
「おやまあ。それは良かったねぇ」
「うん……それからね、もっと大きくなったら、お化粧とスーツの似合う格好いいお姉さんになるの。素敵だと思わない?」
「ああ、そうだねぇ。みらちゃんなら、きっとなれるよ」
いつものようにのんびりとしたおばあちゃんの目は、とても優しく細められていた。
*******
それからしばらくして、高校の卒業式を終えての春休み。わたしは一人、おばあちゃんの家に遊びに来ていた。
進学先は少し遠くの大学だ。来週からは御伽町を出て、都会での一人暮らしも決まっている。
今までのように、お正月やお盆に都合をつけてお母さんと来られるかわからなかったから、引っ越す前にちゃんと挨拶に来たかったのだ。
「みらちゃん、そのお洋服もよく似合うねぇ」
「そうかな? ……おばあちゃん、ちょっと鏡借りるね」
「ああ……あの鏡を気に入ってくれたならよかったよ。好きなだけ見ておいき。みらちゃんが大人になったら、みらちゃんに譲ろうねぇ」
「大人になったら……うん、ありがとう」
大学の入学式に着る予定の真新しいスーツに身を包んで、慣れない薄化粧をしたわたしは、あの時格好いいと感じた『大人のお姉さん』に近付けているだろうか。
中学の制服姿を見た小学生のわたしは、可愛らしい制服をいつか着たいなと羨ましく感じた。
スーツ姿を見た中学生のわたしは、いつかこうなるのだと憧れと期待を抱いた。
あの頃思い描いた理想の姿に、今の自分はちゃんとなれているのかと、気合いを入れるように両手で頬を叩く。
「……ねえ。わたし、まだ全然大人じゃないんだよ」
相変わらずひんやりとした鏡の表面に触れて、思わず自信無さげに眉を下げると、つい弱音が溢れた。
今のわたしが、かつての自分に誇れるかと問われると、正直自信がない。
あの日見たお姉さんは確かに素敵な大人に見えたのに、今この場所に立っているのは、高校生と大学生の間の、まだまだ不安定で不確定な子供のわたし。
第一志望と違う大学に通うために地元を離れて遠くに行くことや、初めての一人暮らしへの心配。新しい環境に踏み出す不安に押し潰されそうなわたしは、決して憧れられるような存在じゃない。
「……」
つい泣いてしまいそうになると、涙の気配に呼応するように、ゆらりと鏡面が揺れる。
これからここに映るのは、きっと何年か後のわたしの姿だろう。前回の期待とは違って、この先のわたしを見るのが何だか怖い気がした。
目を覆いたくなるのを何とか堪えて、恐る恐る視線を向ける。すると、予想していたよりもずっと下に、小さな子供が映っていた。
「え……?」
今度こそ幽霊かと一瞬身構えるけれど、よくよく見るとそこに居たのは、リボンが解けてしまって長い髪を乱したままの、幼い頃のわたし。
「……えっ、なんで!?」
混乱しながらも、状況を整理する。この時のわたしが見たのは、中学生のわたしだ。今彼女と繋がっているという訳じゃない。
現に、尻餅をついた少女が見上げているのは、わたしの顔よりも下の方だ。目が合わない彼女はきっと、今まさに中学生のわたしを見ている。
約十年ぶりに見るそのあどけない瞳は、ただひたすらに驚きと、それからたくさんの煌めきを帯びていた。
「ああ……そっか。そうだね……わたし、大人になれるのが、待ち遠しかった。不安なんて知らないで、楽しみでしかたなかったの……」
再び鏡面が揺れて、今度はセーラー服のわたしが映る。
今のわたしを見て、格好いいと、こんな風になれるのだと喜んでくれた、あの日のわたし。
その瞳も、揺れる水面に負けないくらいに、キラキラと輝いている。
「そんな目で見ないで……なんて、言えないよね。あの時の気持ちは、本物だもん……」
憧れを叶えられていない罪悪感と共に、わたしはこの時の前向きな気持ちを、上手く行かないことがあると同時に、未来への希望に満ちていた日々を思い出した。
背伸びをしたくてたまらなかった子供の頃。けれどいつからか、世界にあるのは夢や希望だけでないことを知った。
