恐る恐る視線を上げると、狗神は相変わらず感情の読めない瞳でこちらを見つめていた。紫陽の頬を撫でるその手は壊れ物に触るように慎重で、何を考えているのか少しもわからない。
恐怖心を悟らすまいと歯をくいしばると、それとほぼ同時に彼の手が離れた。
「悪かった。もうやめる」
「え……」
「今後は、お前が俺のことを恐ろしいと感じなくなるその日まで、指一本触れないと約束しよう」
まるで息を吐くようなぼそぼそとした言い方でそう言った彼は、その言葉通り紫陽から少し距離をとった。
「なっ、何故……。それでは妻の役割が……」
「その調子でまともに務まるとは思えないが?」
「それは……」
「構わん。名目上お前を花嫁にした。それで十分、あの人との約束は果たしたことにはなる」
狗神はそれきり黙って立ち上がった。そして振り返ることなく部屋を出ていく。
(あれ……?)
思いの外あっさりと解放され、紫陽は眉をひそめる。しかしホッとしたのも事実。みるみる力が抜けていく。
(だけど、彼は何故あんな表情を?)
部屋を出る直前、月明かりに照らされて一瞬見えた狗神の横顔は、どこか寂しそうに見えた気がしたのだ。