理想とままならない現実の差を、抱えきれない程のいろんな気持ちを、あんなにも早く大人になりたいと願ったのに、いつしか嫌でも大人にならざるをえないのだと知ったのだ。
「わたし、まだ大人になりきれない……でも、いつまでも子供のままでもいられない……」
小学校を卒業すれば、自分も制服姿の素敵なお姉さんになれるのだと思っていた。
中学校を、高校を、ただ卒業さえすれば、時間が経てば自然と理想の大人に近づけるのだと信じていた。
その理想に届かない今、かつての無邪気な煌めきを羨み、不確かな未来の先に期待と不安を募らせる。
きっといつだって、鏡の向こうの『今ではないいつか』に憧れてしまうのだと、わたしは気付く。
「……ねえ、鏡さん。今までたくさん、いつかを見せてくれてありがとう。……でも鏡って本来、今の自分を映すものだよね」
もう一度揺れた鏡の中は、幼い憧れを消し去って、ぼんやりとした鈍色のもやで覆われる。
はっきりと映らない景色は、今のわたしのように、白でも黒でもない曖昧な色だ。
「ここに映るのは、憧れの姿。でも、わたし……無い物ねだりの憧れを追いかけ続けるんじゃなく、いつか『今』だけを映せるようになるように……今の自分で、ちゃんと胸を張れるようになるから」
そっと表面に触れると波は凪いでいき、やがて鏡は本来の輝きを取り戻す。
「待っててね。今を誇れる、いつかのわたし」
鏡に映ったわたしの顔は、慣れないお化粧をした真新しいスーツ姿の、大人で子供のありのままのわたし。
卒業の度、近付けると思い描いた憧れからは、まだまだ程遠いけれど。泣いて笑ってぐちゃぐちゃのはずのその表情は、いつになく晴れやかだった。
「おばあちゃん、こんにちは!」
「あらあら、二人ともいらっしゃい。……ふふ、みらちゃんは前に来た時よりも大きくなった気がするねぇ」
「ほんと!? わたし、鏡で見てくる!」
古い畳とお線香の匂いがするおばあちゃんの家には、大きな鏡台があった。なんでも、おばあちゃんの嫁入り道具で、もう何十年も現役らしい。
古めかしいというよりは、アンティーク調のお洒落な木彫りのデザインの、立派な鏡。お母さんも、小さな頃からこの鏡がお気に入りだったのだと言う。
まだ小学生になったばかりだったわたしも、例に漏れずその鏡台が大のお気に入りだった。
駄菓子屋さんをしているおばあちゃんの家にはお菓子はたくさんあるけども、ゲームも本もなくて退屈だった。けれどあの素敵な鏡を覗き込めば、それだけで何だか少し大人になれた気がして、とても気分がよかったのだ。
「ふふ、もう小学生のお姉さんだもんね! これからもっともっと大きくなるんだ」
鏡台の前に立って、背丈の確認ついでに髪に結んだお気に入りのリボンを眺めている時だった。
開けっぱなしだった障子の隙間から風が吹いて、わたしの髪が波のように揺れる。その拍子に、リボンが解けて畳の上に落ちてしまった。
「あっ」
また風が吹いて飛ばされる前にと、わたしは急いでリボンを拾おうとする。
ふと、一瞬俯いた間に、視界の端で鏡が水溜まりのように小さく揺らいだ気がした。
「え……?」
すぐに顔を上げると、鏡には本来映るはずのリボンが解けて長い髪を乱したわたし……ではなく、ボブヘアーに紺色のセーラー服を着た、知らないお姉さんが映っていた。
「……ひ!?」
ものすごく驚いて、わたしは思い切り尻餅をつく。
いつの間にか知らない人が部屋に入ってきたのかと、思わず後ろを振り向いたけれど、そこには畳の部屋が広がるのみだった。
「なに……これ、どうなってるの……? 鏡なのに、ここに居ない人が映るなんて……」
正面の鏡に向き直るけれど、セーラー服のお姉さんはすぐ目の前で痛がるわたしには気付かないようだ。
朝の身支度みたいに、鏡を覗くような仕草で、可愛らしい紫のヘアピンが付いた髪を指先で直している。
「……もしかして、鏡の中の世界に居るの……?」
わたしの言葉にも返事はない。お姉さんは少しの間、わたしがいつも鏡の前でするみたいに、顔を動かしたりスカートをひるがえしたりして、色んな角度から身だしなみをチェックしていた。
そして、この状況を上手く理解出来ない内に、再び鏡が水面に小石を落としたように揺らいで、彼女はそのまま居なくなってしまった。
「……何だったの、あれ……」
しばらく呆けた後、ようやく立ち上がったわたしは鏡台の裏のほんの少しの隙間を覗いたり、冷たい鏡面にぺったりと頬をくっつけてみる。
けれどもう、表面が揺らぐこともなければ目の前のわたしの姿しか映さない、何の変哲もないいつもの鏡に戻っていた。
「おばあちゃん、おばあちゃん! 今鏡の中にね、知らない女の子が居たの!」
「おやまあ、そうかい。よかったねぇ」
はっとしたわたしは部屋を出て、靴下で滑りながら廊下を曲がり、おばあちゃんの元へ走って行った。
持ち主のおばあちゃんなら、何か知っているかもしれない。けれどおばあちゃんは炬燵でお茶を飲みながら、随分とのんびりした様子だ。
隣のキッチンから聞こえたお母さんの声も「危ないから走るんじゃありません!」なんて、わたしの行動をたしなめるだけで、全然話を聞いてくれない。
「本当なんだよ! 向こうは、わたしのこと見えてないみたいだったけど……」
「うんうん。ほら、みらちゃん、そこは寒いだろう、こっちへおいで」
「う、ん……」
おばあちゃんに手招きされるまま炬燵に潜り込むと、わたしの好きなざらめの付いたお煎餅を始めとするたくさんのお菓子を渡される。
一応話を聞いてはくれるものの、この驚きを一切分かち合ってくれないおばあちゃん。
あまりの反応の悪さに、夢か作り話だと思われているのではと、わたしはお煎餅を齧りながら懸命に説明した。
「えっとね、その子はセーラー服を着てて、紫のヘアピンをつけててね、髪の毛はわたしより短くて……」
「ほう……その女の子は、元気そうだったかい?」
「え、うん……かわいい制服のスカート、ひらってしてた……。わたしも大きくなったら、ああいうの着たい」
予想外の問い掛けに戸惑うけれど、わたしは少し考えて頷く。
少なくとも、あの女の子は髪型や服装を気にするだけ元気ではある。それにどこからどう見ても、彼女は普通の女の子だった。
だからこそ、この驚きや興奮は幽霊に遭遇したような怖さよりも、他人の鏡の前に透明になって立っているような、そんな不思議な感覚だったのだ。
「そうかい、そうかい。よかったねぇ……おばあちゃんも、いつか会えるかねぇ」
「次あの女の子が映ったら、真っ先に呼ぶからね……!」
「ふふ、そうさねぇ。会えるのを楽しみにしているよ」
おばあちゃんの、理解しているのかしていないのかわからない、相変わらずのんびりとした受け答え。
わたしも段々と、自分の見たものが現実だったのか、そんなに慌てるほどのものなのだったのか、自信がなくなっていった。
「美来ー、お夕飯そろそろ出来るから、テーブル拭いておいて」
「はぁい」
「ところで、さっきは何を騒いでたの?」
「んー……なんでもない」
「そう? ならいいけど……あんまりおばあちゃんに迷惑掛けちゃダメよ」
「わかってるよ」
そうしてお母さんがキッチンから夕飯を運んで来る頃には、なんとなく現実味を失ってしまったその話題をわざわざ口にすることはなく、ざらめのお煎餅を食べすぎてお腹が空いていない言い訳をどうするかで、頭がいっぱいになっていた。
*******
「おばあちゃん、見て見て!」
「まあまあ、みらちゃん。大きくなったねぇ」
「えへへ、どう? 制服似合う?」
「ああ、よく似合うよ。もう立派なお姉さんだねぇ」
「ふふっ、なんたってもう中学生だからね!」
「あら。美来はまだまだ子供じゃない。この間だって、くまのぬいぐるみがないって大騒ぎして……」
「お母さん……!」
もう何年も前に、鏡の中に知らないお姉さんを見たことなんてすっかり忘れて、小学校を卒業したわたしは念願の中学生になった。
おばあちゃんにたっぷり褒めて貰った紺のセーラー服姿で、わたしはお気に入りの鏡台の前に立つ。
揺れるスカートと、制服のスカーフに合わせた紫のヘアピンと、短くした髪。どこからどう見ても、すっかりお姉さんだ。
昔は見上げていた鏡を覗き込みながら、風に少し乱れた髪を指先で整えていると、ふと、この光景に見覚えがある気がして手が止まる。
「あれ……?」
鏡の中のわたしと向き合うと、小学校に上がったばかりの頃、鏡の前で尻餅をついた遠い日の記憶がよみがえる。
「あの時鏡に映ってたお姉さんって……もしかして、中学生のわたしだったの……?」
間違いない。このセーラー服も、ヘアピンも、髪型も、あの日見たお姉さんの姿そのものだ。
驚きと、あの日の不思議な感覚の正体を理解した。
やっぱり、幽霊なんかじゃない。それどころか、いつか着たいと憧れた服に身を包むのは、わたし自身だったのだ。
「おばあちゃん、この鏡……!」
この鏡は、未来の光景を映している。
その新発見を慌てておばあちゃんに報告しに行こうとすると、不意に視界の端で、あの時と同じように鏡が水面のように揺れるのが見えた。
「……えっ」
わたしは駆け出そうとしたのを止め、鏡に向き直り様子を伺う。
そして、少ししてその波がすっと引くと、鏡の中にはまたもや見知らぬ女の人が立っていたのだ。
「……!」
清楚な薄化粧をして、ぴしっとしたスーツを着た女の人は、長い髪をひとつ結びにしている。そして、何か気合いを入れるように、両頬をぺちんと叩いていた。
やっぱりその女の人は、目の前のわたしには気付いていない。あの時と同じだ。
やがて再び鏡面が揺らいで、彼女もまたその波間に消えてしまった。
わたしはしばらく呆けたまま、今見た光景を思い返す。
お姉さんになったと喜んでいたけれど、中学生になったばかりのわたしとはやっぱり違う。どこからどう見ても、大人の女の人だった。
「今の人って……未来のわたし?」
お母さんにどこか似た顔立ちの、格好いい大人のお姉さん。将来の自分を垣間見て、わたしは何だか少しだけ、背筋が伸びる気持ちだった。
あの頃のように廊下を走ったりせず、わたしはおばあちゃんの居る部屋へと戻る。
「……ねえ、おばあちゃん。わたし、昔見たかわいいセーラー服のお姉さんになれたよ」
「おやまあ。それは良かったねぇ」
「うん……それからね、もっと大きくなったら、お化粧とスーツの似合う格好いいお姉さんになるの。素敵だと思わない?」
「ああ、そうだねぇ。みらちゃんなら、きっとなれるよ」
いつものようにのんびりとしたおばあちゃんの目は、とても優しく細められていた。
*******
それからしばらくして、高校の卒業式を終えての春休み。わたしは一人、おばあちゃんの家に遊びに来ていた。
進学先は少し遠くの大学だ。来週からは御伽町を出て、都会での一人暮らしも決まっている。
今までのように、お正月やお盆に都合をつけてお母さんと来られるかわからなかったから、引っ越す前にちゃんと挨拶に来たかったのだ。
「みらちゃん、そのお洋服もよく似合うねぇ」
「そうかな? ……おばあちゃん、ちょっと鏡借りるね」
「ああ……あの鏡を気に入ってくれたならよかったよ。好きなだけ見ておいき。みらちゃんが大人になったら、みらちゃんに譲ろうねぇ」
「大人になったら……うん、ありがとう」
大学の入学式に着る予定の真新しいスーツに身を包んで、慣れない薄化粧をしたわたしは、あの時格好いいと感じた『大人のお姉さん』に近付けているだろうか。
中学の制服姿を見た小学生のわたしは、可愛らしい制服をいつか着たいなと羨ましく感じた。
スーツ姿を見た中学生のわたしは、いつかこうなるのだと憧れと期待を抱いた。
あの頃思い描いた理想の姿に、今の自分はちゃんとなれているのかと、気合いを入れるように両手で頬を叩く。
「……ねえ。わたし、まだ全然大人じゃないんだよ」
相変わらずひんやりとした鏡の表面に触れて、思わず自信無さげに眉を下げると、つい弱音が溢れた。
今のわたしが、かつての自分に誇れるかと問われると、正直自信がない。
あの日見たお姉さんは確かに素敵な大人に見えたのに、今この場所に立っているのは、高校生と大学生の間の、まだまだ不安定で不確定な子供のわたし。
第一志望と違う大学に通うために地元を離れて遠くに行くことや、初めての一人暮らしへの心配。新しい環境に踏み出す不安に押し潰されそうなわたしは、決して憧れられるような存在じゃない。
「……」
つい泣いてしまいそうになると、涙の気配に呼応するように、ゆらりと鏡面が揺れる。
これからここに映るのは、きっと何年か後のわたしの姿だろう。前回の期待とは違って、この先のわたしを見るのが何だか怖い気がした。
目を覆いたくなるのを何とか堪えて、恐る恐る視線を向ける。すると、予想していたよりもずっと下に、小さな子供が映っていた。
「え……?」
今度こそ幽霊かと一瞬身構えるけれど、よくよく見るとそこに居たのは、リボンが解けてしまって長い髪を乱したままの、幼い頃のわたし。
「……えっ、なんで!?」
混乱しながらも、状況を整理する。この時のわたしが見たのは、中学生のわたしだ。今彼女と繋がっているという訳じゃない。
現に、尻餅をついた少女が見上げているのは、わたしの顔よりも下の方だ。目が合わない彼女はきっと、今まさに中学生のわたしを見ている。
約十年ぶりに見るそのあどけない瞳は、ただひたすらに驚きと、それからたくさんの煌めきを帯びていた。
「ああ……そっか。そうだね……わたし、大人になれるのが、待ち遠しかった。不安なんて知らないで、楽しみでしかたなかったの……」
再び鏡面が揺れて、今度はセーラー服のわたしが映る。
今のわたしを見て、格好いいと、こんな風になれるのだと喜んでくれた、あの日のわたし。
その瞳も、揺れる水面に負けないくらいに、キラキラと輝いている。
「そんな目で見ないで……なんて、言えないよね。あの時の気持ちは、本物だもん……」
憧れを叶えられていない罪悪感と共に、わたしはこの時の前向きな気持ちを、上手く行かないことがあると同時に、未来への希望に満ちていた日々を思い出した。
背伸びをしたくてたまらなかった子供の頃。けれどいつからか、世界にあるのは夢や希望だけでないことを知った。
理想とままならない現実の差を、抱えきれない程のいろんな気持ちを、あんなにも早く大人になりたいと願ったのに、いつしか嫌でも大人にならざるをえないのだと知ったのだ。
「わたし、まだ大人になりきれない……でも、いつまでも子供のままでもいられない……」
小学校を卒業すれば、自分も制服姿の素敵なお姉さんになれるのだと思っていた。
中学校を、高校を、ただ卒業さえすれば、時間が経てば自然と理想の大人に近づけるのだと信じていた。
その理想に届かない今、かつての無邪気な煌めきを羨み、不確かな未来の先に期待と不安を募らせる。
きっといつだって、鏡の向こうの『今ではないいつか』に憧れてしまうのだと、わたしは気付く。
「……ねえ、鏡さん。今までたくさん、いつかを見せてくれてありがとう。……でも鏡って本来、今の自分を映すものだよね」
もう一度揺れた鏡の中は、幼い憧れを消し去って、ぼんやりとした鈍色のもやで覆われる。
はっきりと映らない景色は、今のわたしのように、白でも黒でもない曖昧な色だ。
「ここに映るのは、憧れの姿。でも、わたし……無い物ねだりの憧れを追いかけ続けるんじゃなく、いつか『今』だけを映せるようになるように……今の自分で、ちゃんと胸を張れるようになるから」
そっと表面に触れると波は凪いでいき、やがて鏡は本来の輝きを取り戻す。
「待っててね。今を誇れる、いつかのわたし」
鏡に映ったわたしの顔は、慣れないお化粧をした真新しいスーツ姿の、大人で子供のありのままのわたし。
卒業の度、近付けると思い描いた憧れからは、まだまだ程遠いけれど。泣いて笑ってぐちゃぐちゃのはずのその表情は、いつになく晴れやかだった。



